『重力のない夜に、おまえを奪い返す』

 辺境惑星カラドンの雨は、空からではなく横から降る。

 赤道を一周する永久暴風帯が、海の塩と砂鉄を含んだ雨粒を、古い弾丸みたいに大地へ叩きつけるのだ。そんな土地で農業機械の修理屋を営むガイ・レヴァントは、今日も半裸だった。

 暑いからではない。

 胸囲百三十センチの男に合う作業着が、この星にはなかったからだ。

「また育ったんじゃないか、その肩」

 格納庫の入口から声がした。

 ガイは、分解した収穫用歩行機の下に潜ったまま、レンチを止めた。

「鉄くずは買わない。借金取りなら昨日、崖から帰した」

「歩いて?」

「転がって」

「相変わらず親切だな」

 聞き覚えのある笑い方だった。軽く、甘く、肝心なところだけ何ひとつ信用できない。

 ガイが機体の下から這い出すと、暴風の銀幕を背に、ひとりの男が立っていた。

 ノア・ヴェイル。

 三十二歳。密輸船乗り。偽造免許の収集家。銀河中央政府が選ぶ「生きているうちに会いたくない男」非公式ランキングの常連。そして、ガイが五年前、何も告げずに捨てた恋人だった。

 濡れた黒髪をかき上げ、ノアは白金色の飛行外套をひるがえした。襟元には、宝石にしか見えない盗聴妨害器が光っている。細身の身体、長い脚、笑うと片方だけ深くなるえくぼ。何度見ても、危険物に美しい包装を施したような男だった。

「死んだと聞いた」

 ガイは言った。

「三回ほど。どれも誤報だ。人気者はつらい」

「用件は」

「再会を喜ぶとか、少しはないのか?」

「ない」

「嘘が下手になったな、隊長」

 昔の呼び名が、胸骨の裏へ鈍く刺さった。

 ガイは立ち上がった。二メートル近い巨体の影がノアを覆う。かつて敵兵ならそれだけで銃を落とした。だがノアは、懐かしい家具でも眺めるように目を細めただけだった。

「その呼び方はやめろ」

「では、元恋人殿」

「もっと悪い」

「じゃあ、ガイ」

 ただ名前を呼ばれただけで、五年分の沈黙が一瞬だけ薄くなる。

 ガイは視線をそらし、作業台の布を取った。油染みだらけのシャツを着る。

「十秒で話せ」

「銀河総督ヨルモンが、惑星十二区を焼こうとしている」

「一秒」

「旧帝国の軌道砲〈聖歌隊〉を再起動した」

「三秒」

「起動鍵を盗んだ」

「五秒」

「ただし鍵は二つに分割されていて、一方は俺、もう一方は――」

 ノアの視線がガイの胸へ落ちた。

 正確には、その奥。古い手術痕の下に埋め込まれた軍用認証核へ。

「――元・第九強襲群の隊長に登録されたままだ」

 ガイの顔から、わずかな表情が消えた。

「八秒」

「ヨルモンは今夜、ここへ来る」

「十秒だ」

「助けてくれ」

 暴風が格納庫の屋根を殴った。

 ガイは答えなかった。

 五年前なら、ノアの頼みを断れなかった。三年前でも、たぶん無理だった。昨日までなら、もう平気だと思っていた。

 今、目の前に立たれてみれば、何も変わっていない。

「おまえを追ってくる敵は何人だ」

「少なく見積もって、二個中隊」

「多く見積もると」

「惑星軍ひとつ」

「帰れ」

「それは断る」

 ノアは勝手知ったる様子で作業台の脇を通り、格納庫奥の居住区へ向かった。

「コーヒーはあるか? 逃亡生活は舌が荒れる」

「毒ならある」

「君が淹れるコーヒーのことか」

 ガイが眉を動かした、その瞬間だった。

 格納庫の照明が落ちた。

 次いで、屋根を貫いて青白い杭が三本、床へ突き刺さる。空間固定杭。半径二十メートルの重力を逆転させる軍用品だ。

「伏せろ!」

 ガイが叫ぶより先に、床が天井になった。

 工具、金属板、歩行機の脚、二人の身体が一斉に跳ね上がる。ガイは作業台を蹴り、空中でノアの腰を抱えた。反対の腕を梁へ叩きつける。掌の皮膚が裂けたが、二人は天井への激突を免れた。

