雲の底で、青い鐘が鳴る

一 島に赤い印がついた日

 世界には、地面より先に空があった。

 雲海の上を、大小無数の島が漂っている。苔むした岩島、森を背負った島、腹の下に滝を垂らした島。なかでもトビウオ島は、遠くから見ると本当に一匹の魚に似ていた。尖った口、左右に張り出した翼、丸くふくらんだ腹。大昔に死んだ空鯨の骨へ土が積もり、人が住みつき、町になったのだと老人たちは言う。

 そのトビウオ島の広場に、帝国航路局の役人が赤い杭を打ち込んだ。

「浮力嚢の腐食、九十一パーセント。下層雲海への沈降は避けられない。四日後、住民を全員退去させる」

 役人は紙を読み上げ、最後に島の地図へ大きな赤い斜線を引いた。

 地図工房の見習いであるランは、その音を一生忘れないと思った。太い鉛筆が紙を擦る、ざらざらという音。まるで島の喉を、鈍い刃物で切る音だった。

「島がなくなるわけじゃない」

 母はそう言った。

「私たちが別の場所へ移るだけよ」

 だが、パン窯も、風車も、学校の鐘も、父が七年前に帰らなかった家も、ここに残る。人がいなくなった島は、島ではなく大きな墓だ、とランには思えた。

 その日の夕方、ランは友人三人と、立入禁止になった旧気象台へ忍び込んだ。

 先頭はネネだった。十五歳。縄職人の娘で、町の大人より結び目を多く知っている。後ろにはフピエ。十三歳。機械工場の手伝いで、道具箱より食料袋を大切にする。最後がキュリク。十一歳。学校で一番小柄だが、古代文字を読める唯一の子どもだった。

「ここ、本当にお宝があるの?」

 フピエが床板を踏み抜きかけながら言った。

「父さんの荷物が保管されたままなんだ」

 ランは答えた。

「航路局が明日、気象台を爆破する。探すなら今夜しかない」

「お宝って、失踪した人の靴下とかじゃないでしょうね」

「父さんは靴下を左右そろえて持たない人だった」

「じゃあ片方だけだ」

 ネネが振り返った。

「静かに。見張りがいる」

 四人は壊れた観測機の陰を這い、屋根裏へ上がった。梁の間には、没収された遠征用品が埃をかぶっていた。酸素鐘、氷斧、折れた風向計、革袋に入った測量鎖。

 ランは父イサクの印――三本足の鳥――が刻まれた木箱を見つけた。

 鍵はなかった。ネネが薄い鉄片を差し込み、二度ひねると開いた。

 中には、真鍮の筒が一本と、ぼろぼろの手帳が入っていた。

 真鍮筒から出てきたのは、一枚の地図だった。

 トビウオ島の腹に走る廃坑道。その奥から、島の外へ伸びる点線。点線は雲海を越え、北に浮かぶ乳白峰エルケンへ続いている。そして山頂のさらに先、紙の余白に青いインクで街が描かれていた。

