赤い大地の耳

 爆発のあとにも、赤い砂は降りつづけていた。

 鷹取黎司は、岩壁に背を預けたまま、自分の胸を探った。シャツは裂け、血で濡れている。だが、指先に傷口が触れない。肋骨も折れていないらしい。

 耳鳴りの向こうで、誰かが石を叩いていた。

 カン、カン、カン。

「リフェル?」

 十メートルほど先で、少年が懐中電灯を振った。十一歳。細い手足に、煤けた黄色いパーカ。マラ・ケリーの甥だ。許可もなく探査隊の車に潜り込み、ここまでついてきた。

 少年は返事をせず、足元のスケッチブックに何か書いた。

 ――声を出さないで。

「もう手遅れだろ」

 黎司は立ち上がった。頭上では、崩落した岩盤が洞窟の入口を完全に塞いでいる。衛星電話は圏外。短波無線はノイズだけだ。案内役のムティラと、後続のレンジャー隊は外に取り残されたはずだった。

 カン、カン、カン。

 今度は、洞窟の奥から聞こえた。

 黎司は腰のホルスターから自動拳銃を抜いた。九ミリ弾が十三発。相手が人間なら十分だ。人間でないなら、たぶん何発あっても足りない。

「カルシアス・ヴェインの一味だ。奴らも生きている」

 リフェルは首を横に振り、また書いた。

 ――生きてない。

 黎司は笑おうとして、やめた。

 三時間前まで、この一帯はただの峡谷だった。オーストラリア内陸部、マルカナ共同体が管理する保護区。その地図の余白に、白人探鉱者が半世紀前につけた名が残っている。

〈ウィドウズ・イヤー――未亡人の耳〉

 穴の形が耳に似ていたからではない。中へ入った男の妻が、全員未亡人になったからだ。

 美術品密売人カルシアス・ヴェインは、その奥に「星の寡婦」と呼ばれる黒い石があると信じていた。石は宇宙から落ち、古代の王に未来を見せ、砂漠の民に崇拝された――というのが、ヴェインの売り文句だった。

 出発前、文化保護官でもあるムティラは、その説を鼻で笑った。

「私たちの文化を、宇宙人の置き土産にするな。あの場所にあるものが空から来たとしても、私たちの物語まで空から落ちてきたわけじゃない」

 ムティラたちは石を崇拝していたのではない。

 近づかないよう、長い時間をかけて場所を見守ってきたのだという。

「土地は空白じゃない」と彼女は言った。「英語で“Country”って言うと、地面だけの話に聞こえる。でも私の家族が言うそれは、水も、動物も、人も、死者も、これから生まれる者も含む。地図に線を引いて終わりじゃない。線を越えたあと、何に責任を持つかまでが道なの」

 黎司はそのとき肩をすくめた。

 彼は責任を持つためではなく、取り戻すために雇われた。

 ヴェインが共同体の保管庫から盗み出した、拳ほどの黒い石。

 それを洞窟の最深部へ持ち込ませず、奪い返す。

 報酬は二十万豪ドル。

 宝探しに思想は必要ない。

 必要なのは、先に手を伸ばすことだけだ。

 そして黎司は先に手を伸ばし、崩落に巻き込まれた。

 リフェルが懐中電灯で奥を照らした。

 壁面に、銀色の反射テープが点々と貼られている。ムティラが道標としてつけたものだ。彼女は現地の許可を得たうえで、以前から入口周辺の安全調査をしていた。古い探鉱坑と自然洞窟が入り組み、磁気は狂い、通信も途切れる。

