『錆河を遡れ』
1 雨のスタートライン
エンジンは嘘をつかない。
ただし、エンジンを回す人間は、たいてい嘘をつく。
停戦四年目の雨季、俺は河口第六排水路で、そのことをもう一度思い出した。
スタートラインは、半分沈んだ料金所の白線だった。観客は壊れた防潮堤の上に並び、傘の代わりに装甲板を頭に載せている。賭け札が飛び交い、酒と焼けた潤滑油の匂いが雨に混じっていた。
隣のレーンには、銀色の輪脚甲《スレッジハンマー》がいた。
輪脚甲――膝下に駆動輪を仕込み、平地では車輪で走り、瓦礫や泥では二本脚で進む、小型の装甲機械だ。戦争中は歩兵を追い回し、戦争が終わると荷物を運び、さらに食い詰めると賭けレースに出た。
スレッジハンマーは軍用の新品タービンを二基積み、宣伝通りなら千二百馬力。対する俺の《ノラ》は、農業用フレームに偵察機の脚、救急搬送車の変速機、港湾クレーンの油圧ポンプを継ぎはぎした代物だった。塗装はしていない。する金があれば、ベアリングを替える。
「ゼン、賭け率が八対一になった」
無線で相棒のマオが言った。
「どっちが八だ」
「聞く必要ある?」
「ないな」
俺は右足のペダルを二度あおった。
ノラの水平対向八気筒が、低く咳き込む。回転計の針は二千八百で細かく震えた。二番シリンダーの燃焼が薄い。雨水が吸気箱に入り、混合比がずれている。
だが、悪くない震えだった。
壊れる前の機械は、必ず何か言う。耳を貸さない人間だけが、突然壊れたと騒ぐ。
信号弾が上がった。
スレッジハンマーが水煙を爆発させた。四輪が泥を噛み、巨体が砲弾のように飛び出す。二秒遅れて俺もクラッチをつないだ。
一速、四千。
二速、六千二百。
三速に入れた瞬間、背中を鉄槌で殴られたような加速が来た。
観客の罵声が後ろへ溶ける。
排水路は十二キロの直線だが、途中に三つの崩落区間と、戦時中の対舟艇壕がある。単純な最高速勝負に見えて、実際は脚の接地制御と冷却の勝負だった。
先行する銀色の機体は速かった。速すぎた。
五キロ地点で、排気炎が青から白へ変わった。燃料を薄くして過給圧を稼いでいる。観客には勇ましく見えるが、燃焼室は地獄だ。
「あと三十秒で右タービンが焼ける」
俺は言った。
「賭ける?」
「もう全財産、あんたに賭けた」
「先に言え」
第一崩落。
スレッジハンマーは車輪のまま跳んだ。着地の衝撃で左脚が沈み、姿勢制御が一瞬遅れる。
俺は直前で輪を畳み、ノラを走行脚モードへ切り替えた。
腰が浮く。二本の脚が泥を蹴る。車体が獣のように身を縮め、崩れたコンクリートの縁を三歩で渡った。着地と同時に右輪だけを出し、半身のまま滑らせる。
差が詰まった。
第二崩落の手前で、スレッジハンマーの右排気管から黒煙が出た。予想より十秒早い。
「壊れた!」
マオが叫ぶ。
「まだだ。壊れるのはこれからだ」
銀色の機体は過給圧を落とさなかった。運転手は賞金に目がくらんだか、機械の声を聞く習慣がなかったか、その両方だった。
俺はノラを五速に入れ、回転を七千百に固定した。最高出力は七千八百だが、そこまで回せば水温がもたない。速く走ることと、速いままゴールへ着くことは別だ。
対舟艇壕の直前、スレッジハンマーのタービンが砕けた。
白い火花が雨の中へ噴き、吸い込まれた破片がエンジンを食い破った。銀色の巨体が片脚を引きずり、堤防へ横滑りしていく。
俺はその脇を抜けた。
勝負は終わっていたが、アクセルは戻さなかった。機械は最後まで走らせて初めて、どこが足りないか分かる。
十二キロ地点を通過したとき、ノラの水温は百十九度、油圧は三・一。限界の一歩手前だった。
観客が防潮堤を揺らした。
俺は歓声より、回転を落としたエンジンの音を聞いた。
そこで、ひとつ混じっている音に気づいた。
軍靴だった。
灰色の雨衣を着た女が、観客を割って歩いてくる。階級章は大尉。腰に拳銃。左頬に、古い熱傷の跡。
女は俺の前で止まり、濡れた革袋を差し出した。
「叶野ゼン。整備士、非公認競技運転手、元第八試験工廠」
「元、を二回つけろ。軍人も整備士も辞めた」
「では今は?」
「借金持ちだ」
女は笑わなかった。
革袋の中には、ひび割れた回転計が入っていた。目盛りは一万四千まで。針は一万三千の位置で曲がり、裏蓋には小さくZ・Kと刻まれている。
兄のものだった。
「どこで拾った」
自分の声が、エンジンより冷たく聞こえた。
「錆河の上流、灰冠工廠から来た無人艇の中です」
女は言った。
「あなたのお兄さんは、死んだと記録されている。けれど、その記録を書いた男が、いまも上流で戦争を続けている」
雨脚が強くなった。
「椿司岳・元技術大佐を連れ戻す。あなたには道案内と、機体の面倒を見てもらいたい」
椿司岳。
戦時中、泥沼を走る機械を作らせれば右に出る者はいないと言われ、同時に、部下を機械と同じ数え方で数える男だとも言われた。
