『雲海の底で、ぼくらは名前を呼んだ』

一 町が売られる日

 世界の端に住む子どもは、落ちる夢を見ない。

 落ちることが、あまりにも日常だからだ。

 浮島カモメ岩は、雲海から突き出した鯨の背中ほどの島だった。家々は強風にさらわれぬよう太い鎖で岩盤につながれ、畑の土には網がかけられ、学校の裏庭には「ここから先、空」と書かれた柵がある。

 その柵に、ある朝、赤い紙が貼られた。

 ――七日後、本島の全権利をリューデン星鉄採掘会社へ移譲する。

 ――住民は三十日以内に退去すること。

「全権利って、パン屋のかまどもか?」

 ボウが青ざめて言った。十五歳で、樽みたいな肩をしているくせに、心配事があるとすぐ腹を押さえる。

「かまどどころか、パンくずまで持っていく気よ」

 ツヴァルは赤紙の釘を小刀でこじりながら答えた。鍛冶屋の娘で、髪にも袖にもいつも鉄粉がついている。

「紙を破っても、契約は消えないよ」

 ハリュムが言った。十二歳。島でいちばん本を読み、いちばん小さな声で、いちばん嫌な事実を言う。

 三人はエルクを見た。

 エルクは赤紙の前で、何も言えなかった。

 十四年前、彼が生まれるよりずっと前から、カモメ岩は借金を抱えていた。島を浮かせる風炉の修理代、作物を枯らした灰雨の補償、雲賊から町を守るために雇った護衛船の代金。町長たちは借りて、先延ばしにして、また借りた。

 そして今、島の地下に大量の星鉄が眠っていると分かり、会社は借金をまとめて買い取った。

 島を削り、鉱山にするために。

「おまえの親父さんなら、何か知ってないのか?」とボウが聞いた。

「父さんは地図屋だ。法律屋じゃない」

「でも、昔の地図には昔の権利が描いてあるかも」

 ハリュムの言葉に、エルクは顔を上げた。

 町の地図屋〈北向きの窓〉は、エルクの父が営んでいる。店には航路図、気流図、雲鯨の回遊図、落雷域を避けるための空図が積まれていた。そして二階の物置には、七年前に雲海の底へ消えた母リオネの探検道具が、そのまま残されていた。