 尖塔、階段、三日月形の港。街の中央には、巨大な鐘。

 父の字で、こう記されていた。

 ――眠りの都ネブラ。碧天の錨は鐘楼にある。

 ――一つの島を、望む風へ導く力を持つ。

 ランの胸の内で、何かが弾けた。

「これでトビウオ島を救える」

 ネネはすぐには喜ばなかった。地図を灯りに透かし、距離を測り、手帳の残り頁をめくった。

「エルケンは六千八百メートル。大人の遠征隊が三度失敗した山よ」

「父さんは行った」

「そして帰らなかった」

 言葉が部屋の真ん中へ落ちた。

 ランは地図を巻いた。

「四日後には島を追い出される。何もしなくても、父さんと同じものを失う」

 キュリクが街の絵を指でなぞった。

「この文字、ネブラじゃない。古語では『まだ目覚めていない場所』って読むの」

「街が寝坊してるのか?」とフピエ。

「たぶん、行く人のほうが眠るんだと思う」

 ネネは長く息を吐いた。それから地図の点線を指した。

「廃坑道を抜ければ、父さんが隠した風艇がある。山の南壁まで半日。登頂して、戻るまで三日。天候が崩れたら終わり」

「つまり、ぎりぎり間に合う?」

「つまり、普通なら行かない」

 ネネは地図をランへ返した。

「でも私たちは、普通なら家を捨てなくていい年齢よ」

 その夜、四人は町が眠る前に出発した。

二 空鯨の腹を抜けて

 廃坑道の入口は、古い塩倉庫の床下にあった。

 トビウオ島の内部には、空鯨の骨が迷路のように走っている。肋骨は橋になり、背骨は鉄道になり、かつて浮力を生み出した巨大な嚢は鉱石の採掘場になっていた。

 四人は手押しトロッコへ荷物を積んだ。

 ネネが用意したのは、百二十メートルの麻綱、氷爪、毛布、油紙、乾燥肉、火口箱、三日分の水。フピエは工具と、なぜか蜂蜜菓子を二袋。キュリクは古語辞典。ランは父の地図と手帳を胸へ入れた。

