『逆潮館と亡霊船の鐘』

一 最後の夜

 灰鴎港では、海が一日に二度、空へ落ちる。

 沖に浮かぶ双月が重なると、湾の水は銀の幕になって崖を駆け上がり、魚も小舟も、うっかり泳いでいた人間も、しばらく空を漂う。港の者はそれを逆潮と呼び、鐘が三つ鳴る前に戸を閉める。

 その夜、七つ梁横丁では、鐘より先に槌の音が鳴っていた。

「明日の正午をもって、この一帯を琥珀公の造船所用地とする!」

 徴税官グレンツが、赤い封蝋のついた立札を打ちつけた。太った腹に真鍮の鎖を巻き、雨でもないのに黒い傘を差している。横丁の大人たちは店先に集まり、怒鳴ったり、泣いたり、黙り込んだりしていた。

 十四歳のリタエは、人垣の後ろから立札を読んだ。

 未納地代、港湾整備、公共の利益。難しい言葉が並んでいるが、意味はひとつだった。

 出ていけ。

 七つ梁横丁は、崖に渡した七本の古い梁の上に、家と店を継ぎ足してできた町だ。下を見れば百尋の海、上を見れば洗濯物。パン屋、鍛冶屋、網直し、薬草茶屋、誰のものとも知れない梯子。歪んで、狭くて、いつも潮臭い。だがリタエにとっては、世界でただひとつの故郷だった。

「公共の利益って、だいたい誰かの私腹だよね」

 隣でサナが言った。十五歳。錠前師の娘で、髪には針金、腰には工具、口には遠慮がない。

「父さんたちは?」

「役所へ抗議に行った。でも公印がある。たぶん朝まで戻らない」

 大きな紙袋を抱えたボッコが、人垣をかき分けてきた。パン屋の息子で、十五歳にして樽のような肩をしている。

「売れ残りの蜂蜜パン、全部もらってきた。家を追い出されても、腹は追い出せないからな」

「名言みたいに言うな」とサナ。

 最後に現れたのはミミラだった。十二歳。浅黒い頬、白い巻き毛、耳の後ろに薄い鰭を持つ潮耳族の少女だ。彼女は掌の巻貝を耳に当て、しきりに眉をひそめていた。

「海が、今夜は上へ行きたくないって」

「海にも気分があるのか?」とボッコ。

「あるよ。今日は歯が痛いみたい」

 いつものミミラなら誰も本気にしない。だが今夜の湾は、たしかに妙だった。逆潮の刻が近いのに、水面は鉛のように重く、波が崖の下で息を潜めている。

 リタエは立札の赤い封蝋を見つめた。

 母がいなくなったのも、こんな双月の夜だった。

 王都の地図院に雇われた母カルリンは、十二年前、港の北にある岬を調べに行き、そのまま帰らなかった。残ったのは、屋根裏の地図箱と、「道は、行き止まりのふりをする」という口癖だけだ。

