『雲海の底で、ぼくらは名前を呼んだ』
一 町が売られる日
世界の端に住む子どもは、落ちる夢を見ない。
落ちることが、あまりにも日常だからだ。
浮島カモメ岩は、雲海から突き出した鯨の背中ほどの島だった。家々は強風にさらわれぬよう太い鎖で岩盤につながれ、畑の土には網がかけられ、学校の裏庭には「ここから先、空」と書かれた柵がある。
その柵に、ある朝、赤い紙が貼られた。
――七日後、本島の全権利をリューデン星鉄採掘会社へ移譲する。
――住民は三十日以内に退去すること。
「全権利って、パン屋のかまどもか?」
ボウが青ざめて言った。十五歳で、樽みたいな肩をしているくせに、心配事があるとすぐ腹を押さえる。
「かまどどころか、パンくずまで持っていく気よ」
ツヴァルは赤紙の釘を小刀でこじりながら答えた。鍛冶屋の娘で、髪にも袖にもいつも鉄粉がついている。
「紙を破っても、契約は消えないよ」
ハリュムが言った。十二歳。島でいちばん本を読み、いちばん小さな声で、いちばん嫌な事実を言う。
三人はエルクを見た。
エルクは赤紙の前で、何も言えなかった。
十四年前、彼が生まれるよりずっと前から、カモメ岩は借金を抱えていた。島を浮かせる風炉の修理代、作物を枯らした灰雨の補償、雲賊から町を守るために雇った護衛船の代金。町長たちは借りて、先延ばしにして、また借りた。
そして今、島の地下に大量の星鉄が眠っていると分かり、会社は借金をまとめて買い取った。
島を削り、鉱山にするために。
「おまえの親父さんなら、何か知ってないのか?」とボウが聞いた。
「父さんは地図屋だ。法律屋じゃない」
「でも、昔の地図には昔の権利が描いてあるかも」
ハリュムの言葉に、エルクは顔を上げた。
町の地図屋〈北向きの窓〉は、エルクの父が営んでいる。店には航路図、気流図、雲鯨の回遊図、落雷域を避けるための空図が積まれていた。そして二階の物置には、七年前に雲海の底へ消えた母リオネの探検道具が、そのまま残されていた。
母は地図師だった。
誰も降りたことのない場所へ降り、誰も帰ったことのない場所から帰る人だった。
ただ一度を除いて。
「昔の権利なんて、役所の蔵にあるはずよ」とツヴァルが言った。
「役所の蔵は三年前の火事で焼けた」
「じゃあ、宝を探すしかないな」
ボウが、冗談のつもりで言った。
けれどエルクの胸の奥で、古い針が震えた。
母の最後の言葉を、彼は思い出していた。
――雲海の下には、落ちたものが全部あるの。
――船も、城も、王様の嘘も。だから地図は、下へ行くほど面白い。
その日の夕方、四人は〈北向きの窓〉の物置にいた。
彼らは自分たちを〈欠け羅針盤団〉と呼んでいた。六年前、拾った羅針盤の針が半分折れていたからだ。大人から見れば、ただの幼なじみの集まりだった。
だが、町が売られる日まで残り七日となった今、彼らは最後の探検隊でもあった。
母の革鞄は、埃をかぶった天球儀の下にあった。
中身は、濡れて固まった縄、空の水筒、欠けた虫眼鏡、三本の白墨。それから、蓋に翼竜の彫刻がある真鍮の方位箱。
エルクが箱を開けると、針は北を指さなかった。
針は床を指した。
「壊れてる」とボウ。
「違う」
ツヴァルが箱を奪い、横にした。針はまた下を向いた。
「これは北じゃなく、何かを指してる」
箱の底には、薄い紙が貼りついていた。エルクが息を吹きかけると、消えかけた青い線が浮かんだ。
カモメ岩の輪郭。その中央にある、今は使われていない第九揚水塔。そして塔から島の下へ続く、細い螺旋。
紙の隅に、母の字があった。
《王冠なき王の船は、雲海の底で夜を待つ。
その宝は島を買い、国を沈める。
ただし、閉じた瞼の外にいるものを、決して起こすな。》
しばらく、誰も口をきかなかった。
「島を買える宝」とボウが言った。
「国を沈める、とも書いてある」とハリュム。
「七日ある」
ツヴァルが地図を折りたたんだ。
「戻るのに一日残すなら、六日。食料はボウ。縄と工具は私。灯りと本はハリュム。エルクは地図を読む」
「待て。行くって決めたのか?」
