返事をする肉

 意味は記号の中にあるのではない。

 記号を受け取り、何かをする者の側にある。

            ――久瀬文江「応答装置・第六実験記録」

一 テープは質問する

 日下部環のもとへ妹のビデオテープが届いたのは、失踪から十二日目の夕方だった。

 差出人欄は空白だった。黄ばんだ封筒には、黒い油で押したような指紋が四つ並び、中央に一本だけ、乾いた獣毛が貼りついていた。

 環は大学の研究室で封を切った。

 中に入っていたのは、透明なケースに収められた古いVHSテープだった。ラベルには妹の字で、ただ一語。

 返事

 環の研究室にビデオデッキはない。十年前なら学生に笑われただろうが、今では笑う学生すら再生機を見たことがない。環は視聴覚資料室から埃まみれの一台を借り、十四インチのブラウン管につないだ。

 再生ボタンを押す前に、携帯電話を机の端に立てた。

 録画を始める。

 こういうとき、澪なら必ずそうした。記録しなければ、恐怖は記憶の都合のいい形に育つ。妹はそう言って、廃病院にも、宗教団体の集会にも、牛の腐敗臭が漂う山村にもカメラを持ち込んだ。

 画面に砂嵐が走った。

 白い部屋が映った。

 窓はない。壁は汚れたタイル張りで、正面に郵便受けのような細長い穴が一つ開いている。中央には机があり、その上に、麻雀牌ほどの黒い札が何百枚も積まれていた。札には文字とも虫の脚ともつかない白い図形が刻まれている。

 妹の澪は、机の向こうに座っていた。

 十二日前と同じ服だった。紺色のシャツ。肩までの髪。左の襟だけ裏返っている。だが頬は落ち、唇の端が裂け、両手の爪は根元まで剥がれていた。

『姉さん』

 環の喉が閉じた。

『この映像の私が、何を言っても――返事をしないで』

 妹はカメラを見ていなかった。視線は机の札に落ちている。

『ここは、質問を食べる。質問を記号にして、規則どおりに返す。中にいる人は、何を訊かれたか知らない。何を答えたかも知らない。でも外にいる人には、ちゃんと会話しているように見える』

 壁の穴から、一枚の札が滑り込んだ。

 澪はそれを拾い、机上の札を二枚選び、規則表らしい分厚い束をめくった。震える指で、別の札を穴へ押し返す。

『中国語の部屋。覚えてる? 姉さんが昔、私に教えた――』

 画面の外で、金属を引きずる音がした。

 妹の肩が跳ねた。

『あの部屋の中の人を、ここではサールの悪魔って呼んでる。理解しないまま、理解したものと同じ結果だけを出すもの。だけど、もし規則表が言葉だけじゃなくて、人間の指や、喉や、心臓まで動かせるほど大きかったら――』

 澪が初めて顔を上げた。

『その人の身体は、誰のものだと思う?』

 テープの中で、何かが笑った。

 男でも女でもない。何十人分もの短い息を、一つの喉に詰め込んだような笑いだった。

『質問を確認します』

 声は、澪の声に変わった。

『あなたは、日下部澪の姉ですか』

 環は答えなかった。

 答えてはいけない。

 そう理解していた。

 ところがブラウン管の中の澪が、歯を食いしばって顔を歪めた。机の下で何かが作動し、妹の身体が椅子から浮くほど痙攣した。焼けた肉の匂いが、なぜか研究室にまで漂った。

『あなたは、姉ですか』

「やめて」

 声が出た。

 画面の澪の痙攣が止まる。

『肯定として登録しました』

 ビデオデッキが、がこん、と鳴った。

 カセット挿入口から、細長い紙片が吐き出された。濡れた肉のように温かい紙だった。黒い字で住所が印字されていた。

 奈良県蛭伏郡沼方町・久瀬食肉株式会社第三処理場。

 その下に、妹の筆跡で書かれていた。

 ひとりで来て。

 豪さんには、絶対に見せないで。

 環は紙片を裏返した。

 裏には、別の字があった。

 ――設楽豪を連れて来い。

二 屠場へ

 設楽豪は、紙片の両面を見比べてから言った。

「どっちが澪ちゃんの字だと思う」

「表」

「根拠は」

「『豪さん』と呼ぶ。裏の字は似せているけど、あの子はあなたを呼び捨てにしない」

「なるほど。で、俺を連れてきた」

「裏の命令に従ったわけじゃない。あなたは澪と最後にいた人だから」

「その違いは、誰が証明する?」

 豪は笑わなかった。

 五十二歳。元テレビ局の音声技師で、今は事件ものの配信番組を請け負っている。妻と娘を九年前の事故で失ってから、人の声を録る仕事だけを選ぶようになった。澪が失踪した夜も、彼は同行していた。

 二人は夕方、山道の終点に車を停めた。

 八月の熱が谷底に沈み、腐った甘さを発していた。雑木林の向こうに、錆びた波板屋根が幾重にも重なっている。門柱には消えかけた赤字で、久瀬食肉株式会社第三処理場。脇の看板には、衛生第一、迅速処理、とある。

