輪冠と名なき客
一 王が帰った朝
王が帰った朝、崖港リートのすべての戸口が、外側から三度ずつ鳴った。
風のせいではない。海は鏡のように凪ぎ、吊り看板さえ動いていなかった。
地図屋〈北針堂〉の二階で目を覚ましたナーヤは、寝台から跳ね起きた。階下で、こつ、こつ、こつ、と音がした。
「誰?」
返事はない。
梯子段を下り、店の扉を開ける。朝霧の路地には誰もいなかった。代わりに、扉の根元へ黒い封蝋の巻紙が釘で打ちつけられていた。
王都の紋章――翼をたたんだ白鷺。その上から、赤い斜線が引かれている。
『本日、日没までに崖港東区を明け渡すこと。灰鉄侯軍の上陸に備え、防壁外の家屋は焼却する』
「また勝手なことを」
ナーヤは巻紙を引き剥がした。十五歳の細い腕では釘まで抜けず、紙だけが裂けた。
六か月前、兄のエルドが王家の測量隊に加わって失踪してから、〈北針堂〉は彼女ひとりの店になった。売れるのは漁場図と、酒場で酔客に描かせる「若いころの故郷」の絵地図くらい。それでも、母の残した店だった。王都の役人に薪の束扱いされる筋合いはない。
「ナーヤ!」
路地の向こうから、大きな籠を抱えたボルが走ってきた。粉屋の息子で、十六歳にして樽のような肩をしている。籠から焼きたての丸パンが転がり、石畳を跳ねた。
「うちにも来た。父ちゃん、役人を窯に入れるって」
「火をつける手間が省けるね」
「笑ってる場合か。日没だぞ」
続いて、屋根の雨樋からピリが逆さに降りてきた。礫人の少女で、髪の代わりに細い石英の房が生えている。耳まで灰色なのに、上着だけは目の痛い黄色だった。
「西区も同じ。兵隊はもう油壺を運んでる」
最後に現れたシティアは、葬儀屋の黒い前掛け姿だった。いつも落ち着き払っている彼女も、その朝ばかりは息を切らしていた。
「王都では今日、カレド殿下の帰還式と戴冠が行われるそうよ。灰鉄侯を退けるため、全軍の指揮を執るって」
「半年も行方不明だった王子が、昨日ふらりと戻って、今日もう王様?」とピリ。
「民は英雄を急いで作りたがるものよ」とシティアは言った。「棺桶と同じ。空のままだと落ち着かないから」
カレド王子の名を聞くと、ナーヤの胸の奥が冷えた。エルドが加わったのは、王子直轄の〈古道探索隊〉だった。王子だけが戻り、ほかの十四人は戻らなかった。
そのとき、店の奥で何かが落ちた。
四人は顔を見合わせ、〈北針堂〉へ入った。床には羊皮紙の巻物、真鍮の方位環、乾いた海綿、瓶詰めの蛍が所狭しと積まれている。落ちたのは、壁に掛けてあった古い海図だった。
海図の裏、壁板の隙間に、青錆びた金属片が挟まっている。
ナーヤが引き抜くと、それは掌ほどの円盤だった。中央に鍵穴があり、周囲に細い文字が刻まれている。
――首に載らぬ冠を見つけよ。
――三度目の潮鐘までに、内へ開く最後の戸を訪ねよ。
――王を帰すなら、名を違えるな。
裏面には、崖港の地下を走る水路図が刻まれていた。線の終点は、港の北にある廃浴場。その先に、小さな輪の印。
そして円盤の縁には、エルドが地図へ必ず残す癖――北を示す針の横に、小さな魚の落書きがあった。
「兄さんのだ」
「宝の地図?」ボルの声が明るくなる。
「遺言かもしれない」とシティア。
「そういう言い方、どうにかならない?」
ピリは円盤を光に透かし、鍵穴を覗いた。
「王を帰す冠。王家の秘宝。仮に金貨一枚でも見つければ、役人の鼻先でこの区画を買い取れる」
遠くの見張り塔で、第一の潮鐘が鳴った。
低い音が港を渡り、家々の戸を震わせた。
ナーヤは円盤を上着の内側へ入れた。
「日没までに家を追い出されるなら、その前に王家の床下を漁ってやろう」
「賛成」
「賛成」
「反対しても行くのでしょう?」
シティアがため息をつく。
四人は食料に丸パン六個、縄、油灯、石墨、折り畳み鋸、墓守用の白墨を詰めた。店を出る前、ナーヤは戸口を振り返った。
母が生きていたころ、この家では旅立つ者に「行ってらっしゃい」と言い、帰る者に「おかえり」と言うのが決まりだった。
空の店へ向かって、ナーヤは小さく告げた。
「行ってきます」
扉を閉めた直後、内側から、こつ、と一度だけ音がした。
二 干潮の口
廃浴場は崖の腹に貼りつき、半分が海へ崩れ落ちていた。
