『金木犀は白線を越えて』

 秋の匂いは、景色より先に届く。

 金木犀。濡れた土。夜のあいだに冷えたゴムの走路。遠くの工場から流れてくる、鉄を削ったあとの乾いた粉。

 風間瑠架は、まだ薄暗い市営競技場の第四レーンで、スターティングブロックに両足をかけた。

 灰色狼の耳を伏せ、尻尾を低くする。息を吐く。百メートル先の白線だけを見る。

 号砲は鳴らない。早朝練習では、手を叩く音が合図だった。

「位置について」

 黒鋼工科高校の馬場顧問が、ホームストレートの外から右手を上げた。

「よーい」

 乾いた音。

 瑠架の身体は、考えるより先に飛び出した。

 爪先がトラックを噛む。一歩、二歩、三歩。肩の力を抜き、骨盤を前へ運び、腕を振る。冷たい空気が鼻腔を刺した。世界が細長くなり、白線と、自分の呼吸と、足音だけになる。

 速く走っているときだけ、瑠架は自分の牙を忘れられた。

 狼だから速い、と言われるのは嫌いだった。狼なのに怖くない、と言われるのは、もっと嫌いだった。

 どちらも、瑠架を見ているようで、見ていない。

 三百メートルを過ぎる。腿が重くなり、肺の奥が焼ける。最後の直線で身体がほどけそうになるのを、腕で引き戻す。

 ゴール。

 馬場がストップウォッチを止めた。

「五十六秒八。朝にしちゃ悪くない」

「一本目だからです」

「二本目も同じ口が利けたら大したもんだ」

 瑠架は返事の代わりに肩で息をした。

 そのとき、風向きが変わった。

 金木犀の甘い匂いに、細い金属のような匂いが混じった。

 恐怖の匂いだ。

 狼の鼻は、本人が隠したつもりの感情まで拾う。汗の成分、呼吸の乱れ、毛の根元から立ち上がるかすかな体臭。怒りは熱く、悲しみは湿って、恐怖は古い硬貨に似ている。

 瑠架は顔を上げた。

 フェンスの向こうに、一頭の鹿が立っていた。

 紺色のブレザー。胸には銀糸で縫われた青嶺学院の校章。丘の上に校舎を構える、進学校だ。市内では「青嶺に入れば将来は半分決まった」とまで言われている。

 対して瑠架の黒鋼工科は、川向こうの工業地帯にある。機械科、建築科、獣体装具科。就職率は高いが、制服の黒い詰襟と荒っぽい校風のせいで、青嶺の生徒からは近寄りがたい学校と思われていた。

 法律上、学校に種族による入学制限はない。

 けれど青嶺には角を持つ生徒が多く、黒鋼には牙を持つ生徒が多い。

 昔の区分は、規則より長く残る。

 鹿の少年は、瑠架と目が合うと、わずかに肩を跳ねさせた。

 やっぱり、と瑠架は思った。

 彼の恐怖は、自分に向いている。

 瑠架が視線を外そうとしたとき、少年がフェンス越しに頭を下げた。

「すみません。見てしまって」

「別に」

「きれいだったから」

 瑠架は耳を立てた。

「走りが、です」

「分かってる」

 少年は赤くなった。鹿の薄い耳は、感情が出やすい。

 その足元に、小さな布袋が落ちていた。橙色の糸で花が刺繍されている。金木犀の匂いは、そこからしていた。

「落とした」

 瑠架が指さすと、少年は慌てて拾った。

「ありがとう。これがないと、少し困るんだ」

「お守り?」

「そんなところ」

 彼は布袋を握り、もう一度頭を下げた。

「榛名透。青嶺の二年です。八百メートルを走っています」

「聞いてない」

「そうだね。ごめん」

 透は困ったように笑った。

 恐怖の匂いは、消えなかった。

 瑠架はそれ以上、彼を見なかった。

 十月の第三日曜日、潮見市では「渡り橋リレー」が開かれる。

 東岸と西岸の学校から選手を二名ずつ出し、四校合同の四百メートルリレーを組む、市制百周年を機に始まった大会だった。表向きの目的は地域交流。生徒たちのあいだでは、普段交わらない学校を無理やり混ぜる行事として知られている。