 母は地図師だった。

 誰も降りたことのない場所へ降り、誰も帰ったことのない場所から帰る人だった。

 ただ一度を除いて。

「昔の権利なんて、役所の蔵にあるはずよ」とツヴァルが言った。

「役所の蔵は三年前の火事で焼けた」

「じゃあ、宝を探すしかないな」

 ボウが、冗談のつもりで言った。

 けれどエルクの胸の奥で、古い針が震えた。

 母の最後の言葉を、彼は思い出していた。

 ――雲海の下には、落ちたものが全部あるの。

 ――船も、城も、王様の嘘も。だから地図は、下へ行くほど面白い。

 その日の夕方、四人は〈北向きの窓〉の物置にいた。

 彼らは自分たちを〈欠け羅針盤団〉と呼んでいた。六年前、拾った羅針盤の針が半分折れていたからだ。大人から見れば、ただの幼なじみの集まりだった。

 だが、町が売られる日まで残り七日となった今、彼らは最後の探検隊でもあった。

 母の革鞄は、埃をかぶった天球儀の下にあった。

 中身は、濡れて固まった縄、空の水筒、欠けた虫眼鏡、三本の白墨。それから、蓋に翼竜の彫刻がある真鍮の方位箱。

 エルクが箱を開けると、針は北を指さなかった。

 針は床を指した。

「壊れてる」とボウ。

「違う」

 ツヴァルが箱を奪い、横にした。針はまた下を向いた。

「これは北じゃなく、何かを指してる」

 箱の底には、薄い紙が貼りついていた。エルクが息を吹きかけると、消えかけた青い線が浮かんだ。

 カモメ岩の輪郭。その中央にある、今は使われていない第九揚水塔。そして塔から島の下へ続く、細い螺旋。

 紙の隅に、母の字があった。

 《王冠なき王の船は、雲海の底で夜を待つ。

  その宝は島を買い、国を沈める。

  ただし、閉じた瞼の外にいるものを、決して起こすな。》

 しばらく、誰も口をきかなかった。

「島を買える宝」とボウが言った。

「国を沈める、とも書いてある」とハリュム。

「七日ある」

 ツヴァルが地図を折りたたんだ。

「戻るのに一日残すなら、六日。食料はボウ。縄と工具は私。灯りと本はハリュム。エルクは地図を読む」

「待て。行くって決めたのか?」

「ほかに町を買い戻す方法がある?」

 なかった。

 エルクは方位箱を握った。

 冷たい真鍮の底で、針がかすかに震えている。それは七年前に消えた母の指が、雲の下から戸を叩いているようだった。

「明け方に、第九揚水塔で」

 エルクは言った。

「欠け羅針盤団、最後の探検だ」

二 下向きの地図

 第九揚水塔は、町外れの崖に傾いて立っていた。

 昔は雲から水を汲み上げていたが、二十年前、巻き上げ機に雷が落ちて以来、鉄骨は錆び、巨大な滑車には風鳥が巣を作っている。

 四人は夜明け前に集まった。

 ボウはパンを二十個も持ってきた。ツヴァルは工具袋と折りたたみ弩。ハリュムは古代文字辞典、ランタン、鉛筆を三ダース。エルクは母の方位箱と地図、そして父の店から黙って持ち出した百メートル縄を背負っていた。