かつて温泉を引いていた獅子の口から、今は海水が逆流している。円盤を獅子の額へ当てると、石の奥で錠が回った。
「地図って、普通は扉を開けないよね」とボル。
「いい地図は道を教える。すごくいい地図は道を作る」とナーヤ。
「売り文句にしよう」
獅子の顎が下がり、人ひとり通れる穴が現れた。
四人が滑り込むと、背後で石が閉じた。油灯の明かりが、濡れた階段を照らす。潮と鉄と、長く閉じた墓の匂いがした。
階段は螺旋を描いて下り、やがて円形の広間へ出た。壁一面に口だけの石像が並び、床には白い骨が散らばっている。
ボルが最初の骨を踏んだ。
「うわ」
石像が一斉に息を吸った。
シティアがボルの口を塞ぐ。次の瞬間、石の口から銀色の針が雨のように飛び、彼の耳をかすめた。
壁に刺さった針の先で、海蛇の毒が青く光った。
「音に反応する」とピリが唇だけ動かした。
床の向こうには、次の扉。距離は二十歩ほど。
四人は息を殺して歩き出した。ボルの腹が鳴った。
石像が、すう、と息を吸う。
全員が凍りつく。
ボルは涙目で腹を押さえた。ピリが丸パンをひとかけ千切り、彼の口へ詰める。石像はしばらく迷うように口を開けていたが、やがて閉じた。
十九歩目で、ナーヤの靴底が骨を割った。
乾いた音。
「走れ!」
針が飛ぶ。四人は床を蹴り、扉の陰へ転がり込んだ。ボルの籠が針だらけになり、最後の丸パンが壁に縫いつけられた。
「戦死した」とボルは呟いた。
「勇敢なパンだったわ」とシティア。
次の通路は、天井から巨大な銅の鐘がいくつも吊られていた。足元には浅い水。地図の線は鐘の下を真っすぐ進んでいる。
ピリが水へ釘を落とすと、鐘がひとりでに鳴った。
ごうん。
水面が盛り上がり、透明な人影になった。溺れた兵士の顔が浮かび、四人へ手を伸ばす。
シティアが白墨で自分たちの額に一本線を引いた。
「葬列の印。死者は、先に埋葬された者を追わない」
「本当に?」
「半分は」
「残り半分は?」
「礼儀に期待」
四人は胸の前で手を組み、葬列のように進んだ。水の兵士たちは顔を寄せ、喉のない声で呻いたが、触れなかった。
最後の鐘を抜けたところで、遠くから金属音が響いた。
誰かが獅子の入口を開けたのだ。
油灯が三つ、螺旋階段を下りてくる。
「役人?」ボルが囁く。
ナーヤは暗がりを見た。灯の持ち手は、金色の釘を打った黒い手袋をしていた。
王家の密使〈金釘衆〉。扉を封じ、人を黙らせるための兵だと、港の噂で聞いたことがある。
「地図を追ってきた」とナーヤ。
「じゃあ、当たりね」とピリは笑った。「外れの宝を王家の暗殺者は追わない」
四人は先を急いだ。
通路はやがて、底の見えない縦穴へ突き当たった。向こう岸まで一本の石梁が渡り、梁には古い王たちの名が刻まれている。円盤を近づけると、そのうち一つだけが淡く光った。
カレド。
現王子と同じ名だった。
「王家は名前を使い回すの?」とボル。
「古い名には力が宿る、と考える家は多いわ」とシティア。
ナーヤが石梁へ足を乗せた瞬間、向こう側の闇から人影が飛び出した。
「伏せろ!」
男が投げた短剣は、ナーヤの頭上を越え、背後の金釘兵の油灯を砕いた。炎が水へ落ち、兵たちが叫ぶ。
男はナーヤたちへ手を伸ばした。
その顔を見て、ナーヤは息を失った。
「兄さん」
六か月前のままの、日に焼けた頬。左眉の小さな傷。笑うと片方だけ上がる口元。
エルドだった。
ナーヤは石梁を駆けた。男も一歩近づく。
だが抱きつく寸前、ナーヤは止まった。
兄は、再会すると必ず彼女の頭を乱暴に撫でた。目の前の男は背筋を伸ばし、右手を胸へ当てている。
兵士が主君へ礼を取る姿勢だった。
「あなたは誰?」
男の顔が苦痛に歪んだ。
「その問いを、ずっと待っていた」
背後で金釘兵が梁へ踏み出す。
男はナーヤたちを手招きし、向こう岸の扉を閉めた。閂を落とすと、矢が扉板へ突き刺さった。
暗い小部屋で、兄の顔をした男は片膝をついた。
「私はカレド・セリオン。イルドラン王国の王太子だ」
ボルが目を瞬いた。
「王都で今から戴冠する人?」
「それは私の身体を着た、別のものだ」
三 兄の顔をした王
誰も、すぐには信じなかった。
ピリは男の首へ鋸を当て、シティアは逃げ道を探した。ボルだけが「王子ならパン代を返せますか」と訊いた。
