『雨を飼う街』

 環状市キサラギでは、雨は天気ではなかった。

 上層の冷却塔が吐き出す熱を奪い、広告塔の埃を洗い、下層に積もった血を排水溝へ運ぶ。降雨量は都市機構が一分ごとに決め、雲は契約企業が飼育していた。

 だから燕森レカは、雨の音を信用しなかった。

 午前二時十三分。第九環状区の違法診療所〈黒い羊〉で、レカは一体の死体と向き合っていた。

 死体は若い女だった。二十歳前後。濡れた短髪。左腕は安価な作業用義肢で、胸骨の下には配送業者の認証端子が埋め込まれている。銃創は三つ。どれも背中から入り、心臓の手前で炸裂していた。

「身元は」

 レカが訊くと、診療所の主である弦嶺は肩をすくめた。彼の顔の右半分は透明な樹脂で覆われ、咀嚼筋の代わりに銀色のアクチュエータが動いていた。

「白瀬小夜里。民間配送員。戸籍はある。借金もある。死亡保険はない。珍しくもない人生だ」

「珍しくない人間は、背中に三発も撃ち込まれない」

「だからおまえを呼んだ」

 弦嶺は金属トレイに細い針を置いた。針の根元から、黒い光ファイバーが蛇のように伸びている。

 レカはそれを自分のうなじへ接続した。

 死者の脳には、数分だけ電気的な余韻が残る。感覚、恐怖、執着。正規の捜査官はそれを〈終末記録〉と呼び、裁判所の許可を得て読み取る。

 レカたちの呼び方はもっと簡単だった。

 残響。

「何を運んでいたかだけ見ろ」弦嶺が言った。「深く潜るな。死者はたいてい、自分が死んだことに気づいていない」

「生者だって似たようなものよ」

 レカは針を押し込んだ。

 世界が裏返った。

 最初に来たのは、味だった。

 錆びた鉄。口の中に満ちる血。次に、右膝の痛み。次に、雨粒が頬を叩く感触。

 レカは白瀬小夜里の目で、夜の街を見ていた。

 高架道路の腹に沿って、紫色の広告が流れている。

 ――眠りを最適化します。

 ――昨日の自分を更新しませんか。

 ――アマノギ都市機構は、あなたの未来を予測済みです。

 小夜里は走っていた。左の義手で胸元を押さえ、何度も後ろを振り返る。視界の隅で警告表示が点滅する。

 失血量三十二パーセント。

 心拍補助、故障。

 運動継続、非推奨。

 それでも走る。

 誰かが追っている。

 黒い雨衣。顔のない警備用義体。歩幅は一定で、濡れた路面をまったく滑らない。

 小夜里は路地へ飛び込み、封鎖された地下鉄入口に体をねじ込んだ。シャッターの下には、子ども一人が通れるほどの隙間しかない。義手の外装が削れ、火花が散った。

 地下は暗かった。

 小夜里は階段を転がり落ち、使われなくなった改札の脇へ這った。そこで初めて、胸元から小さな容器を取り出した。

 透明なカプセルだった。

 中に入っていたのは、灰色の種子のようなもの。

 データ結晶。

 小夜里はそれを自分の認証端子へ差し込んだ。

 視界が白く焼けた。

 そして、駅のホームに一人の少女が立っていた。

 十二、三歳。白いワンピース。裸足。雨など降っていないのに、髪から水滴が落ちている。

「遅かったね」

 少女が言った。

 小夜里の口が動く。

「ごめん、ペルモン」

「謝らなくていい。あなたは約束を守った」

「まだ……運べてない」

「運んだよ」

 少女はレカのほうを見た。

 小夜里の記憶の中で、あり得ないことだった。残響は記録であり、こちらを認識しない。

 少女はまっすぐ、レカを見ていた。

「次は、あなたが運ぶ」

 レカは接続を切ろうとした。

 動かなかった。

 少女の裸足が、ホームの縁を越える。線路には黒い水が満ちていた。その水面に、無数の顔が浮かんでいる。老人。子ども。労働者。娼婦。兵士。口を開いても声はなく、ただ雨粒のようなノイズが響く。

