『零時の仮縫い』

 羽鳥鷹臣は、炎よりも採寸が苦手だった。

「肩、上げない。胸を張りすぎない。消防士って、立ってるだけでそんなに威圧感を出さなきゃいけないの?」

 小暮澄花は、口に待ち針をくわえたまま言った。

「威圧感じゃない。姿勢がいいんだ」

「はいはい。じゃあ、その立派な姿勢のせいで右の袖が一・五センチ足りません」

「一・五センチくらい誤差だろ」

「火事場で一・五センチを笑う人に、私は命を預けたくないなあ」

 そこまで言って、澄花は待ち針を外し、鷹臣の手首にメジャーを巻いた。

 七月十二日、午後九時四十分。

 琴吹市の旧市街に建つ〈天環館〉六階、衣装工房〈スプール〉には、布と接着剤とアイロンの熱が混じった匂いがこもっていた。

 天環館は、四十年前まで〈天環百貨店〉だった建物だ。閉店後は長く廃墟同然だったが、耐震改修を経て、今では劇場、ギャラリー、貸し工房の入った文化施設になっている。

 その再開館十周年と、百貨店火災から四十年の節目を兼ねて、今夜は全館貸し切りの仮装イベントが開かれていた。題して〈零時の仮面市〉。参加者は夜通し、映画や漫画や自作世界の住人になって館内を歩く。

 澄花は、そのメインステージに登場する衣装を任されていた。

 鷹臣が着ている銀色の服も、その一着だった。

 頭から足首までを覆う、鈍い光沢の救助服。胸には太い留め具、背中には円筒形の装置、肩には折り畳まれた防火マント。もちろん、どれも舞台用の造形物だ。銀色の表地は熱に強そうに見えるだけの化学繊維で、背中の装置は発泡樹脂、留め具は磁石だった。

 それでも鏡の中の姿には、妙な説得力があった。

「本物みたいだな」

「本物じゃ困るよ。重くてステージに上がれない」

「いや、そういう意味じゃなくて」

 鷹臣は鏡に向かって顎を引いた。

 銀色の救助服は、四十年前の火災で撮られた一枚の写真をもとにしている。

 昭和六十一年七月十二日、午後十一時五十七分。

 閉店作業中の天環百貨店七階から出火。内装材と売り場の布製品に燃え移った火は、吹き抜けを通って一気に広がった。消防隊の到着前、逃げ遅れた十八人を助けた者がいた。

 銀色の服を着た、名もなき救助者。

 新聞写真には、煙の中から子供を抱えて現れる姿が残っている。だが当時、そのような装備を採用していた消防本部はなく、消防団にも、警備会社にも、該当する人物はいなかった。十八人目を運び出したあと、銀色の救助者は建物へ戻り、そのまま消えた。

 以来、琴吹市では〈銀の消防士〉と呼ばれている。

 澄花は古い新聞写真を拡大し、つぶれた輪郭から縫い目を推測し、見えない背面を想像して、この衣装を作った。

「写真の通りに作ると、どうしても右袖だけ変なんだよね」

 澄花が眉間にしわを寄せた。

「左より長いのに、手首のところで急に細くなってる。元の人が左右で腕の長さが違ったのかな」

「昔の防火服なら、修理の継ぎはぎかもしれない」

「でも縫い目がすごくきれい。これ、たぶん仮縫いの糸まで写ってる」

 澄花は机から古い写真のコピーを取り、鷹臣に見せた。

 銀色の袖口に、針ほど細い黒い線が巻きついている。白黒写真だから色はわからない。

「お守りかもな」

「じゃあ、こっちにも付けよう」

 澄花は赤いしつけ糸を一本抜き、鷹臣の右手首に結んだ。蝶結びでも固結びでもない、服飾学校で最初に教わる仮止めの結び方だった。

「本番が終わるまで。ほどけたら縫い直し」

「縁起悪くないか」

「逆。仮縫いっていうのは、完成まで戻ってこられるようにしておく印だから」

 そのとき、工房の扉が三度、ゆっくり叩かれた。

 立っていたのは、天環館の管理人、岬科という老人だった。背が高く、白髪を短く刈り、左のこめかみから顎まで古い火傷の痕が走っている。鷹臣は何度か会ったことがあるが、正面から目を合わせると、不思議に胸がざわついた。