兄が最後に仕えた上官だった。
「断る」
俺は回転計を革袋へ戻さず、作業着の内側へ入れた。
「報酬は?」
マオが無線で小声を挟んだ。
女は金額を言った。
「話だけ聞く」
俺は言った。
2 遡行艇《ムカデ》
女の名は筑波イサナ大尉といった。
翌朝、俺とマオは河口軍港の一番奥で、今回の仕事に使う機体を見せられた。
「これを動かせと?」
俺はしばらく、言葉を選んだ。
格納庫に立っていたのは七四式輪脚甲《ドロガメ》。停戦の二年前に制式化され、制式化された翌月には旧式になった、軍隊らしい機械だった。胸部装甲は分厚く、脚は短い。水密だけは立派だが、整備口が内側にあり、燃料ポンプを替えるには左腕を外す必要がある。
「稼働記録は良好です」
イサナが言う。
「墓石も、じっとしていれば故障しない」
俺は胸部ハッチを開けた。
湿った埃と、古い血の匂いがした。
「主砲と弾倉を降ろす。照準器もいらない。増加装甲は全部外す。排水ポンプを二基にして、変速機は港湾型に載せ替える」
「戦闘任務だ」
「戦いたいなら戦車を持っていけ。こいつの仕事は、生きて上流へ着くことだ」
マオはすでに脚部制御箱を開け、顔をしかめていた。
「配線、ネズミに食われてる。たぶんネズミのほうが軍規に詳しい」
イサナは十秒ほど黙り、それから整備班へ命じた。
「主砲を降ろせ」
俺たちは二日でドロガメを別物にした。
主砲跡には貨物艇用の二段過給器を据え、低回転側を機械式、高回転側を排気式にした。脚の車輪は泥用の細いものから、廃レース機の幅広タイヤへ交換。膝関節に外付けの蓄圧筒を足し、着地衝撃を次の一歩へ戻すよう油路を組み替えた。
装甲を外した穴には薄い波板を当てた。銃弾は止めないが、雨なら止める。
「兵器じゃなくなった」
イサナが言った。
「最初から兵器に向いてない」
「では何だ」
俺は操縦席で回転計を取り付けながら答えた。
「帰ってくるための乗り物だ」
遡行艇《ムカデ》は、平たい船底に六基の推進輪をつけた装甲輸送艇だった。浅瀬では車輪で河床を掻き、深みでは後部の噴流器を回す。船長のファネルは片耳がなく、代わりに小さな真鍮の漏斗を付けていた。
「雨音は聞こえすぎる。人の話は聞こえん」
初対面でそう言い、俺たちの荷物を甲板へ放り投げた。
乗員はファネルを含めて七人。俺、マオ、イサナを足して十人。
ドロガメは甲板中央の固定架に立たせた。腕を畳み、頭部センサーへ防水布をかぶせると、処刑を待つ囚人のように見えた。
出航時、河口の空は鉛色だった。
錆河はその名の通り赤い。
上流の鉱山から流れ出した鉄分が水を染め、雨季には岸を削ってジャングルの奥まで赤くする。戦争中、兵士たちは河の色を血だと言った。実際には血より始末が悪い。鉄錆は服にも肺にも残る。
ムカデは低い唸りを立て、赤い水を遡った。
三日目、最初の残骸を見た。
輪脚甲が一機、巨木の枝から吊られていた。
首のない機体。両脚には風鈴が結ばれ、雨に鳴っている。
四日目には三機。
五日目には十一機。
どれも木から吊られ、風鈴の代わりに点火プラグ、コンロッド、空薬莢がぶら下がっていた。風が吹くたび、金属音が森を渡った。
「椿司の標識か」
イサナが双眼鏡を覗いた。
ファネルが真鍮の耳を外し、布で拭いた。
「標識なら文字を書く。あれは楽器だ」
その夜から、無線に歌が混じった。
正確には歌ではない。
始動モーターの音、点火、空ぶかし、変速、減速。何十台ものエンジン音を切り貼りして、一定の律動にした放送だった。
マオが周波数を追った。
「上流から。出力が大きい。気象塔を使ってる」
「何を送っている?」
イサナが訊く。
「たぶん、回転数」
「意味は」
「機械に訊いて」
放送の最後に、人の声が入った。
『五千、七千、九千。まだ足りない。帰るには、まだ足りない』
兄の声に似ていた。
似ているだけだった。
雨と雑音は、聞きたい声に何でも似せる。
3 森が撃ってくる
七日目の正午、森が撃ってきた。
最初の一発はムカデの前照灯を割った。二発目が操舵室の窓を貫き、航海士の首を持っていった。
「右岸、距離百八十!」
イサナが叫ぶより先に、俺はドロガメへ走っていた。
固定具を外す。主電源。燃料弁。予熱。
始動ボタンを押すと、二段過給器の低い唸りが胸の下で目を覚ました。
甲板が傾く。
右岸の茂みから、細長い無人輪脚《キツツキ》が三機飛び出した。木の幹に脚を打ちつけて跳び、空中から短機関砲を撒く。旧工廠の偵察機だ。
「ゼン、後ろにも二!」
マオの声。
俺はドロガメを固定架から踏み出させた。
重い。だが、脚は応えた。
左から来たキツツキへ腕を振る。武器を外したドロガメの拳は、ただの作業用把持器だ。それでも百八十キロの金属塊が時速六十キロで当たれば、装甲は紙になる。
一機が河へ落ちた。
二機目が背後へ回る。
俺は右脚の車輪を出し、左脚を軸に機体を滑らせた。甲板上で百八十度旋回。敵の弾が胸部を叩き、波板が裂ける。