 無線が突然、息を吹き返した。

『……聞こえる? 返事をしないで。音を立てないで。反射標識を追って戻って』

「ムティラ!」

 黎司は送信ボタンを押した。

「俺たちは無事だ。入口が塞がれた。ヴェインを追う。奴は石を持っている」

 雑音。

 応答はなかった。

 リフェルがじっと黎司を見ていた。

 責めるような目だった。

「分かってる。声を出すな、だろ。だが向こうが話してる」

 少年はページをめくった。

 ――向こうは、あなたに話していない。

 そのとき、奥の闇で何かが笑った。

 洞窟の床には、二種類の足跡があった。

 一つはリフェルの小さな運動靴。

 もう一つは、裸足の大人が歩いたような跡だった。指が六本ある。

「ヴェインの趣味は悪いが、部下に義足の怪物はいなかったな」

 黎司がしゃがむと、裸足の跡は濡れていた。指で触れる。赤黒い液体が糸を引いた。血ではない。錆と海藻を混ぜたような臭いがした。

 リフェルが先へ進む。

 黎司は自分の足元を見た。

 乾いた砂の上に、彼の靴跡はなかった。

 爆風で地面が固く締まったのだろう。そう考え、三歩歩いて振り返る。

 やはり、跡は一つも増えていない。

「……変な岩だ」

 口に出した途端、壁の奥で何かが身じろぎした。

 この洞窟は音を返さない。

 飲み込む。

 曲がり角の先に、古い採掘設備が現れた。錆びたレール、横倒しの鉱車、七〇年代の英語で書かれた警告板。鉄骨の梁には、近年取りつけられたLEDランプが並ぶ。ヴェインの先発隊だ。

 発電機は止まっているのに、ランプは淡く脈打っていた。

 リフェルが一つを指さす。

 透明なカバーの内側で、黒い糸のようなものが絡まり、光を食べていた。

 黎司は拳銃を構えた。

 カン。

 鉱車の向こうで、金属が鳴る。

 カン。

 右手の坑道。

 カン。

 背後。

 三方向から、男たちが現れた。

 ヴェインの私兵だった。砂漠用迷彩服。暗視ゴーグル。自動小銃。だが、どの顔も乾ききっている。頬は陥没し、唇は黒く、皮膚の裂け目から赤い砂がこぼれていた。

「動くな!」

 先頭の男が叫んだ。

 声に合わせて、その喉の奥から別の声が重なった。

『動くな』

『帰るな』

『見つけた』

『ぼくのものだ』

 黎司はリフェルを鉱車の陰へ突き飛ばそうとした。

 手が少年の肩をすり抜けた。

 冷気が腕を貫いた。

 驚く暇はなかった。小銃が火を噴く。

 黎司は横へ跳び、二発撃ち返した。弾丸は先頭の男の胸と額を撃ち抜いた。男は倒れず、穴の向こうからこちらを覗いた。

「星は、所有者を選ぶ」

 黎司は三発目を撃った。

 頭蓋が砕け、男はようやく崩れた。床に落ちた身体は、一瞬で乾燥し、骨と布と砂の山になった。

 残り二人が迫る。

 黎司は鉱車の連結器を蹴った。固定が外れ、傾斜したレールを鉄の箱が走り出す。男たちを巻き込み、暗闇の底へ消えた。

 激突音はなかった。

 代わりに、遠くで巨大な心臓が一度だけ脈打った。

 どん。

 洞窟全体の壁が、わずかに膨らんだ。

 黎司は拳銃の弾倉を確かめた。

 十三発、入っている。

「そんなはずがあるか」

 五発撃った。

 数え間違えるはずがない。

 リフェルが鉱車の陰から出てきた。少年の顔は真っ青だったが、黎司ではなく、床に落ちた私兵の骨を見つめている。

 迷彩服の胸ポケットから、プラスチック製の身分証が覗いていた。

 黎司が拾う。

 写真の下に、男の名と生年月日。

 さらに、油性ペンで日付が書き加えられている。

 死亡確認――二〇〇九年十一月十四日。

「十七年前?」

 リフェルがスケッチブックを差し出した。

 ――この人たちは、何度も来る。

「何度も?」

 ――欲しいと思ったところから、先へ進めない。

 黎司は骨の山を見た。

 赤い砂が、まるで息をするように盛り上がり、骨を覆い隠していく。

「おまえは何を知ってる」

 リフェルは鉛筆を握ったまま、しばらく動かなかった。

 やがて、小さく書いた。

 ――叔母さんは、あなたを連れてくるべきじゃなかった。

 マラ・ケリーは、最初から黎司を信用していなかった。

 ダーウィンのホテルで会ったとき、彼女は握手もせず、テーブルに一枚の写真を置いた。

 黒い石が写っていた。

 つやのない楕円形。中央に細い割れ目があり、閉じた瞼にも、縫い合わされた口にも見える。

「これは宝じゃない」とムティラは言った。

「市場価格を聞けば、考えが変わる」

「市場が値段をつけられるものは、何でも市場のものになると?」

「そういう仕事だ」

「だから信用してない」

 彼女は地質学の修士号を持ち、州のレンジャー資格を持ち、三種類の大型車を修理できた。祖母から教わった土地の知識については、黎司が質問しても、話せる範囲しか答えなかった。

