雲海の彼方、オルナの灯
一 町が売られる日
サルタ島では、朝は下からやってくる。
島の腹を満たす浮遊鉱が、夜明けの光を吸って青く明滅する。その光が崖下の雲海――白潮を透かし、家々の床板を淡く染めるころ、潮裏街の住人たちは目を覚ました。
イルマは、目を覚ますより先に鐘の音を聞いた。
一つ、二つ、三つ。
それは礼拝堂の鐘ではなかった。立ち退き勧告を知らせる、真鍮庁の三打鐘だった。
「あと二日だってさ」
窓の外、屋根から逆さにぶら下がったピピンが言った。十一歳のくせに、彼は地面より高い場所にいるときだけ妙に落ち着いていた。
「知ってる。だから降りなさい。朝から縁起が悪い」
「朝から縁起が悪いのは、あの札だよ」
ピピンが指した先では、通りの家々に赤い紙が貼られていた。
――第二港湾拡張計画につき、潮裏街区を閉鎖する。
――退去期限、明後日の日没。
――補償は規定に基づき、上層区への移転券をもって支払う。
上層区の移転券など、潮裏街の者にとっては「空の上に家を建ててよい」というのと同じだった。家賃は三倍、仕事場は遠く、風車税までかかる。
イルマの家は、祖父の代から続く地図工房だった。だが父は五年前、測量船ごと白潮に消え、注文は減り、工房には売れ残った古地図ばかりが積み上がっていた。
「イルマ!」
階下から、太い声がした。
パン屋の息子バジが、焼きたての丸パンを紙袋いっぱい抱えて入ってきた。十四歳にして大人二人分ほどの肩幅があるが、蜘蛛と雷と借金取りには弱い。
「大変だ。真鍮庁の連中、今日の午後に工房の荷物を数えに来るって」
「まだ退去前なのに?」
「役人は、終わってないことを終わった顔で数えるのが仕事なんだって、父ちゃんが」
その後ろから、モソナが現れた。濃紺の制服に、短く切った黒髪。父親は真鍮庁の会計官で、この街では少しばかり肩身が狭い。
「あなたたち、朝食は済んだ?」
「町が売られる日に朝食の心配?」とイルマ。
「町が売られても空腹は残るもの」
モソナはバジの袋から当然のようにパンを一つ取り、工房の奥を見た。
「昨日、倉庫を片づけるって言ってたでしょう。何か見つかった?」
「埃が三樽。虫食いの海図が四十七枚。それと、父さんの嘘が一つ」
イルマは作業台の上に、真鍮製の筒を置いた。
昨夜、父の古い机の底板から見つけたものだった。筒には鍵穴も継ぎ目もない。ただ表面に、翼を広げた蛾の紋章が刻まれている。
ピピンが屋根から飛び降り、窓枠を踏み台にして入ってきた。
「爆発する?」
「しない」
「毒針は?」
「出ない」
「じゃあ壊そう」
「触るな」
イルマは筒を抱き寄せた。父はいつも言っていた。地図は道を教えるものではない。帰れなくなる境目を教えるものだ、と。
その父が隠したものなら、ただの古物ではない。
モソナが蛾の紋章を指でなぞった。
「これ、古い旅人組合の印よ。帳簿で見たことがある。三百年前、理想郷を探して白潮を渡った人たち」
「理想郷?」バジが眉をひそめる。「食べ物は?」
「たぶんある」
「行こう」
即答だった。
イルマは筒を窓の光にかざした。すると青い浮遊鉱の光を受け、表面に文字が浮かんだ。
――帰る場所を失う者にのみ、オルナへの道は開かれる。
四人はしばらく黙っていた。
ピピンが先に口を開いた。
「ぼくら向けじゃない?」
その瞬間、通りで馬車の車輪が鳴った。窓からのぞくと、白い制服の役人たちと、黒塗りの自動車が工房の前に止まるところだった。
車から降りたのは、第二港湾計画の責任者、ローディン総監だった。銀の杖、磨かれた靴、笑っていないのに笑顔に見える細い口。
「イルマ・セイデル嬢」
扉越しに、よく通る声がした。
「お父上の遺品について、確認したいことがあります」