 屋根が爆ぜ、黒い装甲服の兵士たちが逆さまに降下してきた。

「歓迎が派手だな」

 ノアはガイの腕の中で笑った。

「招待したのはおまえだ」

「嫉妬してる?」

「舌を噛むぞ」

 ガイは梁を離した。

 二人は逆重力の中を落下――いや、上昇しながら、降下兵の一人へ衝突した。ガイの肘が装甲兜をへこませる。奪った電磁銃をノアへ投げると、ノアは空中で一回転し、三発を撃った。青い火花が咲き、兵士たちの姿勢制御装置が停止する。

「腕は落ちてないな」

「君の好みだろ?」

「口のほうは悪化した」

 ガイは天井を蹴り、二人目を床へ叩き落とした。

 だが、敵の狙いは最初から勝利ではなかった。

 格納庫の換気口から無色の霧が噴き出した。軍用神経麻酔剤。ガイは息を止めたが、遅い。四肢から力が抜ける。ノアが銃口を上げたまま、空中でぐらりと揺れた。

「ガイ」

 落ちていく声だけが、妙にはっきり聞こえた。

 ガイはノアへ手を伸ばした。

 指先が触れる寸前、重力が戻った。

 二人の間へ床が突進してきた。

 目を覚ますと、ガイは自分の作業椅子に縛られていた。

 格納庫は半壊している。収穫機は燃え、雨が穴だらけの屋根から吹き込んでいた。ノアの姿はない。

 代わりに、空中へ三メートル四方の立体映像が浮かんでいる。

 黒い礼装軍服。白い髪。肉食獣のように整った顔。銀河総督ディラン・ヨルモンは、椅子に座るガイを見下ろして微笑んだ。

『久しぶりだな、第九強襲群の英雄』

「その部隊は解散した」

『君が上官を殴り、軍艦を一隻盗み、機密を四十七件持ち出したせいでな』

「四十六件だ」

『几帳面な男は好きだ』

「俺は嫌いだ」

 ヨルモンの笑みが深くなる。

『ノア・ヴェイルは預かった。彼の頸椎には神経焼却環を装着した。十二時間後、私の解除信号が届かなければ、彼は自分の名前も思い出せない肉になる』

 映像の端に、椅子へ拘束されたノアが映った。

 頬に傷がある。だが生きている。目が合うと、ノアは困ったように片眉を上げた。

『悪い。コーヒーを飲み損ねた』

「黙ってろ」

『恋人への言葉としては冷たいな』

 ヨルモンが愉快そうに言う。

「元だ」

 ガイとノアの声が重なった。

 一拍の沈黙。

 ノアは露骨に顔をしかめ、ガイは奥歯を噛んだ。

『事情はどうでもいい。君には惑星ラザルへ向かい、自治評議会議長エイダ・クロウを殺してもらう。彼女が死ねば、十二区は私の保護条約を受け入れる。君は英雄として処刑され、私は秩序を得る』

