逆さ星沼の九枚絵
一 錆鐘横丁の青い札
空に月が二つある世界でも、立ち退きの札は一枚で十分だった。
その朝、リーヴァ港の役人は、錆鐘横丁の入口に青い札を打ちつけた。錆びた鐘楼の影で、金槌の音が三度鳴った。
――七日後、この一帯を閉鎖し、飛空艇用の荷揚げ場を建設する。
――未払いの地代は、建物および家財の差し押さえによって精算する。
役人が去ると、横丁の大人たちは札の前に集まり、ため息と怒鳴り声を半分ずつ吐いた。パン屋の窯も、鍵屋の看板も、屋根の上を渡る洗濯綱も、七日後にはきれいさっぱり消えるという。
「きれいさっぱり、だってさ」
十四歳のヘリュエは、屋根の樋からぶら下がったまま札を読んだ。配達帰りで、片手には空の革鞄、もう片方には昨日から鳴らない目覚まし時計を持っていた。
「役所の言う『きれい』は、たいてい誰かの家がなくなるって意味よ」
隣の屋根で、キヴァレが髪留め代わりの針金を締め直した。彼女は鍵屋の娘で、十五歳にして横丁じゅうの錠前を、正規の鍵より早く開けられた。ただし本人は「修理」と呼び、周囲は「犯罪」と呼んだ。
煙突の陰から、パン屋の息子ヒグドが顔を出した。丸い頬に小麦粉がついている。
「うちの父ちゃん、今朝からパンを焦がしてる。焦げた分だけ怒ってる」
「それ、いつもと違うの?」
長い耳をしたティカが訊いた。十二歳の彼女は耳長族で、壁の中を走る鼠の足音と、嘘をつく人間の唾を飲む音を聞き分けられた。
「今日は怒りが二割増し。パンは三割黒い」
四人は錆鐘横丁の「梁裏団」だった。名の由来は、鐘楼の梁の裏に秘密基地があるからだ。秘密基地といっても、割れた椅子が二脚と、海賊旗のつもりで干した古い下着が一枚あるだけだった。
その日の夕方、彼らは基地で会議を開いた。
「七日じゃ、みんな引っ越し先なんて見つからない」キヴァレが言った。「地代を全部払えば、取り壊しは止められる。でも必要なのは金貨で三千枚」
「パン三十万個だな」とヒグド。
「おまえは何でもパンに換算するな」
ヘリュエは梁に背を預け、二つの月がのぼるのを見た。父親が生きていたころ、よく言っていたことがある。
港町には、三種類の宝がある。
海から来る宝、海へ逃げる宝、そして誰にも見つからないふりをしている宝だ。
父は海へ出たきり帰らなかった。だからヘリュエは、最後の言葉だけをまだ信じきれずにいた。
「宝を探そう」
三人が同時に彼を見た。
「熱でもある?」とキヴァレ。
「うちの薬草パンを食うか?」とヒグド。
「いま、下でヘリュエのおばさんが『あの子はまた馬鹿なことを考えてる』って言った」とティカ。
「考えてる。だけど今回は根拠もある」
ヘリュエは、目覚まし時計を持ち上げた。配達先だった古地図師セルゴの空き家は、翌朝取り壊される予定だった。時計はその屋根裏で見つけたものだ。
「これ、鳴らないんじゃない。逆さにすると鳴る」
時計をひっくり返すと、内部で小さく鈴が鳴った。底板が外れ、丸められた獣皮紙が一本、ぽとりと落ちた。
広げると、墨で描かれた湿原の地図が現れた。水路は蛇のように曲がり、黒い森の中央には、九つの窓を持つ家が描かれている。その下に、震える筆跡でこうあった。
逆さの星が水底に咲くところ、
雨の落ちぬ屋根を探せ。
九枚の絵には目をやるな。
星王の身代金は、その家の喉にある。
雨を連れて行け。
地図の端には、二本尾の魚の印があった。
「星王の身代金」ヒグドがつぶやいた。「金貨三千枚より多いかな」
「王を買い戻す金なら、横丁くらい買えるでしょ」とキヴァレ。
ティカは地図に耳を近づけた。
「紙の中で、何かが引っかいてる」
三人は黙った。
かり、かり、かり。
確かに、九つ窓の家のあたりから、爪で薄板を削るような音がしていた。
ヘリュエは地図を巻いた。
「明日の朝、逆さ星沼へ行く」
「行き方は?」とキヴァレ。
「知らない」
「沼の毒虫は?」
「知らない」
「九枚の絵って?」
「それも知らない」
キヴァレは長く息を吐いた。
「よし。そこまで見事に何も知らないなら、案内人が必要ね」