「ほかに町を買い戻す方法がある?」
なかった。
エルクは方位箱を握った。
冷たい真鍮の底で、針がかすかに震えている。それは七年前に消えた母の指が、雲の下から戸を叩いているようだった。
「明け方に、第九揚水塔で」
エルクは言った。
「欠け羅針盤団、最後の探検だ」
二 下向きの地図
第九揚水塔は、町外れの崖に傾いて立っていた。
昔は雲から水を汲み上げていたが、二十年前、巻き上げ機に雷が落ちて以来、鉄骨は錆び、巨大な滑車には風鳥が巣を作っている。
四人は夜明け前に集まった。
ボウはパンを二十個も持ってきた。ツヴァルは工具袋と折りたたみ弩。ハリュムは古代文字辞典、ランタン、鉛筆を三ダース。エルクは母の方位箱と地図、そして父の店から黙って持ち出した百メートル縄を背負っていた。
「これ、盗みじゃないよな?」とボウ。
「町を救ったら借りたことになる」とツヴァル。
「救えなかったら?」
「叱られる人がいなくなる」
塔の床板を外すと、真下へ続く鉄梯子が現れた。
エルクの方位箱の針は、穴の暗闇をまっすぐ指した。
彼らは降りた。
梯子は島の岩盤を貫いていた。最初はレンガ壁だった。次に黒い岩。やがて壁は、巨大な獣の肋骨のような白い層へ変わった。
百段。
二百段。
三百段。
頭上の入口は針の穴ほどになった。
やがて梯子が途切れた。
足元には、横穴が口を開けていた。床に埋め込まれた青い石が、彼らの足音に反応して一つずつ光る。
「誰かが作った道だ」とハリュムがささやいた。
「誰が?」
「分からない。でも、すごく昔。カモメ岩が空に浮く前かもしれない」
通路の壁には絵が彫られていた。
海を走る船。
船を追う、背中に星形の突起を持つ巨大な生き物。
空から垂れる、無数の黒い糸。
最後の絵では、人々が自分の口を縫い、名前の書かれた札を胸に下げていた。
「縁起でもないな」
ボウはパンを一つ食べた。
「まだ朝ごはん食べたばかりでしょ」とツヴァル。
「怖いと腹が減るんだ」
「いつも減ってる」
通路の先に、石の扉があった。
中央に四つの手形が刻まれ、その上に古代文字が並んでいる。
ハリュムが辞典をめくった。
「『門は数を知らず、顔を知らず、ただ呼ばれたものを知る』」
「どういう意味?」
「たぶん、四人で手を置く」
手形は大きさがばらばらだった。四人がそれぞれ手を当てると、石の中で低い音がした。しかし扉は動かない。
「呼ばれたものを知る」とエルクは繰り返した。
彼はツヴァルを見た。
「ツヴァル」
ツヴァルの手形が赤く光った。
ツヴァルがボウの名を呼び、ボウがハリュムを、ハリュムがエルクを呼んだ。
四つの手形が同時に輝き、扉が左右に割れた。
冷たい風が吹き出した。
その風の中で、誰かが笑った気がした。
扉の向こうは、島の内部とは思えないほど広い洞窟だった。
天井から逆さまの森が生えている。根が空中へ垂れ、銀色の葉が下向きに茂っていた。洞窟の底には淡く光る川が流れ、遠くで滝になって雲の裂け目へ落ちている。
地図の線は、その川に沿っていた。
四人は岩棚を進んだ。
途中、崩れた吊り橋があった。ツヴァルが矢に糸を結び、向こう岸の石柱へ撃つ。ボウが太縄を渡し、一本橋を作った。
最後に渡ったエルクの足元で、岩が崩れた。
「エルク!」
彼は縄にぶら下がった。下は青い川だ。光る魚の群れが、口を開けて待っている。
そのとき、壁の穴から何かが飛び出した。
猫ほどの大きさ。二本脚。長い尾。頭には後ろ向きの小さな角が二本あり、背中には夜空を切り取ったような藍色の板が並んでいた。板の表面で、星のような斑点が瞬いている。
生き物は縄へ噛みついた。
「やめろ!」
エルクは叫んだ。だが生き物は縄を切るのではなく、歯と前脚で必死に引っ張っていた。
ツヴァルとボウも引き、エルクは岩棚へ這い上がった。
生き物はぺたりと座った。
「ティク」
鈴を二度鳴らしたような声で鳴いた。
ハリュムが目を見開いた。
「星背竜」
「知ってるの?」
「本で。大昔、海にいた生き物。絶滅したって」