「これ、盗みじゃないよな?」とボウ。

「町を救ったら借りたことになる」とツヴァル。

「救えなかったら?」

「叱られる人がいなくなる」

 塔の床板を外すと、真下へ続く鉄梯子が現れた。

 エルクの方位箱の針は、穴の暗闇をまっすぐ指した。

 彼らは降りた。

 梯子は島の岩盤を貫いていた。最初はレンガ壁だった。次に黒い岩。やがて壁は、巨大な獣の肋骨のような白い層へ変わった。

 百段。

 二百段。

 三百段。

 頭上の入口は針の穴ほどになった。

 やがて梯子が途切れた。

 足元には、横穴が口を開けていた。床に埋め込まれた青い石が、彼らの足音に反応して一つずつ光る。

「誰かが作った道だ」とハリュムがささやいた。

「誰が?」

「分からない。でも、すごく昔。カモメ岩が空に浮く前かもしれない」

 通路の壁には絵が彫られていた。

 海を走る船。

 船を追う、背中に星形の突起を持つ巨大な生き物。

 空から垂れる、無数の黒い糸。

 最後の絵では、人々が自分の口を縫い、名前の書かれた札を胸に下げていた。

「縁起でもないな」

 ボウはパンを一つ食べた。

「まだ朝ごはん食べたばかりでしょ」とツヴァル。

「怖いと腹が減るんだ」

「いつも減ってる」

 通路の先に、石の扉があった。

 中央に四つの手形が刻まれ、その上に古代文字が並んでいる。

 ハリュムが辞典をめくった。

「『門は数を知らず、顔を知らず、ただ呼ばれたものを知る』」

「どういう意味?」

「たぶん、四人で手を置く」

 手形は大きさがばらばらだった。四人がそれぞれ手を当てると、石の中で低い音がした。しかし扉は動かない。

「呼ばれたものを知る」とエルクは繰り返した。

 彼はツヴァルを見た。

「ツヴァル」

 ツヴァルの手形が赤く光った。

 ツヴァルがボウの名を呼び、ボウがハリュムを、ハリュムがエルクを呼んだ。

 四つの手形が同時に輝き、扉が左右に割れた。

 冷たい風が吹き出した。

 その風の中で、誰かが笑った気がした。

 扉の向こうは、島の内部とは思えないほど広い洞窟だった。

 天井から逆さまの森が生えている。根が空中へ垂れ、銀色の葉が下向きに茂っていた。洞窟の底には淡く光る川が流れ、遠くで滝になって雲の裂け目へ落ちている。

 地図の線は、その川に沿っていた。

 四人は岩棚を進んだ。

 途中、崩れた吊り橋があった。ツヴァルが矢に糸を結び、向こう岸の石柱へ撃つ。ボウが太縄を渡し、一本橋を作った。

 最後に渡ったエルクの足元で、岩が崩れた。

「エルク!」

 彼は縄にぶら下がった。下は青い川だ。光る魚の群れが、口を開けて待っている。

 そのとき、壁の穴から何かが飛び出した。

 猫ほどの大きさ。二本脚。長い尾。頭には後ろ向きの小さな角が二本あり、背中には夜空を切り取ったような藍色の板が並んでいた。板の表面で、星のような斑点が瞬いている。

 生き物は縄へ噛みついた。

「やめろ!」

 エルクは叫んだ。だが生き物は縄を切るのではなく、歯と前脚で必死に引っ張っていた。

 ツヴァルとボウも引き、エルクは岩棚へ這い上がった。

 生き物はぺたりと座った。

「ティク」

 鈴を二度鳴らしたような声で鳴いた。

 ハリュムが目を見開いた。

「星背竜」

「知ってるの?」

「本で。大昔、海にいた生き物。絶滅したって」

「海なんて、この世界にないぞ」とボウ。

「だから大昔なの」

 星背竜は首をかしげ、もう一度鳴いた。

「ティク」

「名前を言ってるみたい」とエルク。

「まさか」

「じゃあ、ティクだ」

 エルクが乾燥魚を差し出すと、ティクは匂いを嗅ぎ、一口で飲み込んだ。そして当然のように彼の肩へ前脚をかけた。

「ついてくる気よ」とツヴァル。

「だめだ。危険すぎる」

 エルクが歩き出すと、ティクも歩いた。

 彼が止まると、ティクも止まった。

 彼が右へ行くふりをすると右へ、左へ跳ぶと左へ跳んだ。

 ボウがパンをちぎって投げた。

 ティクは見向きもしなかった。

「魚しか食わないのか。生意気だな」

 それから一時間、ティクはずっとついてきた。

 川が地下湖へ注ぐ場所で、彼らは最初の野営をした。

 頭上の逆さ森では、銀の葉が風もないのにざわめいていた。

 眠りにつく直前、エルクは誰かの声を聞いた。

 ――エルク。

 母の声だった。

 目を開けると、ティクが彼の胸の上に立ち、暗闇へ向かって牙をむいていた。

 湖面に、人の顔ほどの波紋が一つ、浮かんでいた。

 波紋はゆっくり閉じる瞼の形になり、それから消えた。

三 忘れ潮

 二日目、川は細い水路となって岩の隙間へ入り込んだ。

 四人は母の地図に従い、岸壁に残された古い曳船を見つけた。細長い金属舟で、船底には歯車と水掻きがついている。

 ツヴァルが半日かけて機関を直した。

 ボウがふいごを踏み、ハリュムが古代文字の注意書きを読み上げ、エルクが流れを測った。夕方、舟は咳き込むような音を立てて動き出した。

「私たち、もしかして本当に探検隊みたい」とハリュムが言った。

「今まで何だったの?」とツヴァル。

「物置を荒らす近所の子」

 舟は岩の腸を進んだ。

 壁の青い苔が星座のように流れ、時折、天井から落ちた水滴が逆に上へ昇った。方角も重さも、奥へ行くほど頼りなくなった。

 夜になると、霧が出た。

 白い霧ではない。黒い霧だった。

 灯りを弱めるのではなく、見たものの輪郭を思い出せなくする霧だ。

「さっきの曲がり角、右だったっけ?」とボウ。

「左よ」

「でも地図には右って」

「地図を逆さに持ってる」とエルク。

 ボウは笑いかけ、すぐ真顔になった。

「俺、なんでパンをこんなに持ってるんだ?」

 ツヴァルがふいごから手を離した。

「ボウ?」

「冗談だよ。パン屋の息子だからだ。分かってる」

 しかし声は震えていた。

 ハリュムが壁を指した。

 古代文字が、黒い霧の中で浮かんでいた。

 《忘れ潮では、事実から先に薄れる。

