逆さ港と、砕けた環の画廊
一 錆梯子町の最後の夜
この世界では、海は空の上にあった。
雲海を泳ぐ鯨が、ときどき島の影を横切った。雨には銀色の小魚が混じり、嵐の日には遠い国の難破船が屋根へ降ってくることさえある。島々は、誰が打ったとも知れない太い鎖で空の海から吊られていた。
ネヴァロ島の上側には、白い塔と温室庭園と、風を税金に変える議事堂があった。
下側には、錆梯子町があった。
島の腹へ釘のように打ち込まれた家々。雲の底へ伸びる桟橋。百本の梯子と千本の洗濯紐。上の町の人々は、そこを「逆さ港」と呼んだ。落ちそうで落ちないもの、という意味を込めて。
けれど今、錆梯子町は、本当に落とされようとしていた。
「七日後、か」
トオリは、壁に貼られた赤い紙を読み上げた。
朱金採掘組合からの立ち退き命令だった。錆梯子町の岩盤から、浮力石の鉱脈が見つかったらしい。組合は家を解体し、住民を島の上側にある共同宿舎へ移すという。
共同宿舎という言葉は、窓のない箱を丁寧に言い換えたものだった。
「七日もある」
ピナが言った。彼女は十三歳で、銅線と火薬と喧嘩なら、たいていの大人より上手だった。
「七日しかない、だろ」
フェリオは焼きたての堅パンを四つに割った。十五歳。パン屋の息子で、扉ほど肩幅があるくせに、暗い穴が苦手だった。
「七日あれば王様にだってなれるよ」
十一歳のルルが言った。
「おまえ、先週は海賊王の孫だったよな」
「王家って枝分かれするものだから」
四人は、町外れの廃浴場を根城にしていた。湯船は干上がり、天井には穴があき、風が吹くたび壊れた鐘が鳴った。だから彼らはそこを〈割れ鐘亭〉と呼んでいた。
トオリは赤い紙を剥がし、裏返した。
「三百月冠」
「え?」
「組合が役所へ払った土地代。三百月冠を返せば、買い戻せるって」
フェリオが鼻を鳴らした。
「うちの親父が一生パンを焼いても無理だ」
「じゃあ、宝を探そう」
ルルが言った。
三人は黙って彼を見た。
「……いまのは、いつもの嘘じゃなくて、提案」
そのとき、天井の漆喰が落ちた。
正確には、ピナが腹立ちまぎれに投げたスパナが壁へ当たり、ひびが走り、古い壁画の一部が崩れた。湯の女神を描いた壁の裏から、黒い筒が転がり出た。
「宝のほうから来た」
ルルが胸を張った。
筒の中には、油紙に包まれた地図と、半分に割れた腕環が入っていた。
腕環は黒い陶器のような材質で、星座に似た銀の線が刻まれていた。割れ目は古く、縁だけが妙に滑らかだった。
地図を開いたトオリの指が止まった。
線の癖を知っていた。
「おじいちゃんの字だ」
半年前に亡くなった祖父アウスは、島の測量師だった。上の町の地図も、下水道の図も、雲海の潮目も描いた。晩年、彼は地下の話をすると怒った。島の底には何もない、と言い張った。
だが地図には、島の底へ続く通路が、細かく描き込まれていた。
端に、震える文字があった。
――最初の憲章は、月蝕画廊の奥にある。
――錆梯子町は誰にも売れない。その証を持ち帰れ。
――窓のない場所で絵を描く男を、信じるな。
地図の下には署名があった。
セヴラン・オルム。
十九年前に消えた画家の名だった。
セヴランは、地下に棲む怪物ばかりを描いた。濡れた石から這い出す白いもの。人間の顔を裏返して被るもの。星のない空を見上げる、骨ばかりの王。
評論家は悪趣味な空想だと言い、貴族は競って彼の絵を買った。
最後の展覧会で、セヴランはこう言ったという。
――私は一度も、想像で描いたことがない。
翌朝、彼は家ごと姿を消した。
トオリは地図を畳んだ。
「月蝕画廊は、セヴランの屋敷の地下にあった。いまは封鎖されてる」
「最初の憲章って?」とピナ。
「ネヴァロ島が王国へ編入されたときの権利書。昔の王が、逆さ港を住民の共有地にしたって話がある。でも原本がなくて、昔話扱い」