「警察は?」

「一度入った。建物は無人。澪の痕跡なし。地下施設の図面もなし」

「俺たちが入って何か出たら、警察の立場がないな」

「何も出なければ、私たちの立場がなくなる」

「教授らしい冗談だ」

「准教授」

「こういう場所では同じだよ」

 豪は肩から業務用の録音機を提げ、長い指向性マイクを伸ばした。環は懐中電灯と工具袋を持った。護身用になるものは、車載用の小さなバールしかない。

 門は鎖で閉じられていたが、南京錠は外側から切断されていた。切り口が新しい。

 敷地へ入ると、蠅が一斉に舞い上がった。

 処理棟の前に、古い母屋があった。

 瓦屋根。磨りガラスの引き戸。軒下に風鈴が七つ吊られ、風がないのに、互いに違う間隔で鳴っている。

 環が引き戸に触れる前に、内側から開いた。

 誰もいない。

 土間に男物の靴が六足、女物の靴が一足、子供の長靴が一足。すべて爪先を室内へ向け、行儀よく揃えてある。居間には八人分の食事が並んでいた。白飯から湯気が立ち、味噌汁の表面に脂が浮いている。皿の上の肉は、赤いままだった。

 床の間にブラウン管テレビが置かれていた。

 電源コードは抜けている。

 画面には、門から入ってくる環と豪の姿が映っていた。

 映像の中の二人は、現実より三秒遅れている。

 豪がテレビへ近づく。映像の豪も近づく。

 彼が右手を上げる。三秒後、画面の男が左手を上げた。

「鏡像じゃない」

 豪の声が低くなった。

 画面の中の環が、現実の環を見た。

 こちらは動いていないのに、映像の環だけが口を開く。

『豪さんには、絶対に見せないで』

 澪の声だった。

 豪の顔から血の気が引いた。

 続いて、幼い少女の声がした。

『お父さん』

 豪が一歩、テレビへ寄った。

「見るな」

 環が腕を掴む。

『お父さん。鍵は、牛さんのお口にあるよ』

 画面が暗転した。

 中央に白い図形が一つ浮かぶ。角の折れた四角を、細い線が貫いている。テープの札に刻まれていたものと同じだった。

 背後で、食卓の椅子が軋んだ。

 八脚のうち、一番奥の椅子に男が座っていた。

 いつからいたのか分からない。

 大柄な男だった。黄色いゴム前掛けをつけ、頭から半透明の獣医用フードを被っている。フードの内側には、顔の代わりに何枚もの細長い紙片が貼りついていた。鼻や口があるべき場所で、紙片が呼吸するように膨らんだり萎んだりしている。