「一つ確認するけど」ネネが言った。「蜂蜜菓子は共同装備よ」

「僕の精神を保つための医薬品だ」

「没収」

 トロッコは錆びた軌道を滑り、暗闇へ入った。

 壁の奥から、島の鼓動のような低い音がした。だがそれは鼓動ではない。腐った浮力嚢から空気が抜ける音だった。

 坑道の中ほどで、軌道が崩れていた。

 足元には底の見えない裂け目。向こう岸まで十二メートル。天井から一本の古い鎖が垂れている。

「地図には橋って書いてある」とラン。

「七年前の橋ね」とネネ。

 フピエが裂け目を覗き込み、すぐ顔を引っ込めた。

「僕はここで待って、みんなの帰還を精神的に支える役を――」

「あなたが一番軽い」

「軽さには人格も含まれる?」

 ネネはフピエの腰へ縄を結び、鎖につかまらせた。フピエは泣きそうな顔で振り子のように揺れ、向こう岸へ飛びついた。

 その瞬間、暗闇の下で何かが目を開けた。

 緑色の光が二つ、ゆっくり上昇してくる。

「急いで!」キュリクが叫んだ。

 裂け目から、白く長い生き物が首を出した。坑道鰻。光のない場所で育ち、人の息を熱として感じる。

 フピエは工具袋から歯車を一つ投げた。鰻は金属音へ食いつき、巨大な口を閉じた。

 その隙にフピエが鎖を固定し、四人は順番に渡った。最後のランが岸へ飛び移ると同時に、鰻の顎が靴底をかすめた。

「工具を餌にしたら、あとで困るだろ」ランが言った。

「食べられたら、もっと困る」

「それはそう」

 さらに一時間進むと、丸い石扉に行き当たった。扉には古代文字が環状に刻まれている。

 キュリクが埃を払い、読んだ。

「『名を忘れた風だけが、空へ帰る』」

「謎かけだ」とフピエ。「僕、謎かけ嫌い。正解しても扉しか開かない」

 ランは壁を調べた。古い坑道図では、この先は空鯨の鼻孔に当たる。風が通るはずだが、何も感じない。

 ネネはランの持つ父の地図を見た。

「名前を消すんじゃない?」

 地図上の扉の場所に、父が鉛筆で『帰らず門』と書いていた。ランは迷った末、その文字を消しゴムでこすった。

 最後の一画が消えたとき、石扉の文字が淡く光った。

 ゴウン、と重い音がして、扉が左右へ開く。

 冷たい夜風が四人の髪を吹き上げた。

 扉の向こうには、雲海が広がっていた。

 細い岩棚に、翼を畳んだ風艇が一隻つながれている。船体は古びていたが、三本足の鳥の印は鮮やかに残っていた。

 父の船、カワセミ号。

 ランが舷側へ触れたとき、七年間凍っていた時間が、ほんの少し動いた気がした。

「感動してるところ悪いけど」とフピエ。「左翼の帆骨が折れてる」

「直せる?」

「僕を誰だと思ってる」

「蜂蜜菓子を医薬品と呼ぶ男」

「正解。だから糖分をくれ」

 修理に四十分かかった。

 夜明け前、カワセミ号は岩棚を離れた。帆が風をはらみ、四人を乗せた小舟は雲海の上へ滑り出した。

 背後でトビウオ島が小さくなる。

 町の灯りは、眠る魚の鱗のようだった。

 北の空には、乳白峰エルケンが立っている。

 雲を貫き、月光を浴びたその山は、白い牙に見えた。

三 山は勇気を知らない

 エルケン南壁の氷河へ着いたのは、翌日の昼だった。

 標高三千九百メートル。空気はすでに薄く、歩くだけで胸が苦しい。

 ネネは上陸すると、まず全員の唇と爪の色を見た。

「頭痛は?」

「少し」とキュリク。

「吐き気は?」

「フピエの昼飯を見たら」

「それは正常」

 彼らは父の地図に記された第一野営地へ向かった。氷河は一枚の平地に見えたが、雪の下には無数の裂け目が口を開けている。四人は十メートルずつ間隔を取り、一本の縄でつながった。

 先頭はネネ、次にキュリク、フピエ、最後がラン。

「前の人の足跡だけ踏むこと。縄をたるませない。落ちたら叫ぶ前に氷斧を刺す」

「落ちてる最中に三つも無理だ」とフピエ。

「じゃあ落ちないで」

 午後、フピエの足元が消えた。

 雪の橋が音もなく割れ、彼の体が青い裂け目へ吸い込まれた。縄が張り、キュリクが後ろへ引かれる。

「伏せて!」

 ネネの声で全員が氷斧を打ち込んだ。

 縄の先から、フピエの声がした。

「生きてる! でも蜂蜜菓子が落ちた!」

「重要度の順番を考えて!」とキュリク。

 ネネは雪へ支点を作り、ランが腹這いで裂け目へ近づいた。フピエは五メートル下で宙づりになっていた。青い氷壁の奥は暗く、底がない。

「足を壁につけろ。縄の結び目を輪にして踏め」

「手が震える」

「震えたままでいい。止まるのを待つな」

 ランは父の手帳にあった救助法を思い出し、一つずつ指示した。

 十分後、フピエは雪上へ這い上がった。顔は真っ白だった。

 ネネは彼を抱きしめる代わりに、頬を軽く叩いた。

「名前は?」

「ボル・アッペン。十三歳。好きなものは――」

「それだけ言えれば大丈夫」

「蜂蜜菓子」

「一袋残ってる」

 その場で四人は一個ずつ食べた。

 甘さは凍って硬くなっていたが、ランがそれまで食べたどんな菓子よりうまかった。

 第一野営地には、石を積んだ小さな壁と、錆びた箱が残っていた。

 箱には三本足の鳥の印。

 中には燃料、二本の酸素鐘、乾燥豆、それに父の記録筒があった。

 ランは手袋を外し、巻紙を開いた。

 ――遠征第九日。標高四八二〇。天候、晴れのち粉雪。

 ――山は人間の勇気を知らない。善人も悪人も、子どもを待つ父親も、同じように凍らせる。登る理由を山へ説明しても無駄だ。だから判断だけは、願いから切り離さなければならない。