「原本があれば、町は売れない」
フェリオが堅パンを握り潰した。
「宝よりいいじゃん」ルルが言った。「宝もあれば、もっといいけど」
割れた腕環を持ち上げると、銀の線が青白く光った。
廃浴場の奥で、誰も触れていない鐘が鳴った。
ごうん。
まるで、ずっと下のほうから返事が来たようだった。
二 画家の地下口
四人は、その夜のうちに出発した。
持ち物は、縄、蝋燭、火打ち石、ピナの工具袋、フェリオの堅パン六個、ルルが勝手に持ってきた赤い旗。それから地図と腕環。
「赤い旗、何に使うの」
「征服した場所に立てる」
「帰りに置いていく荷物が決まったな」
セヴランの屋敷は、上の町と下の町の境にあった。半分は岩へ埋まり、半分は宙へ突き出している。十九年前の封鎖札が扉を覆い、窓は煉瓦で塞がれていた。
ピナは三十秒で錠を開けた。
「二十秒だった」とルル。
「数えられるようになってから言え」
中には家具がなかった。
壁だけが残っていた。
数百枚の空の額縁が、床から天井まで並んでいた。どの額縁にも絵はないのに、前を通ると、誰かに見られている気がした。
トオリは祖父の地図を照らした。
「地下口は、食堂の暖炉」
暖炉の灰をどけると、奥に鉄の輪があった。四人で引くと、炉床が傾き、石段が口を開けた。
冷たい風が吹き上がった。
絵具と、古い雨と、腐った花の匂いがした。
フェリオの顔が固まった。
「暗い穴じゃない」ピナが言った。「階段だ」
「暗くて、穴の中にある階段だろ」
「一番後ろ歩く?」
「前を歩く」
フェリオは蝋燭を二本持ち、先頭に立った。
石段は長かった。屋敷の深さをとっくに越え、島の岩の中へ降りていく。壁には小さな手形が並んでいた。子どもの手ほどの大きさだが、指が六本あった。
百二十段目で、石段が消えた。
目の前に円形の井戸があり、その向こうへ細い橋が渡っている。橋の両脇には、目隠しをした石像が並んでいた。
地図には〈無音橋〉と書いてあった。
橋へ足を置くと、石像の口から低い声がした。
「息を持たぬ者だけが、夜の門を渡れる」
「死体ってこと?」ルルが囁いた。
「たぶん、音を立てるなってこと」
トオリは蝋燭を吹き消した。
暗闇の中、四人は一列になった。靴を脱ぎ、縄で互いの腰を結ぶ。
一歩。
二歩。
石橋は冷たく、湿っていた。
途中で、何かが井戸の底から橋の裏へ張りついた。
かり、かり、と爪が石を掻いた。
ルルの息が震えた。
トオリは後ろへ手を伸ばし、彼の手首を握った。
爪の音は、四人の真下をゆっくり通り過ぎた。
そのとき、フェリオの腹が鳴った。
ぐうう。
石像が一斉に顔を向けた。
「走れ!」
目隠しの下から、青い火が噴き出した。四人は橋を駆けた。後ろで石が崩れ、井戸から白い腕が何本も伸びた。
フェリオが最後に飛び、縁へしがみついた。トオリとピナが腕を掴む。ルルは赤い旗で白い指を叩いた。
「征服!」
「それ、意外と使える!」
フェリオを引き上げた瞬間、橋は闇へ落ちた。
四人はしばらく床に転がって息をした。
「堅パンのせいだ」とフェリオ。
「食べるなとは言わないけど、次は腹にも言い聞かせて」とピナ。
通路の先には、地下とは思えないほど大きな広間があった。
壁一面に、絵が掛かっていた。
今度は、空の額縁ではなかった。
最初の絵には、黒い森の中で眠る女が描かれていた。次の絵には、その女の枕元へ近づく白い生き物。三枚目では、白い生き物が女の顔を両手で持ち上げていた。
四枚目の女には、顔がなかった。
ルルが、そっとトオリの袖を引いた。
「ねえ。三枚目、さっきと違わない?」
白い生き物が、絵の中からこちらを見ていた。
濡れた絵具が、一滴、床へ落ちた。
その瞬間、すべての蝋燭が消えた。
暗闇で、鈴が鳴った。
ちりん。
誰かがトオリの手から地図を奪った。