 リタエは突然、胸の奥で何かが噛み合う音を聞いた。

「屋根裏へ行こう」

「引っ越しの荷造り?」とサナ。

「母さんの地図箱を調べる」

 サナは彼の顔を見た。冗談ではないと分かると、小さく息を吐いた。

「そういう顔をするなら、せめて蜂蜜パンを持っていこう」

 リタエの家の屋根裏は、古い海図と乾いた海藻と、役に立たない羅針盤で埋まっていた。

 母の地図箱は梁の上に鎖でくくりつけられている。サナが三秒で錠を開けた。

「お母さん、錠前の選び方は素人だね」

「遺族の前で言うことか?」

「事実は人を選ばない」

 中には、何もなかった。

 正確には、黄色く変色した白紙が一枚と、穴の開いた銅貨が一枚あった。

「宝の地図って、普通は地図が描いてあるものじゃないの?」ボッコが蜂蜜パンを噛みながら言った。

 ミミラが銅貨をつまみ、巻貝のように耳へ当てた。

「これ、歌ってる」

「銅貨が?」

「すごく音痴」

 リタエは銅貨をランプにかざした。片面には、錨に絡みつく蛇。もう片面には、窓のない屋敷。縁に小さな文字が彫られている。

 ――盗む者には、波なき海を。

 ――返す者には、帰る道を。

「赤錨船長ミュナスの印だ」リタエは言った。

 百年前、群島中の税船を襲った海賊。最後は財宝を積んだまま姿を消し、今も逆潮の夜に亡霊船で現れると言われている。

「海賊の財宝!」ボッコの目が光った。「横丁を買えるかも」

「伝説だよ」とサナ。「だいたい、財宝が本当にあるなら、百年のあいだ誰も見つけてない理由がある」

「理由ならある」とリタエは白紙を見た。「地図が見えない」

 彼は銅貨を紙の中央の穴に重ねた。ぴたりとはまった。

 その瞬間、港の鐘が一つ鳴った。

 逆潮が始まった。

 屋根裏の窓の外で、湾の海が持ち上がる。銀の水が崖を這い、空へ向かって流れ始めた。月光が水を透かし、屋根裏いっぱいに揺れる光を投げる。

 白紙に、青い線が浮かんだ。

 海図ではない。七つ梁横丁の地下を走る、古い排水路の図だった。線は崖の北へ伸び、黒い家の印で終わっている。

 その家を、リタエは知っていた。

 北岬の先、海に背を向けて建つ無人の屋敷。

 窓が一つもなく、どの扉も内側から釘づけにされ、近づいた者の夢に同じ廊下が現れるという。

 無潮館。

 地図の端に、母の筆跡が浮かんだ。

 ――リタエへ。

 ――この道を見つけたなら、私は帰れなかったのだろう。

 ――ミュナスの財宝を探してはいけない。

 ――どうしても行くなら、鐘を鳴らしてはいけない。

 四人は黙った。

 やがてサナが言った。

「『行くな』のあとに道順を残す親って、どういうつもりなんだろうね」

 リタエは地図を畳んだ。

「道は、行き止まりのふりをする」

「それ、お母さんの口癖?」

「ああ」

「なら行こう。明日の正午までに、横丁を買えるものを持って帰る」

 ボッコが紙袋を掲げた。

「蜂蜜パンは九個ある」

「心強いね」とサナ。「敵が九人までなら」

 ミミラだけは笑わなかった。巻貝を強く握っている。

「海の歯が、もっと痛くなった」

二 崖の下の道

 地図の入口は、魚醤屋の床下にあった。

 樽をどけ、腐った板を剥がすと、真下へ続く石段が現れた。四人はランプを一つずつ持ち、横丁の喧騒を背に地下へ降りた。

 排水路は人ひとりが屈んで通れる幅しかない。壁には塩の花が咲き、ところどころ古い落書きがあった。

 魚三尾、欠けた月、逆さまの王冠。

「海賊の印だ」リタエは指でなぞった。「港ができる前のものだ」

「歴史の授業は歩きながらにして」とサナ。「天井が落ちそう」

 実際、天井は何度も唸った。逆潮で海水が空へ引かれ、崖全体がきしんでいる。

 やがて道は二つに分かれた。地図では右。だが右の通路は、崩れた石で塞がっていた。

「行き止まり」とボッコ。

 リタエは母の言葉を思い出した。

 道は、行き止まりのふりをする。

 壁を調べると、石の隙間に銅貨と同じ蛇錨の印があった。サナが工具を差し込み、ひねる。

 崩れた壁全体が、扉のように奥へ開いた。

「ふりが上手だね」とサナ。

 その先は、崖の内部を横切る巨大な空洞だった。

 逆潮に吸われた海が消え、湾の底が露出している。遠くで難破船の骨が泥から突き出し、魚たちが空中の水を求めて跳ねていた。空洞の中央には、崖から崖へ一本の鎖橋が渡されている。