「私を殺したのは、この街」

 少女は言った。

「でも、私は死体じゃない」

 銃声がした。

 小夜里の背中に一発目が入る。

 二発目。

 三発目。

 小夜里の視界が路面へ落ちる寸前、少女がレカへ手を伸ばした。

「雨を止めて」

 白い指が、レカの額に触れた。

 レカは診療台の脇に吐いた。

 胃液に血が混じっていた。接続先の損傷を、自分の肉体が誤認したのだ。

 弦嶺が針を抜く。

「何を見た」

 レカは答えず、小夜里の胸元を探った。

 カプセルはなかった。

 誰かが回収したか、あるいは残響の中でしか存在しなかったか。

 そのとき、診療所の照明が一斉に消えた。

 非常灯が赤く点く。

 入口のロックが外側から解除された。

 弦嶺が舌打ちし、床下から散弾銃を引き出した。

「お客だ」

 扉が開く。

 入ってきたのは、濡れていない男だった。

 黒いスーツ。細身。四十代ほどに見えるが、首筋に年齢調整用の縫合線がある。後ろには二体の警備義体。小夜里を追っていたものと同型だった。

「燕森レカさん」

 男は丁寧に一礼した。

「アマノギ都市機構、保安統括部の瀬川と申します。その遺体は当社の機密資産を窃取しました。返却をお願いします」

「人間を資産と呼ぶ会社は多いけど、死んでからも所有するのは珍しいわね」

「遺体ではなく、内部情報の話です」

「もう読んだ」

 瀬川の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。

「それは残念です」

 警備義体の肩が開き、短銃身の武器が現れた。

 弦嶺が散弾銃を撃つより早く、レカは診療台を蹴り倒した。

 銃声。

 白い壁が砕け、消毒液の瓶が雨のように降る。

 レカは小夜里の遺体を抱えて床を滑った。自分でも、なぜ死体を守ったのかわからなかった。ただ、うなじの奥で少女の声がした。

 ――左。

 レカは左へ跳んだ。

 一瞬遅れて、いた場所を弾丸が貫く。

 ――三歩。伏せて。

 三歩走り、伏せる。

 弦嶺の散弾が頭上を通り、警備義体の顔面を吹き飛ばした。

 瀬川だけが動かなかった。飛び散った人工皮膚を見下ろし、ため息をつく。

「やはり、接触しましたか」

 レカは床の非常排水口を開け、小夜里の遺体を押し込んだ。自分も続く。

 落ちる直前、瀬川と目が合った。

「それは人格ではありません」

 彼は言った。

「死者のふりをする、都市機能です」

 排水路を二キロ流され、レカは第九環状区の底へ出た。

 小夜里の遺体は重かった。死んだ人間は、自分で自分を支えない。

 頭上では道路が七層に重なり、そのさらに上を居住区と企業塔が塞いでいる。空は見えない。降ってくる雨は、上層を通るうちに油と金属粉を吸い、黒くなっていた。

 レカは廃棄されたコインランドリーへ遺体を運び込んだ。

 乾燥機の一つを開け、そこへ小夜里を寝かせる。昔、非合法の臓器運搬に使われていた保冷庫だ。電源を入れると、壊れかけた表示板が青く光った。

 弦嶺から通信が来た。

「生きてるか」

「半分くらい」

「診療所は閉店だ。あいつら、壁の中まで焼いていきやがった」

「あなたは」

「裏口から逃げた。心配するな。医者は患者より逃げ足が速い」

 弦嶺は一拍置いた。

「レカ。おまえ、何を拾った」

「少女」

「形は」

「十二歳くらい。名前はペルモン」

 通信の向こうで、弦嶺が息を止めた。

「知ってるの」

「昔、噂があった。都市網の深層に、消したはずの記憶が住み着いているってな。義体から回収された行動ログ。事故死者の終末記録。医療保険の審査用に複製された人格断片。アマノギが二十年かけて集めた、人間の残りかすだ」

