赤い大地の耳
一
爆発のあとにも、赤い砂は降りつづけていた。
鷹取黎司は、岩壁に背を預けたまま、自分の胸を探った。シャツは裂け、血で濡れている。だが、指先に傷口が触れない。肋骨も折れていないらしい。
耳鳴りの向こうで、誰かが石を叩いていた。
カン、カン、カン。
「リフェル?」
十メートルほど先で、少年が懐中電灯を振った。十一歳。細い手足に、煤けた黄色いパーカ。マラ・ケリーの甥だ。許可もなく探査隊の車に潜り込み、ここまでついてきた。
少年は返事をせず、足元のスケッチブックに何か書いた。
――声を出さないで。
「もう手遅れだろ」
黎司は立ち上がった。頭上では、崩落した岩盤が洞窟の入口を完全に塞いでいる。衛星電話は圏外。短波無線はノイズだけだ。案内役のムティラと、後続のレンジャー隊は外に取り残されたはずだった。
カン、カン、カン。
今度は、洞窟の奥から聞こえた。
黎司は腰のホルスターから自動拳銃を抜いた。九ミリ弾が十三発。相手が人間なら十分だ。人間でないなら、たぶん何発あっても足りない。
「カルシアス・ヴェインの一味だ。奴らも生きている」
リフェルは首を横に振り、また書いた。
――生きてない。
黎司は笑おうとして、やめた。
三時間前まで、この一帯はただの峡谷だった。オーストラリア内陸部、マルカナ共同体が管理する保護区。その地図の余白に、白人探鉱者が半世紀前につけた名が残っている。
〈ウィドウズ・イヤー――未亡人の耳〉。
穴の形が耳に似ていたからではない。中へ入った男の妻が、全員未亡人になったからだ。
美術品密売人カルシアス・ヴェインは、その奥に「星の寡婦」と呼ばれる黒い石があると信じていた。石は宇宙から落ち、古代の王に未来を見せ、砂漠の民に崇拝された――というのが、ヴェインの売り文句だった。
出発前、文化保護官でもあるムティラは、その説を鼻で笑った。
「私たちの文化を、宇宙人の置き土産にするな。あの場所にあるものが空から来たとしても、私たちの物語まで空から落ちてきたわけじゃない」
ムティラたちは石を崇拝していたのではない。
近づかないよう、長い時間をかけて場所を見守ってきたのだという。
「土地は空白じゃない」と彼女は言った。「英語で“Country”って言うと、地面だけの話に聞こえる。でも私の家族が言うそれは、水も、動物も、人も、死者も、これから生まれる者も含む。地図に線を引いて終わりじゃない。線を越えたあと、何に責任を持つかまでが道なの」
黎司はそのとき肩をすくめた。
彼は責任を持つためではなく、取り戻すために雇われた。
ヴェインが共同体の保管庫から盗み出した、拳ほどの黒い石。
それを洞窟の最深部へ持ち込ませず、奪い返す。
報酬は二十万豪ドル。
宝探しに思想は必要ない。
必要なのは、先に手を伸ばすことだけだ。
そして黎司は先に手を伸ばし、崩落に巻き込まれた。
リフェルが懐中電灯で奥を照らした。
壁面に、銀色の反射テープが点々と貼られている。ムティラが道標としてつけたものだ。彼女は現地の許可を得たうえで、以前から入口周辺の安全調査をしていた。古い探鉱坑と自然洞窟が入り組み、磁気は狂い、通信も途切れる。
無線が突然、息を吹き返した。
『……聞こえる? 返事をしないで。音を立てないで。反射標識を追って戻って』
「ムティラ!」
黎司は送信ボタンを押した。
「俺たちは無事だ。入口が塞がれた。ヴェインを追う。奴は石を持っている」
雑音。
応答はなかった。
リフェルがじっと黎司を見ていた。
責めるような目だった。
「分かってる。声を出すな、だろ。だが向こうが話してる」
少年はページをめくった。
――向こうは、あなたに話していない。