「断る」

『そう言うと思った。だから彼を捕らえた』

 ヨルモンが指を鳴らす。

 ノアの首輪に赤い光が走った。ノアの身体が弓なりに反る。叫び声はなかった。歯を食いしばり、ただガイを見た。

 五年前、ガイが最後に見たのと同じ目だった。

 置いていくのか、と問う目。

「やめろ」

『命令を受けるか?』

 ガイは拘束具を軋ませた。今すぐ映像の中へ手を伸ばし、ヨルモンの首を折りたかった。

 できない。

 だから、低く答えた。

「受ける」

 ノアの顔から何かが消えた。

 失望ではない。恐怖でもない。

 それはたぶん、期待だった。

『賢明だ。輸送艇を用意した。君がラザルへ着くまで、部下が見守る。余計な真似をすれば、彼の脳を焼く』

 映像が消える直前、ノアが口だけを動かした。

 来るな。

 ガイにはそう見えた。

「遅い」

 誰もいない格納庫で、ガイはつぶやいた。

「もう行くと決めた」

 彼は両腕に力を込めた。

 軍用炭素繊維の拘束帯が、乾いた音を立てて千切れた。

 ヨルモンが用意した輸送艇には、監視役が六人いた。

 離陸から十三分後には、ゼロ人になった。

 一人は救命ポッドへ詰め、二人は貨物用網に包み、残る三人は操縦席の床で仲良く眠らせた。ガイは艇の針路をラザルから外し、カラドンの外縁を巡る廃棄衛星へ向ける。

 そこには、軍を辞めた人間が絶対に近づいてはいけない場所があった。

 衛星酒場〈最後の弾倉〉

 看板は壊れ、入口には「武器持込禁止。ただし店主より小さい武器に限る」と書かれている。

 ガイが入ると、カウンターの向こうで三本腕の女店主ホディイが葉巻を噛んでいた。

「死んだと思ってたよ」

「今日はそれをよく言われる」

「じゃあ今度こそ死ぬ用事かい?」

「武器がいる」

「やっぱりね」

 ホディイはカウンター下のスイッチを押した。

 床が左右へ割れ、地下武器庫がせり上がる。電磁散弾銃、対装甲槍、指向性爆薬、無人砲台、旧式の光子地雷。小国なら三つほど滅ぼせる量だった。

 ガイはその中から、必要なものだけを選んだ。

 電磁散弾銃を二挺。粘着榴弾を十二。重力索射出器。推進ナイフ。肩載せ式の小型遮蔽場発生機。最後に、巨大な弾薬箱を背負う。

 ホディイが目を丸くした。

「必要なものだけ?」

「控えめにした」

「相手は誰だい」

「ヨルモン」

 ホディイの三本の手が止まった。

「それで、誰を取り戻す」

 ガイは答えず、弾薬帯を胸へ巻いた。

 ホディイは鼻から煙を吐いた。

「五年前、あんたが姿を消したあと、ノアは半年ここに通った。毎晩、酒を一杯だけ頼んで、扉を見てた」

 ガイの手が止まる。

「聞いてない」

「今、言った」

「余計なことだ」

「余計なことを言うのが酒場の仕事さ。あんた、自分が消えればあの男が安全になると思ったんだろう」

「俺の部下は全員死んだ。俺のそばにいたからだ」

「ノアは部下じゃない」

「だからだ」

 ホディイはしばらくガイを見た。

 それから、武器庫の奥から古い金属ケースを取り出す。

「第九強襲群の認証核を抜く装置だ。帰ったら使え」

「帰れたらな」

「違う。帰るんだよ」

 ホディイはケースをガイの胸へ押しつけた。

「生きて謝れ。死んで美談にするな。男同士の痴話喧嘩で銀河を燃やされたら、酒の仕入れが止まる」

 ガイはケースを受け取った。

「代金は」

「ノアに払わせる。あいつのツケは惑星ひとつ分ある」

「了解した」

「ガイ」

 振り返る。

 ホディイは葉巻を指で挟み、笑った。

「派手にやりな」

「苦手だ」

 その日、衛星酒場の監視記録には、店主が二分間笑い続ける映像が残った。

 ヨルモンの要塞衛星〈王冠〉は、惑星十二区の夜側に浮かぶ人工の月だった。

 全長十九キロ。駐留兵一万二千。艦載機三百。軌道砲〈聖歌隊〉の管制中枢を兼ねる、黒い金属の城。

 正面から入るのは不可能。

 だからガイは、正面から入った。

 奪った輸送艇の識別信号を流し、貨物港へ接近する。管制官が着艦許可証を要求した。

「持っていない」

『では待機軌道へ――』

「緊急貨物だ」

『内容は?』

「苦情」

 ガイは推進器を最大まで開いた。

 輸送艇が防爆扉を突き破り、貨物港の中央へ滑り込む。火花と金属片を撒き散らしながら三百メートル進み、装甲車両の列へ突っ込んで停止した。

 警報が鳴る。

 兵士たちが集まる。

 艇の扉が吹き飛び、粘着榴弾が六つ転がった。

「返品だ」

 爆発が貨物港を裏返した。

 ガイは炎の中から歩き出した。遮蔽場が銃弾の軌道を曲げる。右の散弾銃で監視塔を沈黙させ、左で装甲兵の足場を砕く。背後から迫った車両へ重力索を撃ち込み、そのまま旋回して別の車両へ叩きつけた。