「六個分なら、王庫から払おう」と男は答えた。
「ちょっと信じた」
ナーヤは男の目を見た。瞳の色も、まつ毛の癖も、すべて兄だった。なのに視線の置き方が違う。エルドはいつも部屋全体を地図のように眺めた。この男は、敵が隠れそうな場所を順番に見ていた。
「説明して」
男――カレドは、上着の袖をまくった。手首に黒い輪が刻まれている。扉の蝶番に似た痣だった。
「王家の古道探索隊は、この地下にある〈最後の戸口〉を探していた。王国が滅びかけたとき、初代王が帰還するという伝承を信じてな。だが、待っていたのは王ではなかった」
彼は壁に指で二つの人型を描き、その間へ縦線を引いた。
「名なき客。戸口を隔てた二人の肉体を入れ替え、記憶の表面を舐め取るものだ。最初は太古の器に閉じ込められていた。君の兄エルドが戸を開け、客は彼の身体へ移った。エルドの心は、客が捨てた器へ追いやられた」
ナーヤの喉が鳴った。
「じゃあ、あなたは」
「客はエルドの姿で私の陣営へ戻った。私にだけ話があると、天幕の入口から呼びかけた。彼が扉を越えた瞬間、私と入れ替わった。客は私の身体を得て王都へ向かい、私はエルドの身体に残された」
「どうして追いつけなかったの?」ピリが訊く。
「この身体で王都の門へ行き、『私は王太子だ』と言ってみろ。運がよければ笑われる。悪ければ首が飛ぶ」
「今の話も同じくらい首が飛びそう」とボル。
カレドは苦く笑った。
「だから冠が要る。王家の〈輪冠〉は、首に載せるものではない。戸口へ掲げ、そこを通る者の名と身体を正しく結び直す。客を元の器へ戻せる唯一の道具だ」
ナーヤは青錆びた円盤を見せた。
「これは兄さんが?」
「私が〈北針堂〉へ隠した。エルドの記憶の中で、最も安全な場所だった。君なら地図を読めるとも知っていた」
兄の記憶を勝手に覗いたことへの怒りが湧いた。だが、目の前の男の罪ではない。
扉の向こうで、金槌が閂を叩き始めた。
「戴冠まで、あとどれくらい?」とシティア。
「日没。王都中の戸口に王子の名が書かれ、民が一斉に『おかえりなさい』と唱える。あれは帰還式ではない。王国そのものを一つの家に見立てた招待だ」
「何を招くの?」
カレドは答えなかった。
その沈黙で足りた。
ピリが奥の壁を調べ、床近くの排水口を見つけた。鉄格子を鋸で切り、四人とカレドは狭い管へ潜り込んだ。
管の先は急な滑り台になっていた。
「待って」とナーヤが言う前に、ボルの重みで腐った格子が外れた。
五人は暗闇を滑り落ちた。
何度も曲がり、上下が分からなくなり、最後に薄い膜を突き破って巨大な空洞へ放り出された。
下には地底湖が広がっている。
全員が水へ落ちた。
ナーヤが浮かび上がると、頭上に星空があった。
いや、星ではない。洞窟の天井に埋め込まれた無数の銀貨が、油灯の光を反射していた。湖の中央には、黒い石で造られた小さな城が浮かんでいる。城へ続く橋はなく、ただ一枚の白い扉が、水面すれすれに立っていた。
扉は壁にも柱にも繋がっていない。
その向こうから、こつ、こつ、こつ、と三度音がした。
「ナーヤ」
兄の声だった。
今度は、目の前に兄の顔があるにもかかわらず。
四 最後の戸口
「開けるな」
カレドがナーヤの腕を掴んだ。
白い扉の向こうから、もう一度声がした。
「ナーヤ。そこにいるのか」
震えていた。エルドは痛いときも怖いときも、他人の前では笑ってごまかした。けれど、二人きりのときだけ声が震えた。
ナーヤは水をかき、扉へ近づいた。
「証明して」
「何を」
「あなたが兄さんだって」
扉の下から、黒い指が一本のぞいた。人間の指より長く、関節が四つあった。
ボルが小さく悲鳴を上げる。
扉の向こうの声は、しばらく黙った。
「母さんが死んだ夜のことを覚えているか」
「質問するのは私」
「おまえは泣かなかった。寝台で眠ったふりをしていた。私は何か言わなきゃと思った。でも何も言えなくて、朝まで戸口の外に座っていた」
ナーヤの目の奥が熱くなった。
それは二人しか知らない。いや、名なき客がエルドの記憶を覗いたなら、知っているかもしれない。
「それだけ?」
「朝になって、おまえは扉を開けた。私の顔を見て、最初に言った」