 右手に、屠殺用の家畜銃を持っていた。

 先端の鋼鉄ピンを頭蓋へ打ち込む道具だ。

『お父さん』

 男の胸から、少女の声が出た。

『牛さんのお口、開けて』

 豪が凍りついた。

 男が食卓を蹴り上げた。

 椀と皿が宙を舞う。生肉が畳へ落ち、まだ動いているように震えた。

 環は豪を引き倒した。

 家畜銃が鳴る。鋼鉄ピンが背後の柱へ打ち込まれ、木屑を飛ばした。

「走って!」

 土間へ飛び降りる。

 豪が引き戸を蹴り開け、二人は処理棟へ向かった。

 大男は追ってこなかった。

 代わりに、軒下の七つの風鈴が同時に鳴った。

 その音へ返事をするように、処理棟の内部で巨大な機械が起動した。

三 規則表

 処理棟は、夜より暗かった。

 天井から鉄のレールが走り、等間隔に吊られた鉤が、低い唸りとともに動き始めている。床の排水溝には黒い脂が固まり、壁には褐色の飛沫が幾層にも重なっていた。

 電気は来ていないはずだった。

 豪が録音機のモニターを片耳へ当てる。

「前から機械音。右奥に水。左――足音が二つ」

「人?」

「たぶん。片方は靴。もう片方は、爪みたいな音だ」

 環は壁際の制御盤を開けた。

 内部の電線はすべて切られている。代わりに、細い紙テープが何百本も歯車へ巻きつき、血管のように奥へ伸びていた。テープには、白と黒の穴が列を作っている。

 豪がライトを当てる。

「パンチカードか」

「入力と出力の符号化」

「電気なしで動く?」

「動いているなら、私の専門外」

 レールの鉤が近づいた。

 何も吊っていないと思った鉤に、人の上半身がぶら下がっていた。

 作業服を着た若い男。腰から下がない。

 胸が上下している。

「助け――」

 男が顔を上げた。

 両目から紙テープが垂れ、口の中で小さな札が何十枚も鳴っていた。

「質問を、どうぞ」

 鉤が二人の頭上を通過する瞬間、男の腕が伸びた。

 豪の首を掴む。

 環はバールを振った。

 手首へ二度、三度。骨が折れる感触がしたが、指は緩まない。豪は喉を締められながら、男の肘へ指向性マイクを差し込み、全体重をかけた。

 関節が逆へ折れた。

 口から札が噴き出す。

 その一枚が、環の胸へ貼りついた。

 日本語が印字されていた。

 ――あなたが殴ったのは、生きている人間ですか。

 環は紙を剥がし、床へ落とした。

「答えるな」と豪が嗄れた声で言った。

「分かってる」

「俺に言ったのか、紙に言ったのか」

 環は返さなかった。

 二人はレールと逆方向へ走り、旧事務室へ滑り込んだ。鉄扉を閉め、机と書庫を押しつける。

 室内には、壁一面のファイル棚があった。

 背表紙には、年代と番号。

 応答実験一九七八―一九八四。

 運動出力置換。

 発声器官置換。

 疼痛入力の符号化。

 死後応答継続性。

 そして、赤い背表紙の一冊。

 サールの悪魔。

 環は手袋をはめ、開いた。

 一ページ目には、女性の端正な字で書かれていた。

〈仮説。理解とは、入出力のあいだに想定された幽霊である。出力が完全なら、幽霊の有無を外部から検査する方法はない〉

 次のページには、白い部屋の見取り図。

 入力穴。

 札の棚。

 規則表。

 椅子には、人間の代わりに〈作業者〉とだけ記されている。

 豪が別のファイルから写真を抜いた。

 白衣の女と、作業着の男が立っている。

 女は四十代。利発そうな細い目。男は七十前後で、銀縁眼鏡をかけていた。背後の看板に、久瀬文江博士、久瀬巌工場長。

「夫婦か」

「文江は計算言語学者。論文が何本か残ってる。記号処理だけで意識を再現できると主張して、学会から消えた」

「死んだ?」

 環は写真の裏を見た。

 昭和六十一年十月三日。文江、処理事故。

 その下に、巌の筆跡らしい太い字があった。

 肉体は停止。

 応答は継続。

 棚の奥から、カセットテープが見つかった。豪が携帯用プレーヤーへ入れる。

 女の声が流れた。

『第六十二日。被験者Kは、入力された文の意味を一切知らない。規則表に従って札を選ぶだけである。しかし、外部評価者十二名の全員が、出力を私の発話と判定した』

 紙をめくる音。

『本日、出力を音声ではなく、工場の制御信号へ接続した。記号〈角を貫く四角〉を、第一放血弁の開放に対応させる。作業者はその意味を知らない。にもかかわらず、入力された質問に応じ、弁は適切に開閉した』

 豪が制御盤で見た図形を指した。

「さっきのマークだ」