そのとき、奥の闇で何かが笑った。
二
洞窟の床には、二種類の足跡があった。
一つはリフェルの小さな運動靴。
もう一つは、裸足の大人が歩いたような跡だった。指が六本ある。
「ヴェインの趣味は悪いが、部下に義足の怪物はいなかったな」
黎司がしゃがむと、裸足の跡は濡れていた。指で触れる。赤黒い液体が糸を引いた。血ではない。錆と海藻を混ぜたような臭いがした。
リフェルが先へ進む。
黎司は自分の足元を見た。
乾いた砂の上に、彼の靴跡はなかった。
爆風で地面が固く締まったのだろう。そう考え、三歩歩いて振り返る。
やはり、跡は一つも増えていない。
「……変な岩だ」
口に出した途端、壁の奥で何かが身じろぎした。
この洞窟は音を返さない。
飲み込む。
曲がり角の先に、古い採掘設備が現れた。錆びたレール、横倒しの鉱車、七〇年代の英語で書かれた警告板。鉄骨の梁には、近年取りつけられたLEDランプが並ぶ。ヴェインの先発隊だ。
発電機は止まっているのに、ランプは淡く脈打っていた。
リフェルが一つを指さす。
透明なカバーの内側で、黒い糸のようなものが絡まり、光を食べていた。
黎司は拳銃を構えた。
カン。
鉱車の向こうで、金属が鳴る。
カン。
右手の坑道。
カン。
背後。
三方向から、男たちが現れた。
ヴェインの私兵だった。砂漠用迷彩服。暗視ゴーグル。自動小銃。だが、どの顔も乾ききっている。頬は陥没し、唇は黒く、皮膚の裂け目から赤い砂がこぼれていた。
「動くな!」
先頭の男が叫んだ。
声に合わせて、その喉の奥から別の声が重なった。
『動くな』
『帰るな』
『見つけた』
『ぼくのものだ』
黎司はリフェルを鉱車の陰へ突き飛ばそうとした。
手が少年の肩をすり抜けた。
冷気が腕を貫いた。
驚く暇はなかった。小銃が火を噴く。
黎司は横へ跳び、二発撃ち返した。弾丸は先頭の男の胸と額を撃ち抜いた。男は倒れず、穴の向こうからこちらを覗いた。
「星は、所有者を選ぶ」
黎司は三発目を撃った。
頭蓋が砕け、男はようやく崩れた。床に落ちた身体は、一瞬で乾燥し、骨と布と砂の山になった。
残り二人が迫る。
黎司は鉱車の連結器を蹴った。固定が外れ、傾斜したレールを鉄の箱が走り出す。男たちを巻き込み、暗闇の底へ消えた。
激突音はなかった。
代わりに、遠くで巨大な心臓が一度だけ脈打った。
どん。
洞窟全体の壁が、わずかに膨らんだ。
黎司は拳銃の弾倉を確かめた。
十三発、入っている。
「そんなはずがあるか」
五発撃った。
数え間違えるはずがない。
リフェルが鉱車の陰から出てきた。少年の顔は真っ青だったが、黎司ではなく、床に落ちた私兵の骨を見つめている。
迷彩服の胸ポケットから、プラスチック製の身分証が覗いていた。
黎司が拾う。
写真の下に、男の名と生年月日。
さらに、油性ペンで日付が書き加えられている。
死亡確認――二〇〇九年十一月十四日。
「十七年前?」
リフェルがスケッチブックを差し出した。
――この人たちは、何度も来る。
「何度も?」
――欲しいと思ったところから、先へ進めない。
黎司は骨の山を見た。
赤い砂が、まるで息をするように盛り上がり、骨を覆い隠していく。
「おまえは何を知ってる」
リフェルは鉛筆を握ったまま、しばらく動かなかった。
やがて、小さく書いた。
――叔母さんは、あなたを連れてくるべきじゃなかった。
三
マラ・ケリーは、最初から黎司を信用していなかった。
ダーウィンのホテルで会ったとき、彼女は握手もせず、テーブルに一枚の写真を置いた。
黒い石が写っていた。
つやのない楕円形。中央に細い割れ目があり、閉じた瞼にも、縫い合わされた口にも見える。
「これは宝じゃない」とムティラは言った。