 橋の下は、底の見えない裂け目だ。

「これは無理だ」ボッコが即答した。

「まだ一歩も乗ってない」とサナ。

「だから無理だと正確に判断できる」

 ミミラが鎖に触れた。耳の鰭が震える。

「下で誰か、数を数えてる」

「何まで?」

「ずっと七」

 七、七、七、七。

 裂け目の奥から、たしかに水滴のような声がする。

 四人は鎖橋を渡った。

 先頭はサナ、次がリタエ、ミミラ、最後がボッコ。橋は一歩ごとに大きく揺れた。中ほどまで来たとき、背後で石が鳴った。

 ランプの光が三つ、入口に現れた。

「おやおや。子鼠が先に穴を見つけてくれた」

 徴税官グレンツだった。傘の代わりに短銃を持ち、両脇には雇われ潜りの双子、カディスとキイを連れている。

「地図を渡しなさい、リタエ君。琥珀公は歴史的遺物の保護に熱心でね」

「横丁を壊す人が?」

「壊すから保護できるのだよ」

 グレンツが橋へ足をかけた。

 サナは振り返り、リタエに小声で言った。

「走るよ」

「橋が切れる」

「だから走る」

 四人は駆けた。鎖が暴れ、裂け目から七の声が噴き上がる。グレンツたちも追う。

 向こう岸へ飛び移った瞬間、サナが工具を抜き、橋を支える錠金を叩いた。

「待て!」リタエが叫ぶ。

「落としはしない」

 錠金が外れ、橋の片側が崩れた。グレンツたちは鎖にしがみつき、壁へ叩きつけられる。怒鳴り声が空洞に響いた。

 四人は走った。

 背後でグレンツが叫ぶ。

「必ず追いつくぞ! 財宝は公のものだ!」

「公って便利な名前だな!」ボッコが叫び返した。

 通路の終わりに、錆びた鉄扉があった。

 扉を押し開けると、冷たい夜風が吹いた。

 北岬の先端。

 そこに無潮館が立っていた。

三 無潮館

 無潮館は、家というより、巨大な影を建物の形に切り抜いたものだった。

 黒い石壁。窓はない。煙突は十三本あるのに煙は出ていない。正面扉だけが白く、まるで歯のように見えた。

 屋敷の背後では、逆潮の海が空へ昇っている。だが屋敷の周囲だけ、草も砂も濡れていなかった。

「波が避けてる」とミミラ。

 正面扉には取っ手がなく、中央に銅貨と同じ丸い窪みがあった。

 リタエが銅貨をはめる。

 扉の奥で、誰かが長い息を吐いた。

 白い扉が内側へ開いた。

 玄関広間は、外から見た屋敷よりずっと広かった。

 天井は闇に消え、左右には階段が何十本も伸びている。床に敷かれた絨毯には、星を食べる魚の模様。壁には家族肖像が並んでいたが、どの人物も顔の部分だけ黒く塗り潰されていた。

 ボッコが一歩入り、振り返る。

「帰りの扉、開けておこう」

 彼が扉を押さえようとした瞬間、扉は勢いよく閉じた。

 銅貨が床へ落ちる。

 外の波音が消えた。

 代わりに、どこか遠くで鐘が鳴った。

 一度だけ。

 リタエたちは顔を見合わせた。

「僕らじゃない」とボッコ。

「分かってる」

 玄関の正面には三つの扉があった。

 一つには「昨日」。

 一つには「明日」。

 一つには「まだ」。

「まともな家なら、客間とか食堂とか書く」とサナ。

 ミミラが「まだ」の扉へ耳を当てた。

「向こうに海がある」

「外は反対側だ」とリタエ。

「外の海じゃない」

 地図の青い線は「まだ」の扉へ続いていた。

 サナが錠を調べる。

「鍵穴がない」

「じゃあ蹴るか?」ボッコ。

「君は錠前師を何だと思ってる?」

 サナは扉の蝶番を外した。

「鍵がなければ、壁から外せばいい」

 扉を倒すと、その先に細い廊下が現れた。

 四人が通り抜けた途端、背後で蝶番のない扉がひとりでに立ち上がり、壁へ戻った。

「今のは見なかったことにしよう」とボッコ。

「見なかったことが多すぎる」とリタエ。

 廊下はまっすぐだったが、歩いているうちに左右が分からなくなった。床の絨毯が壁へ続き、壁の燭台が足元を照らす。肖像画の人物は、通り過ぎるたび少しずつ顔をこちらへ向けていた。

