『重力のない夜に、おまえを奪い返す』
1
辺境惑星カラドンの雨は、空からではなく横から降る。
赤道を一周する永久暴風帯が、海の塩と砂鉄を含んだ雨粒を、古い弾丸みたいに大地へ叩きつけるのだ。そんな土地で農業機械の修理屋を営むガイ・レヴァントは、今日も半裸だった。
暑いからではない。
胸囲百三十センチの男に合う作業着が、この星にはなかったからだ。
「また育ったんじゃないか、その肩」
格納庫の入口から声がした。
ガイは、分解した収穫用歩行機の下に潜ったまま、レンチを止めた。
「鉄くずは買わない。借金取りなら昨日、崖から帰した」
「歩いて?」
「転がって」
「相変わらず親切だな」
聞き覚えのある笑い方だった。軽く、甘く、肝心なところだけ何ひとつ信用できない。
ガイが機体の下から這い出すと、暴風の銀幕を背に、ひとりの男が立っていた。
ノア・ヴェイル。
三十二歳。密輸船乗り。偽造免許の収集家。銀河中央政府が選ぶ「生きているうちに会いたくない男」非公式ランキングの常連。そして、ガイが五年前、何も告げずに捨てた恋人だった。
濡れた黒髪をかき上げ、ノアは白金色の飛行外套をひるがえした。襟元には、宝石にしか見えない盗聴妨害器が光っている。細身の身体、長い脚、笑うと片方だけ深くなるえくぼ。何度見ても、危険物に美しい包装を施したような男だった。
「死んだと聞いた」
ガイは言った。
「三回ほど。どれも誤報だ。人気者はつらい」
「用件は」
「再会を喜ぶとか、少しはないのか?」
「ない」
「嘘が下手になったな、隊長」
昔の呼び名が、胸骨の裏へ鈍く刺さった。
ガイは立ち上がった。二メートル近い巨体の影がノアを覆う。かつて敵兵ならそれだけで銃を落とした。だがノアは、懐かしい家具でも眺めるように目を細めただけだった。
「その呼び方はやめろ」
「では、元恋人殿」
「もっと悪い」
「じゃあ、ガイ」
ただ名前を呼ばれただけで、五年分の沈黙が一瞬だけ薄くなる。
ガイは視線をそらし、作業台の布を取った。油染みだらけのシャツを着る。
「十秒で話せ」
「銀河総督ヨルモンが、惑星十二区を焼こうとしている」
「一秒」
「旧帝国の軌道砲〈聖歌隊〉を再起動した」
「三秒」
「起動鍵を盗んだ」
「五秒」
「ただし鍵は二つに分割されていて、一方は俺、もう一方は――」
ノアの視線がガイの胸へ落ちた。
正確には、その奥。古い手術痕の下に埋め込まれた軍用認証核へ。
「――元・第九強襲群の隊長に登録されたままだ」
ガイの顔から、わずかな表情が消えた。
「八秒」
「ヨルモンは今夜、ここへ来る」
「十秒だ」
「助けてくれ」
暴風が格納庫の屋根を殴った。
ガイは答えなかった。
五年前なら、ノアの頼みを断れなかった。三年前でも、たぶん無理だった。昨日までなら、もう平気だと思っていた。
今、目の前に立たれてみれば、何も変わっていない。
「おまえを追ってくる敵は何人だ」
「少なく見積もって、二個中隊」
「多く見積もると」
「惑星軍ひとつ」
「帰れ」
「それは断る」
ノアは勝手知ったる様子で作業台の脇を通り、格納庫奥の居住区へ向かった。
「コーヒーはあるか? 逃亡生活は舌が荒れる」
「毒ならある」
「君が淹れるコーヒーのことか」
ガイが眉を動かした、その瞬間だった。
格納庫の照明が落ちた。
次いで、屋根を貫いて青白い杭が三本、床へ突き刺さる。空間固定杭。半径二十メートルの重力を逆転させる軍用品だ。
「伏せろ!」
ガイが叫ぶより先に、床が天井になった。
工具、金属板、歩行機の脚、二人の身体が一斉に跳ね上がる。ガイは作業台を蹴り、空中でノアの腰を抱えた。反対の腕を梁へ叩きつける。掌の皮膚が裂けたが、二人は天井への激突を免れた。