 秘密めかすためではない。

 黎司に受け取る資格も、必要もないからだ。

「あなたたちは、知らないことを空白だと思う」とムティラは言った。「空白なら、勝手に物語を書ける。宝の地図、呪われた神殿、宇宙人。便利でしょうね」

 黎司は写真の石を指で叩いた。

「じゃあ、これは何だ」

「知らない」

 即答だった。

「知らないが、観察記録はある。近くでは音響幻覚が起きる。時間感覚がずれる。死亡した人間の声を聞く。持ち出した者は“自分が選ばれた”と言い始める」

「呪いの説明としては上等だ」

「呪いなんて言ってない。危険物だと言ってる」

 共同体は何世代にもわたって、その場所を避け、入口の変化を見守り、雨季の水路が近づけば流れを変えた。彼らの物語には、そこを所有しようとする者が自分の声に食われる、という警告が残っていた。

 だがムティラは、その物語の名も歌も黎司に教えなかった。

「道を覚える歌は、観光客向けの暗号じゃない」と彼女は言った。「歌っていい人、聞いていい人、場所、季節がある。今回は歌わない。GPSと反射テープで行く」

 ヴェインは、そうした慎重さを「恐怖による独占」と呼んだ。

 そして石を盗んだ。

 いま、黎司はその男を追って、地の底へ進んでいる。

 通路は下るほど不自然になった。

 石灰岩の層が途切れ、黒いガラス状の壁へ変わる。表面には無数の細い溝が走り、近づくと遠い星空のように光った。

 溝は文字ではなかった。

 血管だった。

 リフェルが立ち止まる。

 前方に、赤い顔料で描かれた印があった。

 円、折れた線、重なり合う点。

 黎司は写真を撮ろうと端末を上げた。

 リフェルが腕を振り、カメラを遮った。

「記録するだけだ」

 少年は激しく首を振る。

 ――ここから先は、見るための場所じゃない。

「ヴェインはもう入った」

 ――だから止める。

 無線が鳴った。

『リフェル。聞こえるなら、送信を二回押して』

 少年が黎司の腰の無線機を指さした。

 黎司はボタンを二度押す。

『よし。あなたの信号は動いてる。反射標識の青を追って。赤は奥へ行く。青が帰り道』

「ムティラ、俺もいる。聞こえるか」

『返事はしなくていい。声を聞いても、知っている人だと思わないで』

「俺だ、黎司だ!」

『あなたは一人じゃない。でも、ついてきているものは人じゃない』

 通信が切れた。

 リフェルは無線機を見つめ、それから黎司を見た。

 その目に浮かんでいるのは恐怖ではなかった。

 哀れみだった。

「やめろ。その顔は」

 黎司の声が黒い壁に吸い込まれる。

 壁の溝が一斉に光った。

『やめろ』

『その顔は』

『俺を見ろ』

『俺はここにいる』

 無数の黎司の声が、地の底へ走っていった。

 黒い壁の先には、縦穴があった。

 直径二十メートル。底は見えない。

 中央を、古い巻き上げ機のワイヤーが垂れている。ヴェインの隊が設置した足場が螺旋状に続いていたが、途中で崩れている。

 向こう側に、人影が立っていた。

 白いリネンのスーツ。

 銀色の髪。

 カルシアス・ヴェイン。

「鷹取君」

 ヴェインは、劇場の支配人のように両腕を広げた。

「遅かったな。君が来ないかと思った」

「石を渡せ」

「何を言う。君はそれを探すために生きてきたんだろう」

 ヴェインの右手に、黒い石があった。

 写真で見たより大きい。表面の割れ目がわずかに開き、その奥で濡れた光が瞬いている。

「これは神ではない」とヴェインは言った。「神という言葉は、人間が理解できない機械につける幼稚な名だ。こいつは記憶を物質化する。死を一つの状態にすぎないものへ変える。失われた帝国も、愛した人間も、財宝も、すべて再生できる」