  次に顔が消える。

  最後に名が消える。

  互いを呼べ。

  眠るな。》

「眠るなって、二日目で?」ボウがうめいた。

「名前を呼び続けよう」とエルクは言った。「順番に」

 エルク。

 ツヴァル。

 ボウ。

 ハリュム。

 ティク。

 五つの名を、彼らは繰り返した。

 歌のように。櫂の拍子のように。

 だが霧は濃くなった。

 エルク。

 ツヴァル。

 ボウ。

 ハリュム。

 ティク。

 何十回目かで、ボウが止まった。

「次、誰だっけ」

 ハリュムの顔から血の気が引いた。

「私」

「違う。その次」

 舟の舳先で、ティクが鳴いた。

「ティク」

 ボウの目に光が戻った。

「そうだ。ティク。おまえ、パンは食わないくせに偉いな」

 霧の向こうで、巨大な何かが舟と並んで泳ぎ始めた。

 水面はない。それでも泳いでいる。長い指のような影が、岩壁の内側を掻いていた。

 ――リオネ。

 声がした。

 エルクは息を止めた。

 それは母の名だった。

 ――リオネはここにいる。

 ――ひとりで、七年、待っている。

「聞くな!」ツヴァルが叫んだ。

 ――エルク。

 ――いい子ね。こちらへおいで。

 舟の右手に、細い横穴が現れた。

 母の方位箱の針が、横穴へ向きを変えた。

「地図の道はまっすぐよ」とハリュム。

「でも方位箱は――」

「箱が何を指してるか、私たちは知らない!」

 エルクの手は舵を右へ切りかけていた。

 その手首に、ティクが噛みついた。

 強くはない。目を覚まさせるだけの痛みだった。

 ティクの背中の星が激しく明滅した。

 横穴の奥で、何かが苛立ったように身をよじった。黒い霧が一瞬だけ裂け、エルクは見た。

 巨大な瞼。

 岩よりも大きな瞼が、空間の裏側からこちらを覗こうとしていた。

 まだ閉じている。だが、その合わせ目から無数の細い指が伸びている。

 エルクは舵を戻した。

「母さんは、ぼくを『いい子』なんて呼ばなかった」

「何て呼んだの?」ボウが聞いた。

「『方向音痴』」

 ツヴァルが吹き出した。

 ハリュムも笑った。

 笑い声は霧に穴を開けた。

 舟は一気に流れを下った。

 背後で瞼の隙間がわずかに開いたが、ティクが甲高く吠えると、闇は遠ざかった。

 夜明けのない地下で、どれほど進んだか分からない。

 やがて霧が晴れた。

 そして彼らは、雲海の底へ出た。

四 王冠なき王の船

 そこには、空が逆さまに広がっていた。

 頭上にカモメ岩の黒い底があり、そのさらに上を雲が透けて流れている。足元には底なしの夜があり、無数の浮遊岩が星のように漂っていた。

 曳船が走る水路は、空中に浮かぶ透明な帯だった。水だけが形を保ち、闇の上へ橋を架けている。

 その水路の果てに、船があった。

 三本マストの巨大な帆船。

 帆は朽ち、船腹は半分岩に埋まり、船首像の王冠は砕けている。だが船体を覆う金属板は青白く光り、何百年もの時を拒んでいた。

 船尾に名が刻まれていた。

 〈夜待ち号〉

「王冠なき王の船」とハリュムがつぶやいた。

 透明な水路は船腹の穴へ続いていた。

 彼らは曳船を横づけし、乗り移った。

 甲板には白骨が並んでいた。

 倒れているのではない。全員、椅子に座り、胸に木札を下げている。札には一人ずつ名前が刻まれていた。

 ボウが帽子を取った。

 ツヴァルも何も言わず、白骨の間を歩いた。

 船長室の扉には、剣で削った文字があった。

 《船長バルメア・サルヴァ。

  王ではない。ゆえに王冠を持たず。

  賊ではない。ゆえに国から追われる。》

 中には海図机と、鎖で床につながれた黒い箱があった。

「宝箱」とボウ。

「小さすぎる」とツヴァル。

 鍵は七重だった。ツヴァルが工具を並べ、夢中で取りかかった。

 その間に、ハリュムとエルクは船長の日誌を読んだ。

 紙の半分は腐っていた。残った頁には、この世界にまだ海があった時代のことが書かれていた。

 空から黒い星が落ちた。

 星は海底に沈み、夢を見る者の名を食べ始めた。

 名を失った者は、自分の家を忘れ、子を忘れ、最後には自分が生きていることも忘れて海へ歩いた。

 人々はその存在を《瞼の外側にいるもの》と呼んだ。

 見れば忘れる。

 呼べば近づく。

 眠れば、その夢を通って世界へ入る。

 船長バルメアは、星背竜と呼ばれる海の守り手たちとともに黒い星を封じた。だが封印には、人々から奪われた膨大な記憶が使われた。

 それらの記憶は結晶となり、都市一つを千年照らすほどの力を持った。

 王たちは結晶を欲しがった。

 バルメアは結晶を盗み、誰も近づけぬ雲海の底へ逃げた。

「宝って、記憶なの?」ツヴァルが鍵をいじりながら言った。

「力でもある」とハリュム。「売れば、島どころか国を買える」

「じゃあ持って帰ろう」

「でも、封印に使われてる」

 エルクは日誌の最後の頁をめくった。

 《我らは封印を船の下、星背竜の母とともに置く。

  卵が孵る頃、守り手は再び目覚めるだろう。

  もし人の欲が先に来たなら、名を呼び合え。

  名は鎖であり、帰路であり、闇に打つ楔である。》

 その下に、別の筆跡があった。

 急いで書かれ、文字は震えている。

 《リオネ・アルナ、ここに到達。

  封印は弱っている。

  方位箱は結晶を指す。持ち出してはならない。

  島へ戻り、入口を閉じる。》

 七年前の日付だった。

「母さんは、ここに来た」

 エルクの声は、自分のものではないように響いた。

「でも戻らなかった」とハリュム。

 ツヴァルの手元で、七つ目の錠が開いた。

 黒い箱の中に、羊皮紙が一枚あった。

 金貨でも宝石でもない。

 カモメ岩の権利証だった。

 島がまだ海上の岩礁だった時代、船長バルメアと住民たちが交わした契約。島は王にも商人にも属さず、そこに暮らし、風炉を守る者すべての共有財産である。売却も担保化も、住民全員の同意なしにはできない。