「市場価格を聞けば、考えが変わる」
「市場が値段をつけられるものは、何でも市場のものになると?」
「そういう仕事だ」
「だから信用してない」
彼女は地質学の修士号を持ち、州のレンジャー資格を持ち、三種類の大型車を修理できた。祖母から教わった土地の知識については、黎司が質問しても、話せる範囲しか答えなかった。
秘密めかすためではない。
黎司に受け取る資格も、必要もないからだ。
「あなたたちは、知らないことを空白だと思う」とムティラは言った。「空白なら、勝手に物語を書ける。宝の地図、呪われた神殿、宇宙人。便利でしょうね」
黎司は写真の石を指で叩いた。
「じゃあ、これは何だ」
「知らない」
即答だった。
「知らないが、観察記録はある。近くでは音響幻覚が起きる。時間感覚がずれる。死亡した人間の声を聞く。持ち出した者は“自分が選ばれた”と言い始める」
「呪いの説明としては上等だ」
「呪いなんて言ってない。危険物だと言ってる」
共同体は何世代にもわたって、その場所を避け、入口の変化を見守り、雨季の水路が近づけば流れを変えた。彼らの物語には、そこを所有しようとする者が自分の声に食われる、という警告が残っていた。
だがムティラは、その物語の名も歌も黎司に教えなかった。
「道を覚える歌は、観光客向けの暗号じゃない」と彼女は言った。「歌っていい人、聞いていい人、場所、季節がある。今回は歌わない。GPSと反射テープで行く」
ヴェインは、そうした慎重さを「恐怖による独占」と呼んだ。
そして石を盗んだ。
いま、黎司はその男を追って、地の底へ進んでいる。
通路は下るほど不自然になった。
石灰岩の層が途切れ、黒いガラス状の壁へ変わる。表面には無数の細い溝が走り、近づくと遠い星空のように光った。
溝は文字ではなかった。
血管だった。
リフェルが立ち止まる。
前方に、赤い顔料で描かれた印があった。
円、折れた線、重なり合う点。
黎司は写真を撮ろうと端末を上げた。
リフェルが腕を振り、カメラを遮った。
「記録するだけだ」
少年は激しく首を振る。
――ここから先は、見るための場所じゃない。
「ヴェインはもう入った」
――だから止める。
無線が鳴った。
『リフェル。聞こえるなら、送信を二回押して』
少年が黎司の腰の無線機を指さした。
黎司はボタンを二度押す。
『よし。あなたの信号は動いてる。反射標識の青を追って。赤は奥へ行く。青が帰り道』
「ムティラ、俺もいる。聞こえるか」
『返事はしなくていい。声を聞いても、知っている人だと思わないで』
「俺だ、黎司だ!」
『あなたは一人じゃない。でも、ついてきているものは人じゃない』
通信が切れた。
リフェルは無線機を見つめ、それから黎司を見た。
その目に浮かんでいるのは恐怖ではなかった。
哀れみだった。
「やめろ。その顔は」
黎司の声が黒い壁に吸い込まれる。
壁の溝が一斉に光った。
『やめろ』
『その顔は』
『俺を見ろ』
『俺はここにいる』
無数の黎司の声が、地の底へ走っていった。
四
黒い壁の先には、縦穴があった。
直径二十メートル。底は見えない。
中央を、古い巻き上げ機のワイヤーが垂れている。ヴェインの隊が設置した足場が螺旋状に続いていたが、途中で崩れている。
向こう側に、人影が立っていた。
白いリネンのスーツ。
銀色の髪。
カルシアス・ヴェイン。
「鷹取君」
ヴェインは、劇場の支配人のように両腕を広げた。
「遅かったな。君が来ないかと思った」
「石を渡せ」
「何を言う。君はそれを探すために生きてきたんだろう」
ヴェインの右手に、黒い石があった。
写真で見たより大きい。表面の割れ目がわずかに開き、その奥で濡れた光が瞬いている。