「部下を見た。あれが再生か?」

「試作品だよ」

 ヴェインが笑う。

 口元が遅れて動いた。

 一秒あと、同じ笑顔が頬の下にもう一つ浮かんだ。

「共同体の連中は、何世紀もこの力を腐らせてきた。使い方を知らない者が、所有だけを罪と呼ぶ。だが発見者には権利がある」

「盗んだのはおまえだ」

「君がそれを言うか?」

 黎司の視界に、いくつもの光景が重なった。

 カンボジアの沈没寺院から持ち出した金の像。

 シリアの地下墓から剥がしたモザイク。

 北海道の閉山跡で見つけた、名もない作業員の遺品。

 依頼人へ渡し、金に換え、由来を忘れた品々。

 持ち主のいない宝だと思っていた。

 持ち主の声を、聞こうとしなかっただけかもしれない。

「説教なら、もっとましな口でしろ」

 黎司は撃った。

 弾丸がヴェインの手首を砕く。

 黒い石が宙へ飛んだ。

 リフェルが足場へ走り出す。

 黎司も追う。

 石は縦穴の上で跳ね、錆びた鉄板の端に止まった。

 ヴェインの腕から血は出なかった。

 裂けた袖の中にあったのは、細い黒い管の束だ。管は互いに絡み合い、瞬く間に新しい手を編み上げた。

「君も死を恐れる」とヴェインが言った。「だから墓を暴く。死者が黙っていると確かめたいんだ」

 ヴェインの背中が裂けた。

 中から、六本の腕が展開する。人の骨格を真似て失敗したような長い肢。指先には小さな口があり、それぞれが別の言語で「私のもの」と囁いていた。

 怪物が跳んだ。

 黎司は足場を駆け下りながら撃つ。

 何発撃っても弾倉は空にならない。弾丸は怪物の肉を削るが、剥がれた肉は黒い羽虫となって戻っていく。

 リフェルが巻き上げ機へ飛びつき、レバーを倒した。

 ワイヤーが唸り、吊り下げられた鉱石バケットが上昇する。怪物の脚に激突し、ヴェインを壁へ叩きつけた。

「今だ、石を!」

 黎司が叫ぶ。

 リフェルは鉄板の端で手を伸ばした。

 あと十センチ。

 黒い石の割れ目が、目のように開いた。

 洞窟の底から、歌が湧いた。

 旋律ではない。

 数億の声が同時に、自分だけの物語を語る音だった。

 失った母の声。

 会ったことのない父の声。

 黎司自身の声。

 依頼人たちの声。

 砂漠で死んだ探鉱者、追放された囚人、盗掘者、兵士、研究者。

 人間ではない声も混じっている。海のない星で乾いた鰓を震わせるもの。重力の強い惑星で石の殻を擦るもの。光が生まれる前から、冷たい闇を所有しようとしていたもの。

 そのすべてが、同じ一語へ収束した。

 ――わたしのもの。

 リフェルの指が石に触れる寸前、黎司は少年の腕をつかんだ。

 今度は、すり抜けなかった。

 冷たい手だった。

 リフェルが振り返る。

 黎司は、少年の瞳の中に自分を見た。

 胸から鉄の棒を生やし、顔の半分を血で濡らした男が映っていた。

「俺は……」

 記憶が戻った。

 崩落は三時間前ではない。

 三日前だった。

 ヴェインが入口近くで爆薬を起動した。追跡してきたレンジャーを足止めし、黒い石を地下へ運ぶために。

 リフェルは車の荷台から飛び出した。

 黎司は少年を見つけ、怒鳴り、地面へ伏せさせた。

 爆風。

 落ちてくる岩盤。

 黎司はリフェルを突き飛ばした。

 自分の胸には、折れた鉄骨が突き刺さった。

 ムティラが駆け寄る。

 彼女の手が傷口を押さえる。

「鷹取、聞こえる? 目を閉じるな!」

 黎司は答えたつもりだった。

 だが口から出たのは、血の泡だけだった。

 視界の端で、ヴェインが黒い石を抱えて奥へ消えた。

 黎司は思った。

 取られる。

 俺の獲物だ。

 その瞬間、石の割れ目が開いた。

 次に目を覚ましたとき、彼は崩落の内側に立っていた。

 傷は消え、拳銃は満タンで、リフェルが石を叩いていた。