「装甲を外した馬鹿は誰!」
マオが怒鳴る。
「軽くした天才なら知ってる!」
敵は森へ逃げた。
追えば罠だ。
普通ならそう考える。
だが、ムカデの右舷後部から白煙が上がっていた。噴流器の吸入口に破片が入り、推進軸が曲がっている。ここで止まれば、次は迫撃砲が来る。
「船を浅瀬へ寄せろ!」
俺はファネルへ叫んだ。
「何をする」
「牽く!」
ドロガメを河へ飛び込ませた。
赤い水が胸まで上がる。水密警報が鳴り、足元から冷たい水が滲んだ。俺は腰の牽引索をムカデの船首へつなぎ、両脚の車輪を河床に下ろした。
一速。
過給器を低段へ。
回転三千五百。
タイヤが泥を掻く。
最初は空転した。河床は粘土で、踏めば踏むほど沈む。
俺は脚の間隔を狭め、左右の回転をわずかにずらした。真っ直ぐ掻くのではなく、魚の尾のように交互に振る。泥の中に小さな固い層を探し、そこへ荷重を載せる。
ドロガメが一歩進んだ。
ムカデが軋んだ。
「もっと回せ!」
イサナが無線で言う。
「回せば沈む!」
「迫撃砲が来る!」
「だから黙れ!」
森の奥で発射音。
俺は吸気水噴射を作動させた。マオが即席で付けた、冷却水を霧にして吸気へ混ぜる装置だ。排気温が下がる。一瞬だけ過給圧を上げられる。
四千、四千五百、五千。
機体全体が震えた。
牽引索が弦のように鳴る。
ムカデの船底が泥から剥がれ、浅瀬を滑り出した。
迫撃弾が後方へ落ちた。
赤い水柱が空を塞ぐ。
俺は牽き続けた。百メートル、二百メートル。森の射線が切れるまで、ドロガメの脚は一度も止まらなかった。
安全な湾へ入ったとき、右膝の油圧管が破裂した。
機体は片膝をついたまま動かなくなった。
俺がハッチを開けると、イサナが岸から歩いてきた。頬に航海士の血が付いている。
「命令違反だ」
「撃てばいい」
「そういう意味ではない」
彼女は壊れた膝を見た。
「直るのか」
「直す」
「部品は?」
「ない」
「ではどうやって」
俺はムカデの曲がった推進軸を指した。
「機械は、名前が違っても同じことで悩んでる」
推進軸の継ぎ手を削り、膝の油圧分配器へ転用した。航海士の椅子のばねを外して戻り弁にし、食堂の圧力鍋から安全弁を取った。
夜までに、ドロガメは立った。
その作業中、右岸で捕虜が一人見つかった。
まだ十六、七の少年で、キツツキの遠隔操縦器を抱えていた。
イサナは少年を尋問した。
「椿司岳は灰冠工廠にいるか」
少年は震えながら頷いた。
「兵力は」
「兵隊はいない」
「では誰が攻撃した」
「工員です。農夫です。母さんです」
イサナの眉が動いた。
「なぜ輸送艇を襲う」
「下流から来る船は、いつも何かを奪う」
「停戦した」
少年は初めて顔を上げた。
「下流では、そうなんでしょう」
イサナは拳銃を抜かなかった。
代わりに食料一日分と方位磁針を渡し、岸へ放した。
俺は少し意外だった。
「甘いな」
「撃つと思った?」
「軍人だからな」
「あなたも元軍人だ」
「だから思った」
彼女は赤い河を見た。
「椿司は、こういう子供に機械を渡している」
「下流も同じだ。制服を着せるぶん、少し手間をかけてるだけで」
イサナは答えなかった。
夜、例の放送がまた流れた。
『五千、七千、九千。まだ足りない。帰るには、一万三千』
俺は作業の手を止めた。
一万三千。
兄の回転計の針が曲がっていた位置。
偶然ではなかった。
4 灰冠工廠
十日目の朝、ジャングルが突然途切れた。
灰冠工廠は、山をひとつ削って造られていた。
戦時中は輪脚甲を一日に四十機吐き出した巨大工場。停戦直前の空爆で屋根を失い、骨組みだけになった組立棟が、黒い肋骨のように空へ伸びている。その中央に気象塔が立っていた。雲へ刺さるほど高く、上部は雷で青白く光っている。
河岸には百機以上の輪脚甲が並んでいた。
だが、砲口はこちらを向いていなかった。
ある機体は揚水ポンプを回し、ある機体は畑を耕していた。脚を外されて発電機になったものもある。子供たちは装甲板を橇にして泥斜面を滑り、老人が元ミサイル搬送車でパンを焼いていた。
「楽園に見えるか」
ファネルが言った。
「見えない」
「なら目は腐ってない」
ムカデが桟橋へ着くと、武装した工員たちが囲んだ。
先頭に、背の高い老人がいた。
椿司岳は、怪物には見えなかった。
油染みの作業服。白い髪。左腕は肩から義手で、指先が整備工具になっている。噂にあった勲章も、軍帽もなかった。
彼は俺ではなく、ドロガメを見た。
「七四式か」
「外側だけな」
「吸気音が二段だ。低速を機械式にした?」
「排気式だけじゃ泥から起きない」
「膝の戻りが早すぎる。蓄圧をかけすぎだ」
「船を牽いた。設定はそのままだ」
老人は少し笑った。
「叶野工廠の弟か」
俺は殴りかかりそうになった。
イサナが一歩前へ出る。