扉の向こうで、かすかな笑い。
「『廊下で寝ると背が伸びないよ』って」
その言い方。笑う前に一度だけ息を鼻から抜く癖。
ナーヤは白い扉へ手を掛けた。
「危険だ」とカレド。
「あなたは兄さんの顔をしてる。でも、兄さんじゃない。この向こうのものは兄さんの顔じゃない。でも――」
彼女は扉を開けた。
「おかえり、兄さん」
闇の中から、細長い影が這い出した。
最初に見えたのは、白い髪。次に、皮膚の下でゆっくり動く青い血管。顔は老いた男にも、産まれたばかりの獣にも見えた。目が四つあり、そのうち二つは閉じている。肩から伸びた腕は左右で長さが違い、黒い指が床を探った。
ボルが後ずさりし、ピリが鋸を構えた。
怪物は水へ膝をついた。
「ただいま」
エルドの声でそう言った。
ナーヤは震える手を伸ばし、怪物の額へ触れた。冷たかった。触れた途端、怪物の四つの目から涙がこぼれた。
「ごめん。こんな格好で」
「兄さんは前から変な格好ばかりしてた」
「それは服の話だろ」
ボルが泣きながら笑い、ピリは鋸を下ろした。シティアだけが怪物の身体を静かに観察している。
「この器は死んでいない」と彼女は言った。「死ねないのね」
エルドは頷いた。
「名なき客を閉じ込めるため、初代王たちが作った器だ。戸口の魔法が続く限り、朽ちない」
白い扉の向こうは、黒い石城へ続いていた。
城内には金銀の山があった。王冠、杯、宝石、古い条約板、異国の仮面。銀貨は床を埋め、歩くたび波のように崩れた。
ボルは両手で金貨をすくった。
「家が百軒買える」
「一枚でも持ち帰れたらね」とピリ。
広間の中央に、円形の金属枠が吊られていた。人がくぐれるほど大きく、無数の家名が細い文字で刻まれている。上部には、翼をたたんだ白鷺。
首に載らぬ冠――輪冠。
ナーヤが青錆びた円盤を枠の窪みへ差し込むと、円盤は鍵のように回った。
金属枠が低く唸り、鎖から外れた。
その瞬間、城の外で爆発が起きた。
白い扉が吹き飛び、金釘兵が雪崩れ込む。先頭には、銀の仮面をつけた長身の男。王家の宰相マレフだった。
「輪冠から離れよ」
その声は穏やかで、命令に慣れていた。
カレドが剣を抜く。エルドの身体では腕の長さも重心も違うはずなのに、刃は迷わず構えられた。
「マレフ。私が分からないか」
宰相は兄の顔を一瞥した。
「殿下は王都におられる」
「おまえが客を招いたのか」
「招いたのではない。選ばれたのだ。人は一代では国を救えぬ。ならば、永遠に同じ意志が王座へ座ればよい」
銀仮面の奥で、笑った気配がした。
「肉体など、扉の向こうで脱ぐ外套にすぎぬ」
「じゃあ、その外套を脱いでもらおう」とナーヤ。
ピリが輪冠の下部へ縄を結び、ボルが反対側を担いだ。シティアは宝の山から細身の槍を拾う。
「逃げ道は?」
エルドが四つの目を閉じ、床へ耳をつけた。
「この城自体が船だ。湖の底に水門がある」
「動かせる?」
「王が命じれば」
全員がカレドを見る。
彼は兄の顔で、ためらいなく言った。
「イルドラン王太子カレド・セリオンの名において、帰還路を開け」
何も起きなかった。
ボルが言う。
「身体が違うから?」
「たぶん」
兵が迫る。
ナーヤは輪冠を起こし、その内側へカレドを立たせた。枠に刻まれた家名が一斉に光る。
「もう一度」
カレドが息を吸う。
「帰還路を開け!」
今度は地底湖全体が揺れた。
黒い石城の壁が左右へ割れ、帆柱がせり上がった。床下で巨大な歯車が回り、城は船となって滑り出す。
金釘兵たちが転倒する。ピリは鎖を切り、吊り天井を落とした。シティアが槍で灯を払い、暗闇を作る。ボルは金貨の詰まった小箱を一つだけ抱えた。
「一枚って言ったでしょう!」
「家が百軒だぞ!」
ナーヤたちは輪冠を転がし、船首へ走った。カレドとエルドが最後尾を守る。
宰相マレフが暗闇から飛び出し、ナーヤの髪を掴んだ。
「子どもが王国の形を決めるな」
ナーヤは彼の手の甲へ噛みついた。
「大人がまともに決めてたら、こっちは地下に来てない!」
マレフが手を離す。ボルが小箱ごと体当たりし、宰相を銀貨の山へ叩き込んだ。
船は水門へ突っ込んだ。
岩壁が開き、海そのものが地底へ落ちてきた。
すべてが白い泡に呑まれた。
五 都へ続く水路