 最後に、今も公文書で使われる古い七王印が押されていた。

「これがあれば!」ボウが叫んだ。

「会社の契約を無効にできる」ハリュムの頬が赤くなった。「役所の蔵が焼けても、原本がここにある。町を救える」

 エルクは権利証を胸元へしまった。

 宝は見つかった。

 母の痕跡も。

 あとは帰るだけだった。

 そのとき、船の外で拍手が鳴った。

「子どもというものは、本当に便利だ」

 船長室の入口に、灰色の外套を着た男が立っていた。

 リューデン星鉄採掘会社の監督官、ドロア。

 後ろには、短銃を持つ護衛が二人。

「狭い穴を通り、古い罠を解き、こちらが欲しい物の場所まで教えてくれる」

 ツヴァルが弩へ手を伸ばした。

 護衛の弾が机の角を砕いた。

「次は手を撃つ」とドロアは言った。

「どうやってここへ?」エルク。

「君の父上の店は、ずっと見張らせていた。リオネの地図が残っていると思ってね」

 ドロアの目が、エルクの方位箱へ落ちた。

「それが結晶を指すのだろう?」

 エルクは答えなかった。

 ドロアは笑い、護衛に顎をしゃくった。

 四人は武器と荷物を取り上げられ、甲板へ連れ出された。

 ティクだけは、船長室の机の下へ隠れていた。

 少なくとも、ドロアはそう思っていた。

五 閉じた瞼の外

 夜待ち号の船首から、石の階段が闇へ続いていた。

 何も支えていない階段だ。一段下りるごとに、周囲の星が遠ざかる。

 ドロアは方位箱を持ち、針の示す方へ進んだ。

 子どもたちは護衛に挟まれて続いた。

「権利証だけで満足すればいい」とハリュムが言った。「島を手に入れられなくても、会社はほかで稼げるでしょう」

「君は帳簿を読んだことがないらしい」

 ドロアは振り向かなかった。

「会社は稼ぐために存在するのではない。より多くを所有するために存在する。島も、鉱石も、そこに住む者の明日もだ」

「明日は物じゃない」

「値段のつかない物はない」

 階段の底に、円形の扉があった。

 扉には巨大な星背竜が彫られ、その体を無数の人名が鎖のように取り巻いている。

 四つの手形。

 先ほどと同じ仕掛けだった。

「開けろ」とドロア。

「嫌だ」とエルク。

 護衛の一人がボウの首に短銃を当てた。

 エルクは手形へ手を置いた。

 ツヴァル、ボウ、ハリュムも従った。

 互いの名を呼ぶ。

 扉が開く。

 中には、海があった。

 黒い海が、球形の部屋の内壁を覆っていた。上も下もなく、波があらゆる方向へ打ち寄せている。

 部屋の中心に、透明な結晶が浮かんでいた。

 人の心臓ほどの大きさなのに、内部には幾千もの街、顔、朝焼け、食卓、子守歌が渦巻いている。一瞬見るだけで、他人の一生が胸へ流れ込んでくる。

 結晶を抱くように、巨大な生き物が眠っていた。

 星背竜。

 夜待ち号より長い体。背中の板は星雲のように輝き、六本の角が王冠のように広がっている。胸には深い傷があり、そこから黒い糸が何本も伸び、部屋の壁へ突き刺さっていた。

 エルクは息を呑んだ。

「ティクの親だ」

「守り手」とハリュム。

 ドロアは結晶しか見ていなかった。

「これだけあれば、浮島を十個動かせる。いや、百個だ」

 彼が結晶へ近づく。

 眠る星背竜の目が、わずかに開いた。

 ――やめろ。

 声は耳ではなく、骨の内側で鳴った。

 ドロアは歩みを止めたが、すぐ笑った。

「死にかけの獣が」

 彼は腰から採掘槌を抜き、結晶を支える黒い鎖へ打ち込んだ。

 一度。

 二度。

 三度。

 鎖が切れた。

 世界のどこかで、瞼が開いた。

 光が消えた。

 音が消えた。

 そしてエルクは、自分の隣にいる赤髪の少女が誰なのか分からなくなった。

「おい」

 少女が彼の肩を掴んだ。

「私の名前を言って」

「……」

 知っているはずだった。

 何度も呼んだ。幼い頃、崖から落ちかけた彼をこの少女が鎖で引き上げた。鍛冶場で火傷した時、泣くなと怒鳴られた。彼女の笑い方も、歩き方も知っている。

 名前だけがない。

「言って!」

 黒い海から、指が伸びた。

 何千、何万もの細い指。水でできた指が、彼らの額へ触れる。

 護衛の一人が短銃を落とした。

「私は、何をしていた?」

 もう一人が彼を見た。