 やがて、子どもの泣き声が聞こえた。

 リタエは足を止めた。

「母さん?」

 自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。

 廊下の先に、青い外套の女が立っている。母カルリンが消えた夜に着ていた外套だ。女は背を向けて、暗い角を曲がった。

「待って!」

 リタエは走った。

「リタエ!」サナが追う。

 角を曲がると、母の姿はなかった。

 代わりに、六畳ほどの小さな部屋がある。中央に椅子が一脚。椅子には、人間の形をした塩の塊が座っていた。

 塩の顔には、母と同じ傷があった。

 リタエの膝が震えた。

 塩の像が、ゆっくり口を開く。

「鐘を、鳴らすな」

 声は母のものだった。

「母さん……?」

「館は家ではない。口だ。部屋は歯だ。船は舌だ。鐘は――」

 塩像の胸が内側から割れた。

 黒い水が噴き出し、床を這う。水の中に、星のない夜空のようなものが見えた。そこを、あまりに巨大な何かが横切った。

 目ではなかった。

 それでもリタエは、それに見られたと分かった。

 塩像が崩れた。

 ミミラが悲鳴を上げ、サナがリタエの襟をつかんで部屋から引きずり出した。ボッコが扉を閉める。

 扉の下から黒い水が染み出したが、廊下の絨毯に触れると煙になって消えた。

「今の、何?」ボッコが青ざめている。

「母さんだった」とリタエ。

「違う」とサナが強く言った。「似せた何かだ」

「傷まで同じだった」

「だから何? この家は扉が自分で戻る。死人の顔を盗むくらいする」

 リタエは言い返せなかった。

 ミミラが床に落ちた小さなものを拾った。

 真鍮の方位針だった。母の地図道具の一つ。針は北ではなく、廊下の壁を指している。

「本物も、ここに来たんだ」とミミラ。

 壁には一枚の肖像画があった。

 赤い外套を着た海賊たち。中央に立つ長身の男は、片手に湾曲剣、もう片手に小さな鐘を持っている。顔は黒く塗り潰されていない。

 痩せた頬。白い目。口元だけが笑っている。

 額縁の下には名があった。

 赤錨のミュナスと、その忠実なる乗組員。

 眠れる客人へ、百年の賃料を支払う者。

 そのとき、肖像画の中の船長が、こちらを見た。

「遅かったな、地図屋の息子」

 絵の中から手が伸び、リタエの腕をつかんだ。

 世界が裏返った。

四 壁の向こうの海

 リタエは甲板へ投げ出された。

 見上げると、夜空ではなく無潮館の天井があった。

 巨大な屋敷の広間。その中央を、帆船が航海している。

 帆は骨のように白く、船腹には無数の扉が並んでいる。船の下に海はなく、黒い絨毯の上を波を立てて進んでいた。

 赤錨船長ミュナスが舵輪の前に立っている。

 肖像画と同じ赤い外套。だが身体は半ば透け、胸の奥で小さな青い火が燃えていた。周囲には、濡れた服をまとった亡霊の乗組員たち。首に縄を巻いた者、珊瑚の生えた者、顔の代わりに魚の群れが泳いでいる者。

 サナ、ボッコ、ミミラも甲板に倒れていた。

「ようこそ、《貸し勘定号》へ」

 ミュナスが帽子を取った。

「名高い赤錨船長が、ずいぶん礼儀正しい」とサナ。

「客にはな。債務者にはもっと丁寧だ」

 船長が指を鳴らすと、甲板の板が伸び、四人の足首を拘束した。

 ボッコが暴れる。

「財宝を探しに来ただけだ!」

「海賊に向かって堂々と盗みを宣言する。見どころがある」

 ミュナスはリタエの手から銅貨を取った。

「これは私の通行証だ。どこで手に入れた?」

「母が残した」

「青い外套の地図屋か」

 リタエの息が止まる。

「母を知ってるのか」

「十二年前、ここへ来た。賢い女だった。賢すぎて、帰れなかった」

「どこにいる?」

 ミュナスは甲板の下を指した。

「館の記憶の中だ。生きているとも、死んでいるとも言えん」

 リタエは拘束を引きちぎろうとした。板がさらに食い込む。

「返せ!」

「返す? それはよい言葉だ」

 船長は銅貨を空へ弾いた。

「この館は、地上に落ちた星の殻から造られた。造った学者は、殻の中にまだ何かが眠っていると知らなかった。無眼の客人。海より古く、夜より腹を空かせたものだ」

 甲板の下から、ゆっくりとした鼓動が響いた。

「客人は夢の中で家を欲しがった。部屋を増やし、廊下を伸ばし、訪れた者の記憶を食った。私は百年前、財宝を隠すために館と契約した。私の船と乗組員を賃料として差し出し、代わりに宝を永遠に守らせた」