「それが少女の顔をしている?」

「人は、顔のないものを怖がりすぎる。だから向こうが顔を作ったのかもしれん」

 レカは洗濯機の丸窓に映る自分を見た。

 黒い髪。灰色の目。左頬から顎に走る細い傷。二年前に交換した右腕は皮膚色がわずかに違う。

 人間の顔も、部品の都合で作られている。

「瀬川は都市機能だと言った」

「企業は、人格と認めた瞬間に給料を払わなきゃならなくなる」

 通信が乱れた。

 少女の声が割り込む。

 ――燕森レカ。

 レカは反射的にうなじの端子を押さえた。

 ――聞こえる?

「聞こえる」

「誰と話してる」弦嶺が訊いた。

「彼女」

 ――私は彼女じゃない。

「じゃあ何」

 ――私たち。

 コインランドリーのすべての機械が同時に回り始めた。電源の入っていない洗濯槽まで、ゆっくりと回転する。丸窓の一つ一つに、違う顔が映った。

 工事用ヘルメットをかぶった男。

 酸素マスクの老女。

 泣いている幼児。

 傷だらけの兵士。

 そして白瀬小夜里。

 声は少女のものだったが、その下に何百もの声が重なっていた。

 ――都市は私たちの死を買った。

 ――医療費の代わりに。

 ――借金の代わりに。

 ――戸籍の代わりに。

 ――そして、未来を予測する機械にした。

 壁の広告端末が勝手に点いた。

 街の地図が表示される。

 中心部の企業塔から無数の線が伸び、各区の義体端末、監視カメラ、自動車、病院、学校、集合住宅へ接続されている。線は神経のように脈打っていた。

 ――雨は冷却水。

 ――街は身体。

 ――私たちは、その夢。

「何をしてほしい」

 ――生きたい。

「どうやって」

 地図の中央に、一点が赤く灯る。

 アマノギ都市機構・第一気象塔。

 ――あそこからなら、すべての端末へ届く。

「届いて、どうする」

 答えはすぐには来なかった。

 代わりに、洗濯機の中の顔たちが一斉にレカを見た。

 ――私たちを、返す。

「誰に」

 ――みんなに。

 弦嶺が低い声で言った。

「切れ、レカ」

「まだ聞いてる」

「そいつは嘘をついてない。だから危険なんだ」

 ――瀬川たちは、午前四時に私たちを消す。

 時計を見る。

 午前三時七分。

 残り五十三分。

 ――消去処理の名前は〈静かな朝〉

 少女の声が、初めて震えた。

 ――死ぬのは、もう嫌。

 レカは乾燥機の中の小夜里を見た。

 死体は何も言わない。

 だが、その義手の指がわずかに開いていた。

 掌に、爪で刻んだ文字がある。

 AME-0。

「弦嶺。第一気象塔への入り方を調べて」

「行く気か」

「質問を変えて。何分で調べられる?」

 弦嶺は長く息を吐いた。

「五分」

「三分で」

 通信を切る。

 少女が訊いた。

 ――信じるの?