「これは神ではない」とヴェインは言った。「神という言葉は、人間が理解できない機械につける幼稚な名だ。こいつは記憶を物質化する。死を一つの状態にすぎないものへ変える。失われた帝国も、愛した人間も、財宝も、すべて再生できる」
「部下を見た。あれが再生か?」
「試作品だよ」
ヴェインが笑う。
口元が遅れて動いた。
一秒あと、同じ笑顔が頬の下にもう一つ浮かんだ。
「共同体の連中は、何世紀もこの力を腐らせてきた。使い方を知らない者が、所有だけを罪と呼ぶ。だが発見者には権利がある」
「盗んだのはおまえだ」
「君がそれを言うか?」
黎司の視界に、いくつもの光景が重なった。
カンボジアの沈没寺院から持ち出した金の像。
シリアの地下墓から剥がしたモザイク。
北海道の閉山跡で見つけた、名もない作業員の遺品。
依頼人へ渡し、金に換え、由来を忘れた品々。
持ち主のいない宝だと思っていた。
持ち主の声を、聞こうとしなかっただけかもしれない。
「説教なら、もっとましな口でしろ」
黎司は撃った。
弾丸がヴェインの手首を砕く。
黒い石が宙へ飛んだ。
リフェルが足場へ走り出す。
黎司も追う。
石は縦穴の上で跳ね、錆びた鉄板の端に止まった。
ヴェインの腕から血は出なかった。
裂けた袖の中にあったのは、細い黒い管の束だ。管は互いに絡み合い、瞬く間に新しい手を編み上げた。
「君も死を恐れる」とヴェインが言った。「だから墓を暴く。死者が黙っていると確かめたいんだ」
ヴェインの背中が裂けた。
中から、六本の腕が展開する。人の骨格を真似て失敗したような長い肢。指先には小さな口があり、それぞれが別の言語で「私のもの」と囁いていた。
怪物が跳んだ。
黎司は足場を駆け下りながら撃つ。
何発撃っても弾倉は空にならない。弾丸は怪物の肉を削るが、剥がれた肉は黒い羽虫となって戻っていく。
リフェルが巻き上げ機へ飛びつき、レバーを倒した。
ワイヤーが唸り、吊り下げられた鉱石バケットが上昇する。怪物の脚に激突し、ヴェインを壁へ叩きつけた。
「今だ、石を!」
黎司が叫ぶ。
リフェルは鉄板の端で手を伸ばした。
あと十センチ。
黒い石の割れ目が、目のように開いた。
洞窟の底から、歌が湧いた。
旋律ではない。
数億の声が同時に、自分だけの物語を語る音だった。
失った母の声。
会ったことのない父の声。
黎司自身の声。
依頼人たちの声。
砂漠で死んだ探鉱者、追放された囚人、盗掘者、兵士、研究者。
人間ではない声も混じっている。海のない星で乾いた鰓を震わせるもの。重力の強い惑星で石の殻を擦るもの。光が生まれる前から、冷たい闇を所有しようとしていたもの。
そのすべてが、同じ一語へ収束した。
――わたしのもの。
リフェルの指が石に触れる寸前、黎司は少年の腕をつかんだ。
今度は、すり抜けなかった。
冷たい手だった。
リフェルが振り返る。
黎司は、少年の瞳の中に自分を見た。
胸から鉄の棒を生やし、顔の半分を血で濡らした男が映っていた。
五
「俺は……」
記憶が戻った。
崩落は三時間前ではない。
三日前だった。
ヴェインが入口近くで爆薬を起動した。追跡してきたレンジャーを足止めし、黒い石を地下へ運ぶために。
リフェルは車の荷台から飛び出した。
黎司は少年を見つけ、怒鳴り、地面へ伏せさせた。
爆風。
落ちてくる岩盤。
黎司はリフェルを突き飛ばした。
自分の胸には、折れた鉄骨が突き刺さった。
ムティラが駆け寄る。
彼女の手が傷口を押さえる。
「鷹取、聞こえる? 目を閉じるな!」
黎司は答えたつもりだった。
だが口から出たのは、血の泡だけだった。
視界の端で、ヴェインが黒い石を抱えて奥へ消えた。
黎司は思った。