「海なんて、この世界にないぞ」とボウ。
「だから大昔なの」
星背竜は首をかしげ、もう一度鳴いた。
「ティク」
「名前を言ってるみたい」とエルク。
「まさか」
「じゃあ、ティクだ」
エルクが乾燥魚を差し出すと、ティクは匂いを嗅ぎ、一口で飲み込んだ。そして当然のように彼の肩へ前脚をかけた。
「ついてくる気よ」とツヴァル。
「だめだ。危険すぎる」
エルクが歩き出すと、ティクも歩いた。
彼が止まると、ティクも止まった。
彼が右へ行くふりをすると右へ、左へ跳ぶと左へ跳んだ。
ボウがパンをちぎって投げた。
ティクは見向きもしなかった。
「魚しか食わないのか。生意気だな」
それから一時間、ティクはずっとついてきた。
川が地下湖へ注ぐ場所で、彼らは最初の野営をした。
頭上の逆さ森では、銀の葉が風もないのにざわめいていた。
眠りにつく直前、エルクは誰かの声を聞いた。
――エルク。
母の声だった。
目を開けると、ティクが彼の胸の上に立ち、暗闇へ向かって牙をむいていた。
湖面に、人の顔ほどの波紋が一つ、浮かんでいた。
波紋はゆっくり閉じる瞼の形になり、それから消えた。
三 忘れ潮
二日目、川は細い水路となって岩の隙間へ入り込んだ。
四人は母の地図に従い、岸壁に残された古い曳船を見つけた。細長い金属舟で、船底には歯車と水掻きがついている。
ツヴァルが半日かけて機関を直した。
ボウがふいごを踏み、ハリュムが古代文字の注意書きを読み上げ、エルクが流れを測った。夕方、舟は咳き込むような音を立てて動き出した。
「私たち、もしかして本当に探検隊みたい」とハリュムが言った。
「今まで何だったの?」とツヴァル。
「物置を荒らす近所の子」
舟は岩の腸を進んだ。
壁の青い苔が星座のように流れ、時折、天井から落ちた水滴が逆に上へ昇った。方角も重さも、奥へ行くほど頼りなくなった。
夜になると、霧が出た。
白い霧ではない。黒い霧だった。
灯りを弱めるのではなく、見たものの輪郭を思い出せなくする霧だ。
「さっきの曲がり角、右だったっけ?」とボウ。
「左よ」
「でも地図には右って」
「地図を逆さに持ってる」とエルク。
ボウは笑いかけ、すぐ真顔になった。
「俺、なんでパンをこんなに持ってるんだ?」
ツヴァルがふいごから手を離した。
「ボウ?」
「冗談だよ。パン屋の息子だからだ。分かってる」
しかし声は震えていた。
ハリュムが壁を指した。
古代文字が、黒い霧の中で浮かんでいた。
《忘れ潮では、事実から先に薄れる。
次に顔が消える。
最後に名が消える。
互いを呼べ。
眠るな。》
「眠るなって、二日目で?」ボウがうめいた。
「名前を呼び続けよう」とエルクは言った。「順番に」
エルク。
ツヴァル。
ボウ。
ハリュム。
ティク。
五つの名を、彼らは繰り返した。
歌のように。櫂の拍子のように。
だが霧は濃くなった。
エルク。
ツヴァル。
ボウ。
ハリュム。
ティク。
何十回目かで、ボウが止まった。
「次、誰だっけ」
ハリュムの顔から血の気が引いた。
「私」
「違う。その次」
舟の舳先で、ティクが鳴いた。
「ティク」
ボウの目に光が戻った。
「そうだ。ティク。おまえ、パンは食わないくせに偉いな」
霧の向こうで、巨大な何かが舟と並んで泳ぎ始めた。
水面はない。それでも泳いでいる。長い指のような影が、岩壁の内側を掻いていた。
――リオネ。
声がした。
エルクは息を止めた。
それは母の名だった。
――リオネはここにいる。
――ひとりで、七年、待っている。
「聞くな!」ツヴァルが叫んだ。
――エルク。
――いい子ね。こちらへおいで。
舟の右手に、細い横穴が現れた。
母の方位箱の針が、横穴へ向きを変えた。
「地図の道はまっすぐよ」とハリュム。
「でも方位箱は――」
「箱が何を指してるか、私たちは知らない!」
エルクの手は舵を右へ切りかけていた。
その手首に、ティクが噛みついた。
強くはない。目を覚まさせるだけの痛みだった。
ティクの背中の星が激しく明滅した。
横穴の奥で、何かが苛立ったように身をよじった。黒い霧が一瞬だけ裂け、エルクは見た。