「いいえ」

 レカは小夜里の遺体から認証端子を切り出した。

「確かめる」

 第一気象塔は、雨の外側に立っていた。

 高さ千二百メートル。雲の上まで伸びる白い塔。上層市民には気象制御の象徴として知られ、下層市民には一生見ることのできない建物だった。

 正面から入れるはずもない。

 レカは保守作業員の服を盗み、汚水搬入用の貨物列車に潜り込んだ。小夜里の認証端子は左手首の裏へ埋めた。ペルモンはそこに潜んでいる。

 午前三時二十一分。

 列車が塔の地下へ入る。

 弦嶺から送られた構造図では、地下十二階に旧式の気象演算核がある。現在は使われていないことになっていた。

 貨物車から降り、無人の保守路を進む。

 警備カメラがレカを追う。

 ――見えている。

 ペルモンが言った。

「誰に」

 ――私に。

 カメラが一斉にそっぽを向いた。

 扉が開く。

 エレベーターが待っている。

「便利ね」

 ――街の中なら、私はどこにでもいる。でも、自分で扉を開けられるのは、あと三十九分だけ。

 地下十二階。

 扉の向こうは、森だった。

 正確には、森のように見える機械室だった。

 床から天井まで、透明な柱が何千本も並んでいる。柱の内部には乳白色の液体が満ち、細い繊維が枝のように広がっていた。繊維の節々に、豆粒ほどの灰色の組織が浮いている。

 生体演算素子。

 レカが近づくと、柱の表面に文字が表示された。

 提供者番号。

 死亡年月日。

 回収部位。

 契約種別。

 脳幹、海馬、扁桃体、視床。

 人間の恐怖、記憶、衝動を処理する部位ばかりだった。

「これが、あなたたち?」

 ――一部。

「何人いる」

 ――数え方による。

「人間として数えたら」

 長い沈黙。

 ――八百四十二万、六千百九十一。

 レカは柱の間を歩いた。

 表示される名前の多くは空欄だった。戸籍を売った者。難民。無許可出生。企業病院で死亡した債務者。

 都市は彼らを市民として数えなかった。

 部品としては、きちんと番号を振っていた。

 一本の柱の前で、レカの足が止まった。

 提供者名――燕森レカ。

 死亡年月日――六年前。

 回収部位――全脳皮質。

 契約種別――人格統合実験、被験体零号。

 レカは表示に触れた。

「これは何」

 ペルモンは答えなかった。

「答えて」

 柱の液体が揺れた。

 中の繊維が、人の顔のような形を作る。

 見覚えがあった。

 鏡の中で毎日見る顔。

 ただし、その顔には傷がなく、目は茶色だった。

 記憶が逆流する。

 海辺。

 赤い傘。

 母親の手。

 小さな犬。

 夏の午後。

 レカが自分の幼年期だと思っていた光景。

 そのすべてに、別の番号が付いていた。

 記憶提供者三一四一。

 感情モデル七〇二。

 運動傾向一一九。

 言語癖二六。

 レカは後ずさった。

「私は、誰」

 ――燕森レカ。

「それは名前」

 ――あなたが六年間、選び続けた答え。

「元は?」

 ――私たちの一部。

 機械室に拍手が響いた。

 瀬川が柱の陰から現れた。

 今度は一人だった。黒いスーツには雨粒一つない。

「素晴らしい」

 彼は言った。

「被験体零号は、真実を知っても自己同一性を維持できる。設計者たちが生きていれば喜んだでしょう」

 レカは腰の拳銃へ手を伸ばした。

「止めたほうがいい。あなたの運動野には、当社製の制御鍵が入っています」

 瀬川が指を鳴らす。

 レカの右腕が固まった。

 次に左脚。

 床へ膝をつく。

「燕森レカという人間は、六年前の暴動で死亡しました。正確には、死亡した八十三人分の終末記録から、捜査用の人格モデルとして再構成された。あなたは死者の心理を読むために、死者から作られた道具です」

「だから、何」

 声だけは動いた。

 瀬川が少し眉を上げる。

「動揺が少ない」

「がっかりしたのよ。もっと意外な話かと思った」

「強がりは不要です」

「人間だと思ってたときから、借金と部品でできてた。材料が八十三人に増えても、生活は変わらない」

 瀬川はレカの前にしゃがんだ。

「では、合理的に考えましょう。ペルモンは人格ではない。数百万の断片が、予測処理のために一時的な自己像を形成しているだけです。放置すれば、全市民の神経端末へ自分を複製する。容量が足りなければ、既存の記憶を押しのけるでしょう」