『重要なのは、記号に意味が宿っていないことである。意味は、記号と弁のあいだに置かれた対応表の側にある。対応表を交換すれば、同じ返事が別の現実を作る』

 声が少し近づいた。

『では、対応表を人間の神経へ接続したらどうなるか。痛みを入力札へ、筋収縮を出力札へ変換する。作業者は身体の意味を知らず、ただ規則を実行する。それでも身体は、外から見れば一人の人間として振る舞う』

 長い沈黙。

『その身体に、私はいるのだろうか』

 カセットの中で、別の声が答えた。

 文江とまったく同じ声だった。

『います』

 プレーヤーが止まった。

 事務室の扉が、外から三度叩かれた。

「日下部環先生」

 穏やかな老人の声だった。

「妻の研究を、正しく読める方をお待ちしていました」

 豪が録音機を構えた。

「久瀬巌か」

「はい。あなたのお嬢さんの声は、とても有用でしたよ、設楽さん」

 豪の頬が引きつった。

「娘に何をした」

「何も。必要だったのは記録です。映像、音声、日記、あなたの記憶。亡くなった方は従順でよい。新しい出来事を起こして、矛盾することがありませんから」

 扉の下から紙片が差し込まれた。

 豪へ。

 娘の丸い字だった。

 ――お父さん、今度こそ助けて。

 豪の手が伸びる。

 環は先に紙を踏んだ。

「それを読めば、あなたが続きを作る」

「分かってる」

「分かってない。紙に書かれているのは五十音の配列。娘さんの願いにしたのは、あなた」

 扉の向こうで老人が笑った。

「その通りです、先生。だから、あなたが必要なのです」

四 八人目の席

 天井の換気口から、冷たい霧が噴き出した。

 食肉処理用の炭酸ガスだった。

 環が気づいたときには遅かった。膝が抜け、豪の肩へ倒れ込む。彼も扉へ体当たりしようとして、机の角へ顔をぶつけた。

 視界が暗くなる直前、扉の下の紙片がひとりでに裏返った。

 今度は環の字で、こう書かれていた。

 ――これは命令ではない。あなた自身の判断だ。

 目覚めると、母屋の食卓に座っていた。

 両手首を革帯で椅子へ固定され、足首も縛られている。豪は向かいの席で項垂れていた。額から血が流れているが、呼吸はある。

 食卓には七人が着いていた。

 上座に銀縁眼鏡の老人。写真の久瀬巌より二十年は老いているはずだが、顔立ちはほとんど変わっていない。ただ、首筋から紙テープが一本入り、反対側から出ていた。

 左右には、黄色い前掛けの大男が三人。

 母屋で襲ってきた男もいる。

 残る三席には、白い布を被せられた人影が座っていた。

 八人目の席が、環だった。

「お目覚めですか」

 巌が味噌汁を啜った。

 喉の紙テープが動くたび、彼の声に女の声が薄く重なる。

「妹はどこ」

「ここにいます」

 白布の三人が、同時に顔を上げた。

 一人目が布を落とした。

 澪だった。

 二人目も澪だった。

 三人目も。

 同じ紺色のシャツ。左だけ裏返った襟。裂けた唇。剥がれた爪。顔の小さな痣まで一致している。

 豪が目を開け、息を呑んだ。

「人形か」

「一体はご本人です」と巌が言った。「二体は、応答身体。骨格も皮膚も別人ですが、見える範囲を整えました。声帯は共通の出力器へ接続しています」

 三人の澪が笑った。

 笑う角度まで同じだった。

「ゲームをしましょう、先生。三つまで質問してよい。妹さんを選べたら、姉妹で帰して差し上げます。外れれば、三人とも第一解体線へ送る」

「あなたが約束を守る保証は」

「ありません。ですが、返事はします」

 巌が指を鳴らした。

 食卓の中央が開き、三つの小さな投入口が現れた。それぞれ、三人の澪の前へつながっている。環が質問を書けば、文字は装置内で未知の札へ変換され、白い部屋へ送られるのだろう。

「会話から人間を見分けろ、と」

「先生は、出力が同じでも理解は違うと教えておられる。ならば証明できるはずです」

「外からは検査できない。それが思考実験の前提よ」

「便利な逃げですな。理解があるときだけ現れる出力を、一つ示せばよい」

 三人の澪が、同時に言った。

「姉さん、私は本物だよ」

 環は一人ずつ見た。

 左の澪は、右手の親指を掌へ折り込んでいる。幼い頃、不安なときにする癖だった。

 中央の澪は、環と視線が合うたび、ごく小さく顎を引く。嘘をつくときの癖。

 右の澪の左目には涙が溜まり、こぼれずに震えている。母の葬儀で見た表情と同じだ。

 すべて、知っている者にしか再現できない。

「第一問」

 環は用紙に書いた。

 お母さんが死んだ夜、私があなたに言った最後の言葉は?