二 泥帽子のローク
逆さ星沼へ入る道を知る者は、港の酒場「三本脚のウナギ」にいる、と横丁の古老は言った。
翌朝、四人が酒場へ入ると、店内には船乗り、傭兵、香辛料商人、眠っている山羊が一頭いた。いちばん奥の卓には、見たこともないほど大きな男が座っていた。
男は葦で編んだ広いつばの帽子をかぶり、泥染めの外套をまとい、腰には短い山刀を下げていた。日に焼けた顔には細い傷が何本も走り、首には白い牙が一つ吊られている。
彼は銀の器に指を突っ込み、真剣な顔で匂いを嗅いでいた。
「それ、手を洗う水よ」とキヴァレが言った。
「そうか」
男は器を置いた。
「都会では飲み水を卓に置き、酒を瓶に閉じ込める。まだ慣れん」
店主が叫んだ。
「ローク! 昨日もその水を飲んだろ!」
「昨日は知らなかった。今日は確かめた」
男――ロークは四人を見た。目は淡い灰色で、笑っていないときも、何か面白いものを見つけたように細められていた。
「子どもが朝から酒場に来る理由は三つだ。迷子、使い走り、ろくでもない計画。おまえたちは三番目だな」
ヘリュエが地図を出すと、ロークの表情が消えた。
彼は地図の端にある二本尾の魚を指でなぞった。
「どこで見つけた」
「古地図師セルゴの家」
「セルゴは十八年前、逆さ星沼から一人で戻った。髪が真っ白になり、二度と絵を見なくなった。壁に掛けた皿まで伏せて暮らしたそうだ」
「二本尾の魚を知ってるの?」ティカが訊いた。
ロークは首の牙を握った。
「妹の印だ。エイナ。沼の道を読むのは俺よりうまかった。十八年前、セルゴと同じ隊で出て、帰らなかった」
酒場のざわめきが遠のいたように感じられた。
「案内してほしい」とヘリュエは言った。「宝があれば、横丁を救える。あなたは妹さんを探せる」
「十八年前の人間を、探すとは言わん」
ロークは地図を折り畳み、窓から差す光に透かした。
「ただし、骨を拾うことはできる」
「報酬は半分」とキヴァレ。
「いらん」
「じゃあ、何が欲しいの?」
「乾いた靴下を二足。それと、宝の中に帽子があったら最初に選ばせろ」
「帽子?」
「良い帽子は命を救う。王冠は頭を狙われるだけだ」
ヒグドが小声で言った。
「この人、信用できるかな」
ロークは聞こえていた。
「信用するな。沼では地図も案内人も嘘をつく。道が毎朝、勝手に引っ越すからな」
「じゃあ、何を信用すればいい?」ヘリュエが訊いた。
「自分の仲間が転ぶ音だ。聞こえたら、戻って引っ張れ」
ロークは立ち上がった。大人二人分ほどもある背丈だった。
「出るぞ。雨が来る。沼の雨は、降る前のほうが機嫌が悪い」
三 町の下の歯車道
逆さ星沼へ続く北門は、立ち退き騒ぎのせいで閉じられていた。横丁の住人が逃げ出さないよう、役人が見張っているのだ。
そこでキヴァレは、町の下を通る旧排水路を選んだ。
「これが近道?」ロークは、暗い縦穴を見下ろした。
「正確には、密輸業者が税関を避けるために造った道」
「都会人は、沼より深い穴を掘って、その中で悪事をするのか」
「便利でしょ」
「感心はしている。尊敬はしていない」
五人は縄梯子で地下へ降りた。
排水路は古い煉瓦造りで、ところどころに青銅の歯車が埋め込まれていた。百年前、この港を支配した歯車侯が造らせた仕掛けだ。密輸人を捕らえるため、床そのものが罠になっている。
最初の角で、ロークが立ち止まった。
「前に何かいる」
ヘリュエたちは息を呑んだ。
「どんな怪物?」
「鼠」
次の瞬間、犬ほど大きな白鼠が飛び出し、ヒグドの袋から硬パンを奪って走った。
「俺の昼飯!」
「命より大事か?」とローク。
「種類による!」
鼠を追ったヒグドが、床の銅板を踏んだ。
がちん。
壁の中で、巨大な何かが目を覚ました。前方の通路に鉄格子が落ち、後方からは、噛み合う鋼の歯がゆっくり迫ってきた。
「種類を決める時間はなさそうね!」キヴァレが叫んだ。
彼女は鉄格子の錠に取りついた。針金を差し込むが、鍵穴の中で複数の輪が回転している。
「九重錠。時間がかかる!」
ティカは壁に耳を当てた。