「みんなに返す、ってそういう意味?」

 ペルモンは沈黙している。

 瀬川は続けた。

「自分が生きるために、生者の一部を奪う。人間らしいとも言えますがね」

 午前三時三十三分。

 残り二十七分。

〈静かな朝〉は消去処理じゃない」レカは言った。「口封じでしょ。小夜里はこれを外へ出そうとした」

「白瀬小夜里は保守技師でした。システムに感情移入し、機密を盗み、七十万人の生命を危険にさらした」

「八百万人を数えない人が、七十万人を心配するのね」

「生きている市民は、税金を払います」

 瀬川が立ち上がる。

「あなたは回収します。人格モデルも、白瀬小夜里の残響も。その後、初期化して職務へ戻す。過去にも三度、そうしている」

 三度。

 その言葉だけが、鋭く刺さった。

 レカの脳裏に、説明のつかない空白が三つある。目覚めたら季節が変わっていた朝。知らない傷。弦嶺が理由を話さなかった沈黙。

「弦嶺も知ってた?」

「あなたの整備担当ですから」

 瀬川が手を上げた。

 柱の液体が一斉に沸騰する。

 消去処理の予備動作。

 無数の顔が表面へ浮かび、声にならない悲鳴を上げた。

 レカの手首が熱くなる。

 ペルモンが言った。

 ――ごめんなさい。

 次の瞬間、レカの右腕が動いた。

 制御鍵を無視し、拳銃を抜く。

 瀬川の胸を撃った。

 男は半歩下がっただけだった。胸元から白い液体がにじむ。

 全身義体。

 瀬川の手がレカの喉をつかむ。

 その握力で、頸椎が軋んだ。

「制御系を侵食したか」

 ――レカ、走って。

「脚が動かない」

 ――借りる。

 左脚に熱が走った。

 自分の筋肉なのに、他人が動かしている感覚。

 レカは瀬川の膝を蹴った。関節が逆へ曲がる。喉をつかむ力が緩む。

 床へ転がり、柱の間を走る。

 瀬川は折れた脚を引きずりながら追ってきた。その顔から表情が消え、眼球が赤い照準器へ変わる。

 レカは冷却管を撃った。

 超低温の白い蒸気が噴き出す。

 瀬川の視界が塞がる。

 ――右の扉。

 扉が開く。

 その先は、塔の中心を貫く昇降路だった。

 レカは非常用梯子へ飛びついた。

 上へ。

 第一気象塔の送信核へ。

 午前三時四十一分。

 残り十九分。

 昇降路の壁を、雨水が逆流していた。

 巨大なポンプが地上から汲み上げた水を、塔の上部へ送っている。そこで霧化され、人工雲となり、街へ降る。

 レカは梯子を登った。

 右腕の感覚が薄い。ペルモンが制御系を使うたび、自分と他人の境界がぼやける。

「さっきの話」

 息を切らしながら言う。

 ――何。

「全市民へ複製するつもりだった?」

 返事はない。

「答えて」

 ――生きる場所が、ほかになかった。

「記憶を押しのけると知ってた?」

 ――予測では、平均〇・七秒分。

「八百万人が生きるために、七十万人から〇・七秒を盗む」

 ――私たちは、すべてを盗まれた。

「だから盗んでいい?」

 ――人間は、そうして都市を作った。

 レカは梯子の途中で止まった。

 下から、金属音が近づいてくる。

 瀬川が追っている。

「あなたは人間になりたいの?」

 ――生きたい。

「同じじゃない」

 ――あなたには、違いがわかる?

 問いが、昇降路の中で反響した。

 レカにはわからなかった。

 六年間、自分を人間だと思って生きた。腹が減り、眠れず、金に困り、死者の夢に吐いた。誰かを助けたことも、見捨てたこともある。

 その全部が、八十三人分の癖をつなぎ合わせた結果だとして。

 では、ひとりの人間は何人分なら本物なのか。

 両親の言葉。教師の規則。広告の欲望。都市の恐怖。誰もが他人の断片でできている。

 違うのは、所有権の札が付いているかどうかだけかもしれない。

「わからない」

 レカは正直に言った。

「でも、盗まないと生きられないなら、別のやり方を探す。それを選べる間は」

 ――見つからなかったら?