巨大な瞼。
岩よりも大きな瞼が、空間の裏側からこちらを覗こうとしていた。
まだ閉じている。だが、その合わせ目から無数の細い指が伸びている。
エルクは舵を戻した。
「母さんは、ぼくを『いい子』なんて呼ばなかった」
「何て呼んだの?」ボウが聞いた。
「『方向音痴』」
ツヴァルが吹き出した。
ハリュムも笑った。
笑い声は霧に穴を開けた。
舟は一気に流れを下った。
背後で瞼の隙間がわずかに開いたが、ティクが甲高く吠えると、闇は遠ざかった。
夜明けのない地下で、どれほど進んだか分からない。
やがて霧が晴れた。
そして彼らは、雲海の底へ出た。
四 王冠なき王の船
そこには、空が逆さまに広がっていた。
頭上にカモメ岩の黒い底があり、そのさらに上を雲が透けて流れている。足元には底なしの夜があり、無数の浮遊岩が星のように漂っていた。
曳船が走る水路は、空中に浮かぶ透明な帯だった。水だけが形を保ち、闇の上へ橋を架けている。
その水路の果てに、船があった。
三本マストの巨大な帆船。
帆は朽ち、船腹は半分岩に埋まり、船首像の王冠は砕けている。だが船体を覆う金属板は青白く光り、何百年もの時を拒んでいた。
船尾に名が刻まれていた。
〈夜待ち号〉。
「王冠なき王の船」とハリュムがつぶやいた。
透明な水路は船腹の穴へ続いていた。
彼らは曳船を横づけし、乗り移った。
甲板には白骨が並んでいた。
倒れているのではない。全員、椅子に座り、胸に木札を下げている。札には一人ずつ名前が刻まれていた。
ボウが帽子を取った。
ツヴァルも何も言わず、白骨の間を歩いた。
船長室の扉には、剣で削った文字があった。
《船長バルメア・サルヴァ。
王ではない。ゆえに王冠を持たず。
賊ではない。ゆえに国から追われる。》
中には海図机と、鎖で床につながれた黒い箱があった。
「宝箱」とボウ。
「小さすぎる」とツヴァル。
鍵は七重だった。ツヴァルが工具を並べ、夢中で取りかかった。
その間に、ハリュムとエルクは船長の日誌を読んだ。
紙の半分は腐っていた。残った頁には、この世界にまだ海があった時代のことが書かれていた。
空から黒い星が落ちた。
星は海底に沈み、夢を見る者の名を食べ始めた。
名を失った者は、自分の家を忘れ、子を忘れ、最後には自分が生きていることも忘れて海へ歩いた。
人々はその存在を《瞼の外側にいるもの》と呼んだ。
見れば忘れる。
呼べば近づく。
眠れば、その夢を通って世界へ入る。
船長バルメアは、星背竜と呼ばれる海の守り手たちとともに黒い星を封じた。だが封印には、人々から奪われた膨大な記憶が使われた。
それらの記憶は結晶となり、都市一つを千年照らすほどの力を持った。
王たちは結晶を欲しがった。
バルメアは結晶を盗み、誰も近づけぬ雲海の底へ逃げた。
「宝って、記憶なの?」ツヴァルが鍵をいじりながら言った。
「力でもある」とハリュム。「売れば、島どころか国を買える」
「じゃあ持って帰ろう」
「でも、封印に使われてる」
エルクは日誌の最後の頁をめくった。
《我らは封印を船の下、星背竜の母とともに置く。
卵が孵る頃、守り手は再び目覚めるだろう。
もし人の欲が先に来たなら、名を呼び合え。
名は鎖であり、帰路であり、闇に打つ楔である。》
その下に、別の筆跡があった。
急いで書かれ、文字は震えている。
《リオネ・アルナ、ここに到達。
封印は弱っている。
方位箱は結晶を指す。持ち出してはならない。
島へ戻り、入口を閉じる。》
七年前の日付だった。
「母さんは、ここに来た」
エルクの声は、自分のものではないように響いた。
「でも戻らなかった」とハリュム。
ツヴァルの手元で、七つ目の錠が開いた。
黒い箱の中に、羊皮紙が一枚あった。
金貨でも宝石でもない。
カモメ岩の権利証だった。
島がまだ海上の岩礁だった時代、船長バルメアと住民たちが交わした契約。島は王にも商人にも属さず、そこに暮らし、風炉を守る者すべての共有財産である。売却も担保化も、住民全員の同意なしにはできない。