黒い船は、地下の急流を矢のように走った。
帆はない。舵もない。輪冠を船首へ立てると、刻まれた家名が次々に光り、その方向へ水路が開いた。
王国中の戸口が、地下では一つの道に繋がっているのだとエルドは説明した。
「家は壁で分かれているように見える。でも、敷居の下ではみんな同じ土の上に立つ。初代王はそれを忘れないため、帰還路を造った」
「その初代王が、怪物の器も造った?」とシティア。
「忘れないための仕組みは、使う者が忘れると牢獄になる」
エルドは自分の黒い指を見た。
船の後方では、金釘兵の小舟が追ってきていた。宰相も生きている。闇の中に油灯が五つ、しつこい星のように揺れる。
第二の潮鐘が、岩を通して響いた。
日没まで、あと一刻あまり。
カレドは濡れた王都図を広げた。ナーヤが輪冠の円盤から写した線を重ねる。
「帰還式は白鷺宮の〈双戸の間〉で行われる。外戸をくぐって王となり、内戸をくぐって先王へ別れを告げる。二つの戸の間に輪冠を掛ければ、入れ替わりを逆に辿れるはずだ」
ナーヤは三つの駒を置いた。
「最初に、名なき客が古い器から兄さんへ。次に、兄さんの身体から王子へ」
「ゆえに逆順だ」とシティア。「客を王子の身体からエルドの身体へ戻し、そこから古い器へ戻す」
ボルが怪物姿のエルドを見る。
「間違えたら?」
「誰かが誰かの身体で一生を過ごす」とエルド。
「今よりややこしくなる余地があるのか」
ピリは追っ手を見ていた。
「その前に、王都へ着けない」
前方の水路が三つに分かれる。中央には王家の白鷺、右には鐘、左には波の印。
カレドが中央を指す。
「宮殿直下へ」
ナーヤは首を振った。
「中央は罠。地図の線が新しすぎる。誰かが掘り直してる」
円盤を当てると、中央水路の奥に赤い光点が無数に現れた。金釘衆の待ち伏せだ。
「左へ。波印は旧港の排水路。王都東門の外へ出る」
「外は灰鉄侯軍だぞ」
「中は敵が待ってる。外には、まだ私たちを知らない敵しかいない」
「安心材料の使い方が変だ」とボル。
船は左へ曲がった。
追っ手も続く。
水路は狭くなり、天井が下がった。ピリが船尾の鎖を歯車へ巻きつける。
「全員、伏せて!」
鎖の端を壁の支柱へ投げる。船が通過した瞬間、鎖が張り、古い支柱を引き抜いた。
天井が崩れた。
追っ手の灯が三つ消える。残る二つのうち、一つは瓦礫を越えてきた。宰相の銀仮面が火に照らされる。
「執念深いね」とピリ。
「国を滅ぼす人は、だいたい勤勉よ」とシティア。
やがて前方が赤く染まった。
夕日ではない。燃える王都の光だった。
黒い船は排水口を突き破り、外濠へ飛び出した。
目の前で戦争が空を埋めていた。
灰鉄侯の投石機が火球を放ち、城壁で砕ける。黒い甲冑の兵が梯子を押し上げ、王都の弓兵が矢を降らせる。東門の外には、カレドに忠誠を誓う葦原騎兵が集まっていたが、門は閉ざされ、味方に入れてもらえずにいる。
「私の兵だ」カレドが言う。「客は彼らを都へ入れなかった。私を知る者を近づけたくないんだ」
城壁の中央塔に、巨大な白布が掲げられた。
王子の帰還を告げる印。
都中の鐘が、戴冠の時刻を刻み始めた。
まだ第三の潮鐘ではない。偽の王は、式を早めたのだ。
城壁の上から、何万人もの声が湧き上がる。
「おかえりなさい、カレド王!」
その言葉に応えるように、空の夕焼けへ細い亀裂が走った。
亀裂の向こうで、何か巨大なものが目を開いた。
六 帰還の鐘
「輪冠を宮殿へ運ぶだけでは間に合わない」とシティアが言った。「招待の声を止める必要がある」
ナーヤは王都図を開き、城壁、鐘楼、水門へ指を走らせた。
「三つに分かれる」
「分かれるのは、だいたい悪い考えだぞ」とボル。
「一緒に行って全部失敗するよりまし」
彼女は東門下の古い機械室を指した。
「ピリとボルはここ。排水路から城内へ入り、門を上げる。葦原騎兵を入れて」
「門番に何て言う?」
「王様の命令」
ボルが兄の顔をしたカレドを見る。
「説得力が不思議な方向に弱い」
「殴ってから説明して」とピリ。
次にナーヤは、鐘楼を指した。
「シティアは第三鐘楼へ。帰還式の鐘を止めて、〈戸締めの打ち方〉を鳴らす」
「三短、一長ね。葬儀屋は夜ごと鳴らすから知ってる」
「一人で?」
エルドが黒い手を上げた。