屋根が爆ぜ、黒い装甲服の兵士たちが逆さまに降下してきた。
「歓迎が派手だな」
ノアはガイの腕の中で笑った。
「招待したのはおまえだ」
「嫉妬してる?」
「舌を噛むぞ」
ガイは梁を離した。
二人は逆重力の中を落下――いや、上昇しながら、降下兵の一人へ衝突した。ガイの肘が装甲兜をへこませる。奪った電磁銃をノアへ投げると、ノアは空中で一回転し、三発を撃った。青い火花が咲き、兵士たちの姿勢制御装置が停止する。
「腕は落ちてないな」
「君の好みだろ?」
「口のほうは悪化した」
ガイは天井を蹴り、二人目を床へ叩き落とした。
だが、敵の狙いは最初から勝利ではなかった。
格納庫の換気口から無色の霧が噴き出した。軍用神経麻酔剤。ガイは息を止めたが、遅い。四肢から力が抜ける。ノアが銃口を上げたまま、空中でぐらりと揺れた。
「ガイ」
落ちていく声だけが、妙にはっきり聞こえた。
ガイはノアへ手を伸ばした。
指先が触れる寸前、重力が戻った。
二人の間へ床が突進してきた。
2
目を覚ますと、ガイは自分の作業椅子に縛られていた。
格納庫は半壊している。収穫機は燃え、雨が穴だらけの屋根から吹き込んでいた。ノアの姿はない。
代わりに、空中へ三メートル四方の立体映像が浮かんでいる。
黒い礼装軍服。白い髪。肉食獣のように整った顔。銀河総督ディラン・ヨルモンは、椅子に座るガイを見下ろして微笑んだ。
『久しぶりだな、第九強襲群の英雄』
「その部隊は解散した」
『君が上官を殴り、軍艦を一隻盗み、機密を四十七件持ち出したせいでな』
「四十六件だ」
『几帳面な男は好きだ』
「俺は嫌いだ」
ヨルモンの笑みが深くなる。
『ノア・ヴェイルは預かった。彼の頸椎には神経焼却環を装着した。十二時間後、私の解除信号が届かなければ、彼は自分の名前も思い出せない肉になる』
映像の端に、椅子へ拘束されたノアが映った。
頬に傷がある。だが生きている。目が合うと、ノアは困ったように片眉を上げた。
『悪い。コーヒーを飲み損ねた』
「黙ってろ」
『恋人への言葉としては冷たいな』
ヨルモンが愉快そうに言う。
「元だ」
ガイとノアの声が重なった。
一拍の沈黙。
ノアは露骨に顔をしかめ、ガイは奥歯を噛んだ。
『事情はどうでもいい。君には惑星ラザルへ向かい、自治評議会議長エイダ・クロウを殺してもらう。彼女が死ねば、十二区は私の保護条約を受け入れる。君は英雄として処刑され、私は秩序を得る』
「断る」
『そう言うと思った。だから彼を捕らえた』
ヨルモンが指を鳴らす。
ノアの首輪に赤い光が走った。ノアの身体が弓なりに反る。叫び声はなかった。歯を食いしばり、ただガイを見た。
五年前、ガイが最後に見たのと同じ目だった。
置いていくのか、と問う目。
「やめろ」
『命令を受けるか?』
ガイは拘束具を軋ませた。今すぐ映像の中へ手を伸ばし、ヨルモンの首を折りたかった。
できない。
だから、低く答えた。
「受ける」
ノアの顔から何かが消えた。
失望ではない。恐怖でもない。
それはたぶん、期待だった。
『賢明だ。輸送艇を用意した。君がラザルへ着くまで、部下が見守る。余計な真似をすれば、彼の脳を焼く』
映像が消える直前、ノアが口だけを動かした。
来るな。
ガイにはそう見えた。
「遅い」
誰もいない格納庫で、ガイはつぶやいた。
「もう行くと決めた」
彼は両腕に力を込めた。
軍用炭素繊維の拘束帯が、乾いた音を立てて千切れた。
3
ヨルモンが用意した輸送艇には、監視役が六人いた。
離陸から十三分後には、ゼロ人になった。
一人は救命ポッドへ詰め、二人は貨物用網に包み、残る三人は操縦席の床で仲良く眠らせた。ガイは艇の針路をラザルから外し、カラドンの外縁を巡る廃棄衛星へ向ける。