 兵士の一人が対戦車砲を構える。

 ガイは近くの飲料販売機を持ち上げた。

「それは盾にならないぞ!」

「知っている」

 販売機を投げた。

 対戦車砲手と飲料販売機が一緒に壁へ埋まった。

 炭酸飲料が雨のように噴き出す。

 ガイは一本を空中でつかみ、栓を歯で抜いた。

「冷えてない」

 飲まずに捨てた。

 貨物港の制圧に、四分十七秒。

 中央管制への通路は閉鎖されていた。厚さ五メートルの耐爆扉。通常なら戦艦の主砲が必要になる。

 ガイは扉脇の整備パネルを開けた。

 配線を二本つかみ、無造作に引き抜く。

 要塞全体の照明が消えた。

 非常灯が赤く灯り、扉が安全規定に従って自動開放される。

「規則は守るものだ」

 ガイは暗い廊下へ入った。

 一方その頃、ノアは牢獄の看守とカードをしていた。

「また俺の勝ち」

「いかさまだ!」

「証拠は?」

「おまえの袖からカードが落ちた!」

「では、袖の勝ちだな」

 看守は顔を赤くして立ち上がった。

 ノアは椅子に縛られたまま、穏やかに笑う。両手首には拘束具。首には神経焼却環。背後には監視機械が二台。脱出には不向きな状況だったが、退屈するよりはましだった。

 要塞が大きく揺れた。

 警報が鳴り、照明が落ちる。

 ノアの笑みが変わった。

「来るなと言ったのに」

「何だ?」

「いや。世界で一番、命令を聞かない男の話だ」

 看守が扉へ振り返る。

 その瞬間、ノアは椅子ごと跳ねた。床へ身体を倒し、椅子の脚で看守の膝を払う。看守が崩れたところへ頭突きを入れ、鍵を奪った。

 拘束を外す。

 監視機械が銃口を向ける。

 ノアは倒れた看守の胸ポケットからカードを二枚抜き、指で弾いた。薄い金属カードが機械の照準口へ突き刺さる。一台が誤射し、もう一台を撃ち抜いた。

「袖の勝ちだ」

 ノアは看守の上着を奪い、廊下へ出た。

 首輪は外せない。十二時間のうち、すでに二時間が過ぎている。解除信号はヨルモン本人の生体鍵。つまり、逃げるだけでは足りない。

 ヨルモンの指を一本もらう必要がある。

「左手がいいな。右手は握手に使う」

 ノアは武器庫から細身の光刃と短銃を取り、要塞の案内図へ侵入した。

 赤い警報表示が、貨物港から中央区画へ一直線に伸びている。

 壁は破られ、兵士は倒れ、なぜか飲料販売機が戦闘損失として記録されていた。

 ノアは額へ手を当てた。

「本当に正面から来たのか、あの大男」

 呆れながら、口元は笑っていた。

 五年前、ガイは何も言わずに消えた。

 朝、目を覚ますと、隣のベッドは冷たかった。通信端末には別れの言葉すらなく、ただノア名義の偽造旅券と、追跡者の名簿だけが残されていた。

 守ったつもりだったのだろう。

 ガイは昔から、腕力で解決できない問題に出会うと、自分を犠牲にして終わらせようとする悪癖があった。

 だから今回、ノアは「来るな」と言った。

 来れば、きっとまた死ぬつもりで戦う。

「許さないぞ」

 ノアは独り言を言った。

「助けに来たことじゃない。勝手に死ぬことをだ」

 中央区画へ続く回廊で、ガイは弾切れになった。

 正確には、弾薬箱の留め具へ敵弾が当たり、残弾の半分が吹き抜けへ落ちた。

 三十人の装甲兵が前方を塞ぐ。後方からも増援。頭上には自動砲台。遮蔽場の残量は七パーセント。

 ガイは空になった散弾銃を捨て、拳を握った。

「降伏しろ!」

 指揮官が叫ぶ。

「今なら命だけは――」

 天井の通気口から、白金色の影が落ちてきた。

 ノアは着地と同時に光刃を振るい、自動砲台の銃身を切断する。短銃で非常用消火弁を撃ち抜き、回廊を白い泡で満たした。

「遅刻だ、ガイ」

 ガイは装甲兵を一人つかみ、別の二人へ投げた。

「おまえを捜していた」

「知ってる。要塞中が君の苦情で大騒ぎだ」

 二人は背中を合わせた。

 五年ぶりだった。

 言葉より先に、身体が昔の間合いを思い出す。ノアが低く滑り込めば、ガイはその頭上を薙ぐ。ガイが敵の注意を引けば、ノアが死角へ針を通す。互いの呼吸、足音、ためらいまで知っている。