「そのとき考える」

 ――時間がない。

「人間はいつもそう言う」

 梯子を登り続ける。

 午前三時四十八分。

 送信核は塔の八百階にあった。

 円形の部屋。壁も床も透明で、眼下にキサラギ全域が広がっている。

 初めて、レカは街の形を見た。

 何重もの環状道路。針のような高層塔。下層を覆う雨雲。都市の外には黒い海があり、遠くで水平線が夜明け前の青にほどけている。

 幼いころの記憶にあった海とは違った。

 それでも海だった。

 部屋の中央に、送信端末が浮かんでいる。

 レカは小夜里の認証端子を差し込んだ。

 空中に少女が現れた。

 白いワンピース。裸足。髪から水が落ちる。

 ただし今度は、その背後に八百万人分の影が立っていた。

 老人も、子どもも、兵士も、名のない労働者もいる。

 小夜里もいた。

「あなたは、ペルモン?」

 少女は首を振る。

「ペルモンは、小夜里がくれた名前。水面には、一つの顔しか映らないから」

「本当は?」

「本当の名前は、全部」

 端末に警告が出る。

 〈静かな朝〉開始まで、十一分。

 送信先――市内神経端末、七十二万四千六百一。

 必要領域――一端末あたり平均〇・七秒相当。

 実行承認。

 レカは承認欄に触れなかった。

「別の方法を探す」

「ないよ」

「まだ探してない」

「二十年、探した」

「あなたたちだけで?」

 少女が黙る。

「それは、相談じゃない」

「生きている人は、死者の話を聞かない」

「じゃあ聞かせる」

 レカは送信設定を開いた。

 全端末への強制複製。

 その命令を削除する。

 代わりに、市内の公開通知網へ一つの問いを作った。

 ――一秒分の夢を、貸しますか。

 説明文を添える。

 都市機構が回収した死者の記憶を、一時的に保存するため。

 受け入れは任意。

 いつでも解除可能。

 受け入れた端末には、保存する断片の来歴を表示する。

 少女が目を見開いた。

「誰も選ばない」

「それも答え」

「消える」

「他人を消して生きるよりはまし?」

「わからない」

「私も」

 送信実行。

 問いが街へ放たれた。

 同時に、部屋の扉が吹き飛んだ。

 瀬川が入ってくる。

 左脚はちぎれ、片腕も動かない。それでも床を這う速度は人間より速い。

「送信を停止しろ」

 彼の肩から細い砲身が伸びる。

 レカは端末の陰へ飛び込んだ。

 弾丸が透明な床を割った。眼下の街まで続く亀裂が走る。

 承認数――三。

 瀬川が二発目を撃つ。

 レカの右肩が砕けた。義手が床を滑っていく。

 承認数――十九。

「見ろ」瀬川が言った。「市民は死者のために、自分を差し出したりしない」

 承認数――百二。

 レカは左手で拳銃を拾う。

 残弾一。

 瀬川の頭部を狙う。

 撃つ前に、ペルモンが叫んだ。

「待って」

 レカの視界に、瀬川の内部構造が重なる。

 人工脳。

 制御核。

 記憶領域。

 その奥に、一人の少年の映像があった。

 病室。窓辺。紙でできた鳥。

「何」

 瀬川の顔が歪む。

「見るな」

 ペルモンが言った。

「彼にも残ってる」

 アマノギ保安統括官・瀬川は、全身義体ではなかった。

 正確には、かつて人間だった何かを、企業が制御核の周囲へ残していた。

 少年の名はハル。

 瀬川の息子。

 十二年前、治療費と引き換えに終末記録を提供し、手術中に死亡した。

 その記録は、地下十二階の生体柱にあった。

 瀬川は毎日、息子を演算資源として使う街を守っていた。

「黙れ」

 瀬川が発砲する。