「右の壁に鎖が三本。上、下、真ん中。真ん中だけ音が違う!」
ヘリュエは煉瓦の隙間に指をかけ、壁をよじ登った。天井近くに小さな点検口がある。蓋を蹴り開けると、三本の鎖が見えた。
「どれだ!」
「真ん中!」
ヘリュエが鎖に飛びつく。体重で鎖が下がり、鉄格子が少し持ち上がった。だが歯車の壁は迫り続ける。
ロークが格子の下に肩を入れた。
「通れ!」
「おじさんは?」
「俺はまだ、おじさんと呼ばれるほど――」
歯が石を砕いた。
「議論は後!」
ヒグドが、鼠に奪われず残った硬パンを格子の隙間へ詰めた。昨日焼いた失敗作で、石より硬い。
格子がわずかに止まる。
キヴァレの針金が最後の輪を弾いた。
「開いた!」
全員が滑り込んだ直後、硬パンが粉砕され、格子と歯車が噛み合った。轟音が地下を揺らす。
暗闇の中、ロークがヒグドの肩を叩いた。
「良いパンだ」
「食べ物として?」
「建材として」
ヒグドは複雑な顔をした。
四 逆さ星沼
排水路を抜けると、世界は緑と黒になった。
逆さ星沼には、地上の星があった。黒い水の底に、青白い花が無数に咲いている。昼でも淡く光り、水面をのぞくと夜空が沈んでいるように見えた。
樹木は幹の途中から根を垂らし、空には透明な羽を持つ魚が泳いでいた。遠くで、腹の底に響く咆哮が鳴った。
「いまの何?」ティカがロークの外套をつかんだ。
「たぶん腹を空かせた顎背獣だ」
「たぶん?」
「満腹でも似た声を出す」
「危険なの?」
ロークは考えた。
「口を開けると危険だ。閉じるともっと危険だ。何もしていないときは、次にどちらをするか考えているから、やはり危険だ」
一行は、ロークが葦に刻む印を追って進んだ。
彼は泥を指で舐め、風の匂いを嗅ぎ、水面の虫に話しかけた。ヘリュエには、その半分が本物の知恵で、もう半分は子どもを怖がらせる冗談に思えた。
昼過ぎ、彼らの前に一本の倒木が現れた。沼を渡るのにちょうどよい橋だ。
ヘリュエが足を乗せようとすると、ロークが襟首をつかんだ。
「それは木じゃない」
倒木が目を開けた。
泥色の巨大な顎背獣が、水面からゆっくり顔を上げた。背中に苔と小木を生やし、六本の脚を持つ、沼の主だった。口の端から、ヘリュエの腕ほどある牙がのぞいている。
ヒグドが震えながら言った。
「戦う?」
「勝ちたいなら、戦わん」
ロークは袋から、小さな赤い実を一つ出した。指で潰し、顎背獣の鼻先へ投げる。
獣はくしゃみをした。
沼の水が噴水のように上がり、五人は頭から泥をかぶった。顎背獣は腹立たしげに鼻を鳴らし、別の水路へ泳ぎ去った。
「いまの実は?」キヴァレが訊いた。
「くしゃみ木の実」
「いつも効くの?」
「十回に九回」
「残り一回は?」
「走る。だから靴下は乾いているほうがいい」
日が傾くころ、雨雲が二つの月を隠した。
一行は、根が洞窟のように盛り上がった樹の下で休んだ。ヒグドが携帯窯で薄いパンを焼き、ティカが雨の音を数え、キヴァレが地図を調べた。
ヘリュエは、火の向こうに座るロークへ訊いた。
「妹さんは、どんな人だった?」
「地図が嫌いだった」
「地図師と旅したのに?」
「地図は世界を小さく描きすぎる、と言っていた。紙の上では一指の幅でも、実際には三日歩く。紙には虫も、雨も、腹痛も描かれない」
ロークは首の牙を外した。よく見ると、牙には二本尾の魚が刻まれている。
「エイナは、帰ったら俺に沼の外を見せると言った。俺は待っているうちに、沼の外へ出る歳になった」
「見つかるよ」とヘリュエは言った。
「慰めるな。希望は、夜の沼で焚く火と同じだ。暖かいが、余計なものまで寄ってくる」
それでもロークは、牙を握ったまま長いあいだ火を見ていた。
夜半、雨が降り始めた。
地図の上に落ちた一滴が、九つ窓の家の絵を避けて左右へ流れた。
五 雨の落ちぬ家
翌日の夕方、彼らは家を見つけた。
沼の中央、枯れた柳に囲まれた円形の空地に、三階建ての古い屋敷が立っていた。屋根は黒く、壁は濡れた骨のように白い。窓は九つ。どの窓にも、内側から墨を塗ったような闇が詰まっている。
空地の外では豪雨が沼を叩いていた。