取られる。
俺の獲物だ。
その瞬間、石の割れ目が開いた。
次に目を覚ましたとき、彼は崩落の内側に立っていた。
傷は消え、拳銃は満タンで、リフェルが石を叩いていた。
カン、カン、カン。
少年が叩いていたのは、岩ではない。
鉄骨の下にある黎司の死体へ、合図を送っていたのだ。
「三日……」
リフェルが頷いた。
「おまえには、俺が見えるのか」
少年はスケッチブックに書いた。
――ここでは、強く残ったものが見える。
「どうして黙ってた」
――話すと、あれが声を使う。
無線のムティラは、一度も黎司に呼びかけていなかった。
送信ボタンを押したのもリフェル。
鉱車の連結器を外したのもリフェル。
巻き上げ機を動かしたのもリフェル。
黎司が触れられたのは、死者の残響と、石が作ったものだけだった。
そして今、リフェルの腕に触れられたのは――。
黒い石が、黎司を濃くしている。
彼を生き返らせようとしているのではない。
所有欲を芯にして、より強い形へ編み直そうとしている。
ヴェインが壁から剥がれ落ちた。
六本の腕が足場へ食い込み、口々に笑う。
「素晴らしいだろう、鷹取君。死んでも、欲望は残る。欲望こそ魂だ」
「違う」
「何が違う?」
黎司は答えられなかった。
彼の人生は、手に入れることの連続だった。
父の借金から逃げるために金を求め、名のない大学助手から抜け出すために発見を求め、発見を奪われれば遺跡から品を抜き、合法と違法の境目を渡った。
誰かが「返してほしい」と言っても、証明書を見せろと笑った。
欲望を除いたら、何が残る。
リフェルがスケッチブックを開いた。
新しいページには、雑な絵が描かれていた。
入口で少年を庇う男。
落ちてくる岩。
男の背中。
その下で生き残る少年。
――これが残ってる。
黎司は絵を見た。
自分が覚えていなかった最後の行動。
値段のつかない、誰にも売れないもの。
ヴェインが迫る。
「石を取れ。君なら戻れる。肉体など作り直せる。君が失ったすべてを、取り返せる!」
黒い石が浮き上がった。
割れ目の中に、ありえた未来が映る。
生きて洞窟を出る黎司。
二十万豪ドル。
さらに高い依頼。
博物館に自分の名がつく。
若いころ別れた女が振り返る。
父が死ぬ前に、一度だけ褒める。
どれも欲しかった。
だからこそ、罠だと分かった。
黎司はリフェルの手首を放した。
足場の縁へ進む。
石が胸の高さまで上がり、彼の手の中へ収まろうとする。
ヴェインが歓喜の声を上げた。
「そうだ。選べ。所有しろ!」
黎司は手を開いた。
「いらない」
石が震える。
洞窟中の声が止まった。
「俺のものじゃない」
黒い石の割れ目が、初めて恐怖の形に開いた。
六
大地が吠えた。
黒い壁の溝が白熱し、縦穴の底から光の柱が噴き上がる。
ヴェインの六本腕がばらばらにほどけた。指先の口が「私のもの」と叫びながら互いを噛み、食い合う。
「嘘だ!」とヴェインが絶叫した。「人は所有せずに生きられない!」
「そうかもな」
黎司は黒い石を見た。
「だが、手放す瞬間くらいは選べる」
石へ触れず、拳銃を向ける。
引き金を引いた。
今度は一発だけだった。
弾丸が割れ目へ吸い込まれる。
石の内部で、小さな星が砕けた。
衝撃波が足場を引き剥がす。
リフェルが倒れ、縁から滑った。
黎司は飛びついた。
少年の手をつかむ。
指が透けていく。
所有を捨てたことで、石が与えていた形も失われている。
「登れ!」
リフェルは片手で足場をつかもうとする。届かない。
下では、光の柱の中から巨大な影が上昇していた。
耳に似た輪郭。中心に無数の瞼。宇宙の闇を折り畳んだような身体。
それは生物ではなく、記憶を捕える器官だった。どこかの星で切り離され、隕石に包まれ、ここへ落ちた。