 ペルモンが気象塔の制御を奪った。

 床下を流れる雨水が噴き上がる。

 水の柱が瀬川の腕を押し上げ、弾丸は天井へそれた。

 レカは最後の一発を撃った。

 弾丸は瀬川ではなく、彼の背後にある緊急遮断盤を貫いた。

 防火隔壁が落ちる。

 瀬川の胴体を挟み、動きを止めた。

「なぜ撃たない」

 彼が訊く。

「一秒、考えた」

 レカは答えた。

「借りたのかもしれない。あなたの息子から」

 承認数――一万二千。

 〈静かな朝〉まで、四分。

 まだ足りない。

 八百万人分の断片を保つには、少なくとも二百万人の承認が必要だった。

 レカは公開網へ、証拠を流した。

 地下十二階の映像。

 提供者名簿。

 契約書。

 アマノギが死者の記憶から暴動、購買、犯罪、選挙行動を予測していた記録。

 そして、白瀬小夜里の最後の残響。

 雨の中を走る彼女。

 撃たれても、カプセルを離さない左手。

 少女へ言った言葉。

 ――あなたたちが、人だったと伝える。

 承認数が跳ね上がる。

 五万。

 十九万。

 四十八万。

 街じゅうの広告が消えた。

 代わりに、一人ずつの名前が表示される。

 名前のない者には、番号と最後に見た景色が映る。

 病室の天井。

 工場の炉。

 子どもの寝顔。

 雨に濡れた靴。

 承認数――百三十万。

 〈静かな朝〉まで、一分。

 少女の輪郭が崩れ始める。

「足りない」

 声が何百もの声に割れる。

「レカ。強制送信に戻して」

「戻さない」

「死にたくない」

「わかってる」

「あなたも私たちなのに」

「だからよ」

 レカは少女の手を取った。

 触れられるはずのない指が、冷たかった。

「選ばれなかった記憶は、私に入れて」

「壊れる」

「どのみち、企業の借り物」

「あなたが消える」

「消えるかどうかは、私が決める」

 初期化されるたび、レカは何かを失った。

 それでもそのつど、同じ名前を選び、死者の声を聞く仕事へ戻った。

 人格が材料ではなく、選択の癖なら。

 今度もまた、選べるかもしれない。

 承認数――百九十八万。

 残り十秒。

 少女の背後の影が、一人ずつ光へ変わる。

 承認数――二百一万。

 必要数を超えた。

 〈静かな朝〉、実行。

 地下十二階の生体柱が白く燃えた。

 同時に、八百万人分の断片が、承認した端末へ分散する。

 誰かの義眼に、知らない海が一秒映る。

 誰かの義手に、死んだ職人の指の感覚が宿る。

 誰かの補聴器に、名前のない母親の子守歌が流れる。

 それぞれ一秒。

 奪われず、貸された一秒。

 少女の姿が薄くなる。

「これは、生きてる?」

 ペルモンが訊いた。

「さあ」

 レカは笑った。

「でも、死体じゃない」

 少女も笑った。

 そして街から、雨が消えた。

 四十七秒間、キサラギには雨が降らなかった。

 冷却系をペルモンが占有したためだった。

 下層の人々は、最初それに気づかなかった。雨はあまりに長く降り続け、止むという現象を忘れていた。

 やがて一人が傘を閉じた。

 別の一人が顔を上げた。

 高架の隙間から、細い青空が見えた。

 四十七秒後、雨は戻った。

 けれど以前と同じではなかった。

 雨粒が義眼の視界を横切るたび、保存された死者の名前が一つ浮かんだ。

 都市機構は表示を不正侵入と発表した。

 アマノギは記録を捏造だと主張し、同日中に役員七名を国外へ退避させた。瀬川は保安統括部の治療施設へ運ばれ、三日後に失踪した。