だが屋敷の敷地には、一滴の雨も落ちていなかった。
屋根の上で、雨粒は見えない傘に当たり、四方へ滑り落ちている。
「帰ろう」とヒグドが言った。
「賛成」とキヴァレ。
「同意」とティカ。
ヘリュエも同じ気持ちだったが、口に出す前に、屋敷の扉が開いた。
中から、痩せた老人が現れた。
深緑の長衣を着て、髪は糸のように白い。顔の皮膚には、絵具のひび割れに似た細かな線が走っていた。笑うと、舌が青黒く染まっているのが見えた。
「お客人とは珍しい」
老人は両腕を広げた。
「私はイグン。この家の番をしております。雨の中を歩かれたのでしょう。どうぞ中へ。火も、食事もございます」
ロークは答えなかった。
屋敷の奥から、かり、かり、と音がした。
ティカの耳がぴんと立つ。
「絵筆の音」
老人の笑みが少しだけ深くなった。
「古い家です。鼠でしょう」
「鼠は毛のある筆を使わない」とティカ。
「耳の良いお嬢さんだ」
ロークは子どもたちを背にかばい、低く言った。
「一晩だけ世話になる。壁の絵には布をかけてくれ」
「絵がお嫌いで?」
「絵は、見る者より長生きする。長生きするものは、たいてい性格が悪い」
イグンは声を立てて笑った。
「まったく、その通りです」
玄関広間には、九枚の絵が掛かっていた。
いや、八枚だった。
九つ目の額には、真っ白な布だけが張られている。
ほかの絵は、黒い森、沈んだ塔、宴会、狩り、雪原、船、庭園、そしてこの屋敷そのものを描いていた。どれも古く、色が暗い。なのに人物の目だけは、塗ったばかりのように濡れていた。
ロークは帽子のつばを下げた。
「見るな」
ヘリュエは床だけを見て歩いた。
それでも、視界の端に一枚の絵が入った。
沼の岸に、七人の旅人が立っている。中央には古地図師セルゴらしき男。その隣には、二本尾の魚を刻んだ牙を首に下げた若い女がいた。
女の顔はロークによく似ていた。
瞬きをした次の瞬間、絵の中の女がこちらを向いた。
ヘリュエは息を呑み、目をそらした。
「食堂へどうぞ」とイグンが言った。「長い旅のお話を、ぜひ聞かせてください。私はお話が好きでしてね。とりわけ、まだ結末の決まっていないお話が」
六 記憶の食卓
食卓には豪華な料理が並んでいた。
銀色の魚、蜜をまとった果実、湯気の立つ肉、紫色のスープ。だが妙なことに、香りがしない。どれも絵の中から切り取って皿へ置いたように、完璧すぎる形をしていた。
「食うな」とロークが言った。
「毒ですか?」イグンは心外そうに眉を上げた。
「毒なら、腹が痛むだけで済む」
ヒグドは皿の上の赤い木の実を見つめていた。故郷でしか採れない、鈴苺だった。亡くなった母が、幼いころによく砂糖煮にしてくれたという。
「一個だけなら」
「ヒグド」
止めるより先に、彼は実を口へ入れた。
その顔から血の気が引いた。
「母ちゃん」
ヒグドは誰もいない椅子へ手を伸ばした。目には食堂ではない何かが映っている。
「窯の前にいる。歌ってる。あの日のままだ」
ロークがヒグドの顎をつかみ、頬を叩いた。ヒグドは実を吐き出した。
床に落ちた鈴苺は、赤い絵具の塊になって潰れた。
「味とは記憶です」とイグンが静かに言った。「舌は、過ぎ去った日々を呼び戻す小さな扉にすぎない」
「人の記憶を料理にしているの?」キヴァレが訊いた。
「保存しているのです。食べ物は腐り、人は死ぬ。けれど絵と記憶は、正しく扱えば永く残る」
雷が鳴った。
壁の宴会の絵が、一瞬だけ明るく照らされた。
長卓を囲む人々は、みな皿を見ていた。皿の上には、それぞれ自分自身の小さな肖像が載っている。人々は銀のナイフで、自分の顔を切り分けていた。
次の暗闇で、誰かが絵の中から笑った。
「寝室を用意しましょう」イグンは立ち上がった。「夜の沼を歩くのは危険です。朝になれば、宝探しの続きをなさればよい」
ヘリュエは驚いて彼を見た。
「宝のことを、なぜ知ってる?」
老人は、青黒い舌で唇を湿らせた。
「この家は喉が深い。昔から、いろいろなものを飲み込んできましたから」
七 帳面の中の人々