 黒鋼工科と青嶺学院が同じチームになったと聞いた瞬間、瑠架は嫌な予感がした。

 そして、嫌な予感はよく当たる。

「第三走者、青嶺の榛名。アンカー、黒鋼の風間」

 合同練習初日、馬場がメンバー表を読み上げた。

 瑠架は隣のレーンを見た。

 榛名透が、例の布袋を握っていた。

 第一走者は黒鋼のカワウソ、千堂。第二走者は青嶺の兎、藤巻。二人はすでに中学時代から顔見知りらしく、軽口を叩きながらバトンを投げ合っている。

 問題は、第三走者と第四走者だった。

 透は八百メートルの選手で、トップスピードは瑠架に及ばない。しかし後半に落ちにくく、カーブの走りがうまい。瑠架は四百メートルが専門で、追い上げに強い。配置としては理にかなっている。

 理にかなっていることと、うまくいくことは別だった。

「じゃあ、三走からアンカーの受け渡しを合わせるぞ」

 馬場の声に、透がテイクオーバーゾーンへ入った。

 瑠架は前を向き、右手を後ろへ伸ばす。透が助走をつけて近づく。

「はい!」

 声が早い。

 瑠架が走り出す。透の足音が迫る。鹿の蹄を包む専用スパイクが、硬い音を刻む。

 あと二歩。

 そう読んだ瞬間、足音が乱れた。

 バトンが瑠架の手のひらではなく、手首を叩いた。瑠架は反射的につかんだが、二人の腕が絡まり、透がよろめいた。

「止まれ!」

 馬場の声で、瑠架は急停止した。

「榛名、渡す直前に減速しただろ」

「すみません」

「風間、お前も出るのが早い」

「いつものマークなら、あれで合ってます」

「相手がいつもの走者じゃない。合わせろ」

 瑠架は舌打ちを飲み込んだ。

 二本目。

 透はまた、最後の数歩で減速した。

 三本目も同じだった。

 四本目、瑠架はわざとスタートを遅らせた。今度は透が背中にぶつかりそうになり、急に外へそれた。

「何がしたいの」

 瑠架は振り返った。

「ごめん」

「謝っても速くならない」

「分かってる」

「分かってない。私が手を出したら、そこに置く。走りながら渡す。それだけ」

 透の喉が動いた。

 恐怖の匂いが濃くなる。

 瑠架の尾が、無意識に硬くなった。

「私と組みたくないなら、顧問に言えば」

「違う」

「何が」

「君だからじゃない」

「じゃあ、どうして止まるの」

 透はしばらく黙った。耳が後ろへ伏せられていた。

「追いつかれると、身体が勝手に怖がるんだ」

 瑠架は鼻で笑った。

「それを、私だからって言うんでしょ」

「違う。誰でもだ。足音が後ろから近づくと、頭では分かっていても、脚が逃げる」

 透はバトンを両手で握った。

「中学一年のとき、駅伝のスタートで転倒があった。前の選手が倒れて、後ろの集団が止まれなかった。僕も巻き込まれた。角が折れて、三か月走れなかった」

 よく見ると、右の角の根元に、色の薄い継ぎ目があった。

「それから、号砲と、後ろの足音が苦手になった。八百ならオープンレーンに出て位置を取れる。でもリレーの受け渡しは……相手を背中に入れなきゃいけない」

「なら、辞退すればいい」

「それは嫌だ」

 透は即答した。

「怖くなくなるのを待っていたら、たぶん一生走れない。怖いままでも渡せるようになりたい」

 瑠架は彼を見た。

 金木犀の布袋が、胸元で揺れている。

「その匂いは」

「呼吸を戻すための合図。祖母が作ってくれた。これを嗅ぐと、今いる場所を思い出せる」

「今いる場所?」

「十三歳のスタート地点じゃなくて、十七歳の競技場だって」

 透は少し笑った。

「風間さんは、何か怖いものはないの」

「ない」

 嘘をついた。

 透は追及しなかった。

「じゃあ、もう一本、付き合ってくれる?」

 瑠架はスタート位置へ戻った。

「五本。一本でも減速したら、最初から」

「厳しいね」

「嫌ならやめて」

「やる」

 五本目。

 透の足音が迫る。恐怖の匂いが流れてくる。

 瑠架は前だけを見た。

「はい!」

 今度の声は、少しだけ遅かった。

 瑠架が走り出す。手を開く。

 バトンは、指先に触れて落ちた。

 合同練習は、週に三回続いた。

 最初の一週間、バトンは十七回落ちた。

 二週目には、落ちる回数が三回になった。

 三週目、透は一度も減速しなかった。

 代わりに、瑠架が早く出すぎるようになった。

「風間さん、今日のマーク、半足ぶん前じゃない?」

「気のせい」

「僕の歩数は昨日と同じだったよ」

「鹿は細かい」

「狼が大ざっぱなんじゃない?」

 瑠架が睨むと、透は笑って逃げた。

 彼は瑠架の牙を見ても、前ほど耳を伏せなくなった。

 恐怖の匂いは、まだある。

 ただし、それが自分に向けられたものではないと、瑠架にも少しずつ分かってきた。

 透は号砲の前に怖がる。背後に足音が重なると怖がる。期待されると怖がる。失敗して誰かを失望させることを、何より怖がっていた。

 そして、怖がるたびに走った。

 瑠架には、それが不思議だった。

 狼の子どもは、怖がるなと教えられる。牙を持つ者が怯えれば、周囲はもっと怯えるからだ。転んでも立つ。痛くても唸らない。困っても目をそらさない。

 瑠架はずっと、恐怖は隠せばなくなるものだと思っていた。

 透を見ていると、そうではない気がした。

 ある日の練習後、透が瑠架の足元にしゃがみこんだ。

「右のスパイク、音が違う」

「触るな」

「ごめん。でも、たぶんプレートが浮いてる」

 瑠架は靴を脱いだ。前足部の樹脂板に、細い亀裂が入っていた。

「昨日はなかったのに」

「このまま走ったら危ないよ」

「予備は学校」

「修理できる?」

「できる」

 瑠架は黒鋼工科の獣体装具科にいる。

 種族ごとに異なる足、爪、蹄、関節に合わせ、靴や義肢や競技用装具を作る学科だ。狼の足は、一般的な靴型より踵が高く、接地面が狭い。市販品をそのまま使うと、力が外へ逃げる。