三 名前のない門守
「待て!」
トオリは足音を追った。
青白い苔が壁の割れ目に光り、細い影が通路の角を曲がるのが見えた。裸足。黒い外套。口のない白い仮面。
影は速かった。
トオリは地図を頭へ入れていた。右、左、階段、低い梁。その先は行き止まりのはずだ。
だが角を曲がると、壁が回転していた。
仮面の人物が壁の向こうへ消える。
トオリは隙間へ飛び込んだ。石に肩を挟まれかけたが、転がって抜けた。
小さな円形の部屋だった。
天井から、無数の銀の糸が垂れている。糸の先には鈴が結ばれ、床には迷路の模様が刻まれていた。
仮面の人物は中央に立っていた。
背丈はトオリと同じくらいだった。右手に短い槍。左腕に、黒い腕環。
半分だけの腕環。
「それ、どこで手に入れたの」
トオリが言った。
「返せ」
仮面の奥から、少女の声がした。
「地図を先に返して」
「これは門の皮だ。外の者が持っていいものではない」
「外の者って、あなたは?」
「私は門守」
「名前は?」
「必要ない」
少女が銀糸を引いた。
鈴が三つ鳴り、床の迷路が動いた。石の線が盛り上がって壁になり、トオリへ迫る。
トオリは腕環の半片を掲げた。
青い光が走った。
少女の腕環も光り、動く壁が止まった。
二つの半片は、離れたまま互いを呼ぶように震えた。
少女が初めて動揺した。
「なぜ、アウスの欠片を」
「おじいちゃんを知ってるの?」
答えの代わりに、部屋の外から叫び声がした。
フェリオだった。
トオリは振り向いた。少女が地図を抱えたまま走り出す。二人は来た道を戻った。
広間では、ピナとルルが額縁を投げつけていた。
絵から、白い生き物が這い出していた。
平たい頭。長すぎる腕。関節の向きが一つ多い脚。顔のあるべき場所には、濡れた布のような皮膚が張っている。その皮膚の下で、人間の目や口が浮かんでは消えた。
フェリオが一本を柱へ叩きつけた。だが生き物は薄くなり、絵具の染みのように石へ広がる。そして別の壁から立ち上がった。
「灯りを消せ!」
仮面の少女が叫んだ。
「暗いほうが危ないだろ!」
「絵は光を食べて出てくる!」
ピナが火口箱を閉じた。
広間が暗くなる。
白い生き物たちは、一斉に動きを止めた。
暗闇の中で、鼻を鳴らすような音がした。目がないのに、こちらを探している。
少女が鈴を一度鳴らした。
遠くで、別の鈴が応えた。
壁の一部が開く。
「走れ。足音は食われない」
五人は通路へ駆け込んだ。
扉が閉じる寸前、一匹の白い手が差し込まれた。フェリオが堅パンをその指へ噛ませ、石扉を押し切った。
「食べ物を粗末にした」
「命とパンなら命だろ!」
「父ちゃんには言わないで」
通路の先は、小さな礼拝堂だった。
天井に月のない夜空が描かれ、祭壇には割れた円の紋章がある。少女は仮面を外した。
年はトオリと同じくらいだった。短い灰色の髪。長く暗闇にいたせいか、肌は青白い。瞳は黒く、光を見ると痛そうに細まった。
「さっきのは?」とルル。
「薄面。絵の中を巣にするもの」
「セヴランの怪物?」
「違う。セヴランは、あれを見つけて描いた。描いて、増やした」
少女は地図を開いた。祖父の文字を指でなぞる。
「アウスは十九年前、ここへ来た。セヴランと一緒に」
トオリの胸が冷たくなった。
「何をしに?」
「地図を描くため。けれど、最深部で二人は争った。アウスは環を割り、半分を持って逃げた」
「あなたは、そのときもここに?」
少女は首を振った。
「私は十三代目。前の門守から話を聞いた」
「十三代目って、名前じゃないよね」
「門守に名はいらない」
「呼ぶとき困る」
ピナが言った。
「十三でいい?」
「よくない」
「じゃ、ジュウゾウ」
「もっとよくない」
少女は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