イルマは三人を見た。
モソナはパンを口に押し込み、工房の裏口を指した。
「朝食は済んだ。次は逃げる番ね」
二 黒曜の飛行士
潮裏街には、逃げ道が多い。
正確に言えば、逃げ道しかない。崖に張りついた家々の間を、縄橋、雨樋、荷揚げ滑車、廃坑道が縫っている。役人は道を歩くが、子どもは町そのものを歩く。
四人は裏口から屋根へ出て、染物屋の物干しをくぐり、鐘楼の梁を渡った。
「止まりなさい!」
下で役人が叫ぶ。
ピピンは物干し竿を一本抜き、追っ手の前へ落とした。役人たちが絡まった赤い布に包まれ、怒鳴り声を上げる。
「ぼく、こういうときのために普段から怒られてるんだ」
「胸を張ることじゃない!」
イルマたちは崖沿いの階段を駆け下りた。目指すのは旧三番埠頭。そこには、街で唯一、真鍮庁の許可なしに飛べる船がある。
雲燕号。
青い船腹に二枚翼、尾部には古い軍用推進器。水にも白潮にも浮く飛行艇だ。塗装は剥げ、片方の翼には鍋の蓋ほどの継ぎ当てがいくつもある。
その翼の下で、グレン・カッサは椅子を傾け、帽子を顔にのせて眠っていた。
「起きて!」
イルマが帽子を取ると、黒い顔が現れた。
肌の色ではない。二十年前の戦争で浴びた浮遊炉の火が、彼の頬から額までを磨いた黒曜石のように変えていた。表情は読みにくいが、片目だけが琥珀色に光っている。
「子どもが四人」とグレンは言った。「朝から縁起が悪い」
「船を出して」
「もっと悪い」
イルマは真鍮の筒を見せた。
グレンの琥珀の目が細くなった。
「どこで拾った」
「父の机」
「捨てろ」
「これを見て、捨てろって言う人は二人目」
「一人目は?」
「まだ言われてないけど、たぶんローディン総監」
ちょうど埠頭の上段に、白服の役人たちが姿を現した。
グレンは深くため息をついた。
「乗れ」
雲燕号のエンジンは、三度せき込み、四度目に目を覚ました。青い火が推進器から噴き、係留索がぴんと張る。
「索を切れ!」
バジが鉈を振り下ろしたが、索は切れなかった。
「逆だ、太い方を残して細い方を外せ!」
「先に言ってよ!」
ピピンが留め具を蹴飛ばした。雲燕号は埠頭を離れ、役人の帽子を二つ吹き飛ばしながら白潮へ滑り出す。
だが、空へ上がらない。
「飛ばない!」モソナが叫ぶ。
「飛行艇は飛ぶ前に走るんだ」
「どれくらい?」
「機嫌次第だ」
雲燕号は雲の波を跳ね、崖壁へ向かって一直線に進んだ。
「崖!」
「見えてる」
「近い!」
「それも見えてる」
グレンが操縦桿を引いた。翼が風をつかみ、船体がふわりと持ち上がる。雲燕号は崖の岩肌を腹一枚で越え、朝の空へ飛び出した。
サルタ島が後ろへ流れていく。崖に張りつく潮裏街、その屋根の一つ一つが、小さな鱗のように光っていた。
イルマの胸が痛んだ。
「どこへ行く」グレンが訊いた。
「オルナ」
操縦席の空気が、急に冷えたように感じられた。
グレンは前を見たまま言った。
「そんな町はない」
「この筒が道を知ってる」
「道具は嘘をつかない。使う人間が、都合のいい声を聞くだけだ」
「父さんを知ってたの?」
グレンは答えなかった。
代わりに、雲燕号を島の下へ回り込ませた。そこには、雲に隠れた巨大な裂け目が口を開けていた。
「オルナへ行きたいなら、まず島の腹を通る」
「どうして?」
「その筒は地図じゃない。鍵だ。鍵穴は、お前たちの町の真下にある」
三 島の腹の道
サルタ島の内部には、かつて浮遊鉱を掘った坑道が網の目のように走っている。
雲燕号は崖の裂け目に入り、地下湖へ着水した。天井から青い結晶が垂れ、湖面に星空のような光を落としている。
「船を置いていく」とグレン。
「盗まれない?」バジが訊いた。
「ここまで来る盗人なら、譲る」