 老人の後ろには、白髪をひとつに結んだ同じ年頃の女性がいた。管理人夫人らしい。彼女は机の端で開いたままになっていた裁ちばさみを閉じ、そっと内側へ寄せた。

「急いでいるときほど、刃を開いたまま置かないこと」

 その左親指には、澄花が学生時代に回転式カッターで作ったのとよく似た、三日月形の傷があった。

「そろそろ最終点検です。六階は十一時半で施錠します」

 岬科はそう言い、銀色の鷹臣を眺めた。

 その視線は、衣装の出来栄えを褒めるものでも、仮装を面白がるものでもなかった。

 失くしたものが、帰ってきたときの目だった。

「右の袖口を、二センチ詰めなさい」

 老人は澄花に言った。

「え?」

「扉の把手に引っかかる」

「どうしてわかるんですか」

「この建物は、出っ張りが多いからね」

 岬科は微笑んだ。

 その右手首には、色あせた赤い糸が、細い腕輪のように巻かれていた。

 澄花が何か尋ねる前に、老人は廊下へ出た。すれ違いざま、鷹臣の肩を二度、軽く叩いた。

「今度は、音のするほうへ行け」

 鷹臣は振り返った。

「今度は?」

 岬科は答えず、夫人と並んで非常灯の下を歩いていった。夫人だけが一度振り返り、澄花の右手首を確かめるように見た。

 澄花が、鷹臣の顔をのぞき込んだ。

「知り合い?」

「いや」

「顔色悪いよ」

「照明のせいだ」

 嘘だった。

 三か月前、鷹臣は消防士になって初めて、要救助者のいる火災に入った。

 木造アパートの二階。寝室から子供の泣き声が聞こえていた。先輩隊員の後ろについて進み、あと一枚、扉を開ければよかった。

 そのとき天井裏で何かが崩れ、火の粉が降った。

 鷹臣の足は、三秒止まった。

 先輩は振り返りもせず、扉を蹴り開け、子供を抱き上げた。全員無事だった。鷹臣も処分を受けなかった。むしろ初出場にしてはよく動いたと言われた。

 だが鷹臣の中では、あの三秒がまだ燃え続けている。

「俺さ」

 気づくと、鷹臣は鏡の中の銀色の男に向かって話していた。

「制服を着てるだけなんじゃないかって思うときがある」

「制服?」

「消防士の。中身が追いついてないのに、服だけ先に本物になったみたいで」

 澄花は笑わなかった。

 鷹臣の背後に回り、銀色の肩を両手で整えた。

「衣装も制服も、着ただけで人を変えたりしないよ」

 鏡越しに、目が合った。

「でも、人は着たものに恥ずかしくない自分になろうとする。私は、その最初の一歩に合う寸法を測ってるだけ」

「一・五センチまで?」

「一ミリでも」

 澄花は銀色の胸当てを指で弾いた。

「これは偽物。でも、この服を着た鷹臣が何をするかまでは、偽物じゃない」

 鷹臣はしばらく黙り、それから言った。

「本番が終わったら、飯に行かないか」

「衣装の感想会?」

「二人で」

「それは、いま答えないとだめ?」

「できれば」

「じゃあ、右袖が無事だったら考える」

 澄花は背を向けた。

 耳だけが赤かった。

 午後十一時四十八分。

 天環館一階の吹き抜けは、別世界の住人で埋まっていた。

 鎧の騎士、機械仕掛けの天使、魔法学校の生徒、怪獣、幽霊、宇宙飛行士。手作りの羽根や剣や尻尾が照明を受け、色とりどりに揺れている。ステージ上では司会者が、零時のカウントダウンを始める準備をしていた。