トオリは訊いた。
「最初の憲章はどこ?」
「月蝕画廊の奥。王の保管庫にある。金も」
ルルが小さく拳を上げた。
「宝もある」
「だが、その下に〈無彩の月〉が眠っている。環が二つ揃えば、最深部の門が開く」
少女はトオリの手の半片を見た。
「セヴランは、ずっとそれを待っている」
「セヴランは死んだんじゃないの?」
礼拝堂の奥から、拍手が聞こえた。
ぱち、ぱち、ぱち。
「死んだ画家ほど値が上がる」
男の声がした。
「だから、私は死んだことにしたのだよ」
四 窓のない画家
男は、月のない天井画の陰から降りてきた。
黒い上着。細い杖。銀色の髪を後ろで結んでいる。十九年前の肖像と、ほとんど変わらない顔だった。
ただし、目の周りに絵具のひびのような亀裂が走っていた。
「セヴラン・オルム」
トオリが言うと、男は胸へ手を当てた。
「若い読者がいて光栄だ」
「おじいちゃんに何をした」
「何も。彼は友人だった。臆病になった友人だ」
「環を奪おうとした」
門守の少女が槍を向けた。
セヴランは悲しげに笑った。
「門守たちは、いつも単純な物語を好む。善い封印。悪い扉。従順な子ども。だが世界は、もっと複雑で、美しい」
杖の先が床を叩いた。
礼拝堂の壁画から、黒い帯が伸びた。
絵具の帯は蛇のように五人の手足へ巻きつき、祭壇へ縛りつけた。フェリオが力を込めても、帯は伸びるだけで切れない。
セヴランはトオリの手から腕環を抜き取った。
「ようやく帰ってきた」
二つの半片を近づける。
だが環は合わなかった。目に見えない力が反発し、青い火花が散った。
セヴランは少女を見た。
「持ち主が同意しなければ、輪は閉じない。古い仕掛けだ」
「死んでも渡さない」
「死は不便だ。だから別の方法を使う」
セヴランは壁の一枚を布ごと剥いだ。
そこに、老人の肖像があった。
アウスだった。
トオリの祖父。だが亡くなる直前の痩せた顔ではない。四十歳ほど若い。片手に地図、もう片手に割れた腕環を持ち、背後の暗闇を睨んでいる。
絵の中の祖父が、トオリを見た。
唇が動いた。
――逃げろ。
トオリは声を失った。
「人を、絵に閉じ込めたの?」
「記憶を少し借りただけだ。アウスは地上へ戻った。家庭を持ち、孫を可愛がり、天寿を全うした。彼がここで見た恐怖だけを、私が保管した」
セヴランは自分の頬を撫でた。
「私は歳月も保管する。見たまえ」
礼拝堂の奥に、十二枚の自画像が並んでいた。
一枚ごとに画家は老いていた。最後の肖像は、皮膚が紙のように薄い百歳の老人。その目だけが、生きたセヴランと同じように動いた。
「歳を、絵へ移したのか」ピナが呟いた。
「芸術は保存だよ」
「腐らせてるだけだ」
セヴランの笑みが消えた。
「地上の者は、見えないものを存在しないことにする。薄面も、無彩の月も、この島が何の上に築かれたかも。私は真実へ額縁を与えた」
「薄面に人を食わせて?」
「死者だけだ。たいていは」
ルルが青ざめた。
「たいてい?」
遠くで、金属が壊れる音がした。
セヴランが耳を澄ませた。
「客が増えたようだ」
通路から、朱金採掘組合の監督官ヴォルクが現れた。赤い革鎧を着た大男で、後ろに二人の鉱夫を連れている。錆梯子町へ立ち退き命令を貼った本人だった。
「餓鬼どもを尾ければ、鉱脈より面白いものに当たると思った」
ヴォルクは祭壇の五人と、セヴランの手の腕環を見た。
「それが扉の鍵か」
「あなたには扱えない」
「扱うのは、そこの門番だ」
ヴォルクは火槍を抜いた。先端の石が赤く燃える。
「保管庫を開けろ。金も権利書も、組合が管理する」
「あなたのような男は嫌いではない」
セヴランは微笑んだ。
「絵にすると、欲望の輪郭がよく出る」
次の瞬間、ヴォルクが火槍を振った。
炎が黒い帯を焼き切った。