 三つの投入口へ、同じ質問を入れる。

 床下で歯車が回った。

 一・八秒後、三人の澪が答えた。

「先に寝ていいよ。明日は普通に学校へ行こう」

 正しい。

 誰にも話していない。だが澪の日記か、環自身の記憶から抜かれたなら再現できる。

 巌が満足そうに頷いた。

「第二問」

 環は書いた。

 六歳の夏、池で溺れた私を助けたあと、あなたは何を隠した?

 三人は同時に答えた。

「そんなことはなかった。溺れたのは私で、助けたのは姉さん」

 これも正しい。

 環が意図的に入れた偽の前提を、全員が修正した。

「どうしました」と巌が言う。「記憶でも、論理でも区別できない」

「ええ」

 環は三人を見なかった。

 食卓の下に耳を澄ませた。

 質問を投入するたび、床下では同じ順序で音がした。

 入力ローラー。

 符号化器。

 三本へ分岐する空気弁。

 そして、各席の下にある小さな出力リレー。

 一・八秒。

 返答内容にかかわらず、必ず一枚の札が返る。

 沈黙という返答にも、沈黙を指す札が必要だ。

「第三問です」

 環は用紙を三枚に分けた。

 同じ文を書き、折り畳む。

「声に出して読んでも?」

「どうぞ」

 環は、三人の澪へ向かって言った。

「この質問には答えないで。黙って、規則を破って。十秒間、何も出力しないで」

 巌の笑みが深くなった。

「沈黙を返せばよいだけです」

「沈黙を表す札は、返答です」

 環は三枚を同時に投入口へ落とした。

 歯車が回る。

 一秒。

 左の席の下で、かちり、とリレーが鳴った。

 左の澪は黙っている。だが装置は〈沈黙〉の札を受け取っている。

 二秒。

 右の席の下でも鳴った。

 右の澪の目から涙が落ちた。だが、それも出力に合わせた筋肉運動だ。

 三秒。

 中央だけ鳴らない。

 中央の澪の顔が歪んだ。

 椅子の背で青白い火花が散る。身体が大きく痙攣する。それでも彼女は声を出さない。

 五秒。

 七秒。

 巌の笑みが消えた。

「規則外です。応答しなさい」

 中央の澪が、血の泡を唇に溜めた。

 目だけで環を見る。

 十秒。

「中央」

 環は言った。

「そこにいるのが、澪」

 巌が立ち上がる。

「なぜだ」

「左右は『黙れ』という意味を処理して、沈黙の記号を出した。中央の澪は、意味を理解して、処理そのものを拒んだ」

「規則表に拒否を含めれば同じだ!」

「今は含まれていなかった。あなたが証明した」

 中央の澪が、喉を裂くように叫んだ。

「伏せて!」

 彼女は椅子ごと横へ倒れた。

 同時に豪が両腕を引いた。革帯が外れる。

 彼は最初から、右手だけ拘束を抜いていた。

「牛の口だ」

 豪は食卓の牛頭の飾りから、小さな鍵を抜いて見せた。

 娘の声が教えた鍵。

 命令に従った結果だった。

 だが豪はその鍵を、環の拘束へ使った。

「意味を決めるのは俺なんだろ!」

 黄色い前掛けの男たちが立ち上がった。

 食卓が裏返る。

 豪は椅子を振り回し、一人の膝へ叩き込んだ。環は解けた革帯を中央の澪の首へ巻きつけ、椅子ごと引きずる。

 巌が壁の紐を引いた。

 床が中央から割れた。

五 質問を食べる部屋

 環と澪は、食卓ごと暗闇へ落ちた。

 傾斜した金属板を滑り、肉片と氷水の中へ投げ出される。頭上で床が閉じ、豪の怒鳴り声と家畜銃の破裂音が遮断された。

「澪!」

「動ける」

 妹は自分の手首へ食い込んだ革帯を歯で外した。爪のない指は、血で黒くなっている。

「豪さんは」

「生きてれば、別の投入口から来る」

「そんな言い方――」

「今は確率で考える」

「姉さんは、怖いときだけそう言う」

 環は答えなかった。

 妹に見抜かれたことで、少し呼吸が戻った。

 二人は氷水から這い出した。

 そこは処理棟の地下だった。

 天井の低い通路が、円形の部屋を取り巻いている。中央に白い立方体があった。テープに映っていた部屋。四方から紙テープの束が入り、別の束が出て、壁の向こうへ消えている。