「椿司岳。統合政府監察局の命令により、あなたを停戦協定違反、軍需物資の不法占拠、輸送路への攻撃容疑で拘束する」
椿司は彼女を見た。
「拘束するには遠くまで来たな、筑波少尉」
「大尉だ」
「昇進したのか。白泥村のあとで?」
空気が変わった。
イサナの手が拳銃へ動く。
「その名をどこで」
「記録の中で」
椿司は気象塔を指した。
「話はする。ただし、先に機械を走らせろ」
「遊びに来たのではない」
「私もだ。ここへ来る人間は二種類いる。機械を道具として見る者と、機械に自分の欲を映す者だ。どちらか分からん相手に、記録は渡せない」
老人の背後で、黒い輪脚甲が起動した。
細身の機体だった。装甲は最小限。両脚に大径車輪。肩から後方へ伸びた排気管が、雨の中で低く鳴る。
「《クロカモシカ》」
椿司が言った。
「工廠を一周する。先に戻れば、君たちの質問に答える」
「負けたら?」
「河を下れ」
イサナが俺の腕を掴んだ。
「罠だ」
「たぶんな」
「受ける必要はない」
「兄貴は、あの回転計をここから送った」
俺は彼女の手を外した。
「質問の前に、聞きたい音がある」
ドロガメの燃料は半分。右膝は応急修理。最高速ならクロカモシカが上だ。
だが、コースは工廠跡だった。
組立棟を抜け、冷却水路を渡り、採石場の螺旋路を上って気象塔の根元を回る。全長十八キロ。直線は短く、路面は雨で崩れている。
相手の運転手は、少年だった。
河岸で捕まえた子とは別人だが、同じくらいの年に見えた。名をトゥイといった。右目が義眼で、笑うと子供の顔になった。
「大佐は、あんたの兄貴より速いって言ってた」
「どっちが」
「あんたが」
「会ったこともないのに?」
「エンジン音を聞いた」
工員たちが道を空けた。
信号灯はなかった。
椿司が義手の指を鳴らした。その火花が合図だった。
クロカモシカが飛び出した。
速い。
軽量な機体が四輪で濡れた床を掴み、組立棟の柱の間を縫う。俺は二速のまま追う。ドロガメは重く、進入で鼻が沈む。
最初の曲がり角で、トゥイは後輪を滑らせ、機体を横に向けたまま抜けた。
「見せつけるね」
マオが管制室から無線を飛ばす。
「若いからな」
「二十九歳が言う?」
俺は追わなかった。
クロカモシカの轍を見る。
右後輪だけが深い。加速時に駆動配分が偏っている。軽さの代償で、脚のねじれを吸収できていない。
冷却水路。
幅六メートル。橋は中央が落ちている。
トゥイは脚モードへ切り替え、二歩で跳んだ。
俺も続く。
着地でドロガメの右膝が悲鳴を上げた。応急弁から油が滲む。
「圧が落ちてる!」
マオが言う。
「分かってる」
「戻って!」
「まだ歩ける」
「歩けると帰れるは違うって、誰かが偉そうに言ってた!」
採石場へ入る。
螺旋路は山肌を五周して塔へ上がる。内側は岩壁、外側は三十メートルの崖。泥と砕石で、車輪だけでは登れない。
クロカモシカが脚を伸ばした。
短い歩幅で岩を噛み、速度を落とさず上っていく。
俺は一周目で差をつけられた。
二周目、右膝の圧がさらに落ちる。
三周目、俺は走行脚モードを切った。
「何してるの!」
「歩くのをやめる」
両輪を出す。
坂で車輪だけなら空転する。普通は。
俺は左腕を岩壁へ押し当てた。把持器の先端を開き、壁をなぞる。腕を第三の脚にして車体を内側へ押しつけ、右輪へ荷重を集める。
駆動輪が砕石を噛んだ。
三輪走行。
ドロガメは壁に肩を擦り、火花を引きながら螺旋路を上った。
「そんな走り方、設計書にない!」
「設計した奴が乗ってないからな!」
差が縮む。
最上段の折り返しで、クロカモシカの右後輪が跳ねた。駆動偏り。トゥイは修正するため左へ膨らむ。
その内側へ、ドロガメの鼻を入れた。
二機の装甲が擦れた。
トゥイの義眼がこちらを向く。笑っていた。
下りは彼のほうが速い。
俺の右膝は、もう一度大きな着地をすれば終わる。
だから着地しなかった。
崩れた運搬用コンベアへドロガメを乗せた。錆びた帯が重量で動き出し、機体ごと斜面を滑る。制御不能の近道だ。
目の前を梁が横切る。
頭部を畳む。
左肩が削れる。
回転計が九千を越える。
コンベアの終端で、ドロガメは十メートル落ちた。
俺は膝を使わず、両輪を先に地面へ当てた。タイヤが潰れ、脚が後方へ跳ねる。腰部フレームが悲鳴を上げたが、機体は前へ出た。
ゴールの組立棟が見える。
右からクロカモシカ。
二機は並んだ。
残り二百メートル。
俺は過給器の安全弁を切った。
吸気圧が規定を越える。警報。排気温、上昇。水温、百二十三。
一万一千。
一万二千。
回転計の針が、一万三千へ近づいた。
その瞬間、エンジンの振動が消えた。
壊れたのではない。
八つの燃焼がひとつの音になり、車体と脚と地面が同じ周期で震えた。兄が回転計に残した数字。七四式の重い腰部フレームが、わずかにしなる回転域。
共振を、推進に変える。
ドロガメが半身だけ前へ出た。