 ガイが装甲兵の盾を奪い、回転させる。

 ノアは盾を踏み台に跳び、天井近くから光刃を投げた。刃が制御盤を貫き、隔壁が落ちる。敵の増援が分断された。

 最後の一人が倒れた。

 消火泡の雪が、赤い非常灯の下でゆっくり舞う。

「首輪を見せろ」

 ガイが言った。

「再会の第一声がそれ?」

「さっき会った」

「あれは誘拐の途中だ」

 ノアは襟を開いた。

 銀色の環が、白い首筋へ食い込んでいる。赤い数字は、残り八時間二十一分。

 ガイが触れようとすると、ノアは手首をつかんだ。

「先に話せ」

「時間がない」

「五年待った。八時間くらい使わせろ」

 ガイは黙った。

 遠くで爆発が響く。

 ノアの指が、ガイの手首へ食い込む。

「なぜ消えた」

「俺の過去が、おまえを殺すと思った」

「それは答えじゃない」

「俺のそばにいた人間は死ぬ」

「俺は生きてる」

「今、首に爆弾を巻かれている」

「君がいなくても巻かれた。俺はそういう職業だ」

「だから――」

「だから何だ。俺の人生を、君が勝手に安全な場所へ移せると思ったのか?」

 ガイは言葉を失った。

 ノアの目は怒っていた。怒りの底に、五年分の痛みがある。

「俺は、君に守られたかったんじゃない。君と一緒に危険な目に遭いたかった」

「それは健全じゃない」

「密輸船乗りに健全さを求めるな」

「ノア」

「好きだった」

 過去形が、銃弾より深く入った。

 ノアは笑わなかった。

「好きだったから、選ばせてほしかった。君の隣にいるか、逃げるか。なのに君は、俺から選択を盗んだ」

「……悪かった」

「軽い」

「すまなかった」

「まだ軽い」

 ガイはノアの肩へ手を置いた。

 戦場で震えたことのない手が、わずかに震えている。

「怖かった」

 ノアが目を見開く。

「おまえを失うのが怖かった。だから、失う前に自分から捨てた。卑怯だった」

 ガイは息を吐いた。

「今も怖い」

「なら、どうする」

「ヨルモンを倒す。首輪を外す。軌道砲を止める」

「そのあとだ」

 ガイは答えようとした。

 回廊の壁が爆発した。

 巨大な機械腕が突き抜け、ガイの胴をつかむ。そのまま壁の向こうへ引きずり込んだ。

「ガイ!」

 崩れた区画の向こうに、三メートルを超える戦闘外骨格が立っていた。

 装甲の胸に、ヨルモンの紋章。

 操縦席には、総督本人が座っている。

『感動的な再会だった。録画しておけばよかったな』

「趣味が悪いぞ、総督」

 ノアが短銃を構える。

『君ほどではない。そんな不器用な獣のどこがいい?』

 外骨格がガイを投げた。

 ガイの巨体が柱を二本折り、床を転がる。

 ノアの顔から笑みが消えた。

「全部だ」

 ヨルモンの戦闘外骨格〈皇帝〉は、要塞防衛用の試作機だった。

 装甲は戦艦級。筋力増幅率二百倍。両腕に粒子砲。背部に短距離飛行翼。

 対してガイには、推進ナイフが一本と、怒りがあった。

 十分だった。

 粒子砲が火を噴く。

 ガイは横へ跳び、床を抉る光線をかわす。重力索を天井へ撃ち込み、一気に巻き上げた。外骨格の頭上を飛び越えながら、推進ナイフを背部翼へ突き立てる。

 爆発。

 だが装甲は浅く焦げただけだった。

『旧式の肉体で、どこまでやれる?』

「おまえが黙るまで」

 外骨格の拳が迫る。

 ガイは両腕で受けた。骨が軋み、靴底が床を削る。そのまま二十メートル押し戻される。

 だが倒れない。

 胸に埋め込まれた認証核は、もともと〈聖歌隊〉の鍵ではない。

 第九強襲群の兵士を、局地重力兵器の反動から守るための制御装置だった。

 ガイは認証核を最大出力へ切り替えた。

 周囲の重力が一点に集中する。

 彼の身体が床へ固定され、外骨格の拳が止まった。

『何だと?』

 ガイは拳を押し返した。

 機械の関節が悲鳴を上げる。

 一本、また一本と、巨大な指が開いていく。

「旧式には」

 ガイの筋肉が膨れ、シャツが裂けた。

「旧式の意地がある」