案内された寝室には、鏡も窓もなかった。
扉が閉まると、キヴァレはすぐ錠前を調べた。
「外から鍵をかけられた。開けられるけど、音がする」
「壁の中を通れる」とティカが言った。「空洞がある。絵筆の音も、そこから」
ヒグドはまだ青い顔をしていた。
「あれは本当に母ちゃんだった」
「違う」とヘリュエ。
「声も歌も同じだった」
「同じだから偽物なんだ。人は歌詞を間違えるし、鍋を焦がすし、怒る。あれは、きれいすぎた」
ヒグドはしばらく黙り、やがて頷いた。
キヴァレが壁板を外すと、人一人がやっと通れる隙間が現れた。五人は縦に並び、屋敷の内側を進んだ。
壁の裏には、無数の細い管が走っていた。管の中を、黒や赤や金の液体がゆっくり流れている。ところどころに、人の囁きが混じっていた。
――帰りたい。
――もう一度だけ。
――私を見て。
――忘れないで。
ティカは両耳を押さえた。
やがて隙間は、小さな書斎へ続いた。
机の上に、厚い帳面があった。革表紙には「客人録」と刻まれている。
キヴァレが開くと、最初の頁には百年以上前の日付と名前が並んでいた。頁をめくるほど文字は減り、代わりに小さな肖像が増えていく。旅人、兵士、商人、家族。どの顔も、紙の中から助けを求めるように口を開いていた。
十八年前の頁に、七人の名があった。
セルゴ。
エイナ・ロウ。
ほか五名。
セルゴの名だけが、乱暴な線で消されている。
その下に一文があった。
――一名逃走。地図を持ち出す。次の客人を待つこと。
「セルゴは逃げたんだ」とヘリュエ。「地図を隠して、誰かに戻ってきてもらおうとした」
「誰かって、俺たち?」ヒグド。
「もっと準備のいい誰かを期待してたと思う」とキヴァレ。
帳面の最後の頁は白紙だった。
そこへ、ひとりでに文字が浮かび始めた。
ヘリュエ。
キヴァレ。
ヒグド。
ティカ。
ローク。
そして、かり、かり、と見えない筆が、最初の一人の輪郭を描き始めた。
ロークが帳面を閉じ、山刀を突き立てた。刃は革表紙を貫いたが、紙から黒い血のような絵具が噴き出し、切り口を塞いだ。
「地下へ行く」と彼は言った。「この家の喉を見つける。喉があるなら、息も止められる」
「宝は?」ヒグドが訊いた。
ロークは彼を見た。
「生きて出たら、好きなだけ心配しろ」
八 家の喉
書斎の床下に、螺旋階段が隠されていた。
階段は長く、湿った土の匂いが強くなっていく。やがて一行は、屋敷より広い地下室へ出た。
そこには、宝があった。
壁際に金貨の山。銀の甲冑。宝石を埋めた航海儀。竜骨で作られた玉座。中央の台には、夜空を固めたような青い宝石を戴く王冠が置かれている。
ヒグドが口を開けた。
「パンで言うと――」
「換算しなくていい」と全員が言った。
宝の向こうには、丸い井戸があった。
井戸の中に水はない。代わりに、光を吸う黒い液体が満ちている。表面には無数の顔が浮かび、沈み、また別の顔に変わっていた。
天井から九本の管が下り、その黒い液体を吸い上げている。
「これが絵具」とティカが囁いた。
「王たちは、永遠の肖像を望みました」
背後でイグンの声がした。
老人は階段の上に立っていた。左右の壁から、額縁のような黒い腕が伸びている。
「私は宮廷画家でした。老いる王、死を恐れる王、歴史から消えることを恐れる王。皆、同じ注文をした。『私を永遠にせよ』と」
イグンは井戸を見下ろした。
「そこで私は、世界と世界の隙間から色を汲んだ。この色は、目に映る形だけでなく、見られた者の記憶を写す。声、匂い、後悔、願い。すべてを一枚に留める」
「留めるんじゃない。閉じ込めるんだ」とヘリュエ。
「死ぬよりよいでしょう?」
イグンが指を鳴らした。
地下室の入口を、白い布を張った九つ目の額が塞いだ。
布の上に色が広がる。
最初に現れたのは錆鐘横丁だった。青い立ち退き札はなく、家々は新しく、鐘楼は金色に輝いている。行方不明になった父が、通りの向こうでヘリュエへ手を振っていた。
「帰ってきたぞ」
その声は、記憶の中より鮮明だった。
ヘリュエの足が勝手に絵へ近づいた。