そこには、軍を辞めた人間が絶対に近づいてはいけない場所があった。
衛星酒場〈最後の弾倉〉。
看板は壊れ、入口には「武器持込禁止。ただし店主より小さい武器に限る」と書かれている。
ガイが入ると、カウンターの向こうで三本腕の女店主ホディイが葉巻を噛んでいた。
「死んだと思ってたよ」
「今日はそれをよく言われる」
「じゃあ今度こそ死ぬ用事かい?」
「武器がいる」
「やっぱりね」
ホディイはカウンター下のスイッチを押した。
床が左右へ割れ、地下武器庫がせり上がる。電磁散弾銃、対装甲槍、指向性爆薬、無人砲台、旧式の光子地雷。小国なら三つほど滅ぼせる量だった。
ガイはその中から、必要なものだけを選んだ。
電磁散弾銃を二挺。粘着榴弾を十二。重力索射出器。推進ナイフ。肩載せ式の小型遮蔽場発生機。最後に、巨大な弾薬箱を背負う。
ホディイが目を丸くした。
「必要なものだけ?」
「控えめにした」
「相手は誰だい」
「ヨルモン」
ホディイの三本の手が止まった。
「それで、誰を取り戻す」
ガイは答えず、弾薬帯を胸へ巻いた。
ホディイは鼻から煙を吐いた。
「五年前、あんたが姿を消したあと、ノアは半年ここに通った。毎晩、酒を一杯だけ頼んで、扉を見てた」
ガイの手が止まる。
「聞いてない」
「今、言った」
「余計なことだ」
「余計なことを言うのが酒場の仕事さ。あんた、自分が消えればあの男が安全になると思ったんだろう」
「俺の部下は全員死んだ。俺のそばにいたからだ」
「ノアは部下じゃない」
「だからだ」
ホディイはしばらくガイを見た。
それから、武器庫の奥から古い金属ケースを取り出す。
「第九強襲群の認証核を抜く装置だ。帰ったら使え」
「帰れたらな」
「違う。帰るんだよ」
ホディイはケースをガイの胸へ押しつけた。
「生きて謝れ。死んで美談にするな。男同士の痴話喧嘩で銀河を燃やされたら、酒の仕入れが止まる」
ガイはケースを受け取った。
「代金は」
「ノアに払わせる。あいつのツケは惑星ひとつ分ある」
「了解した」
「ガイ」
振り返る。
ホディイは葉巻を指で挟み、笑った。
「派手にやりな」
「苦手だ」
その日、衛星酒場の監視記録には、店主が二分間笑い続ける映像が残った。
4
ヨルモンの要塞衛星〈王冠〉は、惑星十二区の夜側に浮かぶ人工の月だった。
全長十九キロ。駐留兵一万二千。艦載機三百。軌道砲〈聖歌隊〉の管制中枢を兼ねる、黒い金属の城。
正面から入るのは不可能。
だからガイは、正面から入った。
奪った輸送艇の識別信号を流し、貨物港へ接近する。管制官が着艦許可証を要求した。
「持っていない」
『では待機軌道へ――』
「緊急貨物だ」
『内容は?』
「苦情」
ガイは推進器を最大まで開いた。
輸送艇が防爆扉を突き破り、貨物港の中央へ滑り込む。火花と金属片を撒き散らしながら三百メートル進み、装甲車両の列へ突っ込んで停止した。
警報が鳴る。
兵士たちが集まる。
艇の扉が吹き飛び、粘着榴弾が六つ転がった。
「返品だ」
爆発が貨物港を裏返した。
ガイは炎の中から歩き出した。遮蔽場が銃弾の軌道を曲げる。右の散弾銃で監視塔を沈黙させ、左で装甲兵の足場を砕く。背後から迫った車両へ重力索を撃ち込み、そのまま旋回して別の車両へ叩きつけた。
兵士の一人が対戦車砲を構える。
ガイは近くの飲料販売機を持ち上げた。
「それは盾にならないぞ!」
「知っている」
販売機を投げた。
対戦車砲手と飲料販売機が一緒に壁へ埋まった。
炭酸飲料が雨のように噴き出す。
ガイは一本を空中でつかみ、栓を歯で抜いた。
「冷えてない」
飲まずに捨てた。
貨物港の制圧に、四分十七秒。