 鷹臣は銀色の救助服姿で、舞台袖に立っていた。

 澄花は胸の留め具を直し、最後に右袖を引いた。

「二センチ、詰めた」

「一・五じゃなく?」

「管理人さんを信じてみた」

「俺より?」

「採寸についてはね」

 そこへ、小さな宇宙飛行士が走ってきた。

 透明な丸いヘルメットをかぶった、十歳くらいの女の子だった。胸には手書きで〈ひな・月面調査隊〉とある。

「銀の消防士さん!」

 少女は鷹臣を見上げ、目を輝かせた。

「本物?」

「衣装は偽物」

「じゃあ中の人は?」

「いちおう本物」

「すごい!」

 ひなは両手を上げた。その背中の酸素ボンベは、菓子の筒を銀紙で包んだものだった。

「私、七階のフォトスポットに手袋忘れちゃった。お母さんに怒られるかな」

「取りに戻るのはだめ。もう上の階は閉まる時間だ」

「でも、月面では手袋ないと死んじゃう」

「地球では、忘れ物より帰ることのほうが大事だ」

 ひなは不満そうに頬を膨らませたが、やがて頷き、人混みへ戻っていった。

 その数秒後、鷹臣は匂いを感じた。

 甘く、鼻の奥に貼りつくような匂い。

 熱せられた電線の被覆が溶ける匂いだった。

 顔を上げる。

 吹き抜けの上、六階と七階の間に吊られた巨大な月のオブジェ。その裏側から、髪の毛ほど細い煙が上がっている。

 鷹臣が舞台袖を飛び出した瞬間、月の裏で青い火花が散った。

 ぱん、と乾いた音がした。

 白い綿で作られた雲の飾りが、一息に橙色へ変わった。

「火事だ!」

 鷹臣の声は、マイクを通さなくても吹き抜けの端まで届いた。

「飾りを置いて、東側と南側の出口へ! 走るな、立ち止まるな! エレベーターは使わない!」

 誰かが演出だと思って拍手した。

 だが天井から燃えた布片が落ちると、歓声は悲鳴に変わった。

 鷹臣は最寄りの発信機を押し、館内電話を取った。場所、階数、火と煙の状況を短く伝える。近くのスタッフに避難誘導を任せ、消火器を持つ別のスタッフには、炎が天井へ達する前だけ使うよう指示した。

 しかし火は速かった。

 月のオブジェから垂れた装飾布を伝い、炎が六階の手すりへ走る。吹き抜け上部にたまった煙が、黒い天井のように厚くなった。

 警報ベルが一度鳴り、途切れた。

 館内が暗くなり、非常灯へ切り替わる。

 鷹臣は舞台袖へ戻った。

「澄花!」

 返事がない。

 床に、澄花の裁ちばさみが落ちていた。

 その隣に、銀紙で包まれた小さな筒。

 ひなの酸素ボンベだった。

 鷹臣の胃が冷たくなった。

 スタッフが駆け寄ってきた。

「女の子が七階へ戻ったって! 小暮さんが追いかけました!」

「北階段は?」

「煙で使えません。西階段は防火扉が閉まらない!」

「消防隊は」

「もう到着するはずです!」

 外から、かすかにサイレンが聞こえた。

 鷹臣は銀色の胸当てを外した。

 こんな衣装は火の中で何の役にも立たない。むしろ溶ければ皮膚に貼りつく。全部脱ぐべきだった。

 だがそのとき、館内放送が鳴った。

 ざあっ、という古いテープの雑音。

『ただいま、七階子供服売り場におきまして、火災が発生しております』

 若い女性の声だった。

 いまの天環館に、子供服売り場などない。

『お客様は係員の指示に従い、中央階段を避け――』

 放送はそこで歪み、低い唸りへ変わった。

 吹き抜けの大時計が、十一時五十九分を指していた。

 秒針だけが、逆向きに進んでいる。

 鷹臣は銀色の胸当てを握ったまま、動けなかった。

 また三秒が来る。

 そう思った。

 一秒。

 二秒。

 どこか上の階から、金属を叩く音がした。

 かん、かん、かん。

 三秒目が終わる前に、鷹臣は走っていた。

 六階へ上がる東階段は、まだ煙が薄かった。

 鷹臣は壁沿いに進み、階段室の扉を閉めながら上がった。途中の避難器具庫から、簡易型の避難用フードを二つ取る。正式な防火装備も空気呼吸器もない。これ以上熱が上がれば引き返すしかない。