 その下に、別の筆跡で追記があった。

 ――それでも私は登る。ネブラを見たという夢が、起きている間も消えない。

 ランは紙を巻き直した。

「父さんはここを通った」

「うん」とネネ。

「本当に、山頂まで行ったと思う?」

「地図を描いた人は、見ていない場所ほどきれいに描くものよ」

 ネネは街の絵を見つめた。

「でも、ここまで来た人の線は嘘じゃない」

 その夜、風が強くなった。

 テントは何度も押しつぶされ、四人は交代で支柱を抱えた。気温は零下二十度まで下がった。眠れば、耳元で誰かが名前を呼ぶ。

 ランには父の声が聞こえた。

 ――遅かったな。

 目を開けると、テントの布がばたばた鳴っているだけだった。

 翌朝、キュリクが立てなくなった。

 頭痛、吐き気、ふらつき。薄空病の初期症状だった。

「下りる」とネネは即座に言った。

「でも時間がない」とラン。

「だから下りる。ここから上へ行けば、キュリクは歩けなくなる」

「一晩休めば――」

「願いと判断を分けるんでしょ」

 父の言葉を返され、ランは黙った。

 四人は三百メートル下り、岩陰で半日休んだ。キュリクへ水を飲ませ、荷物を分け、呼吸が戻るのを待った。

 その間にも雲は流れ、残り時間は減っていく。

 夕方、キュリクは自分で立った。

「戻れる?」とラン。

「島へなら」

「山頂へは?」

 キュリクは少し考えた。

「ゆっくりなら。次に具合が悪くなったら、私を置いていくのは禁止」

「もちろん」

「全員で下りるのも禁止」

「それは約束できない」とネネ。

 キュリクは唇を尖らせたが、うなずいた。

 夜半、風が止んだ。

 星が、手を伸ばせば刺さりそうなほど近かった。

 ネネは空を見上げた。

「天候の窓が開いた。六時間だけ」

 四人は荷物を最小限にし、山頂へ向かった。

四 眠りの都ネブラ

 標高六千メートルを越えると、世界から音が減った。

 聞こえるのは、自分の呼吸と、氷爪が斜面を噛む音だけ。

 一歩進み、三度息をする。十歩ごとに立ち止まる。止まると寒さが体へ入り込むので、また歩く。

 東の空が紫色に変わったころ、最後の雪壁へ着いた。

 高さは三十メートル。上には丸く張り出した雪庇がある。

 ネネが先に登り、氷へ杭を打った。ラン、キュリク、フピエが続く。

 半ばまで来たとき、下からエンジン音が聞こえた。

 一人乗りの航路局艇が、氷河へ降りてくる。

「追っ手だ」とフピエ。

 艇から降りたのは、島の沈降を宣告した役人、ハーグ監査官だった。毛皮の外套に、帝国製の酸素鐘。腰には信号銃。

 彼は拡声筒で叫んだ。

「そこから動くな! 地図と発見物は帝国の資産として接収する!」

「子どもの遭難を心配して来た顔じゃないね」とキュリク。

 ハーグは単独で登り始めた。最新式の自動巻き上げ器を使い、驚くほど速い。

 ランたちは雪壁を越えた。

 そこが山頂だった。

 平らな雪原の中央に、黒い石柱が円形に並んでいる。街も、鐘楼もない。

 ただ石柱の内側に、青い氷でできた小さな鐘が半分埋まっていた。

「これだけ?」フピエが言った。

 キュリクは石柱の文字を読んだ。

「『目を閉じた者に門は高く、目を開いた者に門は深い』」

「また謎かけか」

 ランは父の手帳を開いた。最後の頁に、一行だけあった。

 ――山頂で眠れ。帰りたい場所を思い浮かべるな。

 そのとき、雪壁の下で破裂音がした。

 ハーグの巻き上げ器が杭を抜いたのだ。雪庇に亀裂が走り、監査官の体が斜面へ滑った。

「助けてくれ!」

 ネネは一瞬も迷わず腹這いになり、縄を投げた。

「腕に巻いて!」

「放せばいい!」ランは思わず叫んだ。「あいつは島を――」

「山は悪人も同じように凍らせる!」

 ネネの言葉に、ランは縄をつかんだ。

 四人で引き、ハーグを山頂へ上げた。

 監査官は雪へ吐き、しばらく動かなかった。やがて青い鐘を見ると、目の色を変えた。

「碧天の錨……本当にあったのか」

 彼は信号銃を抜いた。

「それを渡せ」

「助けてもらった直後に?」とフピエ。

「帝国の命令だ。価値を理解しない者に持たせられん」

 空が鳴った。

 遠くから雲が湧き、山頂へ迫っていた。天候の窓が閉じる。

 ネネは青い鐘の横へテントを張った。

「撃つなら撃てば。あなた一人じゃ、吹雪の中を下りられない」

 ハーグは銃口を向けたまま、何も言わなかった。

 五人は狭いテントへ入った。

 外では風が増し、石柱が低く唸った。

「眠るしかない」ランは言った。

「こんな状況で?」フピエがハーグを見た。「寝たらこの人、僕らを縛るよ」

「お前たちが先に私を縛るかもしれん」

「いい考えね」とキュリク。

 結局、全員の腰を一本の縄でつないだ。誰かが動けば、全員が起きる。

 ランは目を閉じた。

 帰りたい場所を思い浮かべるな、と父は書いた。

 だからランは、まだ見たことのない場所を考えた。

 空の底にある海。逆さに降る雨。星を運ぶ魚。

 風の音が遠ざかった。

 鐘が鳴った。

 目を開けると、ランは青い石畳の上に立っていた。

 空には巨大な月が二つあり、片方は海へ沈み、片方は昇りかけている。街は白い断崖に沿って階段状に広がり、塔の窓には金色の灯りがともっていた。屋根の上を、翼のある猫がゆっくり歩く。港には帆のない船が浮かび、波ではなく星明かりに揺れていた。