「私が行く。この身体なら、矢の二、三本では止まらない」
「兄さんは宮殿へ必要」
「最後には行く。まず、都に『招いていない』と言わせる」
ナーヤは反論しかけ、やめた。兄は昔から、自分で決めた危険には笑って向かう。
残るナーヤ、カレド、輪冠は、排水路から白鷺宮を目指す。
黒い船を城壁の影へ寄せ、それぞれが飛び降りた。
戦場の音は、洞窟の怪物より恐ろしかった。怪物には形がある。戦争は、音だけで人を小さくする。
ボルは震える手を見て、握り拳を作った。
「怖くないふりをする方法、誰か知らない?」
「怖いまま走れば、遠くからは同じに見える」とピリ。
二人は機械室へ走った。
シティアとエルドは鐘楼へ向かう。
ナーヤは輪冠の片側を担ぎ、カレドと地下道へ入った。
途中、何度も兵に呼び止められた。カレドが王太子の命令口調で道を開かせ、ナーヤが「儀式用の大きな皿です」と説明した。
「誰が信じるの」と彼女が囁く。
「宮廷では、自信を持って言えば大半が通る」
「国が危ない理由が分かった」
東門の機械室では、ピリが歯車へ飛び乗っていた。
門番三人が倒れ、ボルが一人を抱えて謝っている。
「ごめんなさい、あとで薬代払います! たぶん王庫から!」
巨大な巻き上げ機には、王家の封印鎖が巻かれていた。ピリは黄色い上着から火薬筒を取り出す。
「それ、いつから持ってた?」
「廃浴場から」
「先に言ってよ」
「聞かれなかった」
爆発が機械室を揺らし、封印鎖が切れた。ボルが全身で梃子を押す。東門が軋みながら上がる。
外で待っていた葦原騎兵が、風のように都へ流れ込んだ。
先頭の女将軍は兄の顔をした王子を探したが、代わりに粉まみれの少年を見つけた。
「誰の命令だ!」
ボルは胸を張った。
「本物の王様です! 顔は違うけど!」
女将軍は一瞬だけ迷い、それから笑った。
「カレド殿下らしい面倒だ。門を守れ!」
一方、第三鐘楼では、シティアが階段を駆け上がっていた。金釘兵が上から槍を向ける。
エルドが前へ出た。
矢が胸へ刺さる。黒い血が流れたが、彼は止まらない。長い腕で兵の槍を掴み、塔の壁へ投げた。
「死なない身体って、痛くないの?」シティアが訊く。
「すごく痛い」
「安心した」
「何が?」
「痛いなら、まだ人間よ」
二人は鐘室へ飛び込んだ。鐘番が帰還の連打を続けている。シティアは綱を切り、別の槌を取った。
短く三度。
かん、かん、かん。
長く一度。
ごおおん。
戸締めの鐘が王都へ広がった。
家々の住民が、幼いころから教わった作法を思い出す。戸を閉じ、閂を掛け、敷居へ塩を撒く。
「今夜、客は招かない」
誰かが言った。
その声が隣家へ伝わり、通りへ伝わり、城壁へ伝わった。
空の亀裂が、それ以上開くのを止めた。
だが閉じてもいない。
白鷺宮では、偽のカレドが立ち上がっていた。
彼は王太子の美しい顔で微笑み、宮廷人たちへ告げた。
「無礼な鐘だ。扉を開けよ。すべての扉を」
その声を聞いた者の影が、本人より先に戸口へ向かい始めた。
七 二つの名
ナーヤとカレドは、台所裏の配膳口から白鷺宮へ入った。
輪冠が皿に見えたのか、料理人は誰も止めなかった。
双戸の間へ続く回廊は、影に満ちていた。人々の影が身体から剥がれ、同じ方向へ這っている。空の亀裂から漏れた名なき客の一部だった。
影はカレドの足へ絡みつく。
ナーヤは油灯を床へ落とした。炎が広がると、影が悲鳴の形に縮んだ。
「地図屋は放火もするのか」
「今日、家を焼かれる予定だったから、予習」
二人は双戸の間へ突入した。
そこには二つの扉が向かい合っていた。
外戸は白く、王国のすべての町が彫られている。内戸は黒く、亡き王たちの名が刻まれている。その間に玉座があり、偽のカレドが座っていた。
宮廷人たちは壁際に倒れ、影だけが立っている。
「よく戻った」
玉座のものが言った。
カレドと同じ顔。同じ声。だが笑うと、口の端が左右ではなく上下へ裂けた。
「その身体は窮屈だろう、王子。返してほしいか」
兄の顔をしたカレドが剣を抜く。
「国ごと返してもらう」
「国は扉だ。王とは蝶番だ。人々は自分から私を招いた」
「怖がっていただけだ」ナーヤが言った。「怖いとき、人は強そうな名前を呼ぶ。でも、それはあんたの名前じゃない」