「おまえは……誰だ?」

 ドロアは結晶を抱えた。

「私のものだ」

 ――私とは、誰だ。

 声が重なった。

 ドロアの顔から笑みが消えた。

「私は……会社の……」

 ――会社とは、何だ。

「所有するものだ」

 ――何を。

 ドロアは答えられなかった。

 壁の黒い海が盛り上がった。

 そこに、目はなかった。口もなかった。ただ、見る者が「巨大な顔」と理解してしまう空白だけがあった。

 閉じた瞼の外にいたもの。

 それは世界の内側へ入ろうとしていた。

 星背竜が鎖を引いた。胸の傷が裂け、星色の血が散る。だが結晶を失った封印は弱く、黒い糸がその体へ深く食い込んでいく。

 エルクは逃げようとした。

 なぜ逃げるのか分からなかった。

 誰と来たのか分からなかった。

 何を守ろうとしていたのか――。

「ティク!」

 小さな鳴き声がした。

 船から追ってきた星背竜の子が、扉の上に立っていた。

 ティクは背中の星を燃えるように輝かせ、部屋へ飛び込んだ。

 巨大な星背竜が頭を上げた。

 親子の声が重なった。

 低い雷鳴と、小さな鈴の音。

 その響きで、エルクの胸に一つの言葉が戻った。

「ティク」

 名前を呼ぶと、記憶がつながった。

 乾燥魚を丸呑みにした口。縄を引いた小さな前脚。暗闇に向かってむいた牙。

「ティク!」

 今度は大きく呼んだ。

 赤髪の少女が叫ぶ。

「エルク!」

 彼の名だった。

 母がつけ、父が呼び、友だちが何千回も投げつけてきた名。

「ツヴァル!」

 名前が戻った。

 ツヴァルは泣きながら、樽みたいな少年を指した。

「ボウ!」

「ハリュム!」

 四つの名が部屋を走った。

 黒い指がひるんだ。

「思い出せ!」エルクは叫んだ。「名前だけじゃない。帰りたい場所を!」

 ツヴァルが叫ぶ。

「鍛冶場の朝! 父さんの焦げた手! 初めて作った釘が曲がってて、壁に打ったら折れた!」

 ボウが続く。

「焼きたての丸パン! 母ちゃんが端を焦がす! 俺は焦げたところが好きだ!」

 ハリュムは胸を押さえた。

「学校の屋根! エルクたちに初めて誘われた日! 本を読んでただけなのに、勝手に団員にされた!」

「嫌だったのか?」ボウ。

「うれしかった!」

 黒い海が波打った。

 顔のない空白が、彼らの思い出を噛み砕こうと口の形に歪む。

 エルクは母を思った。

 地図に顔を近づける横顔。

 インクで汚れた指。

 出発の朝、彼の頭を乱暴になでた手。

 ――地図は、道を見失わない人のためにあるんじゃない。

 ――帰ろうとする人のためにあるの。

「カモメ岩!」

 エルクは叫んだ。

「風で傾く家! 狭い学校! まずい井戸水! 崖の柵! あそこがぼくらの町だ。ぼくらは帰る!」

 名と記憶が、目に見えない鎖になった。

 四人と一頭を結び、世界の内側へ縫い止める。

 けれど封印は戻らない。

 ドロアが結晶を抱えたまま、黒い海へ後ずさっていた。

「これは、私の……」

 彼は自分の名を忘れていた。

 それでも所有することだけは忘れなかった。

「結晶を戻せ!」ツヴァルが叫ぶ。

「戻したら、また誰かの記憶が閉じ込められる」とハリュム。

 エルクは結晶を見た。

 中で無数の顔が泣いている。

 彼らは封印のため、何百年も自分の朝や家族や歌を奪われていた。

 宝を持ち帰れば、島を買える。

 国さえ買える。

 だが町を救うために、知らない誰かの人生を永遠に閉じ込めていいのか。

 答えは、考えるより先に出た。

「壊す」

「何?」とボウ。

「結晶を壊して、記憶を返す」

「封印は?」

 エルクは巨大な星背竜を見た。

 その目には、痛みと、長すぎる疲労があった。

「新しく作る。ぼくらの名前で」

 ドロアへ飛びかかった。

 護衛たちは、もう敵も味方も分からず立ち尽くしていた。ツヴァルが一人の足を払い、ボウがもう一人を抱えて床へ伏せる。ハリュムは落ちていた採掘槌を拾った。

 エルクはドロアの腕へ噛みついた。

 結晶が宙へ落ちる。

 ティクが跳んだ。

 小さな頭で結晶を弾き、ハリュムの方へ飛ばす。

 ハリュムが槌を振り上げた。

 一瞬、ためらった。

「やって!」ツヴァル。

 槌が結晶を打った。

 ひびが入った。