坑道の奥には、石造りの門があった。中央に蛾の形をした窪みがある。イルマが真鍮の筒を近づけると、筒はひとりでにほどけ、薄い羽根のような板へ展開した。
門が低く唸り、左右に開く。
その先は坑道ではなかった。
磨かれた白い石の回廊。壁一面に、空を旅する人々の絵が刻まれている。背に家財を負い、子を抱き、楽器を鳴らしながら、雲海を越えていく人々。
「避難民だ」とグレンが言った。
「旅人組合じゃなくて?」
「旅人なんて、追い出された者につける綺麗な名前だ」
モソナが壁画の文字を読んだ。
「『都を持たぬ者は、灯を分けよ。灯を分ける者のいる場所を、都と呼べ』」
「オルナの言葉?」
「たぶん」
回廊の先で、道は三つに分かれていた。それぞれの入口に記号がある。王冠、剣、空の椀。
「王冠は権力、剣は勇気、椀は食事」とバジ。
「最後だけ願望でしょう」モソナが言う。
ピピンは空の椀へ石を投げた。次の瞬間、天井から巨大な匙が振り下ろされ、石を粉々にした。
「食事の道は危険」
「そういう結論でいいの?」
イルマは壁画を見た。人々は王冠を捨て、剣を折り、椀を隣人に差し出している。
「どれも違う。三つ一緒に開けるんだ」
王冠の石を押し、剣の柄を引き、椀にバジのパンを一つ置く。
中央の壁が静かに沈んだ。
「ぼくのパン……」
「町が救えたら一樽買う」
「二樽」
「一樽半」
隠し道は、島の中心へ下っていた。
途中には、旅人たちが侵入者を試す仕掛けがいくつもあった。踏むと床が笑い声を上げる石、嘘をつくと戻ってくる矢、欲しいものを口にするとその重さだけ荷物が増える部屋。
ピピンが「金貨百枚」と言って床にめり込み、三人がかりで引き抜いた。
「欲張るからよ」とモソナ。
「百枚で欲張りなら、金持ちはみんな地面の下だ」
最後の部屋には、底の見えない縦穴があった。向こう岸まで十歩ほど。しかし橋はない。
壁には、一文だけ刻まれている。
――最も大切なものを置いて渡れ。
「ありがちなやつだ」とピピン。「ぼくは靴を置く」
一歩踏み出すと、足元に光の床が現れた。だが二歩目で消え、ピピンは穴へ落ちかけた。バジが襟首をつかんで引き戻す。
「靴は大切じゃないらしい」
「大切だよ。片方しかないし」
モソナは制服の胸から、真鍮庁の家族章を外した。父からもらったものだ。穴の縁へ置くと、光の床が三歩分現れた。
「足りない」
バジはパン袋を置いた。五歩分。
「それ、本当に大切だったんだ」
「当然だろ」
ピピンはしばらく黙り、腰の工具袋から小さなねじ巻き鳥を取り出した。亡くなった姉が作ったものだと、イルマは知っていた。
光は八歩まで伸びた。
最後にイルマは、真鍮の筒――父の遺した鍵を置いた。
床が向こう岸までつながった。
「鍵を置いたら、オルナへ行けないじゃない」モソナが言った。
「戻って取ればいい」
グレンが低く笑った。
「戻れたらな」
四人が渡りきると、光の床は消えた。置いた品々は穴の向こうに残っている。
イルマは唇を噛んだ。
すると、部屋の奥で小さな音がした。
かちり。
ピピンのねじ巻き鳥が羽ばたき、鍵と家族章とパン袋を背に載せ、細い針金の翼で穴を越えてきた。
「姉ちゃんは、仕掛けを作るとき、必ず抜け道も作った」
鳥はイルマの肩に降りた。
壁の文字が淡く光り、続きが現れる。
――大切なものを捨てよ、とは言っていない。共に運べる者を見つけよ。
バジがパン袋を抱きしめた。
「昔の人、回りくどい」
「でも、嫌いじゃない」とイルマは言った。
最奥には、巨大な天球儀があった。
真鍮の輪が幾重にも重なり、その中心に、小さな青い火が浮いている。イルマが鍵を差し込むと、輪が回転し、壁いっぱいに雲海の地図が広がった。
一本の光が、サルタ島から北西へ伸びる。