 六階の踊り場で、岬科が立っていた。

 老人は煙の中でも、驚くほど落ち着いていた。片手に古い真鍮の鍵を持ち、もう一方の手で壁の一角を指している。

「そこに扉がある」

「壁しかない」

「いまは、な」

 岬科は鍵を鷹臣へ投げた。

「十一時五十九分だけ、昔の建物が戻る」

「何を言ってる」

「音のするほうへ行け」

 上から、かん、かん、とまた音がした。

「あなたは何を知ってるんです」

「四十年分だ」

 非常灯が明滅した。

 一瞬だけ、壁に鉄の扉が現れた。

 次の瞬間には、また灰色の壁へ戻る。

 岬科は鷹臣の右袖を見た。

 赤い糸が揺れている。

「今度こそ、間に合え」

 鷹臣が問い返す前に、濃い煙が階段を横切った。

 視界が戻ったとき、老人はいなかった。

 壁には、鉄の扉が残っていた。

 鷹臣は真鍮の鍵を差し込んだ。

 扉の向こうから、熱風が吹いた。

 そこは六階ではなかった。

 蛍光灯の並ぶ、古い百貨店の売り場だった。

 色あせた婦人服。木製の陳列台。赤い文字の〈夏物大処分〉。天井から黒煙が垂れ下がり、遠くでガラスの割れる音がする。

 鷹臣のスマートフォンが震えた。

 画面の日付は、一九八六年七月十二日。

 十一時五十九分二十秒。

「冗談だろ」

 背後の扉が消えた。

 同時に、鷹臣の銀色の衣装が重くなった。

 発泡樹脂だった背中の円筒が、鋼鉄のような質量を持つ。胸の磁石式留め具が硬い金属へ変わり、薄い表地の下を冷たい空気が流れた。透明な飾り板だった面体が顔を覆い、内部に白い文字が灯る。