 瑠架は自分のスパイクのプレートを、自分で削っていた。

「見てみたい」

 透が言った。

「何を」

「修理してるところ」

「面白くないよ」

「僕には面白い」

 瑠架は断るつもりだった。

 ところが翌日の放課後、透は本当に黒鋼工科の正門前に立っていた。

 青嶺の紺色の制服は、黒い詰襟の群れの中で目立った。通りすぎる生徒たちが、角を二度見する。誰かが小声で「青嶺の坊ちゃんだ」と言った。

「来るなら連絡して」

「連絡先を知らない」

「顧問経由で聞けばいいでしょ」

「それは少し恥ずかしい」

「ここに立ってるほうが恥ずかしいと思う」

 透は笑った。

「確かに」

 実習棟には、油と樹脂と研磨粉の匂いが満ちていた。瑠架が作業着へ着替え、スパイクを分解すると、透は隣の椅子に座って黙って見ていた。

「蹄用の靴も作るの?」

「作る。二つに分かれた接地面を別々に支えるタイプとか、左右の荷重差を吸収するタイプとか」

「僕のは、市販品を中敷きで調整してる」

「見れば分かる。左が潰れてる」

「走ってるところだけで?」

「音で」

 透は自分の靴を脱ぎ、机の上に置いた。

「診てもらえますか、風間先生」

「有料」

「金木犀一袋で」

「いらない」

「じゃあ、購買の揚げパン」

「二個」

「高いなあ」

 瑠架は透の靴底を押した。左の内側だけが深く沈む。蹄の開き方に対して、土台が細すぎる。

「これ、カーブで膝が内側に入るでしょ」

「どうして分かるの」

「壊れ方は嘘をつかないから」

 口にしてから、瑠架は少しだけ黙った。

 透が彼女を見る。

「人は?」

「何」

「人も、壊れ方を見れば分かる?」

「知らない。人は隠すから」

「風間さんも?」

 瑠架は工具を置いた。

「揚げパン、三個」

「質問料まで取るんだ」

「帰っていいよ」

「ごめん。帰らない」

 透は作業台の上の図面へ視線を落とした。

 そこには、さまざまな足型に合わせた競技用プレートの設計が描かれている。狼、熊、猫、鹿、兎。瑠架が授業の課題とは別に作っているものだった。

「将来、これを作るの?」

「作れたら」

「作れるよ」

「簡単に言わないで。競技用は認可が厳しいし、大手は標準型しか量産しない。少数種向けは採算が取れないって」

「それでも、作りたいんでしょ」

「……普通の靴に足を合わせるのが、嫌だから」

 瑠架は自分の爪先を見た。

「合わないなら、足が悪いみたいに言われる。走り方を直せ、爪を削れ、骨格矯正をしろって。靴のほうを変えればいいことまで」

 透は長いあいだ、何も言わなかった。

 やがて、机の端に置かれた瑠架のスパイクを指でそっと叩いた。

「僕、風間さんの作った靴で走ってみたい」

「まだ試作品もない」

「じゃあ、最初の客になる」

「高いよ」

「揚げパンで払う」

「一生分でも足りない」

「困ったな」

 透は笑った。

 その笑顔に恐怖の匂いはなかった。

 瑠架は、機械油の匂いが急に強くなった気がして、顔をそらした。

 二人が並んで実習棟から出る写真が、翌日には学校間の掲示板へ載った。

 見出しは、「青嶺の鹿、黒鋼の狼に連れ込まれる」。

 冗談のつもりなのだろう。

 けれどコメント欄には、笑えない言葉が並んだ。

 食われるぞ。

 角だけ残る。

 黒鋼に近づくほうが悪い。

 狼の女って気が強そう。

 瑠架は昼休みに一度見て、画面を閉じた。

 慣れている。

 そう思った。

 放課後、ロッカーを開けると、中に生肉の包装紙が詰められていた。中身はなく、赤い汁だけが底に溜まっている。