最後に、今も公文書で使われる古い七王印が押されていた。
「これがあれば!」ボウが叫んだ。
「会社の契約を無効にできる」ハリュムの頬が赤くなった。「役所の蔵が焼けても、原本がここにある。町を救える」
エルクは権利証を胸元へしまった。
宝は見つかった。
母の痕跡も。
あとは帰るだけだった。
そのとき、船の外で拍手が鳴った。
「子どもというものは、本当に便利だ」
船長室の入口に、灰色の外套を着た男が立っていた。
リューデン星鉄採掘会社の監督官、ドロア。
後ろには、短銃を持つ護衛が二人。
「狭い穴を通り、古い罠を解き、こちらが欲しい物の場所まで教えてくれる」
ツヴァルが弩へ手を伸ばした。
護衛の弾が机の角を砕いた。
「次は手を撃つ」とドロアは言った。
「どうやってここへ?」エルク。
「君の父上の店は、ずっと見張らせていた。リオネの地図が残っていると思ってね」
ドロアの目が、エルクの方位箱へ落ちた。
「それが結晶を指すのだろう?」
エルクは答えなかった。
ドロアは笑い、護衛に顎をしゃくった。
四人は武器と荷物を取り上げられ、甲板へ連れ出された。
ティクだけは、船長室の机の下へ隠れていた。
少なくとも、ドロアはそう思っていた。
五 閉じた瞼の外
夜待ち号の船首から、石の階段が闇へ続いていた。
何も支えていない階段だ。一段下りるごとに、周囲の星が遠ざかる。
ドロアは方位箱を持ち、針の示す方へ進んだ。
子どもたちは護衛に挟まれて続いた。
「権利証だけで満足すればいい」とハリュムが言った。「島を手に入れられなくても、会社はほかで稼げるでしょう」
「君は帳簿を読んだことがないらしい」
ドロアは振り向かなかった。
「会社は稼ぐために存在するのではない。より多くを所有するために存在する。島も、鉱石も、そこに住む者の明日もだ」
「明日は物じゃない」
「値段のつかない物はない」
階段の底に、円形の扉があった。
扉には巨大な星背竜が彫られ、その体を無数の人名が鎖のように取り巻いている。
四つの手形。
先ほどと同じ仕掛けだった。
「開けろ」とドロア。
「嫌だ」とエルク。
護衛の一人がボウの首に短銃を当てた。
エルクは手形へ手を置いた。
ツヴァル、ボウ、ハリュムも従った。
互いの名を呼ぶ。
扉が開く。
中には、海があった。
黒い海が、球形の部屋の内壁を覆っていた。上も下もなく、波があらゆる方向へ打ち寄せている。
部屋の中心に、透明な結晶が浮かんでいた。
人の心臓ほどの大きさなのに、内部には幾千もの街、顔、朝焼け、食卓、子守歌が渦巻いている。一瞬見るだけで、他人の一生が胸へ流れ込んでくる。
結晶を抱くように、巨大な生き物が眠っていた。
星背竜。
夜待ち号より長い体。背中の板は星雲のように輝き、六本の角が王冠のように広がっている。胸には深い傷があり、そこから黒い糸が何本も伸び、部屋の壁へ突き刺さっていた。
エルクは息を呑んだ。
「ティクの親だ」
「守り手」とハリュム。
ドロアは結晶しか見ていなかった。
「これだけあれば、浮島を十個動かせる。いや、百個だ」
彼が結晶へ近づく。
眠る星背竜の目が、わずかに開いた。
――やめろ。
声は耳ではなく、骨の内側で鳴った。
ドロアは歩みを止めたが、すぐ笑った。
「死にかけの獣が」
彼は腰から採掘槌を抜き、結晶を支える黒い鎖へ打ち込んだ。
一度。
二度。
三度。
鎖が切れた。
世界のどこかで、瞼が開いた。
光が消えた。
音が消えた。
そしてエルクは、自分の隣にいる赤髪の少女が誰なのか分からなくなった。
「おい」
少女が彼の肩を掴んだ。
「私の名前を言って」
「……」
知っているはずだった。
何度も呼んだ。幼い頃、崖から落ちかけた彼をこの少女が鎖で引き上げた。鍛冶場で火傷した時、泣くなと怒鳴られた。彼女の笑い方も、歩き方も知っている。
名前だけがない。
「言って!」
黒い海から、指が伸びた。
何千、何万もの細い指。水でできた指が、彼らの額へ触れる。
護衛の一人が短銃を落とした。
「私は、何をしていた?」