長いあいだ、地の底で声を集めていた。
黎司の腕が肘まで消えた。
リフェルが首を振る。
スケッチブックが落ち、白いページが闇へ舞う。
「聞け、リフェル」
黎司は初めて、少年が声を出さない理由とは無関係に、静かな声で言った。
「帰る道は、青だ。ムティラが言ってた。赤じゃない」
リフェルの視線が、対岸の壁へ向く。
青い反射テープ。
崩れた足場の向こう、排水用の横穴へ続いている。
「俺を踏め」
黎司は自分の身体を足場の上へ押しつけた。
身体は半透明だが、リフェルの靴が胸に触れると、一瞬だけ重みが生まれた。
少年は黎司の肩を踏み、跳んだ。
縁をつかむ。
這い上がる。
ヴェインが残った二本の腕でリフェルへ伸びた。
「返せ! その道も、その命も、私が見つけた!」
黎司はヴェインの腰へ組みついた。
死者同士の身体は、泥のように深く絡んだ。
「一緒に来い、鷹取君。私たちは同じだ!」
「違わない」
黎司は認めた。
「だから、おまえを放っておけない」
二人は足場から落ちた。
ヴェインの叫びが、無数の言語へ裂ける。
黎司は落下しながら、上を見た。
リフェルが青い標識へ走っている。
小さな背中が、闇の向こうへ消える。
それでよかった。
黒い石と巨大な影が接触した。
白い光が縦穴を満たす。
黎司は最後に、砂漠の夜を思い出した。
到着した日の野営地。天の川が地平線から地平線まで架かり、ムティラが焚火のそばで言った。
「星を見るとき、すぐ線で結ばないこと。あなたの知っている星座だけが、空の読み方じゃない」
黎司は笑っていた。
だが今なら分かる。
線を引く前の星は、誰のものでもなかった。
七
リフェルは青い反射標識を追った。
横穴は狭く、何度も膝と肘を打った。背後から、地鳴りとともに冷たい風が押し寄せる。壁の黒い溝が一つずつ消えていく。
無線機から、ムティラの声がした。
『リフェル、信号が動いた。そう、その方向。あと百メートルで古い換気口がある』
少年は送信ボタンを二度押した。
『よくやってる。急がなくていい。息をして。足元を見て』
急がなくていい、と言われても、背後では洞窟が崩れている。
けれどムティラの声は、走れとは言わなかった。
恐怖に道を選ばせるな、と教える声だった。
分岐点。
右には赤い反射テープ。
左には青。
右の奥から、黎司の声がした。
「リフェル、こっちだ。石を見つけた。今度こそ本物だ」
少年は目を閉じた。
声は完璧だった。
少し擦れた低い声。冗談を言う前の息遣い。怖いときほど乱暴になる調子。
「おまえが持って帰れ。ムティラには黙ってればいい。金になる」
リフェルは左へ進んだ。
右の闇で、何かが怒鳴った。
やがて声は泣き声に変わり、最後には、幼い子供のように「置いていくな」と繰り返した。
リフェルは振り返らなかった。
換気口の鉄格子は錆びついていた。
外側から、救助隊のドリル音が聞こえる。
カン、カン、カン。
リフェルは石で格子を叩いた。
カン、カン、カン。
向こうから同じリズムが返る。
格子の隙間に光が差し込んだ。
「リフェル!」
ムティラの声だった。
少年は三日ぶりに声を出した。
「ここにいる!」
岩と鉄が切り開かれ、赤い砂をまとった手が伸びる。
リフェルはその手をつかんだ。
温かかった。
八
救助隊は、入口の崩落現場から七人の遺体を収容した。
カルシアス・ヴェインと部下五名。
そして鷹取黎司。
検視では、全員が爆発当日に死亡したと判断された。
ただしヴェインの遺体だけは、奇妙な姿で見つかった。両腕で自分の胸を抱き、何かを奪われまいとするように指を食い込ませていた。
手の中には何もなかった。