〈残圧 十分〉

〈要救助者 十八〉

 耳元で無線が鳴った。

『未確認隊員へ。七階、逃げ遅れ多数。応答せよ』

 鷹臣は息を呑んだ。

 本来なら溶けるはずの衣装が、本物の防火服になっている。

 いや、本物という言葉さえ足りない。四十年後の想像から作られた服が、四十年前の火災の中で、初めて現実になっていた。

 無線の向こうで声が繰り返す。

『応答せよ』

 鷹臣は胸元の送信ボタンを押した。

「羽鳥、進入します」

 そのとき、売り場奥から金属音がした。

 かん、かん、かん。

「鷹臣!」

 澄花の声だった。

 煙の下を這い、閉じたシャッターを裁ちばさみの柄で叩いている。隣にはひながいた。二人とも床すれすれに身を伏せていた。

 鷹臣は駆け寄り、避難用フードを二人にかぶせた。

「どうしてここに」

「こっちの台詞! 七階の試着室に入ったら、鏡の中が急に昔になって――」

「ひな、歩けるか」

「うん。でも、月面より煙たい」

 強がっているが、声が震えていた。

 鷹臣はシャッターの隙間を確認した。向こう側から炎の光が脈打っている。正面突破はできない。

 澄花が天井を見上げた。

「この売り場、今の七階と柱の位置が同じ」

「わかるのか」

「半年、ここで衣装作ってる。壁紙より見てるよ」

 彼女は床の模様を指でなぞった。

「この先に、昔の搬入口があるはず。今はフォトスポットの裏側」

「そこまで行ければ、現在の消防隊と合流できるかもしれない」

 鷹臣はひなを背負った。

 澄花は自分の腰に、衣装用の細いベルトを巻いた。

「それは?」

「空中演技用のハーネス。見た目はリボンだけど、中は人を吊れる規格品」

「なんで持ってる」

「衣装屋をなめないで」

 三人は姿勢を低くし、売り場の奥へ進んだ。

 鷹臣が前方の熱と煙を確認し、澄花が柱や売り場の記憶から道を選ぶ。ひなが咳をすると立ち止まり、フードの密着を確かめる。

 途中、倒れた陳列棚の下から手が見えた。

 一九八六年の店員だった。

 鷹臣は棚を持ち上げ、澄花が肩を引き出した。

〈要救助者 十七〉

 面体の表示が変わった。

「この人を置いていけない」

「置いていかない」

 澄花は即答した。

 彼女は売り場のカーテンを裂き、ハーネスの補助ベルトと合わせて簡易の担架を作った。結び目は小さく、無駄がなく、引く方向にだけ強く締まった。

「縫う時間はないから、今日は結ぶだけ」

「十分だ」

 四人で進む。

 また一人、煙に倒れた客を見つけた。

 さらに、試着室に閉じ込められた母子。

 倉庫の机の下で震える若い店員。

 鷹臣は扉を開けるたび、あの三秒を思い出した。

 だが足は止まらなかった。

 恐怖が消えたわけではない。

 恐怖より先に、次にすることを選べるようになっていた。

 面体の数字が減っていく。

〈十二〉

〈九〉

〈六〉

 搬入口の前には、床から天井まで防火シャッターが下りていた。

 脇の操作盤は焼け、巻き上げ機構は動かない。

 澄花は壁を叩いた。

「この向こうが、今のフォトスポット」

「切れるか」

「シャッターは無理。でも、脇の点検口なら」

 彼女は裁ちばさみを鷹臣へ渡した。

 鷹臣が銀色の刃先を点検口へ差し込むと、裁ちばさみまで白い光を帯びた。薄い鉄板が、布のように開いた。

 穴の向こうに、鏡が見えた。

 鏡の中には、二〇二六年の七階が映っている。

 黒い防火服の消防隊員が、煙の中でこちらを探していた。

「おい!」

 鷹臣が叫ぶと、隊員が振り向いた。

 互いの姿が見えている。

 鏡の表面に水のような波紋が広がった。

『あと十五秒です』

 無線が告げた。

『時間境界、閉鎖まで十五秒』

 鷹臣は点検口を広げた。

「ひなから!」

 澄花がひなを抱き、鏡へ押し出す。

 少女の体が銀色の面を通り抜け、向こう側の隊員に受け止められた。

 続いて、救助した店員と客を一人ずつ送る。

 一九八六年の人々が二〇二六年へ出れば、歴史が壊れるのではないか――そんな考えが頭をよぎったが、鏡を抜けた彼らは、向こう側で薄い光になり、同じ場所の床へ溶けるように消えた。