俺たちは並んだまま白線を越えた。
判定はなかった。
観客の工員たちは、しばらく静かだった。
椿司が歩いてきて、ドロガメの熱い装甲へ義手を当てた。
「同着だ」
イサナが言う。
「違う」
椿司は俺を見た。
「帰るための余力を残したほうが勝ちだ」
クロカモシカのトゥイは、過給器から火を噴かせながら笑っていた。
ドロガメは右膝を完全に失い、それでもエンジンだけは回っていた。
「どっちだ」
俺は訊いた。
椿司は答えず、工廠の地下へ向かった。
「記録を見せる」
5 白泥村
地下格納庫には、動かない機械が眠っていた。
戦車、輪脚甲、無人攻撃機、焼けた輸送車。どれも洗浄され、番号札を付けられている。墓地というより、証拠保管庫だった。
最奥の部屋に、黒い記録筒が並んでいた。
「戦時記録の原本だ」
椿司が言った。
「上書きされる前に、各機体から抜いた」
イサナの顔から血の気が引いた。
椿司は一本を再生機へ差した。
壁に映像が出る。
上空から見た村。白い粘土の家。川沿いの畑。広場に集められた住民。
日付は停戦成立の翌日だった。
画面下に作戦名が表示される。
《清掃工程・白泥》
無人輪脚が村へ入る。
逃げる人影。
機関砲の発射記録。
熱源の数が、二百七十三から、ゼロへ減る。
音声回線に若い女の声が入っていた。
『対象は非戦闘員です。停戦命令は発効しています』
イサナの声だった。
別の男が答える。
『鉱毒流出の目撃者だ。記録を残すな。命令を継続しろ、筑波少尉』
映像の中のイサナは、十秒間黙った。
そして言った。
『了解』
記録は最後まで続いた。
部屋には機械の冷却音しかなかった。
「これは偽造だ」
イサナが言った。
声が震えていた。
「原本だ」
椿司は答えた。
「各機の慣性計測、砲身温度、衛星時刻認証が一致する」
「お前も現場にいた」
「ああ」
「止めなかった」
「ああ」
椿司は義手を持ち上げた。
「左腕を失ったのは、そのあとだ。良心の代金にしては安すぎた」
俺は映像から目を離せなかった。
村の外れで、一機の整備車が無人輪脚へ体当たりしている。運転席の名札が一瞬映った。
叶野朔臣。
兄だった。
整備車は撃たれ、横転した。
「死んだのか」
椿司は頷いた。
「最後まで三機の制御線を切った。二十九人が森へ逃げた。ここにいる者の中にも、その時の生存者がいる」
俺は椿司の胸ぐらを掴んだ。
「なぜ回転計を送った」
「彼の遺品ではない。彼が残した設計鍵だ」
椿司が壁際の照明を点けた。
そこに一機の輪脚甲があった。
細長い胴体。車輪を四つ備えた脚。装甲はほとんどなく、背中に細い円筒を抱えている。兄の整備車の部品と、見たことのない試作フレームを組み合わせた機体だった。
「《ラセン》」
椿司が言う。
「記録を気象塔へ運ぶために、君の兄と作っていた」
「塔ならここにある」
マオが言った。
「地下回線は政府に遮断されている。塔の上部送信機へ、物理的に記録筒を接続する必要がある」
椿司は天井を見上げた。
「明朝、巨大低気圧が工廠上空を通る。雷雲の電位を使えば、統合政府の妨害を越えて全大陸へ送信できる。窓は四分。塔までの保守路は自動防衛機に封鎖されている」
「それで競走用の機体か」
俺はラセンへ近づいた。
胸部には兄の癖が残っていた。
配線を色ではなく結び目で分ける。点検蓋のねじを一本だけ逆向きにする。非常停止レバーへ、古いコインを溶接する。
俺は操縦席の回転計を見た。
目盛りは一万四千。針がない。
「一万三千で腰部フレームが共振する」
椿司が言った。
「推進へ変えれば速い。外せば、機体がばらばらになる。朔臣は最後の制御値を回転計に刻み、無人艇へ託した」
「俺を呼ぶために?」
「違う。誰か、機械の声を聞ける者を呼ぶためにだ」
イサナが拳銃を抜いた。
銃口は椿司ではなく、記録筒へ向いていた。
「送信はさせない」
マオが動くより早く、二発の銃声がした。
照明が消えた。
暗闇で誰かが倒れ、金属が転がる。
非常灯が赤く点いたとき、イサナは部屋から消えていた。
記録筒の一部と、ムカデに積んでいた軍用通信鍵もなくなっている。
床にはトゥイが倒れていた。
肩を撃たれているが、生きていた。
マオが通信盤へ駆け寄る。
「高出力通信! 軍用鍵を使ってる」
天井のスピーカーに、イサナの声が響いた。
『監察局筑波大尉より中央管制。灰冠工廠に反乱勢力を確認。清掃認証、白の七。座標を送る』
マオの顔がこわばる。
「軌道上から熱圧弾が来る。着弾まで……四十二分」
椿司は静かに目を閉じた。
「やはり、同じ命令を選んだか」
俺は彼を殴った。
老人は避けず、床へ倒れた。
「お前もだ」
俺は言った。
「兄貴を使った。村を見殺しにした。記録を握って四年、ここで王様をやってた」
「そうだ」
椿司は口の血を拭った。
「だから、記録には私の命令も入っている」
「送れば戦争が戻る」