 瑠架は無言で片づけた。

 慣れている。

 そう思えば、怒らずに済む。

 競技場へ行くと、透はすでに来ていた。

「ごめん」

 会うなり、彼は頭を下げた。

「何が」

「写真。僕が黒鋼まで行ったから」

「あなたが撮ったわけじゃない」

「でも」

「謝るくらいなら、練習する」

 瑠架はバトンを投げた。透が受け取る。

 一本目は、きれいに渡った。

 二本目も。

 三本目、受け渡しのあとで透が止まった。

「風間さん」

「何」

「何かされた?」

「何も」

 嘘をつくとき、狼は尻尾の先が動かなくなる。幼いころ、母にそう言われた。

 透の視線が、瑠架の尻尾へ落ちた。

「嘘だ」

「嗅げもしないくせに」

「嗅げなくても分かる」

 瑠架は彼の手からバトンを奪った。

「分かったところで、どうするの。青嶺が謝罪文でも出す? 黒鋼が犯人を探す? そんなことしたら、また面白がられるだけ」

「面白がるほうが悪い」

「正しいこと言えば片づくなら、最初から誰も困ってない」

 透の耳が伏せられた。

 瑠架は、また彼を怖がらせたと思った。

 けれど漂ってきたのは、恐怖ではなく、熱い怒りの匂いだった。

「僕は、片づけたいんじゃない」

 透は静かに言った。

「君が一人で片づけるのを、見ていたくない」

 瑠架の喉の奥が詰まった。

 そのとき、競技場の外で大きな破裂音がした。

 工事車両のタイヤが弾けた音だった。

 透の身体が跳ねた。

 目が見開かれ、呼吸が止まる。

「榛名」

 瑠架が呼ぶより早く、透は走り出した。

 前へではない。音から遠ざかろうとして、トラックを斜めに横切る。

 外周では、芝刈り用の小型車両がバックしていた。運転手からは、透の姿が死角になっている。

「止まって!」

 届かない。

 瑠架の視界が狭くなる。

 逃げる背中。近づく足音。加速する脚。

 身体の奥にある古い命令が、牙を開けと言った。

 追え。

 捕まえろ。

 瑠架は透の背後へ飛びついた。

 手では届かない。

 反射的に、制服の襟を牙でつかんだ。

 布が裂ける。

 瑠架は全身をひねり、透をレーンの内側へ引き倒した。次の瞬間、芝刈り車の後輪が、透のいた場所を通りすぎた。

 透の肩がトラックへ打ちつけられる。

 瑠架はすぐ牙を離した。

「透!」

 初めて、名前で呼んだ。

 透は咳き込み、目を瞬かせた。

「風間、さん」

「動かないで」

 周囲から人が駆けてくる。

 誰かがスマートフォンを向けていた。

 瑠架の口元には、裂けた紺色の布切れが引っかかっていた。

 動画は、その日のうちに広まった。

 切り取られていたのは、瑠架が透の襟へ噛みついた瞬間から、二人が倒れるまでの二秒間だけだった。

 「合同練習中、狼の選手が鹿の選手を襲う」。

 見出しは、写真より速く街を回った。

 芝刈り車は映っていない。

 透の肩は打撲で済んだ。瑠架の顎には、急に強い力をかけたせいで炎症が出た。

 大会事務局は、事実確認が終わるまで瑠架の合同練習参加を停止した。

 黒鋼工科は抗議した。青嶺学院も、透本人の証言を添えて事故だったと説明した。競技場の防犯映像には、瑠架が透を車両から救った一部始終が記録されていた。

 それでも、一度広まった二秒間は、十分な長さの映像より強かった。

 翌朝、瑠架は競技場へ行かなかった。

 代わりに、実習棟で透の靴を分解した。

 左の土台を広げる。蹄の開きに合わせて、二枚の薄い板が独立してしなるようにする。試作品だから、公式戦では使えない。それでも手を動かしていると、余計な匂いを嗅がずに済んだ。