 世界中の朝が、一度に明けた。

六 名前の雨

 結晶が砕けると、光があふれた。

 誰かが初めて歩いた日の記憶。

 なくした歯を枕の下へ置いた夜。

 海辺の婚礼。

 戦争から戻らなかった父の歌。

 古い町の匂い。

 船長バルメアが王の命令を拒んだ瞬間。

 星背竜たちが海を泳いだ、青い世界。

 何億もの記憶が光の魚となり、黒い海へ飛び込んだ。

 閉じた瞼の外にいるものが、初めて悲鳴を上げた。

 それは記憶を食べることはできても、返された記憶の洪水には耐えられなかった。

 顔のない空白が縮み、黒い指が燃え、部屋の壁に亀裂が走る。

 巨大な星背竜が立ち上がった。

 胸に食い込んでいた黒い糸を引きちぎり、翼のない体で宙を泳ぐ。背中の星々がつながり、一つの光輪になった。

 ティクがその額へ跳び乗った。

 親の星背竜は、子の匂いを確かめるように鼻先を寄せた。

 その短い仕草に、長い年月がほどけた。

 ――名を。

 声が、エルクたちの内側で響いた。

 ――汝らの名を、貸してほしい。

 四人は手をつないだ。

「エルク・アルナ!」

「ミラ・フェン!」

「ボウ・ガルダ!」

「セナ・ルー!」

 ティクが鳴く。

「ティク!」

 五つの名が光の鎖になり、星背竜の角へ絡みついた。

 名は減らなかった。貸しても、呼び合うほど強くなった。

 星背竜は光輪を黒い海へ叩きつけた。

 空間の裏側で、巨大な瞼が閉じる。

 今度は内側から、五つの名が閂となった。

 閉じた瞬間、部屋が崩れ始めた。

「逃げるよ!」ツヴァル。

 円形扉へ走る。

 だが階段の半分は砕け、夜待ち号まで大きな裂け目が開いていた。

 ドロアは床にひざまずき、砕けた結晶の欠片を拾おうとしている。

「置いていけ!」エルクが叫んだ。

 男は顔を上げた。

 その目には、何もなかった。

「私は、誰だ?」

 エルクは足を止めた。

 ツヴァルが怒鳴る。

「助けるの?」

「名前を忘れたからって、落としていい理由にはならない!」

 ボウとエルクでドロアを担ぎ、護衛二人にも肩を貸した。

 階段は崩れ続ける。

 向こう岸から、ティクが鳴いた。

 巨大な星背竜が体を伸ばし、裂け目へ橋をかけた。

 青黒い背中の板が、足場のように並ぶ。

 四人は三人の大人を引きずって、その背を走った。

 エルクが最後だった。

 星背竜の頭まで来た時、ティクが彼の胸へ飛び込んだ。

「一緒に来い!」

 エルクは抱きしめた。

 だがティクは彼の顎を一度舐めると、腕から抜け出した。

 親の額へ戻る。

「ティク!」

 小さな星背竜は首をかしげた。

 初めて会った時と同じ顔。

 それから、鈴を二度鳴らすように鳴いた。

「ティク」

 自分の名を、忘れるなと言っているようだった。

 エルクはこぶしを握った。

「忘れない。絶対に」

 巨大な星背竜が夜待ち号へ彼を押し上げた。

 直後、階段も扉も闇へ沈んだ。

 船体が激しく傾く。

 マストが折れ、空中の水路が裂けた。

「曳船へ!」

 だが曳船は崩れた船腹の下敷きになっていた。

「ほかの道を探す!」とハリュム。

「時間がない」ツヴァルは甲板を見回した。「この船を動かす」

「帆がないぞ!」ボウ。

「風ならある!」

 結晶から解放された記憶が、光の嵐となって船の周囲を吹いていた。

 ツヴァルは折れたマストの綱を切り、残った帆布を広げた。ボウが滑車を回す。ハリュムが船長日誌の操船頁を読み、エルクは舵輪へ飛びついた。

 夜待ち号は何百年ぶりかに軋んだ。

「帰り道は?」ボウ。

 エルクは母の地図を開いた。

 紙には来た道しかない。

 だが地図の裏に、光の雨が染み込んでいく。

 新しい線が現れた。

 母の筆跡だった。

 《帰り道は、船首をいちばん呼ばれている名へ向ける。》

「何それ!」ツヴァル。

 エルクは目を閉じた。

 遠い上空で、町の人々が呼んでいる。

 父が、いなくなった息子の名を。

 鍛冶屋がツヴァルを。

 パン屋がボウを。

 学校の先生がハリュムを。

 そしてカモメ岩そのものが、風炉の低い唸りで、そこに住む全員の名を呼んでいた。

「上だ!」

 舵輪を切る。

 夜待ち号は光の嵐を帆に受け、雲海へ突っ込んだ。

 船尾で、ドロアが小さくつぶやいた。