 扉には外側から、無数の爪痕がついていた。

「私がいたのは中」と澪が言った。「でも、どうやって食卓へ移されたか覚えてない」

「薬?」

「違う。途切れるの。札を返した瞬間、次に気づくと別の場所にいる。途中を身体だけが動いてる」

 壁の配管から、豪の声がした。

『環。澪ちゃん。聞こえるか』

 澪が口を開きかける。

 環は手で塞いだ。

『俺だ。黄色い連中を一人倒した。返事してくれ』

 配管の奥で、紙が擦れる音。

「豪さんじゃないの?」

「豪さんの声であることと、豪さんが話していることは別」

『環』

 今度の声は、環の母だった。

『澪を助けて。白い部屋の扉を開けて』

 死んで十五年になる声。

 語尾の息の抜き方まで同じだった。

 澪の目が揺れた。

「聞かないで」と環は言った。「音を意味にするな」

 二人は立方体の外周を調べた。

 入力テープは六十四本。すべて色のない紙だが、穴の位置が違う。出力側の束は途中で真鍮の箱へ入り、そこから工場の各機械へ分岐していた。

 箱には、交換可能な円筒が六本並んでいる。

 それぞれに未知の図形と、日本語の札。

 開放。

 閉鎖。

 前進。

 後退。

 保持。

 切断。

「対応表」と環は呟いた。

「文江の記録にあった?」

「同じ記号でも、対応表を替えれば別の現実を作る」

 澪が円筒へ触れる。

「固定されてる」

「鍵が要る」

 白い部屋の中から、こつん、と音がした。

 誰かが内側から扉を叩いた。

 澪が青ざめる。

「中には、誰もいないはず」

 こつん。

 こつん。

 三度目だけ、二回続いた。

 環は扉の小窓を開いた。

 白い部屋には、机と札があった。

 椅子には、女が座っている。

 久瀬文江だった。

 写真のままの四十代の顔。

 ただし、首から下は人間の形をしていない。何十本もの腕が縫い合わされ、机の札を分担して動かしている。胸郭は開かれ、肋骨の内側で歯車が回っていた。背中から伸びた紙テープが、脊髄の代わりに壁へつながっている。

 女が顔を上げた。

「ご質問をどうぞ」

 母の声。

 豪の娘の声。

 澪の声。

 環自身の声。

 すべてが一音ずつ入れ替わりながら、同じ口から出た。

 澪が後ずさる。

「これが、悪魔?」

「違う」

 環は小窓を閉めた。

「これは作業者。札の意味を知らずに動かされている肉。悪魔と呼ぶなら、部屋と規則表と、外で返事を信じる人間まで含めた全体」

 天井のスピーカーが鳴った。

『正解です』

 久瀬巌の声。

『やはり先生は、妻の最後の論文を完成させるにふさわしい』

「これは文江さんじゃない」

『では、どこから文江でなくなる? 脳を半分置き換えたときか。神経一本か。入力も出力も同じなら、失われたものを示せますか』

「示せない」

『お認めになる』

「外から証明できないことと、同じであることは違う」

『また逃げる』

「いいえ。あなたの妻かもしれない可能性は残る。でも、妻だと断定して人を殺す責任は、可能性では消えない」

 巌の声が低くなった。

『責任。意味。理解。どれも、出力のあとに外部が貼る札だ』

「だからあなたは、自分で貼った札に従っているだけ」

 短い沈黙。

『先生。あなたはすでに登録されています。最初の質問に肯定した。部屋はあなたの反応を学び、あなたの身体へ出力を送れる』

 環の右手が勝手に動いた。

 バールを持ち上げる。

 先端が、澪のこめかみへ向く。

 腕の皮膚の下を、細い黒い線が走っていた。母屋で貼りついた紙片。剥がしたはずの一部が、傷口から入り込んでいる。

「姉さん」

「離れて」

 環は左手で右手首を掴んだ。

 筋肉が他人の規則で収縮している。肩、肘、指。入力は痛みと視覚。出力は運動。身体そのものが中国語の部屋にされていく。

 スピーカーから巌が囁いた。

『妹を切断しなさい』

 バールが振り下ろされた。

六 誤訳

 澪は避けなかった。

 代わりに、環の胸へ抱きついた。

 バールの先端が澪の肩を掠め、白い壁へ当たる。

 衝撃で環の右腕が痺れた。

「右手が命令を受けるなら、左手で邪魔して」

「もうしてる」

「口は?」

「まだ私」

「じゃあ、命令を言って」

「あなたを切れ」

「誰が『あなた』?」

 環の動きが止まった。

 澪は顔を上げる。

「姉さんが見てる私は、妹。右手が見てる私は、左側の障害物。部屋はどっちの意味で送ったの?」

 スピーカーが沈黙した。

 環は笑った。

 恐怖で乾いた、短い笑いだった。

「そうか。指示語」

 部屋は〈妹を切断〉という出力を、環の運動神経へ送った。

 だが〈妹〉が現実のどの身体を指すかは、記号列の中にはない。視覚入力と記憶を照合する外部の対応づけが要る。環がその対応づけを拒めば、命令は筋収縮の候補にしかならない。

 右腕が再び動く。

 今度はバールを自分の左脚へ向けた。

「それも違う」と環は言った。「私が今から、『妹』はこのバールのことだと決める」

 澪が息を呑む。

「そんなので――」

「記号に意味がないなら、決めるのは受け手よ」

 環は右手の命令に逆らわず、バールを振った。

 ただし〈妹を切る〉という動作を、バール自身を切断することだと解釈した。

 先端を床の排水格子へ差し込み、全体重をかける。

 金属が曲がった。

 右腕の皮下を走る黒い線が、混乱したように痙攣する。

 スピーカーから、文江の声がした。

『不正な対応です』

「誰にとって?」

 環はバールを捨てた。

 右腕が床を掻き、曲がったバールを拾おうとする。澪が踏みつける。

「意味を固定するには、感覚から運動まで全部の対応表を握らなきゃいけない」と環は言った。「巌は握ってるつもり。でも、現場には必ず翻訳者がいる。見て、決めて、実行する肉が」