 昼すぎ、実習棟の扉が開いた。

「立入禁止」

 瑠架は顔を上げずに言った。

「生徒ならいい?」

 透の声だった。

 右肩に固定帯を巻き、裂けた制服ではなく体操着を着ている。

「何しに来たの」

「客です」

「帰って」

「試作品を受け取りに」

「まだできてない」

「じゃあ待つ」

 透はいつもの椅子へ座った。

 瑠架は作業を続けた。やすりの音だけが部屋に響く。

「大会、出られるって」

 透が言った。

「私は停止中」

「明日解除される。防犯映像と、運転手さんの証言が出たから」

「出ない」

「どうして」

「また何かあったら、あなたまで言われる」

「もう言われてる」

「だから」

「僕は、出たい」

 瑠架はやすりを置いた。

「あなたが怖がったから、ああなった」

「うん」

「私が追ったから、ああ見えた」

「うん」

「次は、本当に噛むかもしれない」

 透の顔から笑みが消えた。

「それ、本気で言ってる?」

「狼の身体が何をするか、あなたには分からない」

「鹿の身体が何をするかも、君には分からない」

「分かるよ。逃げる」

「そう。僕は逃げた。君は追った」

 透は立ち上がり、瑠架の前まで来た。

「でも、僕は車から逃げられなかった。君は僕を追って、助けた」

「結果の話をしてるんじゃない」

「僕は選んだことの話をしてる」

 透は左手で、作業台の上のバトンを持ち上げた。

 事故の日、瑠架が持ち帰ったものだった。

「身体が最初に叫ぶことは、僕たちが選べない。僕は逃げろと言われる。君は追えと言われる。でも、その次に何をするかは選べる」

「きれいごと」

「そうかもしれない。でも僕は、きれいごとを実際にやった人を知ってる」

 瑠架は透の目を見られなかった。

「最初に会った日」

 透が続けた。

「君は、僕が君を怖がってると思ったよね」

「匂いがした」

「怖かった。でも、君が怖かったんじゃない。あの日は、事故のあと初めて早朝の競技場へ行った日だった。誰もいない時間なら走れると思って。それでもスタート地点に立ったら、脚が震えた」