 カン、カン、カン。

 少年が叩いていたのは、岩ではない。

 鉄骨の下にある黎司の死体へ、合図を送っていたのだ。

「三日……」

 リフェルが頷いた。

「おまえには、俺が見えるのか」

 少年はスケッチブックに書いた。

 ――ここでは、強く残ったものが見える。

「どうして黙ってた」

 ――話すと、あれが声を使う。

 無線のムティラは、一度も黎司に呼びかけていなかった。

 送信ボタンを押したのもリフェル。

 鉱車の連結器を外したのもリフェル。

 巻き上げ機を動かしたのもリフェル。

 黎司が触れられたのは、死者の残響と、石が作ったものだけだった。

 そして今、リフェルの腕に触れられたのは――。

 黒い石が、黎司を濃くしている。

 彼を生き返らせようとしているのではない。

 所有欲を芯にして、より強い形へ編み直そうとしている。

 ヴェインが壁から剥がれ落ちた。

 六本の腕が足場へ食い込み、口々に笑う。

「素晴らしいだろう、鷹取君。死んでも、欲望は残る。欲望こそ魂だ」

「違う」

「何が違う?」

 黎司は答えられなかった。

 彼の人生は、手に入れることの連続だった。

 父の借金から逃げるために金を求め、名のない大学助手から抜け出すために発見を求め、発見を奪われれば遺跡から品を抜き、合法と違法の境目を渡った。

 誰かが「返してほしい」と言っても、証明書を見せろと笑った。

 欲望を除いたら、何が残る。

 リフェルがスケッチブックを開いた。

 新しいページには、雑な絵が描かれていた。

 入口で少年を庇う男。

 落ちてくる岩。

 男の背中。

 その下で生き残る少年。

 ――これが残ってる。

 黎司は絵を見た。

 自分が覚えていなかった最後の行動。

 値段のつかない、誰にも売れないもの。

 ヴェインが迫る。

「石を取れ。君なら戻れる。肉体など作り直せる。君が失ったすべてを、取り返せる!」

 黒い石が浮き上がった。

 割れ目の中に、ありえた未来が映る。

 生きて洞窟を出る黎司。

 二十万豪ドル。

 さらに高い依頼。

 博物館に自分の名がつく。

 若いころ別れた女が振り返る。

 父が死ぬ前に、一度だけ褒める。

 どれも欲しかった。

 だからこそ、罠だと分かった。

 黎司はリフェルの手首を放した。

 足場の縁へ進む。

 石が胸の高さまで上がり、彼の手の中へ収まろうとする。

 ヴェインが歓喜の声を上げた。

「そうだ。選べ。所有しろ!」

 黎司は手を開いた。

「いらない」

 石が震える。

 洞窟中の声が止まった。

「俺のものじゃない」

 黒い石の割れ目が、初めて恐怖の形に開いた。

 大地が吠えた。

 黒い壁の溝が白熱し、縦穴の底から光の柱が噴き上がる。

 ヴェインの六本腕がばらばらにほどけた。指先の口が「私のもの」と叫びながら互いを噛み、食い合う。

「嘘だ!」とヴェインが絶叫した。「人は所有せずに生きられない!」

「そうかもな」

 黎司は黒い石を見た。

「だが、手放す瞬間くらいは選べる」

 石へ触れず、拳銃を向ける。

 引き金を引いた。

 今度は一発だけだった。

 弾丸が割れ目へ吸い込まれる。

 石の内部で、小さな星が砕けた。

 衝撃波が足場を引き剥がす。

 リフェルが倒れ、縁から滑った。

 黎司は飛びついた。

 少年の手をつかむ。

 指が透けていく。

 所有を捨てたことで、石が与えていた形も失われている。

「登れ!」

 リフェルは片手で足場をつかもうとする。届かない。

 下では、光の柱の中から巨大な影が上昇していた。

 耳に似た輪郭。中心に無数の瞼。宇宙の闇を折り畳んだような身体。

 それは生物ではなく、記憶を捕える器官だった。どこかの星で切り離され、隕石に包まれ、ここへ落ちた。

 長いあいだ、地の底で声を集めていた。