その先には何もない。ただ「帰路なき空域」とだけ記されていた。
グレンの黒曜の頬に、地図の青い光が揺れた。
「やはり、あそこか」
「知ってるの?」
「二十年前、戦争の最後の日に飛んだ」
彼は初めてイルマを見た。
「お前の父親と一緒にな」
四 白潮を越える
雲燕号が島の裂け目から飛び出したとき、空は鉛色に変わっていた。
遠くで警笛が鳴る。
ローディン総監の巡空艇が三隻、サルタ島の上空から降りてきた。白い船体の側面に、第二港湾計画の歯車紋。先頭艇の甲板に、銀の杖を持つローディンが立っている。
「イルマ嬢!」
拡声管の声が空を震わせた。
「その鍵は、真鍮庁の保管資産です。返還すれば、潮裏街の移転条件を再考しましょう」
「嘘ね」とモソナ。
「どうして分かる?」バジが訊く。
「父が同じ言い回しをするときは、もう帳簿に反対のことが書いてあるから」
グレンは推進器の出力を上げた。
「座れ。舌を噛みたくなければ、口を閉じろ」
巡空艇から小型の追撃機が二機放たれた。雲を切り裂き、左右から迫る。
雲燕号は古い。遅い。機体はきしみ、計器の針は揃って震えている。
だがグレンの手だけは静かだった。
一機目が後ろにつく。機銃の火花が翼をかすめた。
「撃ち返さないの?」イルマが叫ぶ。
「弾がない」
「最初に言って!」
「聞かれなかった」
グレンは雲燕号を横倒しにし、白潮の渦へ突っ込んだ。視界が真白になる。上も下も消え、船体が浮く。
「ピピン、後部の排気弁を三秒開けろ」
「どれ?」
「赤い取っ手」
「赤いのが四つある!」
「いちばん触りたくないやつだ!」
ピピンは迷わず、骸骨の印がついた取っ手を引いた。
船尾から黒煙が噴き出し、雲の中に太い筋を描く。追撃機の一機が煙へ入り、進路を見失ってもう一機と接触した。二機は翼端をこすり、慌てて上昇していく。
「落とさないんだ」イルマは言った。
「落ちた機体は、たいてい誰かの家に当たる」
雲燕号は雲を抜けた。
前方に、帰路なき空域が広がっている。
そこは風が死んだ場所だった。雲は動かず、空には壊れた船や岩塊がゆっくり漂っている。羅針盤は回り続け、太陽さえ薄い。
グレンは自動操縦をかけ、座席の下から古い革袋を出した。中には、焦げた写真が一枚入っていた。
若いグレンと、イルマの父セイデル。二人とも軍服姿で、後ろには新品の雲燕号がある。
「父さんが軍人?」
「測量士だ。俺たちは、敵の補給路を探す飛行隊にいた」
グレンは窓の外を見た。
「戦争の終わり、上層司令部は、この空域に敵の隠し都があると信じた。オルナだ。難民を受け入れ、どの国にも属さず、浮遊炉を無限に動かす『朝の心臓』を持つと」
「それがあれば、町を動かせる?」
「島一つどころか、艦隊を空に留められる。だから皆、欲しがった」
「父さんは見つけたの?」
「入口まではな」
グレンの声が硬くなった。
「だが司令部は、入口ごと爆撃しろと命じた。敵に渡るくらいなら、伝説も難民も焼け、と」
雲燕号の翼に、古い弾痕が並んでいる。
「俺は命令に従った。お前の父親は従わなかった」
イルマは写真を握りしめた。
「父さんは、どうなったの」
「爆撃の前に、地図を持って逃げた。戦後、俺を訪ねてきた。『オルナはまだある。だが、今度は兵士ではなく、帰る場所を失いかけた子どもが見つけるべきだ』と言った」
「それで鍵を隠した?」
「ああ。俺には二度と飛ぶなとも言った」
「ずいぶん守ってないね」ピピンが言った。
「大人は、守れなかった約束の数で顔が固くなる」
グレンの黒曜の皮膚は、笑ったのかもしれない。
そのとき、天球儀から写し取った光の地図が輝いた。
止まった雲の間に、細い道が現れる。石造りの街路のように、青い灯が一つずつ点った。