「走れ!」
ピナが叫んだ。
五人は祭壇から転げ落ちた。
鉱夫たちがセヴランへ飛びかかる。壁画から黒い帯が噴き出す。礼拝堂は炎と絵具と怒鳴り声で満ちた。
トオリは祖父の肖像を抱え、門守の少女は二つの腕環を奪い返した。
「最深部へ行く!」トオリが言った。
「正気か?」フェリオ。
「権利書を取らないと、町がなくなる!」
「後ろから画家と組合が来るぞ!」
「だから先に取る!」
門守は一瞬迷い、それから地図をトオリへ返した。
「近道を知っている」
五人は、祭壇の下の階段へ飛び込んだ。
背後で、セヴランが楽しそうに笑った。
「そうだ。物語は、深いほうへ進まなくては」
五 月蝕画廊
近道は、道と呼べるものではなかった。
門守が鈴を鳴らすたび、壁が開き、古い水路や墓穴や、島の骨のような洞窟が現れた。
途中、五人は巨大な竪穴へ出た。
上も下も見えない。中央に一本の鎖が垂れ、鎖には石の箱が括りつけられていた。
「昇降籠」門守が言った。
「籠っていうより棺桶」とピナ。
「落ちなければ同じだ」
「それ、励ましてる?」
五人が箱へ乗ると、門守は壁の輪を回した。鎖が軋み、箱は下へ滑り始めた。
フェリオが目を閉じた。
「暗い穴も高い場所も嫌いなのに、両方だ」
「得したね」ルルが言った。
「おまえから落とすぞ」
竪穴の壁には、無数の横穴があった。
箱が通るたび、白い指が穴から伸びた。薄面たちが、頭を傾けて五人を見送る。
その中の一匹が、トオリの抱えた肖像へ触れた。
絵の中のアウスが、声を上げた。
薄面の顔に、祖父の目と口が浮かんだ。
「トオリ」
祖父の声だった。
トオリは凍りついた。
「その絵を捨てろ!」門守が槍で指を払った。「あれは声を写す!」
薄面は笑った。
祖父の笑い方で。
トオリは肖像を裏返した。
「おじいちゃんじゃない」
「トオリ、寒いんだ。こっちへ」
「おじいちゃんは、私をトオリって呼ばない」
薄面の顔が止まった。
「地図虫って呼ぶんだ」
ピナが工具袋から油瓶を投げた。フェリオが火打ち石を打つ。壁に炎が広がり、薄面たちは音もなく奥へ引いた。
昇降籠は最下部へ着いた。
そこに、月蝕画廊があった。
黒い湖を囲む円形の回廊。天井は見えず、湖面には存在しない星が映っている。回廊の内側には、百枚を越える絵が並んでいた。
すべて、同じものを描いていた。
真っ黒な月。
ある絵では森の上に、ある絵では王都の上に、ある絵では子どもの寝床の上に。黒い月は少しずつ大きくなり、最後の一枚では画面いっぱいの眼のようになっていた。
絵の前を通るたび、耳の奥で声がした。
見せて。
外を見せて。
空を見せて。
ルルが耳を塞いだ。
「月が喋ってる」
「見るな」門守が言った。「あれは月ではない。島が空へ吊られる前から、ここに落ちていたもの。色を食べ、光を食べ、見た者の夢を窓にする」
「無彩の月」
「門守は、あれを眠らせる。代わりに、ここから出ない」
少女の声は平らだった。
まるで、自分のことではないように。
「何歳から、ここにいるの」トオリが訊いた。
「覚えていない」
「空を見たことは?」
「壁画で」
「それは空じゃない」
少女は何も言わなかった。
回廊の先に、二つの扉があった。
一つは白い石。王冠の紋章が刻まれている。
もう一つは、扉というより巨大な円盤だった。黒い金属でできており、中央に輪の形の窪みがある。円盤の向こうから、ゆっくり何かが呼吸していた。
白い扉は、トオリの祖父の地図に従えば開いた。
床の星を三つ踏み、王冠の左目へ腕環の半片を差す。
石が左右へ割れ、保管庫が現れた。
金貨ではなかった。
銀の月冠が、山ほど積まれていた。
「宝だ」
ルルの声が震えた。
奥の硝子箱には、青い巻物が一本ある。ネヴァロ初代王の印章つきだった。
トオリは巻物を開いた。