 眠りの都ネブラ。

「僕、凍死してないよね?」

 隣でフピエが頬をつねっていた。

「痛い?」とキュリク。

「痛い。夢なのに損した」

 ネネとハーグもいた。腰の縄は消えている。

 街の人々は五人を見ても驚かなかった。絹の服を着た者、角のある者、半透明の者。皆、昔から彼らを知っていたように微笑んだ。

 中央広場には、地図に描かれた巨大な鐘楼があった。

 青い鐘の下に、一人の男が立っていた。

 日に焼けた顔。片方だけ折り返した袖。三本足の鳥を刺繍した帽子。

「遅かったな」

 ランは声が出なかった。

 父イサクは、七年前と同じ姿で笑った。

 走り寄ろうとしたランを、ネネが腕で止めた。

「待って」

 父は寂しそうに目を細めた。

「正しい。ここにいるものを、簡単に信じてはいけない」

「父さんなの?」

「お前が覚えている私と、この街が覚えている私を混ぜたものだ。本物の私は、山を下りる途中で死んだ」

 言葉は静かだった。

 ランの胸に、七年遅れて雪崩が落ちた。

「じゃあ、帰れなかったんじゃなくて」

「帰ろうとした。お前と母さんのところへ」

「どうして鐘を持ってこなかった?」

 父は鐘楼を見上げた。

「碧天の錨は、物ではない。眠る者が望んだ行き先を、目覚めた者の空へ結ぶ響きだ。これを鳴らすには、誰かが新しい故郷を夢見なければならない」

「トビウオ島を元の場所に戻したい」

「それは行き先ではない。昨日だ」

 街の風景が揺れた。

 パン窯の匂い、学校の鐘、母の洗濯物、父の机。ランが帰りたいものが路地の先に現れる。

 そこでは七年前の家族が夕食を囲んでいた。

「ここに残れば、失ったものは何でもある」と父の姿が言った。「この街は、目覚めた世界で叶わなかった願いからできている」

 ランは一歩、家のほうへ進んだ。

 窓の中の幼い自分が笑っている。父がスープをよそう。母はまだ白髪がない。

 もう一歩進めば、扉を開けられる。

 そのとき、背後で乾いた音がした。

 ハーグが鐘楼の階段を駆け上がり、青い鐘へ手をかけていた。

「これは帝国へ持ち帰る。島一つどころか、艦隊の航路を変えられる!」

 彼が鐘の縁を引いた瞬間、街全体に亀裂が走った。

 塔が傾き、星の海が路地へあふれ込む。

 人々の顔から微笑みが消えた。

「やめろ!」ランは叫んだ。

 ハーグは鐘を抱えたまま動かなかった。

 彼の前に、小さな女の子が立っていたからだ。

 赤い外套。片方だけの三つ編み。

「お父さん」

 ハーグの顔が崩れた。

「リーネ……」

 女の子は笑った。

「また仕事に行くの?」

 監査官の手から力が抜けた。

 鐘は元の場所へ戻り、亀裂が止まった。

「熱病で死んだ」ハーグは誰にともなく言った。「十年前だ。薬を買う金を稼ぐために出張していた。帰ったときには……」

 少女は手を差し出した。

 ハーグはその手を取りかけた。

 だが、触れる寸前に引っ込めた。

「これは、あの子ではない」

「うん」と少女は言った。「でも、あなたが忘れないかぎり、私に似たものはいる」

 ハーグは泣きながら笑った。

「残酷な街だ」

「人の願いほどではないよ」父の姿が答えた。

 鐘楼の上で、青い鐘が風もないのに揺れた。

 父はランへ手を差し出した。

「選べ。ここに残り、昨日を永遠に歩くか。目覚めて、まだ地図にない明日を描くか」

 ランは窓の中の家族を見た。

 それから、ネネ、フピエ、キュリクを見た。三人とも怖がっていた。疲れていた。それでも誰も、ランを急かさなかった。

 ランは父の手を握った。

 温かかった。

「父さん。ぼくは帰る」

「ああ」

「でも、帰る場所はこれから決める」