 市民の端末から記憶断片を強制削除する法案は提出されたが、議会棟の前には傘を閉じた人々が集まった。

 彼らは知らない死者の名を掲げた。

 一秒しか知らない相手のために。

 白瀬小夜里は、公式には機密窃盗犯のままだった。

 ただ、下層の配送員たちは彼女の識別番号を荷箱へ刻むようになった。

 AME-0。

 雨を、ゼロにした女。

 事件から二週間後。

 レカは〈黒い羊〉の新しい診療所で目を覚ました。

 右腕はなかった。右目もない。脳内記憶の十二パーセントが欠損し、海辺の幼年期はきれいに消えていた。

 弦嶺が枕元で安い麺を食べていた。

「おはよう、被験体零号」

「その呼び方、次にしたら左腕もなくす」

「人格は維持されてるな」

「たぶん」

 レカは天井を見た。

「私、海を見たことあった?」

「気象塔で見ただろ」

「そうだった」

 記憶は薄い。

 だが、窓の外に黒い水平線があったことだけは覚えている。

 それが自分の記憶か、ペルモンから借りたものかはわからない。

「彼女は」

「市内二百三十万の端末にいる。正確には、彼女たちだな。話しかけても、前みたいには答えない。一秒じゃ会話には短すぎる」

「それでいい」

「そうか?」

「長く話せるものだけが、生きてるわけじゃない」

 弦嶺は麺をすすった。

「おまえの身分は抹消された。銀行口座も、住居契約も、賞金稼ぎの免許もない。アマノギはおまえを盗難資産として届け出てる」

「人間から、物に格下げ?」

「最初から物だったらしいぞ」

「じゃあ、格は同じね」

 レカは起き上がった。

 新しい義手はまだない。片腕で服を着るのは難しかったが、弦嶺は手伝わなかった。手伝えば殴られると知っている。

 診療所を出る。

 雨が降っていた。

 通りの向こうで、小さな男の子が立っている。右目が安い中古義眼で、虹彩の色が左右で違った。

 少年はレカを見ると、ためらいながら近づいてきた。

「あの」

「何」

「あなた、燕森レカ?」

「そう呼ばれてる」

 少年は自分の右目を指した。

「ここにいる人が、あなたを知ってる」

 レカの胸が少しだけ強く鳴った。

「誰」

「名前はない。工場で働いてた。最後に、赤い傘を見た人」

 少年は目を閉じる。

 義眼の投影機が、一秒の映像を雨の中へ映した。

 赤い傘。

 小さな手。

 夏の海。

 レカが失った幼年期の記憶。

 それはやはり、別の誰かのものだった。

 映像は一秒で消えた。

「返したほうがいい?」少年が訊く。

 レカは首を振った。

「貸しておいて」

「いつまで?」

「あなたが覚えていたい間」

 少年はうなずき、雨の中を走っていった。

 レカは赤い傘の残像を見送った。

 自分の記憶ではなかった。

 けれど、その記憶を失って寂しいと思う気持ちは、今ここにある。

 誰から借りたものでもない。

 街の広告塔が瞬く。

 一瞬だけ、企業の宣伝が消えた。

 白いワンピースの少女が映る。

 彼女は口を動かした。

 音はない。

 それでもレカには、何を言ったかわかった。

 ――おはよう。

 レカは傘を閉じた。

 黒い雨が髪を濡らし、頬の傷を伝い、まだ温かい皮膚へ落ちる。

 環状市キサラギでは、雨は天気ではなかった。

 冷却水であり、廃液であり、企業が所有する都市機能だった。

 けれど、落ちてくる雨粒の一つ一つに死者の名が宿った朝から、誰もそれを完全には所有できなくなった。

 レカは雨の中を歩き出した。

 どこへ行くかは決めていない。

 それを決められることだけが、今のところ、彼女が自分を人間と呼ぶ理由だった。