中央管制への通路は閉鎖されていた。厚さ五メートルの耐爆扉。通常なら戦艦の主砲が必要になる。
ガイは扉脇の整備パネルを開けた。
配線を二本つかみ、無造作に引き抜く。
要塞全体の照明が消えた。
非常灯が赤く灯り、扉が安全規定に従って自動開放される。
「規則は守るものだ」
ガイは暗い廊下へ入った。
5
一方その頃、ノアは牢獄の看守とカードをしていた。
「また俺の勝ち」
「いかさまだ!」
「証拠は?」
「おまえの袖からカードが落ちた!」
「では、袖の勝ちだな」
看守は顔を赤くして立ち上がった。
ノアは椅子に縛られたまま、穏やかに笑う。両手首には拘束具。首には神経焼却環。背後には監視機械が二台。脱出には不向きな状況だったが、退屈するよりはましだった。
要塞が大きく揺れた。
警報が鳴り、照明が落ちる。
ノアの笑みが変わった。
「来るなと言ったのに」
「何だ?」
「いや。世界で一番、命令を聞かない男の話だ」
看守が扉へ振り返る。
その瞬間、ノアは椅子ごと跳ねた。床へ身体を倒し、椅子の脚で看守の膝を払う。看守が崩れたところへ頭突きを入れ、鍵を奪った。
拘束を外す。
監視機械が銃口を向ける。
ノアは倒れた看守の胸ポケットからカードを二枚抜き、指で弾いた。薄い金属カードが機械の照準口へ突き刺さる。一台が誤射し、もう一台を撃ち抜いた。
「袖の勝ちだ」
ノアは看守の上着を奪い、廊下へ出た。
首輪は外せない。十二時間のうち、すでに二時間が過ぎている。解除信号はヨルモン本人の生体鍵。つまり、逃げるだけでは足りない。
ヨルモンの指を一本もらう必要がある。
「左手がいいな。右手は握手に使う」
ノアは武器庫から細身の光刃と短銃を取り、要塞の案内図へ侵入した。
赤い警報表示が、貨物港から中央区画へ一直線に伸びている。
壁は破られ、兵士は倒れ、なぜか飲料販売機が戦闘損失として記録されていた。
ノアは額へ手を当てた。
「本当に正面から来たのか、あの大男」
呆れながら、口元は笑っていた。
五年前、ガイは何も言わずに消えた。
朝、目を覚ますと、隣のベッドは冷たかった。通信端末には別れの言葉すらなく、ただノア名義の偽造旅券と、追跡者の名簿だけが残されていた。
守ったつもりだったのだろう。
ガイは昔から、腕力で解決できない問題に出会うと、自分を犠牲にして終わらせようとする悪癖があった。
だから今回、ノアは「来るな」と言った。
来れば、きっとまた死ぬつもりで戦う。
「許さないぞ」
ノアは独り言を言った。
「助けに来たことじゃない。勝手に死ぬことをだ」
6
中央区画へ続く回廊で、ガイは弾切れになった。
正確には、弾薬箱の留め具へ敵弾が当たり、残弾の半分が吹き抜けへ落ちた。
三十人の装甲兵が前方を塞ぐ。後方からも増援。頭上には自動砲台。遮蔽場の残量は七パーセント。
ガイは空になった散弾銃を捨て、拳を握った。
「降伏しろ!」
指揮官が叫ぶ。
「今なら命だけは――」
天井の通気口から、白金色の影が落ちてきた。
ノアは着地と同時に光刃を振るい、自動砲台の銃身を切断する。短銃で非常用消火弁を撃ち抜き、回廊を白い泡で満たした。
「遅刻だ、ガイ」
ガイは装甲兵を一人つかみ、別の二人へ投げた。
「おまえを捜していた」
「知ってる。要塞中が君の苦情で大騒ぎだ」
二人は背中を合わせた。
五年ぶりだった。
言葉より先に、身体が昔の間合いを思い出す。ノアが低く滑り込めば、ガイはその頭上を薙ぐ。ガイが敵の注意を引けば、ノアが死角へ針を通す。互いの呼吸、足音、ためらいまで知っている。
ガイが装甲兵の盾を奪い、回転させる。
ノアは盾を踏み台に跳び、天井近くから光刃を投げた。刃が制御盤を貫き、隔壁が落ちる。敵の増援が分断された。