ムカデの船長ファネルが言った。
「隠せば終わるのか」
椿司が返す。
誰も答えなかった。
遠くで警報が鳴り始めた。
工廠の人々が避難を始める。四十二分では、ジャングルの外まで逃げられない。
「塔の送信機を使えば、軌道弾の誘導をずらせるか」
俺はマオへ訊いた。
「送信中なら妨害波を混ぜられる。でも、記録を送るだけで電力ぎりぎり」
「二つやる」
「機械が焼ける」
「焼ける前に終わらせる」
椿司が立ち上がった。
「ラセンは未完成だ」
「今から完成させる」
「四十分で?」
俺は兄の回転計を作業台へ置いた。
「レース前の整備にしては、長いほうだ」
6 最終調整
工廠中の工具と人間が、ラセンの周りへ集まった。
右脚の駆動制御は未配線。背部の記録筒は重すぎる。冷却器は試験用で、連続二分しかもたない。塔への保守路は全長二十六キロ。途中に三基の自動砲台と、戦時型の無人輪脚が残っている。
まともな整備士なら、無理だと言う。
まともでない整備士は、優先順位を決める。
「装甲を全部外せ」
俺は言った。
「操縦席の前も?」
工員が訊く。
「風よけだけ残せ。弾は避ける」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないから急げ」
ドロガメの二段過給器を外し、ラセンへ移す。低速側の機械式だけを残し、高速側はムカデの噴流器タービンを流用した。排気で回すのでは遅い。後部の小型ロケット燃料ポンプで先に回し、過給遅れを消す。
「三十秒以上使えば羽根が飛ぶ」
ファネルが言う。
「三十秒も全開にする直線はない」
脚の制御は電子式を捨てた。
雷で誤作動する。代わりに、クロカモシカの機械式配分器と、ドロガメから外した油圧弁をつないだ。左右の駆動比は足元の二本目のペダルで変える。
マオは兄の回転計を分解していた。
「針が一万三千で曲がったんじゃない」
彼女が言う。
「裏から叩いて、わざと止めてある。ここ、細い傷が十三本」
文字盤を外すと、内側に数値が刻まれていた。
13,080 / 0.74 / R-3
「共振回転、脚の減速比、右を三段硬く」
俺は言った。
「兄貴の設定だ」
ラセンの腰部フレームを測る。
兄が使った当時より、背部の記録筒が重い。共振点は下がっている。
計算では足りない。
俺はエンジンを始動した。
五千。
八千。
一万。
機体が揺れる。工員たちが押さえる。
一万二千五百で、右脚の外板が鳴った。
一万二千八百で、背部フレームが震えた。
一万二千九百二十。
音が揃った。
「ここだ」
マオが回転計へ赤い線を引いた。
警報が告げる。
『軌道投射体、着弾予測まで二十三分』
椿司は古い重輪脚《ガンリュウ》へ乗り込もうとしていた。胸部に大口径砲を一門積んだ、戦争そのもののような機体だ。
「何をする」
俺は訊いた。
「保守路の砲台を引きつける」
「死ぬぞ」
「もう死んでいる」
椿司が作業服の襟を開いた。
胸から首にかけて、皮膚が黒く変色している。鉱毒か、原子炉の被曝か。どちらにせよ長くない。
「便利な言い訳だな」
俺は言った。
「死ぬ奴は、何でも格好よく見せられる」
「では、格好悪く行こう」
老人は義手で機体の縁を叩いた。
「私は自分の記録を送る。命令したことも、黙ったことも、後悔したことも。英雄にはならん」
「兄貴は、お前を許したか」
「許さなかった」
その答えだけは、少し信じられた。
イサナはすでに先行している。工廠の軍用格納庫から最新型輪脚《ハクタカ》を奪い、塔へ向かったという。送信機を物理的に壊すつもりだ。
マオがラセンの操縦席へ記録筒を固定した。
「受信した記録、全部複製した。塔へ着けば自動で送る。誘導妨害は私がここから重ねる」
「届かなかったら」
「もう一回走って」
俺は笑った。
「それは無理だ」
「じゃあ一回で」
ラセンのハッチを閉じる。
装甲を外した操縦席は狭く、雨が入ってきた。目の前に兄の回転計。針は新しく作った。ゼロで小刻みに震えている。
椿司のガンリュウが先に出た。
古い大出力機関が工廠全体を揺らす。工員たちが道を開ける。
俺はラセンを一速へ入れた。
ペダルの裏で、兄が溶接した古いコインが靴底に触れた。
『軌道投射体、着弾まで十九分』
「ゼン」
マオが無線で言った。
「帰ってきて」
俺はアクセルを踏んだ。
「そのために走る」
7 レッドゾーン
ラセンは、走るというより路面を切り裂いた。
一速で六千、二速で九千。車輪が雨を薄い刃にして跳ね上げる。装甲を捨てた機体は軽く、わずかな操舵にも過敏に反応した。
保守路の入口で、自動砲台が起きた。
三十ミリ砲が旋回する。
椿司のガンリュウが前へ出た。大砲を撃つ。砲台の基部が吹き飛ぶ。同時に、残った機関砲弾がガンリュウの胸を削った。
『先へ行け』
椿司の声。
俺は抜いた。
第一直線。
噴流器タービンを起動する。