 透は胸元から、金木犀の布袋を取り出した。

「君が走ってるのを見た。最後の百メートル、苦しそうなのに、まっすぐだった。見ていたら、僕も一周だけ走れた」

「それで、きれいだったって」

「うん」

 瑠架の耳が熱くなる。

「恐怖の匂いは嘘をつかない」

「嘘じゃないよ。僕は怖かった」

「じゃあ」

「恐怖だけが全部じゃない」

 透はバトンを、瑠架の手元へ差し出した。

「信頼には、匂いがないのかもしれない。でも、渡すことはできる」

 瑠架は受け取らなかった。

 透は手を下げずに待った。

 機械油。樹脂。金木犀。透の肩から立つ、かすかな痛みの匂い。

 それから、恐怖。

 彼は今も怖がっていた。

 瑠架に拒まれることを。

 瑠架はようやく、バトンを握った。

「肩が治ってない」

「本番まで五日ある」

「三日は走るなって言われたでしょ」

「どうして知ってるの」

「馬場先生から聞いた」

「連絡先、顧問経由で聞いたんだ」

「うるさい」

 透が笑った。

 瑠架はその笑い声を聞きながら、作業台の下から小さな箱を出した。

「これ」

 中には、左右に分かれた薄い黒色のプレートが入っていた。

「試作一号。歩くだけ。走るのは禁止」

 透は箱をのぞき込み、息を呑んだ。

「僕のために?」

「データが欲しいだけ」

「うん」

「客じゃなくて、被験者」

「分かってる」

「揚げパン百個」

「一生分でも足りないんじゃなかった?」

「残りは」

 瑠架は一度、言葉を切った。

「残りは、走って返して」

 透は、今度は笑わなかった。

 大事なものを受け取るように、両手で箱を持った。

「必ず」

 大会当日、川沿いの金木犀は満開だった。

 風が東岸から西岸へ、甘い匂いを運んでいる。

 市営競技場の観客席は、両校の制服で二色に分かれていた。紺の青嶺、黒の黒鋼。境目の通路だけが、不自然に空いている。

 瑠架が入場すると、ざわめきが起きた。

 防犯映像は公開され、誤解だったことは報道された。それでも、瑠架を見る目のすべてが変わったわけではない。

 怖がる匂い。

 疑う匂い。

 好奇心の匂い。

 それらが風に混ざり、鼻の奥へ刺さる。

「風間」

 馬場が呼んだ。

「集中できるか」

「できます」

「嘘つけ」

 瑠架は顧問を見た。

 馬場は大きな馬の鼻から、長く息を吐いた。

「できなくても走れ。集中は、走りながら戻せばいい」

「顧問らしくないですね」

「うちの選手が、やたら面倒なことを言う鹿に影響された」

 アップエリアの向こうで、透が手を振っていた。

 右肩の固定帯は外れている。試作品の靴は公式戦で使えないため、いつものスパイクを履いていた。それでも左の中敷きには、瑠架が作った調整板が入っている。

 透が近づいてきた。

「肩は」

「九割」

「嘘」

「八割五分」

「下がってる」

「君は?」

 瑠架は答えなかった。

 透は布袋を外し、瑠架へ差し出した。

「預かって」

「自分で持ってなよ」

「今日は、なくても走る」

「無理する必要ない」

「無理じゃない。代わりに、ゴールで返して」

 瑠架は布袋を受け取った。

 掌の中で、乾いた花がかすかに鳴った。

「落としたら」

「探す」

「レース中に?」

「君の匂いをたどって」

 言った直後、透の耳が真っ赤になった。

 瑠架は数秒遅れて意味を理解し、牙を見せた。