 黎司の腕が肘まで消えた。

 リフェルが首を振る。

 スケッチブックが落ち、白いページが闇へ舞う。

「聞け、リフェル」

 黎司は初めて、少年が声を出さない理由とは無関係に、静かな声で言った。

「帰る道は、青だ。ムティラが言ってた。赤じゃない」

 リフェルの視線が、対岸の壁へ向く。

 青い反射テープ。

 崩れた足場の向こう、排水用の横穴へ続いている。

「俺を踏め」

 黎司は自分の身体を足場の上へ押しつけた。

 身体は半透明だが、リフェルの靴が胸に触れると、一瞬だけ重みが生まれた。

 少年は黎司の肩を踏み、跳んだ。

 縁をつかむ。

 這い上がる。

 ヴェインが残った二本の腕でリフェルへ伸びた。

「返せ! その道も、その命も、私が見つけた!」

 黎司はヴェインの腰へ組みついた。

 死者同士の身体は、泥のように深く絡んだ。

「一緒に来い、鷹取君。私たちは同じだ!」

「違わない」

 黎司は認めた。

「だから、おまえを放っておけない」

 二人は足場から落ちた。

 ヴェインの叫びが、無数の言語へ裂ける。

 黎司は落下しながら、上を見た。

 リフェルが青い標識へ走っている。

 小さな背中が、闇の向こうへ消える。

 それでよかった。

 黒い石と巨大な影が接触した。

 白い光が縦穴を満たす。

 黎司は最後に、砂漠の夜を思い出した。

 到着した日の野営地。天の川が地平線から地平線まで架かり、ムティラが焚火のそばで言った。

「星を見るとき、すぐ線で結ばないこと。あなたの知っている星座だけが、空の読み方じゃない」

 黎司は笑っていた。

 だが今なら分かる。

 線を引く前の星は、誰のものでもなかった。

 リフェルは青い反射標識を追った。

 横穴は狭く、何度も膝と肘を打った。背後から、地鳴りとともに冷たい風が押し寄せる。壁の黒い溝が一つずつ消えていく。

 無線機から、ムティラの声がした。

『リフェル、信号が動いた。そう、その方向。あと百メートルで古い換気口がある』

 少年は送信ボタンを二度押した。

『よくやってる。急がなくていい。息をして。足元を見て』

 急がなくていい、と言われても、背後では洞窟が崩れている。

 けれどムティラの声は、走れとは言わなかった。

 恐怖に道を選ばせるな、と教える声だった。

 分岐点。

 右には赤い反射テープ。

 左には青。

 右の奥から、黎司の声がした。

「リフェル、こっちだ。石を見つけた。今度こそ本物だ」

 少年は目を閉じた。

 声は完璧だった。

 少し擦れた低い声。冗談を言う前の息遣い。怖いときほど乱暴になる調子。

「おまえが持って帰れ。ムティラには黙ってればいい。金になる」

 リフェルは左へ進んだ。

 右の闇で、何かが怒鳴った。

 やがて声は泣き声に変わり、最後には、幼い子供のように「置いていくな」と繰り返した。

 リフェルは振り返らなかった。

 換気口の鉄格子は錆びついていた。

 外側から、救助隊のドリル音が聞こえる。

 カン、カン、カン。

 リフェルは石で格子を叩いた。

 カン、カン、カン。

 向こうから同じリズムが返る。

 格子の隙間に光が差し込んだ。

「リフェル!」

 ムティラの声だった。

 少年は三日ぶりに声を出した。

「ここにいる!」

 岩と鉄が切り開かれ、赤い砂をまとった手が伸びる。

 リフェルはその手をつかんだ。

 温かかった。

 救助隊は、入口の崩落現場から七人の遺体を収容した。

 カルシアス・ヴェインと部下五名。

 そして鷹取黎司。

 検視では、全員が爆発当日に死亡したと判断された。

 ただしヴェインの遺体だけは、奇妙な姿で見つかった。両腕で自分の胸を抱き、何かを奪われまいとするように指を食い込ませていた。

 手の中には何もなかった。

 黒い石も発見されなかった。