 外骨格の腕をつかみ、腰を落とす。

 三メートルの巨体が宙へ浮いた。

 ガイは〈皇帝〉を床へ叩きつけた。

 要塞が揺れた。

 ノアはその隙に外骨格の背へ飛び乗り、装甲の継ぎ目へ光刃を差し込む。操縦席の封鎖が解除される。

 ヨルモンが拳銃を抜いた。

 ノアの短銃と同時に火を噴く。

 二発の弾丸が空中でぶつかり、弾けた。

「いい腕だ」

 ノアは言った。

『君もな』

「だが、俺には相棒がいる」

 ガイの拳が操縦席の横から飛び込んだ。

 ヨルモンの顔すれすれで止まる。

 風圧だけで、白い髪が乱れた。

「首輪を外せ」

 ガイは言った。

『断れば?』

「次は止めない」

 ヨルモンは血の気を失いながら、なお笑った。

『私を殺せば、解除信号は永遠に失われる』

「殺さない」

「左手だけもらう」

 ノアが補足した。

 ヨルモンの笑みが消えた。

 三十秒後、ノアの首輪は外れた。

 四十五秒後、ヨルモンは自分の外骨格へ手錠でつながれた。

 一分後、要塞内へ警報が響く。

『軌道砲〈聖歌隊〉、自動発射まで三百秒』

 ヨルモンが笑い出した。

『遅かったな。私が止めなければ、十二区は灰になる』

 ガイは胸の認証核へ手を当てた。

「俺の鍵で止める」

『やってみろ。だが認証核を砲へ接続すれば、逆流で君の心臓は焼ける』

 ノアがガイを見る。

 その目だけで、「また一人で死ぬつもりか」と責めていた。

 ガイは視線を受け止めた。

「一緒に来い」

 ノアが瞬きをする。

「選べ。逃げるか、俺と砲を止めるか」

 次の瞬間、ノアは笑った。

 今まで見たどの笑顔よりも、嬉しそうに。

「ようやく学んだな、隊長」

 軌道砲管制室は、要塞の最深部にあった。

 残り二百三十秒。

 ガイとノアは保安艇を奪い、要塞内部の輸送管を飛んだ。後方から無人迎撃機が追う。ノアが操縦し、ガイが天井ハッチから身を乗り出して迎撃する。

「右!」

「どっちの右だ!」

「格好いいほう!」

「両方だ!」

「そういうところは嫌いじゃない!」

 ガイは重力索を撃った。

 索が迎撃機をつかみ、もう一機へぶつける。爆発の波が艇を押し、ノアはそれを利用して急旋回した。輸送管の分岐を壁すれすれで抜ける。

 残り百八十秒。

 管制室へ到着。

 中央には、惑星の半分ほどもある軌道砲へつながる巨大な光柱が立っていた。周囲を数百の制御端末が囲んでいる。

 ノアが端末へ飛びつく。

「鍵の接続口は光柱の中心だ!」

「行く」

「待て。逆流を分散する。三十秒くれ」

「二十秒だ」

「値切るな!」

 ノアの指が端末上を踊る。

 ガイは光柱へ歩いた。熱で皮膚が焼ける。胸の認証核が共鳴し、心臓を内側から殴る。

 残り九十秒。

「まだか」

「今、君を死なせない方法を考えてる!」

「昔は俺を殺す方法ばかり考えていた」

「別れた直後は特にな!」

 残り六十秒。

 ノアが最後の回路を開く。

「ガイ、聞け。認証核へ流れる逆流を、要塞の重力環へ逃がす。ただし接続中、君は動けない」

「問題ない」

「もうひとつ。止められる確率は六十二パーセント」

「高い」

「残り三十八パーセントは?」

「おまえが何とかする」

 ノアは息を呑み、それから笑った。

「任せろ」

 ガイは胸の皮膚へ指を差し込み、古い手術痕を開いた。

 血が流れる。

 その奥から、青白い認証核を引き出す。神経線維が火花を散らし、視界が白く染まった。

 残り三十秒。

 認証核を光柱へ押し込む。

 世界が砕けた。

 要塞全体の重力が乱れ、床も天井も意味を失う。制御端末が宙へ浮き、光の奔流がガイの身体を貫く。

 心臓が止まる。

 次に動いたとき、全身の血が沸騰したように感じた。

「ガイ!」

 遠くからノアの声。

 残り十秒。

 ガイは認証核を奥へ押す。

 腕の筋肉が裂け、指先の感覚が消える。

 残り五秒。

 光柱の色が、赤から青へ変わった。

 三。

 二。