もう一人が彼を見た。
「おまえは……誰だ?」
ドロアは結晶を抱えた。
「私のものだ」
――私とは、誰だ。
声が重なった。
ドロアの顔から笑みが消えた。
「私は……会社の……」
――会社とは、何だ。
「所有するものだ」
――何を。
ドロアは答えられなかった。
壁の黒い海が盛り上がった。
そこに、目はなかった。口もなかった。ただ、見る者が「巨大な顔」と理解してしまう空白だけがあった。
閉じた瞼の外にいたもの。
それは世界の内側へ入ろうとしていた。
星背竜が鎖を引いた。胸の傷が裂け、星色の血が散る。だが結晶を失った封印は弱く、黒い糸がその体へ深く食い込んでいく。
エルクは逃げようとした。
なぜ逃げるのか分からなかった。
誰と来たのか分からなかった。
何を守ろうとしていたのか――。
「ティク!」
小さな鳴き声がした。
船から追ってきた星背竜の子が、扉の上に立っていた。
ティクは背中の星を燃えるように輝かせ、部屋へ飛び込んだ。
巨大な星背竜が頭を上げた。
親子の声が重なった。
低い雷鳴と、小さな鈴の音。
その響きで、エルクの胸に一つの言葉が戻った。
「ティク」
名前を呼ぶと、記憶がつながった。
乾燥魚を丸呑みにした口。縄を引いた小さな前脚。暗闇に向かってむいた牙。
「ティク!」
今度は大きく呼んだ。
赤髪の少女が叫ぶ。
「エルク!」
彼の名だった。
母がつけ、父が呼び、友だちが何千回も投げつけてきた名。
「ツヴァル!」
名前が戻った。
ツヴァルは泣きながら、樽みたいな少年を指した。
「ボウ!」
「ハリュム!」
四つの名が部屋を走った。
黒い指がひるんだ。
「思い出せ!」エルクは叫んだ。「名前だけじゃない。帰りたい場所を!」
ツヴァルが叫ぶ。
「鍛冶場の朝! 父さんの焦げた手! 初めて作った釘が曲がってて、壁に打ったら折れた!」
ボウが続く。
「焼きたての丸パン! 母ちゃんが端を焦がす! 俺は焦げたところが好きだ!」
ハリュムは胸を押さえた。
「学校の屋根! エルクたちに初めて誘われた日! 本を読んでただけなのに、勝手に団員にされた!」
「嫌だったのか?」ボウ。
「うれしかった!」
黒い海が波打った。
顔のない空白が、彼らの思い出を噛み砕こうと口の形に歪む。
エルクは母を思った。
地図に顔を近づける横顔。
インクで汚れた指。
出発の朝、彼の頭を乱暴になでた手。
――地図は、道を見失わない人のためにあるんじゃない。
――帰ろうとする人のためにあるの。
「カモメ岩!」
エルクは叫んだ。
「風で傾く家! 狭い学校! まずい井戸水! 崖の柵! あそこがぼくらの町だ。ぼくらは帰る!」
名と記憶が、目に見えない鎖になった。
四人と一頭を結び、世界の内側へ縫い止める。
けれど封印は戻らない。
ドロアが結晶を抱えたまま、黒い海へ後ずさっていた。
「これは、私の……」
彼は自分の名を忘れていた。
それでも所有することだけは忘れなかった。
「結晶を戻せ!」ツヴァルが叫ぶ。
「戻したら、また誰かの記憶が閉じ込められる」とハリュム。
エルクは結晶を見た。
中で無数の顔が泣いている。
彼らは封印のため、何百年も自分の朝や家族や歌を奪われていた。
宝を持ち帰れば、島を買える。
国さえ買える。
だが町を救うために、知らない誰かの人生を永遠に閉じ込めていいのか。
答えは、考えるより先に出た。
「壊す」
「何?」とボウ。
「結晶を壊して、記憶を返す」
「封印は?」
エルクは巨大な星背竜を見た。
その目には、痛みと、長すぎる疲労があった。
「新しく作る。ぼくらの名前で」
ドロアへ飛びかかった。
護衛たちは、もう敵も味方も分からず立ち尽くしていた。ツヴァルが一人の足を払い、ボウがもう一人を抱えて床へ伏せる。ハリュムは落ちていた採掘槌を拾った。
エルクはドロアの腕へ噛みついた。
結晶が宙へ落ちる。
ティクが跳んだ。
小さな頭で結晶を弾き、ハリュムの方へ飛ばす。
ハリュムが槌を振り上げた。
一瞬、ためらった。
「やって!」ツヴァル。
槌が結晶を打った。
ひびが入った。