最後の一人が倒れた。
消火泡の雪が、赤い非常灯の下でゆっくり舞う。
「首輪を見せろ」
ガイが言った。
「再会の第一声がそれ?」
「さっき会った」
「あれは誘拐の途中だ」
ノアは襟を開いた。
銀色の環が、白い首筋へ食い込んでいる。赤い数字は、残り八時間二十一分。
ガイが触れようとすると、ノアは手首をつかんだ。
「先に話せ」
「時間がない」
「五年待った。八時間くらい使わせろ」
ガイは黙った。
遠くで爆発が響く。
ノアの指が、ガイの手首へ食い込む。
「なぜ消えた」
「俺の過去が、おまえを殺すと思った」
「それは答えじゃない」
「俺のそばにいた人間は死ぬ」
「俺は生きてる」
「今、首に爆弾を巻かれている」
「君がいなくても巻かれた。俺はそういう職業だ」
「だから――」
「だから何だ。俺の人生を、君が勝手に安全な場所へ移せると思ったのか?」
ガイは言葉を失った。
ノアの目は怒っていた。怒りの底に、五年分の痛みがある。
「俺は、君に守られたかったんじゃない。君と一緒に危険な目に遭いたかった」
「それは健全じゃない」
「密輸船乗りに健全さを求めるな」
「ノア」
「好きだった」
過去形が、銃弾より深く入った。
ノアは笑わなかった。
「好きだったから、選ばせてほしかった。君の隣にいるか、逃げるか。なのに君は、俺から選択を盗んだ」
「……悪かった」
「軽い」
「すまなかった」
「まだ軽い」
ガイはノアの肩へ手を置いた。
戦場で震えたことのない手が、わずかに震えている。
「怖かった」
ノアが目を見開く。
「おまえを失うのが怖かった。だから、失う前に自分から捨てた。卑怯だった」
ガイは息を吐いた。
「今も怖い」
「なら、どうする」
「ヨルモンを倒す。首輪を外す。軌道砲を止める」
「そのあとだ」
ガイは答えようとした。
回廊の壁が爆発した。
巨大な機械腕が突き抜け、ガイの胴をつかむ。そのまま壁の向こうへ引きずり込んだ。
「ガイ!」
崩れた区画の向こうに、三メートルを超える戦闘外骨格が立っていた。
装甲の胸に、ヨルモンの紋章。
操縦席には、総督本人が座っている。
『感動的な再会だった。録画しておけばよかったな』
「趣味が悪いぞ、総督」
ノアが短銃を構える。
『君ほどではない。そんな不器用な獣のどこがいい?』
外骨格がガイを投げた。
ガイの巨体が柱を二本折り、床を転がる。
ノアの顔から笑みが消えた。
「全部だ」
7
ヨルモンの戦闘外骨格〈皇帝〉は、要塞防衛用の試作機だった。
装甲は戦艦級。筋力増幅率二百倍。両腕に粒子砲。背部に短距離飛行翼。
対してガイには、推進ナイフが一本と、怒りがあった。
十分だった。
粒子砲が火を噴く。
ガイは横へ跳び、床を抉る光線をかわす。重力索を天井へ撃ち込み、一気に巻き上げた。外骨格の頭上を飛び越えながら、推進ナイフを背部翼へ突き立てる。
爆発。
だが装甲は浅く焦げただけだった。
『旧式の肉体で、どこまでやれる?』
「おまえが黙るまで」
外骨格の拳が迫る。
ガイは両腕で受けた。骨が軋み、靴底が床を削る。そのまま二十メートル押し戻される。
だが倒れない。
胸に埋め込まれた認証核は、もともと〈聖歌隊〉の鍵ではない。
第九強襲群の兵士を、局地重力兵器の反動から守るための制御装置だった。
ガイは認証核を最大出力へ切り替えた。
周囲の重力が一点に集中する。
彼の身体が床へ固定され、外骨格の拳が止まった。
『何だと?』
ガイは拳を押し返した。
機械の関節が悲鳴を上げる。
一本、また一本と、巨大な指が開いていく。
「旧式には」
ガイの筋肉が膨れ、シャツが裂けた。
「旧式の意地がある」
外骨格の腕をつかみ、腰を落とす。
三メートルの巨体が宙へ浮いた。