「愚かだね」とサナ。

「若い頃は、永遠という言葉が金貨より輝いて見える」

 ミュナスの笑みが消えた。

「だが館は腹を空かせている。十二年前、地図屋が封じ目を補修した。今夜、その封じ目が切れる。鐘が二度鳴れば船は現世へ出る。三度鳴れば客人も目覚める」

 遠くで、鐘が鳴った。

 二度目。

 船全体が震えた。

 無潮館の壁が左右へ開き、その向こうに夜の海が現れる。いや、海は空へ昇っていた。逆潮の銀色の奔流が、巨大な縦の大河となって月へ続いている。

《貸し勘定号》は屋敷から滑り出し、空へ落ちる海へ乗った。

 船首が持ち上がる。

 灰鴎港が足元に小さくなり、星々が舷側を流れた。

「すごい……」ミミラが呟く。

「感動してる場合か!」ボッコは目を閉じている。「船が空を登ってる!」

 甲板の前方に、黒い鐘が吊られていた。人の頭ほどの大きさで、表面に星喰い魚の模様が刻まれている。鐘の舌は白い骨だった。

 リタエは母の言葉を思い出した。

 鐘を鳴らすな。

「三度目を鳴らすのは誰だ?」

「館だ」とミュナス。「ただし鐘の舌がなければ鳴らせない。地図屋は十二年前、それを抜いて船倉へ隠した」

 サナが黒い鐘を見た。

「舌、ついてるけど」

 ミュナスが振り返る。

 白い骨の舌が、ゆっくり揺れていた。

 船尾から拍手が聞こえた。

「素晴らしい眺めだ」

 徴税官グレンツが立っていた。

 カディスとキイを従え、手には母の方位針。もう一方の手に、短い白骨を持っている。

「船倉への道を教えてくれたよ、この針がね。財宝だけでなく、世界を従える鐘まであるとは」

「それを外せ!」リタエが叫ぶ。

「琥珀公は新しい時代を好まれる。空を航海する軍船。逆らう町には、海より古い怪物。実に有用だ」

「役人って、どうして拾ったものをすぐ兵器にしたがるんだろうね」とサナ。

 グレンツが骨の舌を引いた。

 ゴン、と低い音がした。

 三度目の鐘だった。

五 無眼の客人

 世界から音が消えた。

 風も、波も、亡霊の呻きも消えた。

 代わりに、遠いところで何かが目を覚ます気配がした。

 月へ昇る逆潮の水が黒く染まる。星が一つ、二つと消えた。消えた場所から、巨大な輪郭が現れる。

 それは魚に似ていた。

 だが鰭の間に扉が並び、腹には夜空より深い穴が開き、無数の脚がゆっくりと宇宙を掻いていた。頭のあるべき場所には何もなく、その空白だけがこちらを向いた。

 見てはいけない。

 リタエの頭の中で、母の声がした。

 見れば、向こうもおまえを見る。

 ミミラが悲鳴を上げ、耳を押さえた。

「名前を呼んでる! 港じゅうの名前を!」

 灰鴎港の家々から、薄い光が浮かび上がる。眠っている人々の記憶が、糸のように客人へ吸い寄せられていた。

 ミュナスは剣を抜き、グレンツへ斬りかかった。だが身体が透け、刃は徴税官をすり抜ける。

「契約者は鐘の持ち主を傷つけられん」とグレンツが笑う。「残念だったな、海賊」

「なら、契約してない私たちがやる」とサナ。

 彼女は足首の板に隠していた細い鑿を突き立てた。拘束が外れる。

「いつの間に?」

「錠前師は捕まる前提で道具を持つ」

 サナがリタエたちの拘束も外す。

 カディスとキイが短剣を抜いて駆けてきた。ボッコは蜂蜜パンの紙袋を投げつけた。双子が反射的に避ける。

「食べ物を粗末にした!」ボッコ自身が一番傷ついた顔をした。

 彼は帆綱をつかみ、体重をかけて引いた。帆桁が回転し、双子をまとめて海へ弾き飛ばす。

 だが海は空へ流れている。二人は悲鳴を残して銀の奔流を上り、雲の向こうへ消えた。

「死んでないよな?」ボッコ。

「たぶん月に着く」とサナ。

 グレンツが短銃を撃った。

 弾はリタエの頬をかすめ、鐘の支柱に当たる。鐘がまた揺れた。

「もう鳴ってるのに、次はどうなる?」ボッコ。

 ミュナスが青ざめた。

「四度目は、入口が閉じる」

「何の入口?」

「こちら側のだ」

 無眼の客人の腹の穴が広がった。