――島の下側、錆梯子の港とその住居は、風守りの民の共有地とする。
――王も、組合も、貴族も、これを売買してはならない。
「本物だ」
三百月冠どころではない。
町そのものを守れる。
フェリオとピナが銀貨を袋へ詰め、ルルは旗を山の頂上へ立てた。
「征服」
そのとき、保管庫の入口から拍手が聞こえた。
「実に助かった」
ヴォルクが立っていた。
片方の肩を黒い絵具で焦がしていたが、火槍はまだ燃えている。後ろには傷だらけの鉱夫が一人。さらにその後ろから、セヴランが悠々と歩いてきた。
「子どもは狭い場所へ入れるから便利だ」
ヴォルクは火槍を門守へ向けた。
「環を渡せ」
「断る」
「では、そこの小さいのから焼く」
火槍の先がルルへ向く。
フェリオが前へ出ようとしたが、鉱夫の弩が胸を狙った。
門守は唇を噛み、二つの半片を床へ置いた。
ヴォルクが拾い上げる。
「どうやって合わせる?」
セヴランが答えた。
「持ち主の腕で閉じる」
門守が彼を睨んだ。
「あなたも開ければ死ぬ」
「傑作の前では、長生きなど些事だ」
ヴォルクは少女の腕を掴み、二つの半片を巻きつけた。
銀の線が光った。
割れ目から細い糸が伸び、半片同士を縫い合わせる。黒い環は完全な輪になり、少女の皮膚へ沈んだ。
少女が声を殺して膝をついた。
黒い円盤が回り始めた。
「止めて!」トオリが叫んだ。
「門守が命じたのだよ」セヴランが囁く。「心の深いところで、彼女は自分の役目から逃れたい。門を開けば、役目は終わる」
円盤の隙間から、色のない光が漏れた。
黒ではない。白でもない。
見た者の頭から、色という考えそのものを抜き取る光だった。
月蝕画廊の絵が、一斉に膨らんだ。
キャンバスが呼吸し、黒い月がこちらを向く。
湖の中から、巨大なものが目を開けた。
六 環を砕く
最初に消えたのは、鉱夫の赤い服だった。
赤だけが抜け落ち、灰色になる。
次に、ヴォルクの火槍から炎の色が消えた。熱はあるのに、光がない。
回廊の絵から薄面たちが溢れ出した。
一匹、十匹、百匹。
白い身体には、セヴランが描いた人々の顔が浮かんでいた。泣く顔。笑う顔。眠る顔。忘れられた死者の顔。
セヴランは震える手で画板を取り出した。
「これだ」
彼は色のない光を描き始めた。
「ようやく、世界に存在しない色が――」
薄面の一匹が、彼の自画像を持って現れた。
百歳のセヴランが描かれた、最後の一枚。
絵の老人が額縁から手を伸ばし、生きたセヴランの手首を掴んだ。
「何をする。私はおまえたちを永遠にした」
薄面たちは、彼を囲んだ。
顔のない皮膚に、セヴラン自身の若い顔が次々と浮かぶ。
「違う。私は作者だ。私は見る側だ!」
彼の足元が濡れた絵具になった。
セヴランは沈み始めた。
最後まで画板を離さず、最後まで描こうとしていた。
そして、音もなく床の染みになった。
「うわああ!」
ヴォルクが銀貨の袋を抱え、出口へ走った。
ルルが足をかける。ヴォルクは転び、袋が裂けた。月冠が回廊へ散り、薄面たちは光る銀を追った。
「憲章!」トオリが叫ぶ。
ピナが巻物を投げた。トオリは胸で受け止め、上着の内側へ入れた。
黒い円盤はさらに開いていた。
隙間の向こうに、巨大な曲面が見えた。
それは月ではなかった。
目でもなかった。
けれどトオリの頭は、それを目としか理解できなかった。
見られた、と思った瞬間、錆梯子町の風景が脳裏に浮かんだ。
母の洗濯場。フェリオのパン屋。ピナの工房。ルルが寝床にしている鐘楼。夕方、百本の梯子が金色になる景色。
黒い円盤の向こうで、何かが喜んだ。
月蝕画廊の最後の絵に、錆梯子町が現れた。
「夢を見せるな!」
門守がトオリを突き飛ばした。
少女の腕の環から、銀の鎖が伸びて円盤へ繋がっていた。彼女が離れようとすると、鎖は短くなり、皮膚へ食い込む。
「閉じる命令を出して!」