ガイは〈皇帝〉を床へ叩きつけた。
要塞が揺れた。
ノアはその隙に外骨格の背へ飛び乗り、装甲の継ぎ目へ光刃を差し込む。操縦席の封鎖が解除される。
ヨルモンが拳銃を抜いた。
ノアの短銃と同時に火を噴く。
二発の弾丸が空中でぶつかり、弾けた。
「いい腕だ」
ノアは言った。
『君もな』
「だが、俺には相棒がいる」
ガイの拳が操縦席の横から飛び込んだ。
ヨルモンの顔すれすれで止まる。
風圧だけで、白い髪が乱れた。
「首輪を外せ」
ガイは言った。
『断れば?』
「次は止めない」
ヨルモンは血の気を失いながら、なお笑った。
『私を殺せば、解除信号は永遠に失われる』
「殺さない」
「左手だけもらう」
ノアが補足した。
ヨルモンの笑みが消えた。
三十秒後、ノアの首輪は外れた。
四十五秒後、ヨルモンは自分の外骨格へ手錠でつながれた。
一分後、要塞内へ警報が響く。
『軌道砲〈聖歌隊〉、自動発射まで三百秒』
ヨルモンが笑い出した。
『遅かったな。私が止めなければ、十二区は灰になる』
ガイは胸の認証核へ手を当てた。
「俺の鍵で止める」
『やってみろ。だが認証核を砲へ接続すれば、逆流で君の心臓は焼ける』
ノアがガイを見る。
その目だけで、「また一人で死ぬつもりか」と責めていた。
ガイは視線を受け止めた。
「一緒に来い」
ノアが瞬きをする。
「選べ。逃げるか、俺と砲を止めるか」
次の瞬間、ノアは笑った。
今まで見たどの笑顔よりも、嬉しそうに。
「ようやく学んだな、隊長」
8
軌道砲管制室は、要塞の最深部にあった。
残り二百三十秒。
ガイとノアは保安艇を奪い、要塞内部の輸送管を飛んだ。後方から無人迎撃機が追う。ノアが操縦し、ガイが天井ハッチから身を乗り出して迎撃する。
「右!」
「どっちの右だ!」
「格好いいほう!」
「両方だ!」
「そういうところは嫌いじゃない!」
ガイは重力索を撃った。
索が迎撃機をつかみ、もう一機へぶつける。爆発の波が艇を押し、ノアはそれを利用して急旋回した。輸送管の分岐を壁すれすれで抜ける。
残り百八十秒。
管制室へ到着。
中央には、惑星の半分ほどもある軌道砲へつながる巨大な光柱が立っていた。周囲を数百の制御端末が囲んでいる。
ノアが端末へ飛びつく。
「鍵の接続口は光柱の中心だ!」
「行く」
「待て。逆流を分散する。三十秒くれ」
「二十秒だ」
「値切るな!」
ノアの指が端末上を踊る。
ガイは光柱へ歩いた。熱で皮膚が焼ける。胸の認証核が共鳴し、心臓を内側から殴る。
残り九十秒。
「まだか」
「今、君を死なせない方法を考えてる!」
「昔は俺を殺す方法ばかり考えていた」
「別れた直後は特にな!」
残り六十秒。
ノアが最後の回路を開く。
「ガイ、聞け。認証核へ流れる逆流を、要塞の重力環へ逃がす。ただし接続中、君は動けない」
「問題ない」
「もうひとつ。止められる確率は六十二パーセント」
「高い」
「残り三十八パーセントは?」
「おまえが何とかする」
ノアは息を呑み、それから笑った。
「任せろ」
ガイは胸の皮膚へ指を差し込み、古い手術痕を開いた。
血が流れる。
その奥から、青白い認証核を引き出す。神経線維が火花を散らし、視界が白く染まった。
残り三十秒。
認証核を光柱へ押し込む。
世界が砕けた。
要塞全体の重力が乱れ、床も天井も意味を失う。制御端末が宙へ浮き、光の奔流がガイの身体を貫く。
心臓が止まる。
次に動いたとき、全身の血が沸騰したように感じた。
「ガイ!」
遠くからノアの声。
残り十秒。
ガイは認証核を奥へ押す。
腕の筋肉が裂け、指先の感覚が消える。
残り五秒。
光柱の色が、赤から青へ変わった。
三。
二。
一。
軌道砲〈聖歌隊〉は沈黙した。