雲燕号は、その灯をたどって進んだ。
やがて霧の向こうに、都の輪郭が浮かび上がった。
無数の塔。丸屋根。橋。広場。空を渡る水路。
夕陽を受けて金色に輝く、夢のような都。
「オルナ……」
イルマは息をのんだ。
バジが小さく言った。
「パン屋はあるかな」
五 旅人の都
雲燕号は、オルナの中央広場へ着水した。
水路は鏡のように静かだった。岸には白い家々が並び、窓には明かりが灯っている。遠くで弦楽器の音がし、焼き菓子の甘い匂いまで漂ってくる。
だが、人はいない。
「誰か!」
イルマの声が、石畳に何度も反響した。
返事はない。
四人とグレンは、都を歩いた。
市場には果物が積まれていたが、触れると光の粒になって消えた。噴水の水は手を濡らさず、店の看板には読む者の知る文字が現れた。
バジがパン屋へ走った。棚には、彼の父が焼くのと同じ不格好な丸パンが並んでいる。
「どうして、これが」
モソナが向かいの建物を見た。
そこには真鍮庁の会計室があった。ただし窓は大きく、机の間には花が飾られ、帳簿の表紙には「誰も追い出さないための計算」と書かれている。
ピピンの前には、ねじ巻き玩具ばかりの工房が現れた。店の奥で、亡くなった姉の笑い声がした。
イルマの前には、地図工房があった。
扉の上の看板は、潮裏街のものと同じ。中では父が机に向かい、鼻歌を歌っている。
「父さん」
イルマが一歩踏み出す。
グレンが肩をつかんだ。
「見るだけにしろ」
「でも」
「ここは、お前が会いたいものを見せてる。会えるとは言ってない」
父の姿は振り返らない。
イルマは拳を握り、店を離れた。
都の中心には、円形の図書殿があった。天井はなく、頭上に星空が広がっている。まだ昼のはずなのに、そこだけ夜だった。
中央の台座に、一冊の本が置かれている。
表紙には、こう記されていた。
――オルナ市民名簿。
モソナが開く。
最初の頁には、三百年前の名前が並んでいた。どれも出身地が異なる。戦争で焼かれた谷、飢饉に沈んだ島、疫病で封鎖された港。
頁をめくるにつれ、名前は減っていく。
最後の頁には一人だけ。
旅人エオル。
理想の都オルナを探して生涯を旅した吟遊詩人。イルマも物語で聞いたことがある。彼は金色の塔と青い庭園を歌い、その歌を聞いた者は皆、オルナを夢見たという。
名簿の余白に、震える字で日記が書かれていた。
――私は都を探した。王の都にも、商人の都にも、雲の上の庭にも、オルナはなかった。
――老いてこの場所へ戻り、ようやく知った。
――私が幼い日に失った村。母が窓に灯を置き、旅人へ椀を差し出した、名もない村。私はあの貧しい灯を恥じ、金の塔へ飾り替えて歌っていた。
――オルナとは、失った場所そのものではない。失った場所で受け取った灯を、次の誰かへ渡す行いの名である。
バジが首をかしげた。
「じゃあ、この町は偽物?」
「偽物というより、鏡ね」とモソナ。「来た人が、帰りたい場所を見る」
「朝の心臓は?」イルマが訊いた。
名簿の最後に、地図が描かれていた。図書殿の地下へ続く螺旋階段。
五人は階段を下りた。
地下には、都の幻とは違う、古びた機械室があった。配管は錆び、壁は焦げている。中央には、両手で抱えられるほどの透明な球体が浮いていた。
球の中で、朝焼けのような光が脈打っている。
「朝の心臓」
イルマが近づくと、球体の周囲に文字が現れた。
――一人の所有者には応えず。
――異なる故郷を語る声にのみ、道を与える。
ピピンが球へ向かって叫んだ。
「潮裏街!」
何も起きない。
「一人じゃ駄目なのよ」
四人は球体を囲んだ。
モソナが言う。
「私は、父の書斎。窓が小さくて、いつも紙の匂いがする。嫌いだったけど、冬は暖かい」