背中で甲高い音が立ち、過給圧が一気に跳ねた。
十秒。
十五秒。
回転計が一万二千九百二十へ入る。
世界から振動が消えた。
ラセンは路面へ吸いついた。腰部のしなりが脚の蹴りと重なり、燃焼一回ごとに機体を前へ押す。兄の数字は魔法ではなかった。金属の癖を、逃げずに測った結果だった。
時速二百四十。
二百六十。
前方に倒木。
左脚を走行モード、右脚を車輪のまま残す。左で幹を踏み、右で路面を蹴る。機体を斜めに跳ばし、枝の間を抜けた。
塔まで十五キロ。
着弾まで十四分。
第二砲台は、ガンリュウが引きつけていた。
椿司の機体は片腕を失い、胸部から火を噴いている。それでも前へ進み、砲口を砲台へ押しつけて撃った。
爆発が森を白くした。
『叶野』
雑音の向こうから椿司の声。
『朔臣は最後に、機械を憎むなと言った』
「それを俺に言わせたかったのか」
『違う。私はまだ、意味が分からん』
通信が途切れた。
後方で大きな爆発。
振り返らなかった。
保守路は塔の斜面へ入る。
そこから先は連続する九十九の折り返し。右は崖、左は送電管。路面幅は機体一機半。
三つ目の角で、白い影が降ってきた。
ハクタカ。
最新型の四輪脚。全身を白い複合装甲で覆い、姿勢制御翼を持つ。イサナは上段から飛び降り、俺の前へ着地した。
『止まりなさい』
「停戦のときにも言ったか?」
『記録を送れば、各地の武装勢力が蜂起する。政府は弾圧する。何万人も死ぬ』
「だから二百七十三人は消していい?」
『違う!』
ハクタカが加速した。
白い機体は速く、安定していた。旋回ごとに姿勢翼が開き、路面へ押しつける。俺が内側へ入ろうとすると、肩で押し返してくる。
銃は使わない。
塔を壊す前に、記録筒を傷つけたくないからだ。
九つ目の折り返し。
イサナが急制動。俺の進路を塞ぐ。
ラセンの前輪が白い装甲へ当たり、火花が散る。
『私は命令に従った。あのとき拒否すれば、別の誰かがやった』
「それでも、やったのはお前だ」
『分かっている!』
彼女の声が割れた。
『四年間、一日も忘れたことはない。だから終わらせる。記録ごと、椿司ごと、私ごと』
「それは責任じゃない」
俺は左右駆動比のペダルを踏み込んだ。
左輪を減速、右輪を増速。
ラセンがその場で半回転し、背中からハクタカへぶつかった。白い機体が外側へ押される。
「ただの後片づけだ」
俺は抜けた。
塔まで八キロ。
着弾まで九分。
ハクタカが追う。
直線では向こうが上。姿勢制御翼が雨を裂き、距離が詰まる。
俺は回転を共振域へ入れたまま、三十秒制限のタービンを再起動した。
十秒。
二十秒。
警告灯が赤くなる。
二十五秒。
背部から異音。
羽根が一枚欠けた。
それでも止めない。
二十九秒でタービンを切った。
直後、軸受けが焼き付き、過給器全体が爆発した。背中へ衝撃。破片が空へ散る。
だが、速度は乗った。
次の折り返しで、俺は制動しなかった。
崖へ飛び出す。
ハクタカのイサナが息を呑む。
ラセンは落ちながら脚を開き、下段の送電管へ両輪を当てた。円筒の表面を、壁走りのように斜めへ滑る。火花の帯が夜の斜面を走った。
三段下の保守路へ着地。
右前輪が破裂した。
ラセンが激しく振られる。
俺は右脚を脚走行へ切り替え、左だけを車輪のまま残した。片輪と片脚。速度は落ちるが、止まらない。
塔まで三キロ。
着弾まで五分。
上空の雲が青白く渦巻いていた。気象塔の避雷環から、何本もの放電が空へ伸びる。
最後の直線で、ハクタカが追いついた。
イサナは肩をぶつけ、ラセンを送電管へ押しつける。
『真実で人は救えない!』
「嘘でも救えない!」
装甲が削れる。
右脚の外装が飛ぶ。
回転計の針が共振域を外れ、機体がばらばらに震え始めた。
俺はアクセルを戻した。
イサナが一瞬、前へ出る。
その白い背中へ、左の把持器を伸ばした。
姿勢制御翼の根元を掴む。
ハクタカの推力を借りる。
『離せ!』
「高い機械は、牽引にも使える!」
ラセンは引かれながら回転を上げた。
一万二千。
一万二千九百二十。
再び振動が揃う。
俺は把持器を離し、共振の一蹴りでハクタカの横を抜いた。
塔の基部が迫る。
送信機へ続く昇降レールは、途中で爆撃により切れていた。
普通なら止まる。
兄なら、たぶん笑った。
俺はラセンを昇降レールへ乗せ、残った左輪を全開にした。右脚で塔の外壁を蹴る。片輪と片脚で、ほとんど垂直の鉄骨を駆け上がる。
百メートル。
二百メートル。
エンジン油圧が落ちる。
冷却水が噴く。
下からハクタカが追ってくる。
送信環まであと三十メートル。
右脚の膝が折れた。
ラセンが傾く。
ハクタカが下から腕を伸ばした。
一瞬、突き落とされると思った。
白い把持器は、ラセンの折れた脚を支えた。
『行け』
イサナの声だった。
『せめて、私の声も送れ』
俺は答えず、最後の力で昇った。
送信環へ到達。
背部の記録筒を接続口へ叩き込む。