代わりに、要塞の全重力環が過負荷で爆発した。
「それも何とかする範囲か?」
ガイは膝をついた。
ノアが駆け寄り、肩を支える。
「もちろん。俺を誰だと思ってる」
「ツケを払わない密輸屋」
「正解」
ノアはガイの腕を自分の肩へ回し、非常口へ向かった。
要塞が崩れ始める。
「歩けるか?」
「走れる」
「嘘だな」
「嘘は下手になった」
「知ってる」
二人は笑った。
爆発する人工月の中を、出口へ向かって走った。
9
脱出に使ったのは、ヨルモンの私用艇だった。
金色の船体。寝室が三つ。酒蔵が一つ。操縦席の椅子は本革で、座ると自動で腰を揉む。
「悪趣味だ」
ガイは言った。
「船に罪はない」
ノアは操縦桿を倒した。
私用艇は崩壊する要塞〈王冠〉から飛び出す。背後で人工月が裂け、無数の光となって十二区の夜へ散った。
軌道砲は沈黙。
ヨルモンは救命ポッドに詰めて、自治評議会へ送った。
惑星は救われた。
ガイは副操縦席へ深く腰を下ろした。胸の傷には応急処置が施されている。認証核は焼け落ち、もう二度と軍の鍵として使われることはない。
ノアが自動操縦を入れた。
「さて」
操縦席が静かになる。
窓の外を、砕けた要塞の光が流れていく。重力を失った星屑は、花びらのようにゆっくり回っていた。
ノアはガイの前に立った。
「さっきの続きだ」
「どこからだ」
「そのあと、どうする」
ガイは逃げずに、ノアを見上げた。
「謝る」
「一生かかるぞ」
「一生かける」
ノアの目がわずかに揺れた。
「ずるい言い方を覚えたな」
「本気だ」
「俺は、以前と同じじゃない」
「知っている」
「君もだ」
「たぶん」
「また危険な仕事をする」
「俺もする」
「朝、勝手に船を出すことがある」
「俺は追う」
「部屋を散らかす」
「片づける」
「酒場のツケが惑星ひとつ分ある」
「それは自分で払え」
ノアが吹き出した。
笑い終えると、彼はガイの頬へ手を添えた。
「最後にひとつ。俺はもう、君の部下じゃない」
「最初から違う」
「じゃあ、何だ」
ガイは大きな手で、ノアの腰を抱いた。
逃げ道を塞ぐためではない。
逃げないと、信じるために。
「相棒だ」
「それだけ?」
「恋人」
「元、だろ」
「訂正したい」
「申請理由は?」
「おまえが好きだ」
ノアの笑みが消えた。
代わりに、ひどく無防備な顔になる。
「現在形か」
「今度は間違えない」
「五年遅い」
「すまない」
「軽い」
ノアはそう言って、ガイの唇へ自分の唇を重ねた。
最初は確かめるように。
次は、失った五年を取り戻すように深く。
ガイは目を閉じた。爆発も警報もない静けさの中で、ノアの呼吸だけが近い。胸の傷は痛み、折れた肋骨も抗議していたが、それでも生きていると思った。
唇が離れる。
「これで半分」
ノアが囁く。
「残りは?」
「一生かけて払え」
「了解した」
そのとき、操縦席に警報が鳴った。
『警告。所属不明艦三隻が接近。武装展開を確認』
ノアはため息をつき、操縦席へ戻る。
「どうやらヨルモンの残党だ」
ガイは立ち上がり、武器庫を開いた。
中には儀礼用の光線拳銃が二挺と、宴会用の発泡酒が二十本。
「装備が足りない」
「工夫しろ。君の得意分野だろ」
ガイは発泡酒の瓶を一本持ち上げ、重さを確かめた。
「冷えている」
「今度は飲むか?」
「敵に届ける」
ノアは笑い、加速レバーを押し込んだ。
金色の船が、星の海へ踊り出す。
その隣で、ガイは二度と離さないと決めた男の肩へ手を置いた。
「ノア」
「何だ?」
「帰る場所はあるか」
ノアは前を向いたまま答えた。
「今、できた」
船は砲火をくぐり、夜より深い宇宙へ消えた。
重力のない場所で、二人はようやく同じ未来へ落ちていった。
了