世界中の朝が、一度に明けた。
六 名前の雨
結晶が砕けると、光があふれた。
誰かが初めて歩いた日の記憶。
なくした歯を枕の下へ置いた夜。
海辺の婚礼。
戦争から戻らなかった父の歌。
古い町の匂い。
船長バルメアが王の命令を拒んだ瞬間。
星背竜たちが海を泳いだ、青い世界。
何億もの記憶が光の魚となり、黒い海へ飛び込んだ。
閉じた瞼の外にいるものが、初めて悲鳴を上げた。
それは記憶を食べることはできても、返された記憶の洪水には耐えられなかった。
顔のない空白が縮み、黒い指が燃え、部屋の壁に亀裂が走る。
巨大な星背竜が立ち上がった。
胸に食い込んでいた黒い糸を引きちぎり、翼のない体で宙を泳ぐ。背中の星々がつながり、一つの光輪になった。
ティクがその額へ跳び乗った。
親の星背竜は、子の匂いを確かめるように鼻先を寄せた。
その短い仕草に、長い年月がほどけた。
――名を。
声が、エルクたちの内側で響いた。
――汝らの名を、貸してほしい。
四人は手をつないだ。
「エルク・アルナ!」
「ミラ・フェン!」
「ボウ・ガルダ!」
「セナ・ルー!」
ティクが鳴く。
「ティク!」
五つの名が光の鎖になり、星背竜の角へ絡みついた。
名は減らなかった。貸しても、呼び合うほど強くなった。
星背竜は光輪を黒い海へ叩きつけた。
空間の裏側で、巨大な瞼が閉じる。
今度は内側から、五つの名が閂となった。
閉じた瞬間、部屋が崩れ始めた。
「逃げるよ!」ツヴァル。
円形扉へ走る。
だが階段の半分は砕け、夜待ち号まで大きな裂け目が開いていた。
ドロアは床にひざまずき、砕けた結晶の欠片を拾おうとしている。
「置いていけ!」エルクが叫んだ。
男は顔を上げた。
その目には、何もなかった。
「私は、誰だ?」
エルクは足を止めた。
ツヴァルが怒鳴る。
「助けるの?」
「名前を忘れたからって、落としていい理由にはならない!」
ボウとエルクでドロアを担ぎ、護衛二人にも肩を貸した。
階段は崩れ続ける。
向こう岸から、ティクが鳴いた。
巨大な星背竜が体を伸ばし、裂け目へ橋をかけた。
青黒い背中の板が、足場のように並ぶ。
四人は三人の大人を引きずって、その背を走った。
エルクが最後だった。
星背竜の頭まで来た時、ティクが彼の胸へ飛び込んだ。
「一緒に来い!」
エルクは抱きしめた。
だがティクは彼の顎を一度舐めると、腕から抜け出した。
親の額へ戻る。
「ティク!」
小さな星背竜は首をかしげた。
初めて会った時と同じ顔。
それから、鈴を二度鳴らすように鳴いた。
「ティク」
自分の名を、忘れるなと言っているようだった。
エルクはこぶしを握った。
「忘れない。絶対に」
巨大な星背竜が夜待ち号へ彼を押し上げた。
直後、階段も扉も闇へ沈んだ。
船体が激しく傾く。
マストが折れ、空中の水路が裂けた。
「曳船へ!」
だが曳船は崩れた船腹の下敷きになっていた。
「ほかの道を探す!」とハリュム。
「時間がない」ツヴァルは甲板を見回した。「この船を動かす」
「帆がないぞ!」ボウ。
「風ならある!」
結晶から解放された記憶が、光の嵐となって船の周囲を吹いていた。
ツヴァルは折れたマストの綱を切り、残った帆布を広げた。ボウが滑車を回す。ハリュムが船長日誌の操船頁を読み、エルクは舵輪へ飛びついた。
夜待ち号は何百年ぶりかに軋んだ。
「帰り道は?」ボウ。
エルクは母の地図を開いた。
紙には来た道しかない。
だが地図の裏に、光の雨が染み込んでいく。
新しい線が現れた。
母の筆跡だった。
《帰り道は、船首をいちばん呼ばれている名へ向ける。》
「何それ!」ツヴァル。
エルクは目を閉じた。
遠い上空で、町の人々が呼んでいる。
父が、いなくなった息子の名を。
鍛冶屋がツヴァルを。
パン屋がボウを。
学校の先生がハリュムを。
そしてカモメ岩そのものが、風炉の低い唸りで、そこに住む全員の名を呼んでいた。
「上だ!」
舵輪を切る。
夜待ち号は光の嵐を帆に受け、雲海へ突っ込んだ。
船尾で、ドロアが小さくつぶやいた。
「ドロア」