 父は帽子を取り、ランの頭へかぶせた。

「それでこそ地図屋だ」

 ネブラの鐘が鳴った。

 街も、父も、二つの月も、青い光へ溶けた。

五 目覚めた者の仕事

 ランは吹雪の音で目を覚ました。

 テントは半分潰れ、雪が中へ入り込んでいた。全員の腰は縄でつながったまま。ハーグは目を開け、静かに泣いていた。

 外へ出ると、黒い石柱の内側で青い氷鐘が光っていた。

 キュリクが鐘の根元に浮かぶ文字を読んだ。

「『夢見る者は方角を。目覚めた者は力を』」

「誰が夢見る?」ネネが聞いた。

 ランは首を振った。

「全員だ。新しい故郷は、一人で決めるものじゃない」

「でも僕ら、起きてるよ」とフピエ。

「半分だけ眠る仕組みを作る」

 フピエの目が、初めて蜂蜜菓子以外の理由で輝いた。

 青い鐘には舌がなかった。代わりに中心を貫く穴があり、細い光が地下へ伸びている。

 フピエは壊れた自動巻き上げ器を分解し、歯車と重りを取り出した。ネネが縄を鐘の上へ回し、氷杭で滑車を組む。ハーグは航路局艇から予備燃料と発熱筒を運んだ。

「鐘を一度だけ打つ」とフピエは言った。「巻き上げ器のばねを限界まで縮めて、重りを落とす。でもこの寒さじゃ歯車が凍る」

「発熱筒を使え」とハーグ。

「艇が飛べなくなる」

「最初から五人は乗れん。帰りは別の方法を考える」

 ネネがハーグを見た。

「あなた、変わった?」

「夢から覚めただけだ」

 ランは父の地図を雪の上へ広げた。

 トビウオ島の南東には、緑の島々が集まる未測量域がある。暖流があり、浮力鉱も採れると旅商人が話していた場所だ。

 だが、誰も正確な位置を知らない。

「ぼくたちはここを夢見る」ランは余白へ島を描いた。「森があって、水があって、トビウオ島が隣に浮かべる場所」

「パン窯を置ける平地」とフピエ。

「長い縄を干せる風」とネネ。

「学校に窓がたくさんあること」とキュリク。

 ハーグはためらってから言った。

「病人を運べる診療所」

 五人は円になり、鐘から伸びる光へ手を置いた。

 目を閉じる。

 ランは、見たことのない緑の島を思い浮かべた。

 そこへ続く風の線を描いた。

 同時に、巻き上げ器が作動した。

 重りが落ちる。

 青い鐘が鳴った。

 音は耳ではなく、骨へ届いた。

 山頂の雪が一斉に宙へ浮き、空へ青い輪が広がった。輪は雲を押しのけ、南の彼方まで走っていく。

 遠く、見えない場所で、巨大な何かが目を覚ました。

 トビウオ島の浮力嚢だった。

 七百年ぶりに空気を吸い込み、島の翼の骨が軋み、古い風脈が開く。

 ランにはそれがわかった。

 島が動き始めた。

「成功だ!」フピエが叫んだ。

 次の瞬間、山頂が割れた。

 鐘を中心に亀裂が走り、黒い石柱が一つずつ倒れる。雪庇が崩れ、巨大な白い波となって斜面へ落ちた。

「下りる!」ネネが叫んだ。

 五人は縄につながり、風下の岩稜へ走った。

 ハーグの航路局艇は雪崩に半分埋まっていた。片翼が折れ、浮揚機関が火花を散らしている。

「これじゃ飛べない!」フピエ。

 ハーグは操縦席から緊急帆を引き出した。薄い布が翼のように広がる。

「艇を捨てて滑空する。重量を減らせ!」

 五人は計器、座席、外板まで外した。だが崩壊は迫る。

 全員が乗れば、谷を越えられない。

 ハーグは一人だけ降りた。

「行け」

「ふざけないで」とネネ。「助けた人を置いていかない」

「私は大人だ。責任を取る」

「大人の責任って、子どもに見捨てる練習をさせること?」

 ハーグは言葉を失った。

 ランはカワセミ号の装備を思い出した。

「艇を二つに分けよう」

「何?」

「浮揚機関は生きてる。操縦席を切り離して小型艇にする。残りの翼を帆にして、四人はそっちへ」