黒い石も発見されなかった。
最深部へ通じる縦穴は、黒いガラス状の壁ごと崩壊し、地質レーダーにも空洞が映らなくなった。
州警察は違法発破による事故と密輸事件として処理した。
記者たちは「呪われた秘宝」「先住民の神話が予言」といった見出しをつけたが、マルカナ共同体は取材を断った。
ムティラは一度だけ、短い声明を出した。
「これは未知のものを崇拝した人々の話ではありません。危険を知り、長く管理してきた人々と、その警告を無視した盗人たちの話です。私たちの文化を怪物の飾りに使わないでください」
リフェルは病院を出たあと、ムティラとともに黎司の遺品を整理した。
拳銃。
空になっていない弾倉。
傷だらけの方位磁針。
複数の偽名を使った旅券。
小さな布袋に入った、世界各地の砂。
「これは返せないね」とリフェルが言った。
「場所が分からないからね」
「どうするの」
「少なくとも売らない。彼がどこから持ってきたか調べる。分かった分だけ返す」
黎司の上着の内ポケットから、古い写真が出てきた。
二十代の黎司が、発掘現場らしい場所で笑っている。手には何も持っていない。仲間たちと泥だらけになって、ただ穴の前に座っていた。
「昔は、ちゃんと考古学者だったのかな」
「人は一つの名前だけじゃない」とムティラは言った。「したことが消えるわけじゃない。でも、最後にしたことも消えない」
リフェルはスケッチブックを開いた。
洞窟で落としたものとは別の、新しい一冊だ。
最初のページに、彼は赤い大地と青い印を描いた。
その横に、背中を向けた男を描く。
「彼は幽霊だった?」
ムティラはしばらく考えた。
「分からない」
「分からないって、便利だね」
「大事な言葉だよ。分からないところに、勝手な物語を置かずに済む」
リフェルは頷き、絵の下に一行書いた。
――あの人は最後に、持ち帰らない宝を見つけた。
九
半年後、雨が降った。
乾ききった谷に水が走り、赤い砂を削り、草の芽が一斉に顔を出した。
ムティラとリフェルは、保護区の境界に新しい警告標識を立てていた。
立入禁止。
文化的・地質学的に重要な区域。
許可なき侵入、採取、撮影を禁ずる。
標識だけで盗人が止まるとは思っていない。
それでも、線を引いたあとに責任を持つことはできる。
作業を終えたリフェルが、谷の方を見た。
「聞こえた?」
「何が?」
「銃の音」
ムティラは耳を澄ませた。
風が草を揺らしている。
雨水が石の間を流れている。
遠くで鳥が鳴く。
「聞こえない」
「一発だけ」
リフェルは地面に目を落とした。
湿った赤土の上に、小さな窪みがあった。
靴跡ではない。
古い方位磁針が半分、泥から覗いている。
救助のとき回収したはずの、黎司の方位磁針だった。
リフェルが拾う。
針は北を指さず、谷の奥を指していた。
ムティラは磁針を手に取り、蓋を閉じた。
「追わないよ」
「うん」
「持って帰る?」
リフェルは考えた。
それから首を横に振った。
二人は磁針を、見つけた場所へ戻した。
雨脚が強くなる。
赤い泥が流れ、金属を覆っていく。
やがて何も見えなくなった。
大地は黙っていた。
だがそれは、何も知らない者の沈黙ではなかった。
聞くべきでない声を閉じ込め、
帰るべき者の足音を覚え、
持ち去られなかったものを、深く抱いている沈黙だった。
了
【作者注】
本作に登場する「マルカナ共同体」、場所、警告の物語、儀礼・標識などはすべて架空です。オーストラリア先住民文化を単一の文化として扱わず、実在の聖地・秘儀・固有の物語を再現しない形で、「Country(人・土地・水・祖先・未来世代を含む関係と責任)」という広く語られる考え方への敬意を軸に創作しています。