 空も海も船も、穴へ引かれ始める。

 帆柱がきしみ、亡霊たちが甲板を滑る。グレンツは鐘の鎖にしがみついた。リタエたちは手すりへつかまる。

「鐘を壊せ!」ミュナスが叫ぶ。

 サナが首を振る。

「普通の金属じゃない。工具が負ける」

「船長、大砲は?」とリタエ。

 ミュナスは一瞬、笑った。

「船倉だ。だが船倉は今、館の中にある」

「船は館を出た」

「この船の扉は、すべて館の部屋につながっている」

 リタエは船腹に並ぶ無数の扉を見た。

 道は、行き止まりのふりをする。

「サナ、鐘の鎖を止めて。ボッコは舵。ミミラは船の声を聞いて」

「リタエは?」

「大砲を取ってくる」

「一人で行く気?」サナが睨む。

「母さんもいるかもしれない」

 サナは何か言いかけ、やめた。腰の工具袋から小さな鉄鍵を一本抜き、リタエへ投げる。

「何に使う鍵?」

「知らない。開けたいものに使って」

 リタエは一番近い扉へ飛び込んだ。

 扉の向こうは、母の仕事部屋だった。

 灰鴎港の家にあったものと同じ机。同じ羽根ペン。同じ、欠けた青い杯。

 窓辺に母が立っている。

 十二年前と変わらない姿で。

「大きくなったね、リタエ」

 今度こそ本物だと、リタエには分かった。声ではない。目の端の笑い皺や、考えるとき右手の小指を曲げる癖。それを館が真似たのかもしれない。それでも、分かった。

「帰ろう」

 リタエは手を伸ばした。

 母は首を振った。

「私はもう、館の地図の一部なの。廊下が増えるたび、道を曲げて客人を眠らせてきた」

「そんなの知らない。連れて帰る」

「できない」

「やってみないと分からない!」

 母の顔に、痛みが走った。

「あなたも同じ顔をするのね。あの夜、私もそう言って船へ乗った」

 部屋の壁が脈打つ。窓の外に、無眼の客人の影がある。

「大砲はどこ?」

「この部屋の下。でも館は、あなたが欲しいものと引き換えに、あなた自身を欲しがる」

 床に鍵穴が現れた。

 サナの鍵が、まるで最初からそのために作られたようにはまった。

 リタエが回すと、床が開いた。

 下には船倉があり、黒い大砲が一門、鎖で吊られている。砲身には文字が刻まれていた。

 ――借りたものは返すべし。

「鐘を壊せば、館は崩れる」と母が言った。「私の記憶も消える」

 リタエは鍵を握ったまま動けなかった。

 十二年間、何度も考えた。

 母が帰ったら、最初に何を言うか。

 怒るか、泣くか。

 どこにいたのか聞くか。

 それとも、何も言わず抱きつくか。

 ようやく会えた。

 なのに選べという。

 母か、港か。

 館のどこかで、人々の名前が吸われていく音がした。七つ梁横丁のパン屋。錠前工房。魚醤屋。毎朝怒鳴る網直しの婆さん。誰かが一人ずつ忘れていく。

 リタエは目を閉じた。

「母さん。僕、地図屋にはならないと思う」

「そう」

「道に迷うの、嫌いだから」

「地図屋に向いてる。迷うのが好きな地図屋なんて信用できない」

 リタエは笑った。涙が頬を伝った。

「帰る道を描いて」

 母は頷いた。

「もう描いてある」

 彼女が机の地図を広げる。

 そこには《貸し勘定号》の甲板と、鐘までの射線が描かれていた。線の最後に、母の字で一言。

 ――外すな。

 リタエは大砲の鎖を切った。

 床が崩れ、大砲とともに船倉へ落ちる。

 振り返ると、仕事部屋は遠ざかっていた。

 母は窓辺に立ち、片手を上げていた。

「リタエ。道は?」

 彼は叫んだ。

「行き止まりのふりをする!」

 扉が閉じた。

六 最後の勘定

 リタエと大砲は甲板へ転がり出た。

 状況は悪くなっていた。

 無眼の客人の穴は、空の半分を覆っている。《貸し勘定号》は船尾から吸い込まれ、帆が裂け、亡霊たちが次々と闇へ消えていた。

 ボッコは舵輪に全身でしがみつき、船首を鐘へ向けようとしている。

「これ、言うこと聞かない!」

「船に頼め!」ミミラが叫ぶ。「怒鳴るんじゃなくて!」