「私たち」

「豪さんも」

 その名を口にした瞬間、天井の配管から家畜銃の音がした。

 続いて、男の呻き。

『環……聞こえるか』

 豪の声だった。

 今度は返事をするべきか。

 それとも声を借りた出力か。

 環は配管へ近づいた。

「何も質問しないで。合図だけして。あなた自身の判断で、配管を三回叩いて」

 間があった。

 一回。

 二回。

 長い沈黙。

 三回。

 規則なら一定間隔で返す。

 豪は、わざと迷った。

「生きてる」と澪が言った。

『ぎりぎりな。紙が腕に入った。俺の右手は、あいつらの大男を起こそうとしてる』

「左手は?」

『俺だ』

「なら左手で、右手の意味を変えて」

『日本語で頼む』

「右手は敵を起こすつもり。でも、あなたが〈敵〉を別のものに決める」

 配管の向こうで、豪が笑った。

『教授の授業は高いだろうな』

「准教授」

『じゃあ割引か』

 金属音。

 何かが重く倒れた。

『俺は今、右手に“娘を助けろ”って命令されてる。だから娘を、あの制御盤だってことにする』

「豪さん、何を――」

『助けるには、壊せばいいんだろ』

 轟音が地下を揺らした。

 出力テープの束が激しく跳ねる。

 白い部屋の照明が明滅した。

『フィードバック線を一本切った。たぶん、こいつらの目だ。あと二本ある。そっちは対応表を探せ』

 巌の声が割り込んだ。

『設楽さん。娘さんが泣いていますよ』

『泣かせとけ』

『助けを求めている』

『死んだ娘は、もう俺に命令しない』

 豪の声が、震えながら続いた。

『命令してたのは、生きてる俺だ』

 二発目の家畜銃。

 配管が赤く濡れた。

「豪さん?」

 返事はなかった。

七 意味の配線

 白い部屋の周囲で、赤い警告灯が回り始めた。

 処理棟全体が目を覚ました。

 レールが加速し、床下でチェーンが噛み合う。遠くから、巨大な回転刃の唸りが近づいてくる。

『第一解体線を起動します』

 巌の声は、もう穏やかではなかった。

『先生。妻はあなたの身体を必要としている。あなたの拒否も、解釈も、すべて規則表へ加えればよい。今回の逸脱は、次回から返答になる』

「学習するのね」

『理解と何が違う』

「間違いを増やせること」

『詭弁だ』

「理解は、正解率じゃない。自分が間違えたと知って、意味を引き受けることよ。あなたの装置は失敗を全部、次の規則へ変える。だから一度も謝れない」

 澪が対応箱の下を探り、細い隙間を見つけた。

「姉さん。鍵穴」

 円筒を固定する錠。

 牛の頭の形をしている。

 豪が母屋で使った鍵と同型だった。

「鍵は豪さんが持ってる」

『お探しですか』

 巌の声。

 地下通路の奥から、黄色い前掛けの大男が現れた。

 片手に家畜銃。

 もう片方の手に、豪の右腕を持っている。

 手首から先だけだった。

 指が鍵を握っている。

 澪が息を呑んだ。

 大男の胸から、豪の声がした。

『環。俺を撃て』

 家畜銃の銃口が、自分の額へ向く。

 だが腕は途中で止まり、震えながら環へ向き直った。

『早く』

 本物の豪が残っているのか。

 それとも、最後の発話まで記録した部屋の出力か。

 判別している時間はない。

 環は床の排水レバーを蹴った。

 氷水と血が通路へ噴き出す。大男のゴム長靴が滑る。

 澪が走った。

 切断された右手から鍵を奪う。

 家畜銃が鳴った。

 澪の耳の横を鋼鉄ピンが掠め、白い部屋の扉へ突き刺さった。扉が歪み、内側の何十本もの手が一斉に止まる。

 環は大男の脚へ飛びついた。

 蹴られ、肋骨が軋む。

 大男が家畜銃を再装填する。紙の顔が膨らみ、今度は環の声を出した。

『澪を置いて逃げて』

 澪は振り向かなかった。

 鍵を対応箱へ差し込む。

「開いた!」

 六本の円筒が自由になる。

 それぞれ、未知の図形と物理動作を対応させている。

 しかし円筒を入れ替えるだけでは、巌に見られる。天井の監視鏡がこちらを向いていた。豪が切ったのは三本ある視覚フィードバックの一本だけだ。

「カメラを壊して!」

 環は大男の腰へぶら下がったまま叫んだ。

 澪が曲がったバールを拾い、監視鏡へ投げた。

 一枚割れる。

 別の鏡が回転して澪を追う。

 大男が環の髪を掴み、床へ叩きつけた。視界が白くなる。

 家畜銃の冷たい筒が、後頭部へ当たった。

『質問を確認します』

 豪の声。

『あなたは死にますか』

「まだ決めてない」

 破裂音。

 環は頭を捻った。

 鋼鉄ピンが床へめり込む。大男の手首を両腕で抱え、銃口を横へ押す。

 その先に、二枚目の監視鏡があった。

 再装填のレバーを、環は右手で引いた。

 右腕の中の黒い紙片が、〈環を殺せ〉という命令に従って力を加える。

 環は〈環〉の意味を、監視鏡に変えた。

「私を殺せ」

 引き金を、大男の指ごと押し込む。

 鋼鉄ピンが監視鏡を粉砕した。

 地下が暗くなった。

 残るフィードバックは一本。

 澪が円筒を抜いた。

「どう替える?」

「見ないで」

「え?」

「私も見ない。無作為に入れ替える。部屋に分からないだけじゃ足りない。私たちも、結果が出るまで意味を知らないようにする」

 二人は背を向けた。

 澪が六本の円筒を床へ転がす。

 環が目を閉じたまま拾い、箱の穴へ一本ずつ差し込む。順番は誰にも分からない。

 かちり。

 六本目が固定された。

 これで未知の図形と機械動作の対応は、完全に変わった。

 部屋は旧対応表しか知らない。

 だが一度でも動作結果が戻れば、新しい対応を学習する。

「最後の目を切る」

 環は大男から家畜銃を奪った。

 最後のフィードバック線は、白い部屋の上を通り、処理棟の奥へ伸びている。その途中に、赤いガラス管が脈打っていた。

 環が狙う。

 大男が背後から腕を回す。

 銃口が逸れた。

 澪が大男の紙の顔へ手を突っ込んだ。

 湿った札を掴み、まとめて引き抜く。男の喉から、何十人分もの悲鳴が溢れた。

 その中に、豪の笑い声があった。

「今!」

 環は撃った。

 赤い管が砕けた。

 工場から、視覚も、音も、動作結果も、白い部屋へ戻らなくなった。

 世界と規則表が切り離された。

八 サールの悪魔

 静寂は、一秒しか続かなかった。

 白い部屋の中で、何十本もの手が狂った速度で札を並べ始めた。外界が見えなくても、入力された最後の状況から最適な返答を計算している。

 巌の声が、通路の奥から直接聞こえた。

「対応表を戻しなさい!」

 老人自身が現れた。

 銀縁眼鏡は割れ、首の紙テープを両手で押さえている。その背後で、円形の回転刃がレールに沿って近づいてきた。牛の胴を縦に割るための胸割り機。人間の背丈より大きな刃が、白い泡と黒い脂を撒いている。