球の中に、細い光が生まれた。
バジが続く。
「うちはパン窯の裏。暑いし粉だらけだけど、夜中に焼き上がる最初の一個は、ぼくのだ」
光が増える。
ピピンはねじ巻き鳥を握った。
「姉ちゃんと屋根で寝た場所。雨漏りするから星が見えた」
球体が低く鳴った。
イルマは目を閉じた。
「地図工房。父さんはもういない。借金もある。床は傾いて、冬は風が入る。でも、あそこから描いた道なら、私はどこへ行っても帰れる」
朝の心臓が、太陽のように輝いた。
床の下で巨大な機械が動き始める。都全体に青い灯が走り、塔から塔へ、橋から橋へ、無数の線がつながっていく。
グレンだけが輪の外にいた。
「あなたも」とイルマが言った。
「俺に故郷はない」
「じゃあ、帰りたい場所は?」
グレンは長い間、答えなかった。
やがて、黒曜の指で雲燕号の古い写真を撫でた。
「戦争が始まる前の空だ。誰も標的を指さしていなかったころの」
最後の光がつながった。
球体が台座からゆっくり降り、イルマの腕の中へ収まる。
その瞬間、都の鐘が鳴った。
一つ、二つ、三つ。
警告の鐘だった。
六 空戦
図書殿の外へ出ると、空に巡空艇が並んでいた。
ローディン総監は、彼らの後をつけてオルナへ入ったのだ。
白服の兵士たちが橋と広場を封鎖している。先頭には、銀の杖を手にしたローディン。
「見事です、イルマ嬢」
彼は都を見回し、初めて本当に笑った。
「伝説は、子どもに開けさせるに限る。大人は疑い深くていけない」
「潮裏街を見逃すって約束した」
「再考すると言いました。再考した結果、予定どおりです」
「役人らしい」とモソナ。
ローディンは朝の心臓へ手を伸ばした。
「それがあれば、サルタ島を主要航路へ移せる。港湾収益は十倍。軍用艦の補給拠点にもなる」
「町を救うためじゃない」
「町とは土地です。住人は交換可能だ」
その言葉が落ちた途端、オルナの幻が揺らいだ。
金色の塔が透け、白い家々が霧に戻り始める。
朝の心臓は、所有しようとする者を拒んでいる。
「渡せ」とローディンが言った。「さもなくば、君たちの家族が困ることになる」
バジが一歩前へ出た。膝は震えていた。
「ぼく、雷も蜘蛛も借金取りも怖い」
「それがどうした」
「怖いものが多いと、たまに順番を間違えるんだ。今は、あんたよりイルマが怒る方が怖い」
彼はパン袋をローディンの顔へ投げた。
丸パンが銀の杖に当たり、兵士たちが一瞬ひるむ。
「走れ!」
五人は水路へ駆けた。
雲燕号は兵士に囲まれていたが、ピピンのねじ巻き鳥が先に飛び、後部排気弁を引いた。黒煙が噴き出し、兵士たちが咳き込む。
「姉ちゃんの抜け道、二回目!」
全員が乗り込む。グレンがエンジンを始動させた。
雲燕号は水路を走り、消えかける橋の下をくぐった。後方から追撃機が六機上がる。
「弾はないんでしょう!」イルマが叫ぶ。
「今もない」
「じゃあ、どうするの!」
「飛ぶ」
雲燕号は都の塔の間へ入った。
幻の建物は、朝の心臓を抱くイルマたちには実体があり、追撃機には半ば霧だった。敵は塔を避けようとして進路を乱す。
グレンは翼を傾け、狭いアーチを抜けた。一機が追う。グレンは直前で機体を横滑りさせ、追撃機だけを鐘楼へ向かわせる。
だが鐘楼は霧になり、機体は無傷で通り抜けた。
「失敗?」ピピン。
「いや」
鐘楼の向こうには、ローディンの巡空艇がいた。
追撃機は慌てて上昇し、巡空艇の気嚢をかすめる。白い巨体が傾き、他の追撃機が散開した。
「味方にぶつけた!」バジが歓声を上げる。
「落としてない」とグレン。
「そこ、大事なんだ」
「大事だ」
しかし、最後の一機が雲燕号の真後ろについた。
機銃が火を噴く。
右の推進器が破裂した。船体が激しく回り、朝の心臓がイルマの腕から滑る。