「もう出した。聞かない」
「どうして?」
「輪が閉じたから。門守も門の一部になった」
「そんな仕組み、壊せばいい!」
「壊せば、門を閉じる者がいなくなる」
「いま開いてるだろ!」
ピナが祖父の地図を奪い、裏返した。
「トオリ、これ!」
地図の裏に、炭で擦らなければ見えない凹み文字があった。ピナが銀貨を横にして紙を擦る。
アウスの隠し書きが浮かんだ。
――輪は一人を鍵にする。
――だから二つに割った。
――閉じるには、輪を門の中で砕け。
――そして朝の鎖を引け。
「朝の鎖?」
フェリオが天井を指さした。
高い場所から、一本の金色の鎖が垂れていた。先端は湖の上。回廊からでは届かない。
「僕が行く」
「高いところ嫌いだろ」とルル。
「暗い穴も嫌いだ」
フェリオは散らばった銀貨を蹴り、ヴォルクの足元へ滑らせた。ヴォルクが転ぶ。その背を踏み台にし、回廊の欄干へ飛び乗った。
そこから湖上へ張られた細い梁を走る。
下では、色のない水が渦を巻いていた。
「見ない、見ない、絶対見ない!」
フェリオは半泣きで金の鎖へ飛びついた。
「引け!」トオリが叫ぶ。
「重い!」
「パン三百個だと思え!」
「四百個ある!」
ピナとルルが梁へ登り、フェリオの腰へ掴まった。三人の重みで鎖が下がる。
天井の奥で、巨大な歯車が動いた。
石の蓋が一枚、また一枚と開く。
細い光が落ちた。
地上の朝の光だった。
夜明けが近い。
金色の光は鏡筒を通り、回廊を横切った。薄面たちは身をよじり、絵の中へ逃げる。黒い円盤の向こうのものが、島全体を震わせる低い声を上げた。
ヴォルクがトオリへ掴みかかった。
「閉じるな! 鉱脈が、あの向こうに――」
トオリは祖父の肖像を盾にした。
ヴォルクの拳が絵を突き破る。
肖像の中のアウスが、初めて笑った。
――よく地図を読んだな、地図虫。
絵は青い火を上げた。
保存されていた恐怖が燃え、ヴォルクの顔へ吹きつける。彼は悲鳴を上げ、湖へ落ちかけたところを鉱夫に引きずられて逃げた。
トオリは門守の少女へ駆け寄った。
「環を円盤へ入れて!」
「鎖が動かない」
銀の鎖が彼女の腕を引いていた。
トオリは工具袋からピナの鏨を抜き、鎖へ打ち込んだ。火花が散る。一本、二本。切れない。
少女が言った。
「私を置いていけ」
「嫌だ」
「門守は、ここで終わる」
「それは役目の話だ」
「同じだ」
「違う」
トオリは少女の黒い瞳を見た。
「あなた、名前がないんじゃない。取られたんだ」
少女の顔が歪んだ。
「知らないくせに」
「知らない。だから、外で探せばいい」
色のない光が、少女の頬から色を奪っていく。
トオリは鏨を環の割れ目へ差し込んだ。
「壊すよ」
「門が閉じなければ、島が死ぬ」
「閉じる。みんなで」
ピナが反対側から金槌を構えた。
フェリオとルルは金の鎖にぶら下がったまま叫んだ。
「早く!」
少女は、円盤の中央へ腕を押し込んだ。
環が窪みにはまる。
「いま!」
ピナが鏨を打った。
一度。
環に亀裂が走る。
二度。
銀の線が千の星のように弾ける。
三度。
完全だった輪は、二つではなく、無数の欠片に砕けた。
黒い円盤が止まった。
次の瞬間、重いものが落ちる轟音とともに、円盤は逆回転を始めた。
隙間が狭まる。
向こうのものが、色のない触手を差し込んだ。
トオリと少女は両手で円盤を押した。
ピナも加わった。
「重すぎる!」
「押せ!」
フェリオが鎖を放し、梁から飛び降りた。床へ転がり、肩から円盤へぶつかる。
ルルも続き、赤い旗の棒を歯車へ差し込んだ。
「最後の征服!」
旗竿が折れた。
歯車が噛み合った。
朝の光が太い柱になり、色のない触手を焼いた。
黒い円盤は、雷のような音を立てて閉じた。
完全な沈黙が来た。
それから、天井が崩れ始めた。
「出口!」
門守の少女は、自分の腕を見た。