玉座のものが初めてナーヤを見た。
瞳の奥に、無数の戸口が開いている。どの戸口にも、失った人が立っていた。
母がいた。
〈北針堂〉の戸口で、若いころのまま笑っている。
「ナーヤ」
母の声。
「おかえりと言って」
足が動きかけた。
ナーヤは自分の掌へ石墨の芯を突き立てた。痛みで幻が揺らぐ。
「母さんは、帰れない道を地図に描かない」
輪冠を外戸と内戸の間へ立てる。円盤を回すと、枠に刻まれた家名が燃えるように光った。
偽のカレドが玉座から飛び降りる。
その動きは人間ではなかった。四つん這いで天井を走り、長い影を槍のように伸ばす。
カレドが剣で影を受ける。刃が黒く凍りつく。
ナーヤは輪冠を外戸へ嵌めた。
「カレド!」
「名を全部呼べ!」
彼女は円盤の文字を読んだ。
「カレド・セリオン・アル・イルドラン。白鷺家第十九子、セラド王の長子。あなたの家へ帰れ!」
兄の身体にいるカレドが外戸をくぐった。
輪冠が鳴った。
世界が一瞬、裏返る。
二人のカレドの間に、細い糸のような光が走った。王子の身体が膝をつき、兄の身体がのけぞる。
次の瞬間、王子の身体が顔を上げた。
その目には、戦場を見る者の静かな光が戻っていた。
「ナーヤ」
本物のカレドだった。
一方、兄の身体は床を掻きむしり、口から何本もの声を吐いた。
「返せ。返せ。返せ」
名なき客はエルドの肉体へ戻った。
だが、エルド本人はまだ古い器の中にいる。
「内戸へ!」
ナーヤとカレドは輪冠を外し、黒い内戸へ運んだ。
そのとき、背後の壁が爆ぜた。
宰相マレフが、残った金釘兵を連れて踏み込む。銀仮面は半分割れ、血が流れていた。
「陛下を守れ!」
兵たちが兄の身体――名なき客を囲む。
客は笑った。エルドの口で、エルドの声を使って。
「忠実なものだ」
影が兵の身体へ入り込み、彼らを糸人形のように立たせる。
カレドは剣を構えるが、数が多い。
鐘楼の方向で、壁が崩れた。
四つ目の怪物が飛び込んでくる。
エルドだ。
胸に矢を刺したまま、シティアを長い腕へ抱えている。
「遅くなった」
「ちょうどいい!」
エルドはシティアを下ろし、名なき客が入った自分の肉体を見た。
人間の顔と怪物の顔が向かい合う。
「変な気分だな」とエルド。
客が兄の顔で囁く。
「戻りたいだろう。だが、この器へ私を戻せば、おまえはまた死ぬ身体になる。痛み、老い、病み、やがて消える」
「魅力的な勧誘が下手だな」
「永遠を捨てるのか」
「永遠にこの顔なのは嫌だ」
エルドは内戸の向こうへ立った。
ナーヤが輪冠を嵌める。
名なき客は兵たちをけしかけた。カレドとシティアが迎え撃つ。剣と槍が鳴り、影が床を這う。
ナーヤは兄の真名を呼ぼうとした。
だが、声が出ない。
名なき客が、兄の顔で彼女を見ていた。
「間違えれば、兄を失う」
確かにそうだった。
地図には、正しい線だけを引けと母に教わった。けれど、正しい道は歩く前から分かるものではない。印をつけ、戻り、迷い、それでも進む。
ナーヤは息を吸った。
「エルド・ヴァン・リート。北針堂の息子。私の兄。あなたの身体へ帰ってきて」
古い器のエルドが、内戸をくぐる。
輪冠が二度目の音を立てた。
兄の身体と古い器の間で、闇と光が絡み合う。
名なき客が絶叫した。
その声は、王都中の閉じた扉を震わせた。
エルドの身体が前へ倒れ、ナーヤが抱き止める。重さも、体温も、人間の兄だった。
古い器は内戸の向こうで立ち上がる。
四つの目すべてが開き、その奥に星のない空が見えた。
「ナーヤ」
母の声、兄の声、ナーヤ自身の声で呼びかける。
「戸を開けて」
ナーヤは黒い扉を閉めた。
「招かない」
カレドが王剣を閂へ通す。シティアが白墨で扉の周囲に戸締めの印を描いた。
最後にナーヤが、扉から名札を外した。
名のない家には、誰も招かれない。
内側から、何度も何度も叩く音がした。
やがて、それも聞こえなくなった。
八 王の帰還
名なき客を閉じ込めても、戦争は止まらなかった。
灰鉄侯軍は東門から入った葦原騎兵を押し返し、投石機を城内へ向けていた。白鷺宮の窓から、燃える市場と崩れた塔が見える。
宰相マレフは床に倒れ、割れた仮面の下で笑った。
「王が一人戻ったところで、軍勢は戻らぬ。都は落ちる」