「それ、狼に言う台詞じゃない」

「今気づいた」

「鹿にも言わないほうがいい」

「もう言わない」

「……私以外にはね」

 透が目を見開いた。

 招集の係員が、第三走者を呼んだ。

「行って」

「うん」

 透は二歩進み、振り返った。

「瑠架」

 競技場の音が、遠くなった。

 彼が初めて名前で呼んだ。

「待ってて」

 瑠架は頷いた。

「前だけ見て走って」

 第一走者がスターティングブロックへ入る。

 八チーム。四校混成。種族も、制服も、足音も違う。

 号砲。

 瑠架の耳が反射的に伏せられた。

 第一走者の千堂は、低い姿勢から滑るように飛び出した。カワウソの柔らかい足首が、カーブを鋭く切る。三番手で第二走者の藤巻へつなぐ。

 藤巻は小柄な兎だが、加速が速い。向かい風のバックストレートで一人を抜き、二番手へ上がった。

 第三走者の透が、テイクオーバーゾーンに立つ。

 瑠架は離れた位置から、彼の横顔を見た。

 号砲の残響。背後から迫る足音。観客の叫び。

 透の耳が震えている。

 恐怖の匂いは、風下の瑠架にまで届いた。

 藤巻がマークを通過する。

 透が走り出す。

「はい!」

 バトンが渡った。

 透は一度、肩をすくめた。後ろの選手の足音に身体が反応したのだ。

 けれど減速しない。

 第一コーナーへ入る。左膝が内側へ落ちそうになり、瑠架の調整板が支える。透のフォームが戻る。

 先頭との差は、約七メートル。

 透は追いすぎない。八百メートルで身につけた一定のリズムを崩さず、バックストレートでじわじわ距離を詰める。

 瑠架はアンカーゾーンへ入った。

 前を見る。

 右手を後ろへ伸ばす。

 透が最終コーナーを回る。

 鹿の脚は、逃げるために速いと誰かが言う。

 狼の脚は、追うために速いと誰かが言う。

 そんな説明は、走っている本人には何の役にも立たない。

 透は今、逃げていない。

 瑠架は今、狩ろうとしていない。

 二人とも、バトンをつなぐために走っている。

 透がマークへ近づく。

 瑠架の身体が前へ傾く。

 まだ。

 あと一歩。

 今。

 瑠架は飛び出した。

 背後から、透の足音が近づく。

 いつもより速い。

 練習で一度もなかった速度だった。

 瑠架は手を開いた。

「瑠架!」

 透の声。

 バトンが掌へ打ち込まれる。

 強い。

 落とさない。

 瑠架は握った。

 その瞬間、背後で透が転んだ音がした。

 振り返りそうになる。

 けれど、彼の声が飛んだ。

「前!」

 瑠架は前を向いた。

 先頭は五メートル先。

 肺の奥へ、冷たい空気を入れる。

 観客席から、さまざまな声が降る。

 風間。

 走れ。

 追いつけ。

 怖い。

 狼だ。

 速い。

 瑠架は全部を置いていく。

 第一コーナーで三メートル。

 バックストレートで二メートル。

 最後のカーブで、先頭の選手の呼吸が聞こえる。大型の羚羊。長い脚で逃げる。

 逃げる。

 その言葉に、身体の奥が反応した。

 視界が狭まる。牙の根元が熱くなる。足音を消したくなるほど、脚が前へ出る。

 追え。

 古い命令が叫ぶ。

 瑠架は、掌のバトンを強く握った。

 これは獲物ではない。

 受け取ったものだ。

 透から。藤巻から。千堂から。

 怖いまま渡された、信頼だ。

 残り百メートル。