エルクが振り向く。
「私の名だ」
男の手には、結晶の欠片が一つあった。
しかし彼はそれを見つめたあと、雲の中へ投げ捨てた。
「もう、何も欲しくないのか?」とボウ。
ドロアは首を振った。
「欲しい。自分が何を欲しがっていたのか、思い出せる程度には」
夜待ち号は上昇した。
雲を裂き、雷を抜け、島の岩盤を貫く古い水路へ飛び込む。
船腹が両側の岩を削り、火花が雨のように散った。
最後に巨大な衝撃があった。
そして船は、第九揚水塔を内側から吹き飛ばして、朝の空へ飛び出した。
七 島を持つ者
カモメ岩の住民は、その朝、町外れから古代帆船が生えてくるところを見た。
夜待ち号は塔の残骸を引きずり、畑を三枚横切り、学校の柵を砕き、広場の噴水へ船首から突っ込んで止まった。
船から最初に降りたのはボウだった。
「ただいま!」
パン屋の母親が駆け寄り、彼の頬を殴ってから抱きしめた。
鍛冶屋はツヴァルを怒鳴りつけ、途中で声が出なくなった。ハリュムの先生は泣きながら「本を何冊持ち出した」と数え始めた。
エルクの父は何も言わなかった。
ただ、息子の顔を両手で挟み、そこに本当にいるか確かめた。
「母さんの跡を見つけた」
エルクが言うと、父は目を閉じた。
「そうか」
「帰ろうとしてた」
「そうか」
それだけで、七年分の言葉になった。
同じ日の昼、リューデン社の契約執行船が到着した。
島の接収を宣言する役人たちは、広場に突き刺さった古代船と、泥だらけの子どもたちと、記憶の抜けた護衛二人を見て言葉を失った。
ハリュムが権利証を読み上げた。
七王印は本物だった。
町の古老たちも、名前の雨の中で思い出していた。幼い頃、祖父母から聞かされた古い歌を。
――島は土ではなく、呼ぶ声の輪。
――風炉を守る者、みな島の主。
売却契約に署名した町長でさえ、その歌を知っていた。
住民全員の同意はない。
契約は無効だった。
ドロアは会社の役人たちの前へ出た。
「地下に星鉄はない」と彼は言った。
「調査報告と違う」
「報告が誤りだった。掘れば島の風炉を壊す。利益は出ない」
それは半分だけ嘘だった。
地下には星鉄より危険で、星鉄より価値のあるものがある。
だがドロアは、二度とその場所を所有しようとはしなかった。
会社は三日粘り、七人の法律家を送り、最後には撤退した。
借金は残った。
島の屋根は相変わらず雨漏りし、風炉は週に一度咳をし、パン屋のかまどは古いままだった。
それでも、町は町のものだった。
夜待ち号からは金貨一枚出なかった。
だが船体の古代合金を少しずつ売れば、風炉を直す費用にはなる。残りは博物館にすることになった。
船長室には、白骨たちの木札が並べられた。
住民は一人ずつ、その名を声に出して読んだ。
忘れられていた船員たちは、何百年ぶりに町の中へ戻ってきた。
エルクは母の方位箱を修理した。
結晶が砕けたあとも、針は下を指している。
「まだ何かあるのかな」とボウ。
「あるでしょうね」とハリュム。
「また行く?」ツヴァル。
エルクは三人を見た。
全員、期待している顔だった。
「しばらくは行かない」
「しばらく?」
「父さんに百メートル縄を黙って持ち出したのがばれた」
その日の夕方、四人は学校裏の新しい柵に座った。
足元には雲海が広がっている。
雲の切れ間で、一瞬、巨大な影が泳いだ。
背中の星が夕日を受け、夜空より早く輝く。
その額には、小さな影が乗っていた。
鈴を二度鳴らすような声が、はるか下から届いた。
「ティク」
エルクは立ち上がった。
「ティク!」
ツヴァルも、ボウも、ハリュムも名を呼んだ。
巨大な影は雲の底へ潜り、光だけがしばらく残った。
エルクは新しい地図を広げた。
カモメ岩の下、これまで空白だった場所に、細い線を描く。
逆さ森。忘れ潮。夜待ち号。閉じた瞼。
そして雲海のいちばん深い場所に、小さな星の印を二つ描いた。
その横へ、こう書いた。
《ここには、忘れないものがいる。》
世界の端に住む子どもは、落ちる夢を見ない。
けれど、帰る夢なら、何度でも見る。
了