 一。

 軌道砲〈聖歌隊〉は沈黙した。

 代わりに、要塞の全重力環が過負荷で爆発した。

「それも何とかする範囲か?」

 ガイは膝をついた。

 ノアが駆け寄り、肩を支える。

「もちろん。俺を誰だと思ってる」

「ツケを払わない密輸屋」

「正解」

 ノアはガイの腕を自分の肩へ回し、非常口へ向かった。

 要塞が崩れ始める。

「歩けるか?」

「走れる」

「嘘だな」

「嘘は下手になった」

「知ってる」

 二人は笑った。

 爆発する人工月の中を、出口へ向かって走った。

 脱出に使ったのは、ヨルモンの私用艇だった。

 金色の船体。寝室が三つ。酒蔵が一つ。操縦席の椅子は本革で、座ると自動で腰を揉む。

「悪趣味だ」

 ガイは言った。

「船に罪はない」

 ノアは操縦桿を倒した。

 私用艇は崩壊する要塞〈王冠〉から飛び出す。背後で人工月が裂け、無数の光となって十二区の夜へ散った。

 軌道砲は沈黙。

 ヨルモンは救命ポッドに詰めて、自治評議会へ送った。

 惑星は救われた。

 ガイは副操縦席へ深く腰を下ろした。胸の傷には応急処置が施されている。認証核は焼け落ち、もう二度と軍の鍵として使われることはない。

 ノアが自動操縦を入れた。

「さて」

 操縦席が静かになる。

 窓の外を、砕けた要塞の光が流れていく。重力を失った星屑は、花びらのようにゆっくり回っていた。

 ノアはガイの前に立った。

「さっきの続きだ」

「どこからだ」

「そのあと、どうする」

 ガイは逃げずに、ノアを見上げた。

「謝る」

「一生かかるぞ」

「一生かける」

 ノアの目がわずかに揺れた。

「ずるい言い方を覚えたな」

「本気だ」

「俺は、以前と同じじゃない」

「知っている」

「君もだ」

「たぶん」

「また危険な仕事をする」

「俺もする」

「朝、勝手に船を出すことがある」

「俺は追う」

「部屋を散らかす」

「片づける」

「酒場のツケが惑星ひとつ分ある」

「それは自分で払え」

 ノアが吹き出した。

 笑い終えると、彼はガイの頬へ手を添えた。

「最後にひとつ。俺はもう、君の部下じゃない」

「最初から違う」

「じゃあ、何だ」

 ガイは大きな手で、ノアの腰を抱いた。

 逃げ道を塞ぐためではない。

 逃げないと、信じるために。

「相棒だ」

「それだけ?」

「恋人」

「元、だろ」

「訂正したい」

「申請理由は?」

「おまえが好きだ」

 ノアの笑みが消えた。

 代わりに、ひどく無防備な顔になる。

「現在形か」

「今度は間違えない」

「五年遅い」

「すまない」

「軽い」

 ノアはそう言って、ガイの唇へ自分の唇を重ねた。

 最初は確かめるように。

 次は、失った五年を取り戻すように深く。

 ガイは目を閉じた。爆発も警報もない静けさの中で、ノアの呼吸だけが近い。胸の傷は痛み、折れた肋骨も抗議していたが、それでも生きていると思った。

 唇が離れる。

「これで半分」

 ノアが囁く。

「残りは?」

「一生かけて払え」

「了解した」

 そのとき、操縦席に警報が鳴った。

『警告。所属不明艦三隻が接近。武装展開を確認』

 ノアはため息をつき、操縦席へ戻る。

「どうやらヨルモンの残党だ」

 ガイは立ち上がり、武器庫を開いた。

 中には儀礼用の光線拳銃が二挺と、宴会用の発泡酒が二十本。

「装備が足りない」

「工夫しろ。君の得意分野だろ」

 ガイは発泡酒の瓶を一本持ち上げ、重さを確かめた。

「冷えている」

「今度は飲むか?」

「敵に届ける」

 ノアは笑い、加速レバーを押し込んだ。

 金色の船が、星の海へ踊り出す。

 その隣で、ガイは二度と離さないと決めた男の肩へ手を置いた。

「ノア」

「何だ?」

「帰る場所はあるか」

 ノアは前を向いたまま答えた。

「今、できた」

 船は砲火をくぐり、夜より深い宇宙へ消えた。

 重力のない場所で、二人はようやく同じ未来へ落ちていった。