 ボッコは目をつぶった。

「貸し勘定号! 頼む! 俺は船のこと何も知らないけど、おまえが百年も働いたのは知ってる! 最後くらい、好きな方向へ行け!」

 舵輪が一人でに回った。

 船首が旋回し、甲板の大砲と黒い鐘が一直線に並ぶ。

「聞いた!」ボッコが驚く。

「船は人より話が早い」とミミラ。

 サナは鐘の鎖によじ登り、骨の舌に工具を噛ませていた。グレンツが彼女の足をつかむ。

「離せ、小娘!」

「あなたが離して」

 サナは工具袋を逆さにした。金槌、やすり、釘、歯車がグレンツの顔へ降り注ぐ。

「私の道具!」

 グレンツが手を離す。サナは鎖を蹴って甲板へ飛び戻った。

「今!」

 リタエとミュナスが大砲を鐘へ向ける。

 だが火薬がない。

「亡霊船の大砲って、火薬が要るのか?」リタエ。

「百年前の私に聞け!」ミュナス。

 ミミラが大砲に耳を当てた。

「この子、怒ってる。ずっと撃たせてもらえなかったって」

「怒りだけで撃てる?」

「何か返してほしいって」

 砲身の文字が青く光る。

 借りたものは返すべし。

 ミュナスが静かに帽子を脱いだ。

「私の命は、館から借りたものだ」

「船長?」リタエ。

「百年分の利息なら、十分だろう」

 彼は胸の青い火を取り出した。

 小さな炎の中に、若い船長、笑う乗組員、晴れた海、奪った金貨、沈めた船、契約の夜が見えた。ミュナスのすべてだった。

「待て。ほかの方法が――」

「海賊に借金を返す機会を奪うな」

 ミュナスは炎を大砲へ入れた。

 砲口の奥で、青い光が膨らむ。

 グレンツが鐘へ飛びついた。

「これは私のものだ!」

 鐘の舌を引こうとする。

 サナが叫ぶ。

「リタエ、撃って!」

 リタエは導火索の代わりに、銅貨を砲尾の窪みへはめた。

 銅貨の言葉が光る。

 盗む者には、波なき海を。

 返す者には、帰る道を。

「返す!」

 大砲が火を噴いた。

 青い砲弾が甲板を横切る。

 グレンツは鐘を盾にした。

 砲弾が黒い鐘へ命中した。

 音はしなかった。

 鐘の表面に一本の亀裂が走り、星喰い魚の模様を真っ二つにした。亀裂から白い光が溢れる。

 グレンツの顔から笑みが消えた。

「公の……ものだ……」

 鐘が砕けた。

 無眼の客人が、初めて声を上げた。

 それは音ではなく、世界中の扉が同時に閉まる感触だった。

 空に開いた穴が縮み、逆潮が崩れる。月へ昇っていた海が一斉に港へ落ち始めた。

《貸し勘定号》の船体が透ける。

 亡霊たちの身体から珊瑚や縄がほどけ、百年前の人間の姿へ戻っていく。彼らは笑い、泣き、互いの肩を叩いた。

 ミュナスの姿も薄くなる。

「船長!」リタエが手を伸ばす。

「私の宝は船長室だ。持っていけ」

「財宝を?」

「違う。財宝より高く、財宝ほど面倒なものだ」

 ミュナスはグレンツを見た。

 徴税官は砕けた鐘の破片にしがみついている。

「そいつには、波なき海を」

 甲板がグレンツの下だけ泥のように沈んだ。彼は悲鳴を上げ、船の中へ呑み込まれた。

「どこへ行った?」ボッコ。

「海のない部屋だ。反省する時間はたっぷりある」

 ミュナスが最後に笑う。

「地図屋の息子。船を頼む」

「僕、船なんて動かせない」

「道が分かるなら、船はついてくる」

 船長と乗組員たちは、夜明け前の星のように消えた。

 同時に船体が大きく傾いた。

「感動はあと!」サナが叫ぶ。「海が落ちる!」

 空から湾の全水量が降ってくる。

 リタエは舵輪を握った。

「ミミラ、海の声!」

「右! 右って言ってる! あと、すごく怒ってる!」

「サナ、帆を畳んで!」

「帆じゃなくて骨だけどね!」

「ボッコ、船長室!」

「食べ物があったら?」

「あとで!」

《貸し勘定号》は落下する海の斜面を滑った。

 雲を突き抜け、崖の上をかすめ、灰鴎港へ向かう。逆潮から戻る魚の群れが甲板を雨のように叩く。巨大な鯨が隣を落ち、ボッコと目が合って気まずそうに鳴いた。

 港が迫る。