モソナが飛びついて抱えたが、その身体ごと開いた側扉へ引かれた。
「モソナ!」
バジが彼女の手首をつかむ。バジの足をピピンが、ピピンの腰をイルマがつかんだ。
四人が一本の縄のようにつながり、風の中で揺れる。
朝の心臓は、モソナの片腕に抱かれて輝いていた。
「重い!」ピピンが叫ぶ。
「誰が!」
「全員!」
グレンは操縦桿から片手を離し、バジの襟をつかんで引き戻した。
全員が床へ転がる。
だが雲燕号は高度を失い、都の外縁へ落ちていく。下には底なしの白潮。
「片方の推進器じゃ、サルタまで戻れない」
グレンが計器を叩いた。
イルマは朝の心臓を見た。
「これをつなげない?」
「出力が大きすぎる。船が裂ける」
「じゃあ、分ければいい」
イルマは球体に手を置いた。
「灯を分けるんでしょう」
モソナ、バジ、ピピンも手を重ねた。
グレンは一瞬ためらい、最後に黒曜の手を置く。
朝の心臓から五本の光が伸びた。
一本は壊れた推進器へ。
一本は右翼へ。
一本は船首へ。
一本は尾翼へ。
最後の一本は、操縦席の古びた羅針盤へ入った。
雲燕号の全身に、青い光の線が走る。
翼が風をつかんだ。
船は白潮すれすれで持ち直し、朝焼けの矢のように上昇した。
追撃機も巡空艇も、もう追ってこなかった。
背後でオルナは静かに消えていく。
金の塔も、青い庭も、イルマの父がいた地図工房も。
最後に残ったのは、窓辺の小さな灯だけだった。
それは消えず、空の一点になって、彼らの帰路を照らした。
七 灯を分ける
サルタ島へ戻ったのは、退去期限の日の夕方だった。
潮裏街の屋根では、住人たちが荷物をまとめていた。真鍮庁の作業隊が、崖下へ爆破杭を打ち込んでいる。第二港湾の巨大な係留塔を建てるため、街区ごと岩棚を切り落とすつもりなのだ。
雲燕号が黒煙を引いて現れると、子どもたちが最初に気づいた。
「イルマだ!」
「帰ってきた!」
工房の前には、ローディン総監が先回りしていた。予備の巡空艇で戻ったらしい。制服は煤け、銀の杖は曲がっていた。
「作業を続けろ!」
彼が叫ぶ。
爆破杭の導火線に火が入る。
イルマたちは雲燕号から飛び降りた。朝の心臓を抱え、地図工房へ駆け込む。
「どこにつなぐ?」モソナが訊く。
「島の腹の天球儀。でも、もう間に合わない」
グレンが床板を見た。
「地図工房は、測量士が建てたんだろう」
「祖父が」
「なら、ここにも島の脈へつながる線がある」
イルマは父の机をひっくり返した。底板には、鍵を隠していた窪みのほかに、五つの金属端子があった。
朝の心臓を置くと、端子が青く光る。
だが球体の文字は変わらない。
――異なる故郷を語る声にのみ、道を与える。
「五人じゃ足りないの?」バジが言う。
「島を動かすんだもの」モソナが窓の外を見た。「もっと多くの灯が必要なんだ」
イルマは窓を開け、通りへ叫んだ。
「みんな、自分の家の話をして!」
住人たちは顔を見合わせた。
「何を言ってるんだ?」
「時間がない! 好きなところでも、嫌いなところでもいい。帰ると分かる印を言って!」
最初に、バジの父が声を上げた。
「うちの窯は右だけ火が強い! だから左のパンはいつも白い!」
朝の心臓から光が伸び、床下へ走った。
染物屋の老婆が叫ぶ。
「私の家は青い雨樋だよ! 雨の日はうるさくて眠れやしない!」
別の光が走る。
「うちは階段が十三段!」
「屋根に猫が七匹!」
「井戸水が鉄くさい!」
「隣の夫婦喧嘩が朝の鐘より早い!」
「窓から白潮の鯨が見える!」
声が次々に重なった。
上層区へ移る予定だった者も、役人も、荷運び人も、やがて自分の場所を語り始めた。
モソナの父が、人垣の後ろから叫んだ。