マオの声が入る。
『認証した! 送信開始!』
気象塔が鳴った。
雷が鉄骨を走り、空が真昼のように白くなる。
記録が電波へ変わり、大陸へ散っていく。白泥村の映像。椿司の命令。イサナの声。兄の整備記録。死んだ者の数。生き残った者の名。
『誘導妨害、重ねる!』
上空から、太陽のような光点が落ちてきた。
軌道投射体。
塔の送信環がそれへ向けて、ありったけの雑音を吐く。
光点がわずかに曲がった。
工廠ではなく、北の採石場へ落ちる。
衝撃が来た。
山が持ち上がり、森が円形に倒れ、錆河の水面が壁になって走った。
気象塔が根元から折れる。
ラセンとハクタカは、鉄骨ごと空へ投げ出された。
8 河口まで
目を覚ましたとき、俺は赤い水の中にいた。
ラセンの操縦席は半分潰れ、計器は全部死んでいた。胸まで水に浸かっている。左腕は動かず、額から血が流れていた。
ハッチを蹴って開ける。
外は朝だった。
気象塔の上半分が錆河へ横たわり、巨大な橋のようになっている。灰冠工廠は窓を失い、屋根を失い、それでも残っていた。
岸辺で人々が動いている。
工員たち。子供たち。ムカデの乗員。
マオが小舟で近づいてきた。
「遅い」
俺は言った。
「迎えに来た人に最初に言う?」
彼女は泣いていたが、怒っているふりをした。
「送信は?」
「届いた。河口、北部州、海上都市。どこかが受信すると、別のどこかへ複製するよう仕込んだ。もう消せない」
「椿司は」
マオは首を横に振った。
分かっていた。
「イサナは」
少し離れた浅瀬に、ハクタカの白い腕が出ていた。
俺たちは潜って、操縦席をこじ開けた。
イサナは生きていた。
肋骨を折り、片脚を潰していたが、息をしていた。
目を開けた彼女は、俺を見て言った。
「なぜ助ける」
「記録を送ったからって、俺が裁判官になったわけじゃない」
「私は死ぬべきだ」
「それを決めるのも、お前じゃない」
彼女は目を閉じた。
ムカデが再び動けるようになるまで、六日かかった。
灰冠工廠の人々は、残った機械を使って河岸を直した。砲台の砲身は橋脚になり、無人輪脚の発電機が診療所を照らした。ガンリュウの残骸からは、椿司の記録筒が回収された。最後の音声が入っていた。
『正しい側などなかった。だが、消してよい死者もいない』
その一文は、後で何度も引用された。
椿司を英雄にする者もいた。虐殺者と呼ぶ者もいた。どちらも半分しか見ていない、と俺は思った。
河口へ戻る途中、吊られた輪脚甲の風鈴がまた鳴った。
今度は、楽器に聞こえた。
下流では騒ぎが始まっていた。
統合政府は最初、記録を偽造だと発表した。翌日には一部が本物だと認め、三日後には調査委員会を作った。軍はイサナの単独犯行だとしたが、彼女は公開聴取で命令系統の全記録を読み上げた。
暴動も起きた。逮捕者も出た。白泥村の生存者は首都へ歩き、途中の町から人が加わった。
真実が誰かをすぐ救ったわけではない。
死者が戻ったわけでもない。
だが、隠されていた墓に名前が戻った。
それは、ゼロよりは大きい。
9 再始動
半年後、俺は第六排水路のそばで、また工具を握っていた。
借金は減っていない。
ノラのエンジンは相変わらず二番シリンダーが薄い。
ただ、工場の看板だけは新しくした。
《カノ・ピット 競技/農業/救難》
軍用、の文字はない。
マオは灰冠工廠と河口を結ぶ通信所を作り、週に三日は俺の工場へ来た。イサナは拘置されたまま証言を続けている。判決がどうなるか、俺は知らない。
ドロガメは修理して、上流の洪水救助隊へ渡した。
右膝には今も、ムカデの推進軸と圧力鍋の安全弁が入っている。
ラセンは回収できなかった。
錆河の底で、兄の回転計と一緒に眠っている。
ある夕方、工場へ十歳くらいの子供が来た。
廃材で作った小さな四輪車を引いている。車輪は不揃いで、右だけ大きい。
「おじさん、これ、速くして」
「おじさんじゃない」
「速くして、兄ちゃん」
俺は車体を持ち上げた。
軸が曲がり、左前輪が擦れている。速くする前に直すところが山ほどあった。
「どれくらい速くしたい」
子供は排水路の先を指した。
「世界で一番」
俺は笑った。
「じゃあまず、止まる練習からだ」
「遅くなるじゃん」
「止まれる奴だけが、次も走れる」
子供は納得しなかったが、工具箱を覗き込んだ。
俺は曲がった軸を外し、火で炙り、ゆっくり叩いて戻した。金属は正直だった。無理をさせれば歪み、熱を入れすぎれば弱くなる。それでも、癖を見て、声を聞き、手をかければ、もう一度回る。
夕暮れの排水路で、小さな車が走り出した。
不揃いな四つの車輪が、最初はばらばらの音を立てる。
やがて速度が乗り、ひとつの律動になった。
五千、七千、九千。
帰るために必要な回転数は、機械ごとに違う。
人間も、たぶん同じだ。
俺はエンジンの音を聞いた。
それは嘘をつかなかった。
了