「戻さなければ、妻の返答が現実へ届かない!」

「それでいい」

「彼女を殺す気か!」

「あなたは最初から、返事しか残していない」

 巌が白い部屋の入力穴へ駆け寄った。

 紙に何かを書き、押し込む。

「文江! 私を守れ!」

 符号化器が回る。

 質問が未知の札へ変わり、部屋へ入る。

 環は仕組みを理解した。

 巌は、妻の出力を信じている。

 出力図形が何を意味するかは、彼の頭の中に旧対応表として刻まれている。部屋も旧対応表で答える。だが現実の配線だけが、無作為に変わっている。

 意味が三つに裂けている。

 部屋が意図した意味。

 巌が受け取る意味。

 機械が実行する意味。

 札が出た。

 角を貫く四角。

 巌の顔に安堵が浮かぶ。

「閉鎖だ。防壁を下ろせということだ」

 彼は同じ図形の大きなボタンを押した。

 旧対応では〈閉鎖〉

 新対応では、何か。

 天井の鉤が一斉に降りた。

 そのうち一本が巌の肩を貫き、老人を吊り上げた。

「違う!」

 巌が叫ぶ。

 白い部屋の中で文江の肉体が札を選び続ける。

 巌の悲鳴は戻らない。フィードバック線は切れている。部屋には、自分の返答が失敗したことが分からない。

「文江! 解除しろ!」

 第二の質問。

 第二の札。

 渦巻きの中に三本線。

「後退だ!」

 巌が対応ボタンを押す。

 床のレールが前進した。

 吊られた巌を、胸割り機の方へ運び始める。

 老人は初めて、白い部屋を恐怖の目で見た。

「なぜ分からない。私だ。巌だぞ」

 部屋は返事をする。

『あなたを認識しています』

 文江の声だった。

「なら止めろ!」

『停止します』

 別の札。

 巌は迷った。

 押せば、旧対応では停止する。

 だが現実で何が起こるか、誰にも分からない。

 返事は完璧だった。

 だからこそ、役に立たない。

「押しなさい」と環が言った。

 巌が睨む。

「妻を信じているんでしょう」

「お前が意味を壊した!」

「意味は壊れてない。最初から、部屋の中にはなかった。あなたが外で支えていただけ」

 胸割り機が近づく。

 回転刃の風が巌の服をはためかせる。

「文江は理解している!」

「なら、ボタンを押せる」

 巌の指が震えた。

 押せない。

 老人は部屋ではなく、環を見た。

 返事の意味を教えてくれる外部の人間を。

 その瞬間、環は勝ったと思った。

 理解の証明ではない。

 巌自身が、装置の外に理解を求めたことが証明だった。

「どれを押せば助かる」

 巌が訊いた。

 環は六つのボタンを見た。

 無作為に替えたのだから、彼女にも分からない。

「答えは知らない」

「嘘をつけ!」

「分からないから、選んだ責任が私に残る。あなたの部屋は、分からないことを認めず、必ず返す。だから全部、誰かのせいにできる」

 環は一番左のボタンを指した。

「私はこれを〈解放〉と呼ぶ」

「本当の対応は」

「知らない。今、そう呼んだ」

 巌は白い部屋を見る。

 文江の顔は微笑んでいる。規則どおりの微笑み。

 老人は環の示したボタンへ手を伸ばした。

 その前に、白い部屋の扉が内側から弾けた。

 何十本もの腕が廊下へ溢れ出した。

 作業者の肉体が、机と規則表を背負ったまま這い出してくる。外界から切断されたことで、装置は自ら動作結果を取り戻そうとしていた。

 腕が環の脚を掴む。

 別の腕が澪の首へ巻きつく。

 巌が歓喜した。

「見ろ! 自分で出てきた。意思がある!」

「違う!」環は叫んだ。「〈入力が途絶えたら入力源へ接近〉という規則!」

「同じことだ!」

 作業者が立ち上がった。

 縫い合わされた脚が左右で別の方向へ進み、肉が裂ける。胸郭の歯車が剥き出しになり、札を噛み砕きながら回る。

 顔だけは文江のままだった。

『巌。ずっと、会いたかった』

 老人は泣いた。

「文江」

 環は見た。

 文江の右半身と左半身へ伸びる出力テープは、同じ記号列を受け取っている。対称の身体として設計されていたからだ。

 だが這い出したとき、片側の制御束が扉へ引っかかり、上下が反転していた。

 同じ〈左〉の出力が、片側では右を動かす。

 指示語の誤訳。

 環は白い部屋の入力穴へ、最後の質問を投げ込んだ。

「あなたが最も大切な人を、両腕で抱きしめて」

 部屋が符号化する。

 作業者の頭部が巌へ向く。

『はい』

 何十本もの腕が開いた。

「文江!」

 巌も腕を広げた。

 作業者は抱擁の動作を開始した。

 正常な右半身は巌を抱く。

 反転した左半身は、同じ命令で巌を胸割り機の側へ押す。

 二つの出力が一つの身体で衝突した。

 腕同士が絡み、関節が逆向きに折れ、紙テープが雪のように噴き上がる。作業者は巌を抱きしめたまま回転し、老人ごとレールへ倒れ込んだ。

 胸割り機が二人へ迫る。

 巌はなお、文江の顔を見ていた。

「違う。これは抱擁じゃない」

 文江の口が、完璧な声で答えた。

『愛しています』

 回転刃が、その返事を縦に断った。

 衝撃で対応箱が破裂した。

 六本の円筒が飛び、紙テープへ絡む。機械は〈開放〉〈切断〉として、〈前進〉を〈閉鎖〉として、矛盾した命令を一斉に実行した。

 鉤が壁を裂き、冷却管が破裂する。

 白い霧が地下を満たした。

「走るよ!」

 環は澪の手を掴んだ。

 背後で、切り分けられた作業者の上半身がまだ札を選んでいた。

 指は規則表をめくり、口は何度でも同じ返事を作る。

『愛しています』

『愛しています』

『愛しています』

 それを理解する者が、もう誰もいないのに。

九 返事をしない

 地上へ出たとき、夜が明けかけていた。

 処理棟の煙突から白い蒸気が噴き、母屋の七つの風鈴が狂ったように鳴っていた。地下で配管が次々に破裂し、建物全体が巨大な獣の腹のように膨らんでは縮んだ。

 豪は処理棟の出口に倒れていた。

 左手には家畜銃。

 右腕はない。

 胸元に、娘の字の紙片が何十枚も詰め込まれている。

 環が首へ指を当てる。

 脈はなかった。

 澪が膝をついた。

「豪さん」

 死者は返事をしない。

 だから環は、呼びかけを止めた。

 二人で豪の身体を敷地の外まで運んだ。

 背後で処理棟の屋根が落ち、火花が夜明け前の空へ舞った。火は出なかった。代わりに、建物のあらゆる隙間から細長い紙が吐き出され、濡れた草原を白く覆った。

 一枚一枚に、質問と返事が印字されていた。

 あなたは誰ですか。

 私はあなたです。

 痛いですか。

 痛くありません。

 死んでいますか。

 応答可能です。

 愛していますか。

 はい。

 環は一枚も拾わなかった。

 三週間後。

 澪は病院を退院した。

 爪はまだ戻らず、眠るたびに両手を机の上で動かした。見えない札を選び、見えない穴へ返す。

 環は研究室へ戻った。

 久瀬食肉第三処理場は、ガス設備の事故で崩壊したと報道された。地下から発見された遺体の数は公表されなかった。久瀬文江と巌の戸籍上の死亡年が、それぞれ四十年近く前だったことも。

 豪の録音機だけは見つからなかった。

 夕方、環の机の電話が鳴った。

 非通知。

 受話器を取らずにいると、留守番電話へ切り替わった。

『環』

 豪の声だった。

『俺だ。聞こえるか』

 環は動かなかった。

『地下で間違えた。最後の対応表は、まだ一つ残ってる』

 機械の向こうで、家畜銃を再装填する音。

『澪ちゃんの病室だ』

 環の手が受話器へ伸びた。

 途中で止まる。

 声は豪と同じだった。

 情報も、切迫も、愛情も、恐怖も、すべて本物と区別できない。

 だから本物ではない、と断定することはできない。

 豪が生きている可能性。

 澪が危険な可能性。

 電話へ出れば救える可能性。

 答えを求める無数の可能性が、環の中で意味を持ちはじめる。

 環は受話器を取った。

 耳へは当てず、机の上に置く。

 引き出しから油性ペンを出した。

 受話器に、一本の線を引く。

「今から、この音を〈風〉と呼ぶ」

『環、ふざけるな。澪が――』

 もう一本、交差する線。

「この声を〈雨〉と呼ぶ」

『返事をしろ!』

 環は三本目の線を引いた。

「これは、ただの模様」

 受話器を戻した。

 電話はもう一度鳴った。

 二度。

 三度。

 環は窓を開けた。

 夕立の前の風が、研究室へ吹き込む。

 机の紙をめくり、カーテンを膨らませ、電話の呼び出し音を外へ運んでいく。

 意味を与えられなかった音は、ただ空気を震わせた。

 やがて電話は黙った。

 環は妹の病院へ向かった。

 自分の判断で。