隣で、キヴァレは巨大な工房を見ていた。何百もの複雑な錠前が並び、職人たちが彼女を「大親方」と呼んでいる。
ヒグドの前には、母と父が笑うパン屋が現れた。窯の中には決して焦げないパンが膨らんでいる。
ティカは、大勢の人々が自分の話へ耳を傾ける広場を見ていた。誰も彼女の長い耳を笑わない。
ロークは、雨の沼に立つエイナを見ていた。
「兄さん」
若いままの妹が笑った。
「遅かったね」
黒い絵具が床から細い蔓のように伸び、五人の足首へ絡みついた。
ヘリュエは父の顔を見つめた。
会いたかった。
声を忘れかけていた。
もう一度だけ、本物だと信じたかった。
父が両腕を広げる。
「ここなら、何も失わない」
そのとき、絵の横丁に違和感があることに気づいた。
静かすぎる。
パン屋の親父が怒鳴っていない。鍵屋の金槌が鳴らない。屋根の猫が皿を落とさない。雨樋から水が漏れない。誰も喧嘩せず、誰も歌詞を間違えない。
それは横丁ではなく、横丁の死体だった。
「父さんは、そんなこと言わない」
ヘリュエは目を閉じた。
「父さんは『失くしたら探せ。見つからなければ、別の道を作れ』って言う」
足首の絵具が緩んだ。
ヘリュエはキヴァレの肩をつかんだ。
「その工房、床がきれいすぎるぞ!」
「何?」
「おまえの工房なら、針金と油で歩く場所がない!」
キヴァレは瞬きをし、絵の中の完璧な作業台を見た。
「それに、全部の鍵が左右対称。趣味が悪い」
彼女が吐き捨てると、工房の絵に亀裂が走った。
ヒグドには、ヘリュエとキヴァレが同時に叫んだ。
「おまえの母ちゃんのパン、塩と砂糖を間違えたことあるだろ!」
「三回ある!」
ヒグドは泣きながら笑った。完璧なパン屋が崩れる。
ティカは自分で耳を塞ぎ、広場の喝采を断ち切った。
「私の話を聞く人は、四人で足りる」
「五人だ」とロークが言った。
だが彼だけは、絵から離れられなかった。
エイナが手を伸ばしている。
「兄さん。今度こそ一緒に帰ろう」
ロークの頬を涙が伝った。
ヘリュエは叫んだ。
「その人、本当に妹さん?」
「声も癖も同じだ」
「じゃあ訊いて! 本人しか知らないことを!」
ロークは震える声で言った。
「子どものころ、俺が沼へ落ちたとき、おまえは何と言った」
絵のエイナは微笑んだ。
「大丈夫。助けるよ」
ロークは目を閉じた。
「違う」
山刀を抜き、絵具の蔓を断つ。
「あいつは腹を抱えて笑って、『もう少し沈めば背が伸びる』と言った」
エイナの顔が、イグンの顔へ変わった。
ロークは一歩下がった。
「俺の妹は、慰め方を知らん」
九枚目の絵が絶叫した。
九 雨を連れて行け
地下室が揺れた。
井戸から黒い腕が何十本も伸び、宝の山を掻き分けて迫る。イグンの身体は薄く平たくなり、皮膚の下で絵筆の毛のようなものが蠢いていた。
「完成しなければならない!」
老人の声が、壁じゅうの肖像から響いた。
「物語は、完成してこそ永遠になる!」
「完成したら終わりだ!」ヘリュエが叫んだ。「俺たちはまだ途中だ!」
ロークが天井の九本の管を見上げた。
「地図の言葉を思い出せ。雨を連れて行け」
「でも、雨は家に入らない!」キヴァレが言った。
ティカが耳を澄ませた。黒い腕が床を叩く音、井戸の呻き、その奥に、別の轟音がある。
「上。天井の向こう。水がたくさん溜まってる」
キヴァレは管の根元を調べた。
「この家、雨を避けてるんじゃない。屋根で受けて、壁の中の貯水槽へ逃がしてる。絵具を薄めないために」
「なら、栓を抜けばいい」とヒグド。
「九重の弁よ。さっきの排水路より古い」
黒い腕が迫った。
ロークが山刀で払い、ヘリュエが金貨の盾を蹴り立てる。金属音が響き、腕が盾へ巻きついた。
「何秒いる!」ローク。
「二百!」
「五十にしろ!」
「鍵に言って!」
キヴァレは弁の錠へ針金を差し込んだ。ティカが管に耳を当て、内部の回転を聞く。
「一つ目、右。二つ目、左。三つ目は動かない!」
ヒグドが携帯窯の袋から、膨らみかけた酵母種を取り出した。
「動かないなら、膨らませる」