カレドは玉座を見た。
それから、座らずに背を向けた。
「王は椅子ではない」
ナーヤの地図を取り、東門から外濠へ続く古い水路を指す。
「この線は使えるか」
ナーヤは眺めた。地底湖から都へ来た帰還路。崖港から流れ込む満潮。王都の外濠と、灰鉄侯軍の陣地を隔てる低地。
「水門を全部開けば、東の野は沈む。でも都側の堤も切れる」
「敵だけを流せないか」
「地図は贔屓しない」
ピリの声が回廊から響いた。
「機械なら贔屓するよ!」
彼女とボルが、葦原騎兵の女将軍を連れて駆け込んでくる。ボルは煤だらけで、宝の小箱をまだ抱えていた。
ピリは王都図へ歯車の印を書き足した。
「東門の下に旧式の分流板がある。半分壊れてるけど、ボルが押さえれば向きを変えられる」
「どうして僕が単位みたいになってる?」
「一ボルの力が必要」
カレドは女将軍へ向き直った。
「葦原騎兵は市民を高台へ。歩ける者は堤へ土嚢を運べ。弓兵は敵の投石機を狙え」
女将軍は彼の顔を見て、片膝をついた。
「今度こそ、本物で?」
カレドは兄の身体ではなく、自分の身体で笑った。
「面倒をかけた」
「それなら本物です」
命令が都を走った。
帰還式のため広場へ集められていた人々は、桶、扉板、屋台の天幕を持って堤へ向かった。粉屋は小麦袋を土嚢にし、葬儀屋は空の棺を水路へ並べた。地図屋の客たちは、ナーヤが酒場で描いた故郷の絵地図を盾代わりに掲げた。
第三の潮鐘が鳴る。
崖港から満潮が押し寄せた。
ピリが機械室で分流板の鎖を切り、ボルが全身で梃子を押す。
「一ボル、足りてる?」
「二ボル欲しい!」
シティアとエルドが加わった。
三人の力で分流板が回る。
地下を走った海水は東門の外へ噴き出し、灰鉄侯軍の陣地を横から襲った。泥に沈んだ投石機が倒れ、火球が自軍の柵へ転がる。葦原騎兵は高い畦道を駆け、混乱した敵の中央を断ち切った。
城壁の上に、カレドが立つ。
王冠はない。外套もない。濡れた服と、借り物の剣だけだった。
「イルドランの者たちよ!」
戦場を越えて声が響く。
「帰る場所は、王が与えるものではない。おまえたちが戸を直し、火を消し、名を呼ぶところが家だ。今日、私を帰したのは王家ではない。地図屋と粉屋と葬儀屋と、石の耳を持つ仕掛け師だ!」
城壁で笑いが起こった。
「だから命じる。自分たちの家を守れ。私も一緒に守る!」
門が開く。
カレドは葦原騎兵とともに出陣した。
戦いは日が沈んでも続いた。
だが空の亀裂は閉じ、灰鉄侯の兵に約束された「戸口の向こうの援軍」は来なかった。水に囲まれ、退路を失った灰鉄侯は夜半に降伏した。
王都の鐘が、今度は帰還でも戸締めでもない打ち方をした。
火事の終わりと、生存者の数を確かめる鐘だった。
終章 ただいまの場所
三週間後、崖港リートの東区には新しい屋根が並んだ。
焼却命令は取り消され、黒い船から運び出された王家の古銭が復旧費に充てられた。ボルが守り抜いた小箱だけで、粉屋の窯は十二基直せた。
「だから六個分のパン代より多い」と彼は誇った。
「王庫から返してもらったの?」とピリ。
「王様が『利息込みだ』って」
シティアは葬儀屋を継ぐかたわら、王都の戸口に残った影を祓う仕事を始めた。ピリは東門の分流機を改良し、「一ボル」を正式な力の単位として図面に書いたため、職人組合で問題になった。
エルドは人間の身体へ戻ったが、時々、四つあるはずの目を閉じようとして額へ手をやった。戸口の前では立ち止まり、必ず招かれるまで中へ入らない。
ある夕方、彼は修理の終わった〈北針堂〉の前に立った。
ナーヤは店内で、新しい地図を描いていた。
王都から崖港までの地下水路。地底湖の黒い船。白い扉のあった場所。最後の戸口だけは、紙の端の外へ置いた。
扉が三度鳴る。
こつ、こつ、こつ。
「誰?」
「背が伸びなかった兄」
ナーヤは笑って扉を開けた。
エルドが立っている。いつもの顔で、いつものように片方だけ口元を上げて。
彼女は言った。
「おかえり、兄さん」
「ただいま」
その夜、〈北針堂〉の戸口には新しい名札が掛けられた。
地図屋、エルドとナーヤ。
友人、いつでも歓迎。
名なき客、お断り。
そして名札の下には、北を示す針と、小さな魚が一匹、描き足されていた。