環はない。銀の鎖もない。
トオリは彼女の手を掴んだ。
「走るよ。名前は後で決めよう」
少女は一度だけ、閉じた門を振り返った。
そして走った。
七 地上の朝
崩れる迷宮からの脱出について、四人の証言は一致していない。
トオリは、祖父の地図どおりに走ったと言った。
ピナは、自分が三つの扉を爆破したから助かったと言った。
フェリオは、全員を二回ずつ担いだと言った。
ルルは、薄面の王と一騎打ちをしたと言った。
門守だった少女は、何も言わなかった。
確かなのは、五人が昇降籠を捨て、排水路を滑り、無音橋の井戸を別の出口からよじ登り、セヴランの屋敷へ戻ったとき、夜が明けていたことだ。
屋敷の煉瓦窓の一つが、崩落で外れていた。
朝日が差し込んでいた。
少女は、その前で立ち止まった。
青い空。
雲海を泳ぐ鯨。
屋根の上で跳ねる、雨魚の群れ。
遠くに浮かぶ島々と、それを吊るす黄金の鎖。
少女は目を細めた。涙が一筋流れたが、光が痛いだけだと言った。
誰も反論しなかった。
「壁画と違う」
しばらくして、彼女は言った。
「うん」とトオリ。
「うるさい」
「空が?」
「全部」
上の町から鐘が鳴り、下の町からパンを焼く匂いが上がり、雲鴎が窓辺で騒いでいた。
「嫌い?」
少女は長いこと考えた。
「まだ、わからない」
「じゃあ、決めるまでいればいい」
五人が錆梯子町へ戻ると、大騒ぎになった。
トオリの母は、まず娘を抱きしめ、次に頭を叩き、もう一度抱きしめた。フェリオの父は、堅パンを怪物へ食わせた件だけを叱った。ピナの母は爆薬の減り方を見て卒倒しかけた。ルルには叱る家族がいなかったので、町中の大人が少しずつ叱った。
そしてトオリは、初王の憲章を役所へ持ち込んだ。
印章は本物だった。
錆梯子町は、住民の共有地だった。
朱金採掘組合の売買契約は無効となり、監督官ヴォルクは、禁じられた地下遺構へ不法侵入した罪と、子どもへ火槍を向けた罪で捕まった。彼は「月が自分を見ている」と繰り返し、窓のある牢を拒んだ。
保管庫から持ち帰れた銀貨は、八十七月冠。
三百には足りなかったが、屋根と梯子を直し、割れ鐘亭へ新しい扉をつけるには十分だった。
ただし、ルルが立てた旗の分だけ一枚足りない、とピナは主張した。
セヴランの屋敷からは、絵が一枚だけ見つかった。
白い仮面の少女が、黒い門の前に立つ絵だった。
役人が運び出そうとすると、絵具がすべて剥がれ、真っ白なキャンバスになった。
少女は錆梯子町に住むことになった。
最初の三日は屋根から降りなかった。四日目に市場へ行き、五日目に雲鴎にパンを盗まれ、六日目にピナと喧嘩した。七日目、トオリは彼女へ訊いた。
「名前、決めた?」
少女は、割れ鐘亭の窓から空を見ていた。
朝の雲海に、細い光の道ができている。
「ロフェス」
「どうして?」
「最初に外で聞いた鳥の声が、そう聞こえた」
窓辺の雲鴎が、ぎゃあ、と鳴いた。
「全然違う」とピナ。
「私にはそう聞こえた」
「いい名前だよ」とトオリ。
ロフェスは頷いた。
割れ鐘亭の壁には、地下から持ち帰った祖父の肖像が掛けられていた。
ヴォルクの拳で穴があき、半分焼け、もう動かなかった。
けれど、その裏には小さな地図が描かれていた。
ネヴァロ島ではない。
雲海の向こう、三つの島が環のように並ぶ場所。中央には、赤い扉の印。
地図の下に、祖父の字が残っていた。
――出口を見つけたら、次は入口を探せ。
ルルは新しい赤い旗を広げた。
フェリオは堅パンを袋へ詰めた。
ピナは工具箱へ、使ってはいけないと母に言われた火薬を入れた。
トオリは地図を丸めた。
ロフェスは窓から差す朝日へ手を伸ばし、今度は目を逸らさなかった。
逆さ港の梯子の向こうで、世界はどこまでも続いていた。
そして五人は、次の入口へ向かった。
(了)