 だが七つ梁横丁の真上には、落ちる海水が巨大な槌のように集まっていた。このままでは家々が押し潰される。

「船を横丁の下へ!」ミミラ。

「下は崖だ!」

「船が行きたがってる!」

 リタエは舵を切った。

《貸し勘定号》は崖へ突っ込んだ。

 衝突する寸前、崖に白い扉が現れる。

 船首が扉を破り、無潮館の玄関広間へ飛び込んだ。館は内側から崩れ始めている。階段が空へほどけ、肖像画の人々が額縁から逃げ出し、無数の扉が開閉を繰り返す。

 正面に、塩の像となった母が立っていた。

 今度は何も言わない。

 ただ、右手で一つの扉を指している。

 扉には「帰る」と書かれていた。

「全速!」リタエが叫ぶ。

「帆ないけど!」サナ。

「気持ちで!」

「そういう船長は嫌い!」

 船は「帰る」の扉へ突っ込んだ。

七 朝の港

 七つ梁横丁の住民たちは、夜明けとともに奇妙な光景を見た。

 魚醤屋の床が爆発し、そこから百年前の海賊船が飛び出したのである。

《貸し勘定号》は七本の梁の下へ滑り込み、落ちてきた海水を船体で受け止めた。大波は左右へ割れ、横丁を洗ったが、家々を壊すことはなかった。

 船は最後に一度だけ軋み、静かになった。

 白い帆も、骨の帆柱も消えた。

 残ったのは、古びた一艘の木造船だった。

 甲板では、リタエ、サナ、ミミラが仰向けに倒れていた。

「生きてる?」サナが聞く。

「たぶん」とリタエ。

「ボッコは?」

 船長室の扉が開き、ボッコが出てきた。

 腕に大きな鉄箱を抱えている。

「食べ物はなかった」

「それは残念」とサナ。

 鉄箱の中身は、金貨でも宝石でもなかった。

 羊皮紙の束、古い印章、港の建設記録。そして群島王国初代王の署名が入った一枚の勅許状。

 灰鴎港と七つ梁の土地を、そこに住み、海難者を救い、港を守る者たちへ永久に与える。

「財宝より高く、財宝ほど面倒なもの」とリタエが言った。

 その日の正午、琥珀公の役人たちが横丁へ来た。

 だが立札を打った徴税官は行方不明。住民たちは王印つきの勅許状を突きつけ、役人たちは王都へ確認の早馬を出した。

 三週間後、勅許状は本物と認められた。

 琥珀公の造船所計画は中止。

 未納地代は、そもそも徴収する権利がなかったとして返還された。

 さらに一か月後、北岬で違法な帳簿が見つかり、琥珀公は王都へ呼び出された。誰が帳簿を置いたのかは分からない。表紙には蛇錨の焼き印があったという。

 無潮館は消えた。

 跡地には丸い窪地だけが残り、雨が降っても水は溜まらなかった。

 母カルリンは帰らなかった。

 けれどリタエの机には、いつの間にか一枚の新しい地図が置かれていた。

 灰鴎港から始まり、群島を越え、誰も知らない海へ続く地図。

 端に、母の字で短く書かれていた。

 ――帰る場所がある者ほど、遠くへ行ける。

 翌年の春。

 修理された《貸し勘定号》は、横丁の共同船として港に浮かんでいた。船名は住民投票で《七つ梁号》に変えられたが、夜になると古い名が船尾に浮かぶことがある。

 リタエは舵を取り、サナは機関と錠前を担当し、ボッコは炊事長を自称し、ミミラは海図に載らない潮の声を聞いた。

 出航の朝、横丁じゅうの人々が見送りに集まった。

「最初の目的地は?」ボッコが訊く。

 リタエは母の地図を広げた。

 群島の外れ、世界の海が滝となって奈落へ落ちる場所に、小さな黒い印がある。

 窓のない塔。

 その横に、一言だけ。

 ――これは、行くな。

 サナが覗き込み、口の端を上げた。

「親子だね」

 ミミラが巻貝を耳に当てる。

「海は?」

 ボッコが恐る恐る訊いた。

「今日は機嫌がいい。でも、塔のほうから、誰かが八を数えてる」

 四人は黙った。

 七つ梁号の帆が風を孕む。

 リタエは舵を切った。

「まずは、遠回りしよう」

 船は朝日の海へ滑り出した。

 その船底のもっと下、誰もいない暗い部屋で、濡れた赤い帽子が一度だけ持ち上がり、愉快そうに笑った。