「ドロア」

 エルクが振り向く。

「私の名だ」

 男の手には、結晶の欠片が一つあった。

 しかし彼はそれを見つめたあと、雲の中へ投げ捨てた。

「もう、何も欲しくないのか?」とボウ。

 ドロアは首を振った。

「欲しい。自分が何を欲しがっていたのか、思い出せる程度には」

 夜待ち号は上昇した。

 雲を裂き、雷を抜け、島の岩盤を貫く古い水路へ飛び込む。

 船腹が両側の岩を削り、火花が雨のように散った。

 最後に巨大な衝撃があった。

 そして船は、第九揚水塔を内側から吹き飛ばして、朝の空へ飛び出した。

七 島を持つ者

 カモメ岩の住民は、その朝、町外れから古代帆船が生えてくるところを見た。

 夜待ち号は塔の残骸を引きずり、畑を三枚横切り、学校の柵を砕き、広場の噴水へ船首から突っ込んで止まった。

 船から最初に降りたのはボウだった。

「ただいま!」

 パン屋の母親が駆け寄り、彼の頬を殴ってから抱きしめた。

 鍛冶屋はツヴァルを怒鳴りつけ、途中で声が出なくなった。ハリュムの先生は泣きながら「本を何冊持ち出した」と数え始めた。

 エルクの父は何も言わなかった。

 ただ、息子の顔を両手で挟み、そこに本当にいるか確かめた。

「母さんの跡を見つけた」

 エルクが言うと、父は目を閉じた。

「そうか」

「帰ろうとしてた」

「そうか」

 それだけで、七年分の言葉になった。

 同じ日の昼、リューデン社の契約執行船が到着した。

 島の接収を宣言する役人たちは、広場に突き刺さった古代船と、泥だらけの子どもたちと、記憶の抜けた護衛二人を見て言葉を失った。

 ハリュムが権利証を読み上げた。

 七王印は本物だった。

 町の古老たちも、名前の雨の中で思い出していた。幼い頃、祖父母から聞かされた古い歌を。

 ――島は土ではなく、呼ぶ声の輪。

 ――風炉を守る者、みな島の主。

 売却契約に署名した町長でさえ、その歌を知っていた。

 住民全員の同意はない。

 契約は無効だった。

 ドロアは会社の役人たちの前へ出た。

「地下に星鉄はない」と彼は言った。

「調査報告と違う」

「報告が誤りだった。掘れば島の風炉を壊す。利益は出ない」

 それは半分だけ嘘だった。

 地下には星鉄より危険で、星鉄より価値のあるものがある。

 だがドロアは、二度とその場所を所有しようとはしなかった。

 会社は三日粘り、七人の法律家を送り、最後には撤退した。

 借金は残った。

 島の屋根は相変わらず雨漏りし、風炉は週に一度咳をし、パン屋のかまどは古いままだった。

 それでも、町は町のものだった。

 夜待ち号からは金貨一枚出なかった。

 だが船体の古代合金を少しずつ売れば、風炉を直す費用にはなる。残りは博物館にすることになった。

 船長室には、白骨たちの木札が並べられた。

 住民は一人ずつ、その名を声に出して読んだ。

 忘れられていた船員たちは、何百年ぶりに町の中へ戻ってきた。

 エルクは母の方位箱を修理した。

 結晶が砕けたあとも、針は下を指している。

「まだ何かあるのかな」とボウ。

「あるでしょうね」とハリュム。

「また行く?」ツヴァル。

 エルクは三人を見た。

 全員、期待している顔だった。

「しばらくは行かない」

「しばらく?」

「父さんに百メートル縄を黙って持ち出したのがばれた」

 その日の夕方、四人は学校裏の新しい柵に座った。

 足元には雲海が広がっている。

 雲の切れ間で、一瞬、巨大な影が泳いだ。

 背中の星が夕日を受け、夜空より早く輝く。

 その額には、小さな影が乗っていた。

 鈴を二度鳴らすような声が、はるか下から届いた。

「ティク」

 エルクは立ち上がった。

「ティク!」

 ツヴァルも、ボウも、ハリュムも名を呼んだ。

 巨大な影は雲の底へ潜り、光だけがしばらく残った。

 エルクは新しい地図を広げた。

 カモメ岩の下、これまで空白だった場所に、細い線を描く。

 逆さ森。忘れ潮。夜待ち号。閉じた瞼。

 そして雲海のいちばん深い場所に、小さな星の印を二つ描いた。

 その横へ、こう書いた。

 《ここには、忘れないものがいる。》

 世界の端に住む子どもは、落ちる夢を見ない。

 けれど、帰る夢なら、何度でも見る。