 瑠架は羚羊の横へ並んだ。

 相手が一瞬、こちらを見る。その瞳に恐怖が浮かぶ。

 瑠架は牙を閉じた。

 レーンを守る。

 腕を振る。

 白線だけを見る。

 最後の十メートルで、瑠架の胸が半歩前へ出た。

 ゴール。

 歓声が、少し遅れて爆発した。

 瑠架は速度を落とし、芝生へ入る。脚が震え、肺が痛む。

 振り返ると、透がテイクオーバーゾーンの外で片膝をついていた。

 瑠架は走った。

 今度は、誰にも怖がられない速さで。

「肩、八割五分じゃなかったでしょ」

「七割くらいだったかも」

「馬鹿」

「でも渡せた」

「転んだ」

「ゾーンの外で」

「そういう問題じゃない」

 透は救護用のベンチに座り、肩を冷やしていた。

 瑠架は目の前に立ったまま、怒っていた。

 怒っていないと、別の感情が顔に出そうだった。

 結果は、瑠架たちのチームが一着。

 大会新記録。

 表彰式まであと二十分ある。

「袋」

 透が左手を出した。

 瑠架はポケットから金木犀の布袋を取り出した。

「落とさなかった」

「ありがとう」

「もう、なくても走れるんでしょ」

「今日はね」

 透は袋を受け取らず、瑠架の手ごと包んだ。

 鹿の手は、思っていたより温かい。

「次は、持って走りたい」

「どうして」

「今いる場所を思い出すため」

「事故の場所じゃなくて?」

「君が待ってる場所」

 瑠架は言葉を失った。

 透の手から、恐怖の匂いがした。

 ほんの少し。

 それで瑠架は、やっと笑った。

「怖いんだ」

「怖いよ」

「私が?」

「好きな相手に、こんなことを言ってるから」

 金木犀の匂いが、急に濃くなった。

 風が吹いただけだ。

 瑠架はそう思おうとした。

「榛名透」

「はい」

「私は、牙がある」

「知ってる」

「怒ると怖い」

「よく知ってる」

「学校も遠い」

「橋を渡れば二十分」

「朝練は五時四十分から」

「起きる」

「揚げパン百個」

「それは相談させて」

 瑠架は透の手を握り返した。

「じゃあ、残りは走って返して」

「一生?」

「それくらい」

 透は目を細めた。

「喜んで」

 表彰式を知らせる放送が流れた。

 観客席では、まだ紺と黒の制服が分かれている。

 けれど空いていた中央の通路に、何人かが立っていた。青嶺の生徒が黒鋼の友人を呼び、黒鋼の生徒が手を振り返している。

 たった一度のリレーで、街が変わるわけではない。

 明日も、無神経な言葉はあるだろう。瑠架を怖がる者も、透を弱いと笑う者もいる。東岸と西岸の距離は、地図よりずっと長い。

 それでも、バトンは渡った。

 受け取った者が、次の一歩を走ればいい。

「瑠架」

「何」

「表彰台まで、手をつないで行く?」

「目立つよ」

「もう十分目立ってる」

「それもそうか」

 瑠架は透の手を引いた。

 彼の肩を気遣い、少しだけゆっくり歩く。

 競技場の外では、金木犀の花が風に揺れていた。

 小さな橙色の花びらが、フェンスを越え、白線を越え、東西を分ける川のほうへ舞っていく。

 匂いは、境界を知らない。

 瑠架は隣を歩く透の気配を確かめた。

 恐怖の匂いがした。

 同じくらい、汗と、土と、金木犀の匂いがした。

 そして匂いのないものを、つないだ手の温度で知った。

 瑠架は前を向いた。

 次のスタートラインは、もう怖くなかった。