彼は酵母種を弁の隙間へ詰め、蜜を流し込んだ。急に温められた種が泡を吹き、錆びた輪を内側から押し広げる。
「パンは建材じゃないって言ったの、誰だっけ!」ヒグドが叫ぶ。
「誰も言ってない!」キヴァレが答えた。
四つ、五つ、六つ。
イグンの黒い腕が盾を砕いた。ロークは子どもたちの前に立つ。腕が外套を裂き、肩から血が流れた。
七つ、八つ。
「九つ目が天井側!」ティカ。
弁の最後の輪は、地下室の天井近くにあった。
ヘリュエは九本の管の一本へ飛びついた。黒い液体が透けて流れ、その中で何人もの顔が目を開ける。管をよじ登るたび、囁きが耳へ入った。
――ここに残れ。
――望みは叶った。
――怖くない。
――永遠だ。
「永遠なんて、退屈で死ぬ!」
ヘリュエは管から管へ跳び、最後の輪へ手を伸ばした。
届かない。
下でキヴァレが叫ぶ。
「帽子!」
ロークは広いつばの葦帽子を脱ぎ、円盤のように投げた。
ヘリュエは空中で帽子をつかみ、その縁を弁の取っ手へ引っかけた。
「良い帽子は命を救う!」
ロークが笑った。
「だから言ったろ!」
ヘリュエは全体重をかけた。
九つ目の輪が回る。
一瞬、屋敷が息を止めた。
次の瞬間、天井が割れた。
溜め込まれていた雨水が、滝となって地下室へ落ちた。
黒い腕が雨に触れ、煙を上げて溶ける。壁の中で八枚の絵が同時に裂ける音がした。色彩が階段を流れ落ち、井戸へ逆巻く。
イグンは両手を広げ、雨を拒もうとした。
「私を消すな! 私は千年を残した! 王を、戦を、愛を、死を!」
彼の顔が次々に変わった。老王、若い兵士、泣く子ども、笑う花嫁。閉じ込めたすべての顔が、皮膚の上を走った。
「覚えているのは、あなたじゃない」とティカが言った。「飲み込んでいただけ」
雨がイグンを打った。
老人の身体は一枚の濡れた紙になり、折れ、破れ、黒い井戸へ吸い込まれた。
八枚の絵から、淡い光が無数に飛び出した。蛾のように、鳥のように、人の記憶のように、地下室を巡る。
その中に、若い女がいた。
エイナだった。
彼女はロークの前に立ち、笑った。
「遅かったね、泥頭」
ロークは泣きながら笑った。
「おまえは、相変わらず慰め方を知らん」
「十八年も待たせた罰」
エイナの姿は雨粒の中で薄れていく。
「私はもう、とっくに沼へ帰ってる。兄さんまで絵になるな」
彼女はロークの帽子を指した。
「それ、似合ってないよ」
そう言って、光になった。
十 家が沈むとき
井戸の底から、何か巨大なものが這い上がってきた。
それは絵具そのものだった。何百もの顔を浮かべた黒い波が、腕と口を作りながら膨れ上がる。屋敷を支えていた柱が折れ、天井から土と金貨が降った。
「出口へ!」ロークが叫ぶ。
キヴァレは王冠へ走り、青い宝石を工具でこじった。
「王冠はいらない! 石だけ!」
「帽子の次に正しい判断だ!」ローク。
宝石は拳ほどあり、内側に小さな星が瞬いている。キヴァレが外した瞬間、王冠は錆びた鉄に変わった。
ヒグドは金貨を袋へ詰めようとしたが、足元の床が割れ、ティカが倒れた梁の下敷きになった。
「先に行って!」ティカが叫ぶ。
ヒグドは金貨の袋を捨て、梁へ肩を入れた。
「金貨三千枚より、仲間一人のほうが重いんだぞ!」
「逆じゃない?」
「気持ちの話!」
ヘリュエとロークも加わり、梁を持ち上げた。ティカを引き出した直後、黒い波が宝の山を飲み込んだ。
階段は崩れていた。
地下室の奥で水門が破れ、濁流が横穴へ流れ込んでいる。
「こっちだ!」ロークが叫んだ。「沼の水路につながってる!」
五人は倒れた扉を水へ浮かべ、即席の筏にした。濁流が彼らを横穴へ押し流す。
背後から黒い波が追ってくる。
波の表面に、エイナの顔が浮かんだ。
「兄さん、戻って」
ロークは振り返らなかった。
「偽物め。妹は一度断ったら、二度は頼まん」
彼は腰袋から赤いくしゃみ木の実を全部取り出し、黒い波へ投げた。
「絵具がくしゃみするの?」ヘリュエ。
「知らん。初めて試す!」
実が潰れた。
黒い波が顔という顔を歪め、地下水路を揺らすほどのくしゃみをした。