 最深部へ通じる縦穴は、黒いガラス状の壁ごと崩壊し、地質レーダーにも空洞が映らなくなった。

 州警察は違法発破による事故と密輸事件として処理した。

 記者たちは「呪われた秘宝」「先住民の神話が予言」といった見出しをつけたが、マルカナ共同体は取材を断った。

 ムティラは一度だけ、短い声明を出した。

「これは未知のものを崇拝した人々の話ではありません。危険を知り、長く管理してきた人々と、その警告を無視した盗人たちの話です。私たちの文化を怪物の飾りに使わないでください」

 リフェルは病院を出たあと、ムティラとともに黎司の遺品を整理した。

 拳銃。

 空になっていない弾倉。

 傷だらけの方位磁針。

 複数の偽名を使った旅券。

 小さな布袋に入った、世界各地の砂。

「これは返せないね」とリフェルが言った。

「場所が分からないからね」

「どうするの」

「少なくとも売らない。彼がどこから持ってきたか調べる。分かった分だけ返す」

 黎司の上着の内ポケットから、古い写真が出てきた。

 二十代の黎司が、発掘現場らしい場所で笑っている。手には何も持っていない。仲間たちと泥だらけになって、ただ穴の前に座っていた。

「昔は、ちゃんと考古学者だったのかな」

「人は一つの名前だけじゃない」とムティラは言った。「したことが消えるわけじゃない。でも、最後にしたことも消えない」

 リフェルはスケッチブックを開いた。

 洞窟で落としたものとは別の、新しい一冊だ。

 最初のページに、彼は赤い大地と青い印を描いた。

 その横に、背中を向けた男を描く。

「彼は幽霊だった?」

 ムティラはしばらく考えた。

「分からない」

「分からないって、便利だね」

「大事な言葉だよ。分からないところに、勝手な物語を置かずに済む」

 リフェルは頷き、絵の下に一行書いた。

 ――あの人は最後に、持ち帰らない宝を見つけた。

 半年後、雨が降った。

 乾ききった谷に水が走り、赤い砂を削り、草の芽が一斉に顔を出した。

 ムティラとリフェルは、保護区の境界に新しい警告標識を立てていた。

 立入禁止。

 文化的・地質学的に重要な区域。

 許可なき侵入、採取、撮影を禁ずる。

 標識だけで盗人が止まるとは思っていない。

 それでも、線を引いたあとに責任を持つことはできる。

 作業を終えたリフェルが、谷の方を見た。

「聞こえた?」

「何が?」

「銃の音」

 ムティラは耳を澄ませた。

 風が草を揺らしている。

 雨水が石の間を流れている。

 遠くで鳥が鳴く。

「聞こえない」

「一発だけ」

 リフェルは地面に目を落とした。

 湿った赤土の上に、小さな窪みがあった。

 靴跡ではない。

 古い方位磁針が半分、泥から覗いている。

 救助のとき回収したはずの、黎司の方位磁針だった。

 リフェルが拾う。

 針は北を指さず、谷の奥を指していた。

 ムティラは磁針を手に取り、蓋を閉じた。

「追わないよ」

「うん」

「持って帰る?」

 リフェルは考えた。

 それから首を横に振った。

 二人は磁針を、見つけた場所へ戻した。

 雨脚が強くなる。

 赤い泥が流れ、金属を覆っていく。

 やがて何も見えなくなった。

 大地は黙っていた。

 だがそれは、何も知らない者の沈黙ではなかった。

 聞くべきでない声を閉じ込め、

 帰るべき者の足音を覚え、

 持ち去られなかったものを、深く抱いている沈黙だった。

【作者注】

本作に登場する「マルカナ共同体」、場所、警告の物語、儀礼・標識などはすべて架空です。オーストラリア先住民文化を単一の文化として扱わず、実在の聖地・秘儀・固有の物語を再現しない形で、「Country(人・土地・水・祖先・未来世代を含む関係と責任)」という広く語られる考え方への敬意を軸に創作しています。