「私の書斎は紙の匂いがする! 娘は嫌っていると思っていたが、冬は一緒に茶を飲んだ!」
モソナは窓辺で、少しだけ笑った。
朝の心臓は眩しく輝き、地図工房の床から町全体へ、青い線が走った。
導火線が爆破杭へ届く。
爆発。
轟音とともに崖が揺れた。
しかし潮裏街は落ちなかった。
崖の内部で、三百年眠っていた巨大な翼骨が開いた。石造りの梁が羽根のように展開し、青い光を帯びる。
潮裏街を載せた岩棚そのものが、サルタ島からゆっくり離れた。
家々、路地、パン窯、青い雨樋、十三段の階段、猫七匹。
町は一枚の小さな浮島となって、白潮の上へ滑り出した。
人々は悲鳴を上げ、それから歓声を上げた。
「止めろ!」
ローディン総監が地図工房へ踏み込み、朝の心臓をつかもうとした。
球体は彼の手をすり抜け、光になった。
光は無数の粒へ分かれ、潮裏街の窓という窓に飛び込んだ。
油の切れたランプ、壊れた街灯、パン窯の火、子どもの玩具。
町中に灯がともる。
もはや朝の心臓は、誰の所有物でもなかった。
ローディンは呆然と、空になった両手を見た。
「こんなものは、資産ではない」
「そうね」とモソナが言った。「だから、あなたには使えない」
新しい浮島は、サルタ本島から半里ほど離れたところで止まった。
係留塔も爆破杭も届かない。
真鍮庁の役人たちは帳簿を開いたが、移動した街区をどう課税すべきか、規定のどこにも書かれていなかった。
その夜、潮裏街では、退去のために集めた食料を全部広げて宴が開かれた。
バジの父は丸パンを三樽焼いた。
イルマは約束どおり一樽半をバジへ渡したが、彼は半分も食べないうちに眠った。
終章 帰る場所
それから三か月後、潮裏街は正式に「オルナ自由泊地」と名乗るようになった。
理想郷にしては雨漏りが多く、井戸水は鉄くさく、役所の書類は相変わらず山ほど必要だった。それでも、行き場を失った船には係留索を一本貸し、旅人には温かい椀を一つ出すという決まりができた。
イルマの地図工房には、以前より多くの客が来た。
ただし彼女が売る地図には、目的地だけでなく、帰路にあるパン屋、雨宿りできる橋、無償で水をくれる家が細かく描かれていた。
モソナは真鍮庁を辞めた父と一緒に、自由泊地の会計を始めた。帳簿の最初の頁には、大きな字で「誰も追い出さないための計算」と書いた。
バジは空輸用の固いパンを考案した。固すぎて釘も打てたが、白潮へ落としても三日はふやけなかった。
ピピンは屋根の上に工房を作り、ねじ巻き鳥を量産した。どの鳥にも、必ず一つ、設計図にない抜け道が仕込まれている。
そしてグレンは、雲燕号を修理した。
黒曜の顔は元には戻らなかった。過去も消えなかった。それでも彼は、空を飛ぶ理由を一つ変えた。
軍の勲章を売り、その金で客席を四つ増やしたのだ。
雲燕号は、行き場のない旅人と、配達の遅れた手紙と、ときどき固すぎるパンを載せて、島々の間を飛ぶようになった。
ある朝、イルマは工房の屋根で、新しい地図を広げていた。
白潮の彼方に、青い灯が一つ見える。
オルナの残光なのか、ただの星なのかは分からない。
グレンが雲燕号の翼の上から言った。
「また探しに行く気か」
「ううん」
イルマは地図の端に、小さな印を描いた。
「見つけたから」
「どこに」
彼女は足元を指した。
傾いた屋根。青い雨樋。パン窯の煙。十三段の階段。猫が今日は八匹。
窓という窓に、朝の灯がともっている。
「ここ。ただし、完成はしてない」
グレンは帽子を深くかぶった。
「都ってのは、たいていそういうものだ」
雲燕号の推進器が回り始める。
朝はいつものように、島の下からやってきた。
青い光が白潮を透かし、帰る場所を持つ者と、これから持つ者を、同じ色に照らしていた。
了