 フピエが機関を見た。

「できる。たぶん」

「たぶん?」とキュリク。

「絶対って言う機械屋は信用するなって、父さんが」

 作業に使える時間は三分もなかった。

 フピエが留め具を切り、ネネが帆索を組み替え、ハーグが浮揚管を封じる。ランとキュリクは外板を谷へ投げた。

 雪崩の風が岩稜を叩いた。

「乗れ!」

 操縦席にはハーグ。翼だけになった機体へ四人。

 二つの即席艇は、崩れる山頂から同時に飛び出した。

 白い濁流が背後を飲み込む。

 ランたちの翼艇は落ちた。

 百メートル。二百メートル。

 雲海が迫る。

「帆が開かない!」ネネ。

 氷結した留め具を、フピエが靴で蹴った。一度、二度、三度。

 留め具が外れ、緊急帆が爆発するように開いた。

 翼艇は大きく揺れ、落下が滑空へ変わった。

 四人は叫んだ。恐怖なのか歓声なのか、自分たちにもわからなかった。

 隣では、ハーグの小型艇が青い煙を引きながら飛んでいる。

 エルケンの白い峰が遠ざかる。

 頂上にはもう、鐘も石柱も見えなかった。

 ただ雲の底から、二度目の鐘がかすかに聞こえた。

六 地図にない故郷

 トビウオ島へ戻ったのは、退去予定日の朝だった。

 島は、元の場所にはなかった。

 四人は一瞬、間に合わなかったと思った。

 だが雲海の上に、町の鐘が聞こえた。

 南へ二十キロ。トビウオ島は自ら翼を広げ、ゆっくり航行していた。崖から落ちる滝が朝日を受け、長い尾を引いている。

 帝国の避難船は、動くはずのない島を追いかけて右往左往していた。

 翼艇が広場へ不時着すると、町中の人が駆け寄った。

 ランの母は、怒るより先に息子を抱きしめ、そのあと本気で頬を叩いた。

「どこへ行ってたの!」

「山」

「見ればわかる!」

 ネネの父は娘の結び目を一つずつ確かめ、黙って泣いた。フピエの母は工具より先に息子の指が十本あるか数えた。キュリクは校長に古語辞典を濡らしたことを叱られた。

 ハーグ監査官は、広場の赤い杭を引き抜いた。

「航路局の判定を訂正する」

「島は安全なのか?」町長が聞いた。

「安全な島などない」

 ハーグは南へ向かう空を見た。

「だが、この島は死んでいない。新たな航路を申請する」

 それから三日後、トビウオ島は未測量域へ入った。

 そこには、五人が夢見たとおりの群島があった。

 深い森。澄んだ泉。長い縄を干せる風。窓をいくつも作れる丘。診療所に使えそうな白い石の建物跡。

 もちろん、夢と違うところも多かった。

 森には人の帽子を盗む鳥がいたし、泉の水は少し鉄臭かった。平地だと思った場所には巨大な亀が寝ていて、パン窯を置くたびに移動した。

 それでも町の人々は笑った。

 トビウオ島は、緑の島の隣へ錨を下ろした。

 新しい地図の最初の一枚を描く役目は、ランに与えられた。

 彼は紙の中央に二つの島を描き、その間へ橋の予定線を引いた。余白には、乳白峰エルケンと、そこへ続く航路も記した。

 眠りの都ネブラは描かなかった。

 あの街は、地図へ固定した途端に別のものになる気がしたからだ。

 父の帽子は、目覚めたときには消えていた。

 けれど、ときどき高い雲が青く染まる夜、ランは夢の中で二つの月を見る。

 白い階段の上で、父が新しい旅人へ道を教えている。

 目が覚めると、遠くで鐘が鳴っている。

 その音を聞くたび、ランは窓を開ける。

 町の子どもたちも、いっせいに外へ飛び出してくる。

 世界のどこかで、まだ目覚めていない場所が、誰かに見つけてもらうのを待っている。

 そして、どんな故郷も最初は、地図の余白に引かれた一本の無謀な線なのだ。

(了)