衝撃で天井が崩れ、雨水と泥がなだれ込む。絵具は薄まり、何千本もの黒い糸になって流れへ消えた。
筏は最後の落差から宙へ飛び出した。
五人は扉ごと、逆さ星沼へ落ちた。
水底の青白い花が揺れ、まるで夜空へ落下しているようだった。
浮かび上がったヘリュエが岸を見ると、顎背獣がいた。
倒木のふりをしていた、あの巨大な沼の主である。
「十回目だ」とロークが言った。
「走るやつ?」
「泳げ!」
五人は岸へ向かって必死に水を掻いた。
顎背獣は大口を開け――彼らの後ろから流れてきた黒い絵具の塊へ噛みついた。苦いものを食べたように顔をしかめ、盛大なくしゃみをする。
泥の波が五人を岸へ押し上げた。
ロークは仰向けに倒れたまま、空を見た。
豪雨が顔を叩いている。
「良い雨だ」
キヴァレは拳の中の青い宝石を掲げた。
「良い宝もある」
ヒグドは自分の空になった袋を見た。
「金貨は?」
「全部捨てた」とヘリュエ。
「一枚も?」
ティカが袖を振ると、ぺたりと濡れた金貨が一枚落ちた。
「耳の後ろに入ってた」
ヒグドはそれを拾い、胸へ抱いた。
「今夜は、この一枚でパンを買おう」
「おまえの家、パン屋だろ」とヘリュエ。
「だから買って応援するんだ」
十一 まだ途中の物語
彼らがリーヴァ港へ戻ったのは、青い札に書かれた期限の朝だった。
錆鐘横丁では、役人たちが家財を通りへ運び出そうとしていた。鐘楼の下に住人が集まり、押し合い、怒鳴り合っている。
泥だらけの五人が現れると、最初にヘリュエのおばが走ってきた。
抱きしめられると思ったヘリュエは、頬を一発叩かれ、そのあと骨が軋むほど抱きしめられた。
「馬鹿! 大馬鹿! どこへ行ってたの!」
「沼」
「見ればわかる!」
キヴァレの父は娘の工具袋を確認してから泣いた。ヒグドの父は息子を抱きしめ、焦げたパンを口へ押し込んだ。ティカは横丁じゅうの叱る声を一度に聞き、長い耳をぺたりと伏せた。
役人の長が、杖で地面を叩いた。
「茶番は終わりだ。正午までに金貨三千枚を――」
キヴァレが青い宝石を掲げた。
朝日を受けると、石の中の星が動いた。
港の宝石商は、寝巻きのまま呼び出された。片眼鏡で石を見るなり、椅子から落ちた。
「星王石だ。王朝時代の航海宝。これ一つで金貨一万……いや、競売ならその倍は――」
「三千枚でいい」とヘリュエが言った。「いま、ここで」
宝石商は一瞬で服を着替えたような顔になり、証文を書いた。
正午の鐘が鳴る前に、錆鐘横丁の地代はすべて払われた。さらに住人たちは土地そのものを買い戻し、青い札を鐘楼の薪にした。
その夜、横丁では宴会が開かれた。
ヒグドの父はパンを焦がした。キヴァレの父は酔って、自分の店の鍵をなくした。ティカは全員の歌が半音ずれていると指摘し、さらに大きな声で歌った。ヘリュエのおばは三度怒り、四度泣いた。
ロークは、約束の乾いた靴下を二足受け取った。
「帽子は見つからなかったね」とヘリュエ。
「見つけた」
ロークは、雨で少し縮んだ葦帽子をかぶり直した。
「これでいい」
「沼へ帰るの?」
「その前に、都会のことを少し学ぶ」
彼は卓上の三本のフォークを見下ろした。
「まず、なぜ食事に武器が三つも必要なのかを知りたい」
数日後、梁裏団は鐘楼の下に新しい看板を出した。
『九枚絵探検社
失せ物、地図、怪物、古い呪い。
料金は相談。
パンでの支払い可。ただし焦げていないもの。』
古地図師セルゴの地図は、額に入れて秘密基地へ掛けた。
雨の夜になると、ときどき地図の九つ窓の家から、かり、かり、と音がした。
だが今度は、絵筆の音ではなかった。
よく聞くと、それは誰かが遠い場所で笑う音に似ていた。
地図の隅には、いつの間にか小さな絵が一つ増えていた。
泥だらけの五人が、崩れる屋敷から筏で飛び出す絵だ。描かれた顔は毎晩少しずつ変わり、ある夜は笑い、ある夜は怯え、ある夜は喧嘩をしていた。
決して同じ絵にはならなかった。
ヘリュエはそれを見るたび、安心した。
物語は、動いているうちは終わらない。
そして錆鐘横丁の物語は、まだ始まったばかりだった。
了