 過去へ戻ったのだ。

 ただし、煙の外へ。

〈要救助者 一〉

 最後の母子を通したところで、鏡の縁が狭くなった。

「澄花、先に行け!」

「鷹臣は」

「すぐ行く!」

 澄花は首を振った。

 そのとき、背後から小さな泣き声がした。

 売り場の奥。

 炎の向こう。

 ひとり。

 面体の数字は〈一〉のままだった。

 鷹臣と澄花は、同時に気づいた。

 まだ、泣いている子供が一人残っている。

『十秒』

「行って」

 鷹臣は澄花の肩をつかんだ。

「向こうへ戻れ」

「戻って、どうするの」

「生きる」

「鷹臣を置いて?」

「子供がいる」

「だから一緒に行く」

 澄花は腰のハーネスを締め直した。

「火の中で一・五センチを笑う人に、命を預けたくないって言ったでしょ」

「今は二センチ詰めた」

「じゃあ、なおさら一人で行かせない」

『五秒』

 鏡の向こうで、消防隊員が腕を伸ばしている。

 鷹臣は一瞬だけ、澄花の手を握った。

 赤いしつけ糸が、二人の手首の間で揺れた。

「夕飯」

「覚えてる」

「右袖は無事だ」

「帰れたら答える」

『三、二――』

 澄花は鏡へ裁ちばさみを投げた。

 刃が境界を抜けた瞬間、鏡は暗い壁へ変わった。

 零時。

 二人は一九八六年に残った。

 子供は、玩具売り場のレジ台の下にいた。

 鷹臣の空気は残り三分。

 天井の煙が低くなり、熱で照明器具が歪んでいる。出口まで同じ道は使えない。

 澄花が壁の案内図を引き剥がした。

「屋上へ行く階段が、北側にある」

「そこは火元に近い」

「でも途中にミシン室がある。外壁側の窓に面してる」

「ミシン室?」

「この百貨店、裾直しを館内でやってた。古い図面で見た」

 鷹臣は子供を抱き上げた。

 六歳ほどの男の子だった。名札には〈みさきな しんいち〉とある。

「岬科……」

 少年は泣きながら鷹臣の銀色の胸をつかんだ。

「おじいちゃんが、銀の人が来るって言ってた」

「おじいちゃん?」

「夢で」

 考える時間はなかった。

 三人は北へ向かった。

 途中、炎が通路を横切った。鷹臣は銀色のマントを広げ、澄花と子供を覆う。舞台用なら一瞬で燃え落ちるはずの布が、白く輝いて熱を弾いた。

 右袖が、倒れた扉の把手をかすめた。

 二センチ詰めていなければ、引っかかっていた。

 鷹臣は笑いそうになった。

 四十年後の老人の忠告に、四十年前の自分が救われている。

 ミシン室の窓は、熱で膨らんで開かなかった。

 澄花が作業台の足を蹴り、鷹臣がそれを振り下ろす。ガラスが割れ、夜気が流れ込んだ。

 下に消防隊のはしご車が見えた。

 まだ誰も、窓の三人に気づいていない。

 澄花はカーテンを裂き、少年の体に巻いた。余った布を折り返し、手早く結ぶ。

「それ、ほどけないか」

「仮縫いじゃないから」

 鷹臣は少年を抱いて窓辺に立ち、銀色のマントを大きく振った。

 下で隊員が気づく。

 はしごが旋回を始めた。

 面体の表示が変わった。

〈要救助者 零〉

 少年を隊員へ渡した瞬間、銀色の装備から力が抜けた。

 背中の円筒は軽い発泡樹脂へ戻り、胸の留め具は磁石になった。面体の表示が消え、熱が一気に押し寄せる。

「鷹臣!」

 澄花が彼の襟をつかみ、窓からはしごへ引いた。

 二人が地上へ降りた直後、七階の窓から炎が噴き出した。

 零時七分。

 天環百貨店の正面には、濡れたアスファルトの匂いと、煤だらけの人々の泣き声が満ちていた。

 救助された十八人は、全員生きていた。

 銀色の救助者と、白い作業着の女を除いて、二人の名前を知る者はいなかった。

 夜明け前、鷹臣と澄花は救急車の脇に並んで座っていた。

 銀色の衣装は煤で黒くなり、右袖だけが裂けていた。

 赤いしつけ糸は、まだ手首に残っている。

「ここ、一九八六年なんだよな」

 鷹臣が言った。

「たぶん」

「俺たち、まだ生まれてない」

「そうだね」

「スマホは圏外」

「充電器も四十年後」

「消防署へ行って、本当のことを話したら信じると思う?」

「銀色の発泡樹脂を着た未来人が、鏡を抜けて来ましたって?」

「厳しいな」

「衣装の説明だけなら私がする」

 二人は笑った。

 笑うしかなかった。

 東の空が、煙の向こうで青くなり始めている。

 新聞記者が近づき、名前を尋ねた。

 鷹臣と澄花は顔を見合わせた。

 本名を名乗れば、四十年後に同じ名前の人間が生まれたとき、何が起きるかわからない。黙って消えれば、戸籍も金も住む場所もない。

 澄花は、救助した少年が落としていった名札を見た。

〈みさきな しんいち〉

「岬科です」

 彼女は記者に言った。

「岬科……?」

「岬科鷹臣。こっちは、岬科澄花」

「ご夫婦ですか」

 鷹臣がむせた。

 澄花は一拍だけ黙り、それから平然と答えた。

「仮縫い中です」

 記者は意味がわからないまま、手帳にそう書いた。

 遠くで、救助された少年が手を振っている。

 のちに少年とその家族は、身元のない二人に住む場所と〈岬科〉の名を貸すことになる。そして四十年後、成長した少年は、天環館の改修で見つかった真鍮の鍵を、年老いた鷹臣へ返す。

 歴史は、縫い目を隠すように閉じていった。

「夕飯の約束だけど」

 澄花が言った。

「右袖、破れたよ」

「無事に戻った判定にはならない?」

「戻る場所が四十年ずれた」

「じゃあ、答えは四十年後?」

「その前に、戸籍と仕事と住む家」

「現実的だな」

「衣装屋だから。夢みたいなものほど、縫い代を多めに取るの」

 澄花は鷹臣の右袖をつまんだ。

「でも、まあ」

「まあ?」

「夕飯くらいなら、今日でもいい」

 午前六時、二人は駅前の食堂へ向かった。

 未来では伝説と呼ばれる二人が、初めて同じ朝を歩いた。

 二〇二六年七月十三日、午前零時七分。

 天環館七階のフォトスポットで、消防隊員が鏡の前に倒れているひなを発見した。

 少女の腕には、四十年前の百貨店の値札がついた布が巻かれていた。

 羽鳥鷹臣と小暮澄花は、館内のどこにもいなかった。

 同じ夜、管理人の岬科夫妻も姿を消した。

 自宅の食卓には二人分の皿が並び、湯気の消えかけたスープが残っていた。

 壁には、四十年分の写真があった。

 一九八六年、煤だらけの若い男女。

 一九九六年、小さな縫製工房の前で笑う夫婦。

 二〇〇六年、消防設備会社の作業服を着た男と、舞台衣装の賞状を持つ女。

 二〇一六年、改修された天環館の鍵を受け取る二人。

 二〇二六年、銀色の衣装を挟んで立つ、白髪の夫婦。

 最後の写真の裏には、老いた澄花の字で一行だけ書かれていた。

〈仮縫い完了。右袖、二センチ。〉

 その朝、地元紙は四十年前の火災写真を再掲載した。

 これまで煙で見えなかった部分が、最新の画像処理で初めて鮮明になったという。

 銀色の救助者の隣に、白い作業着の若い女が立っていた。

 女の右手には裁ちばさみがあり、二人の手首は一本の赤い糸で結ばれている。

 記事の見出しは、こうだった。

〈名もなき二人、十八名を救う〉

 その下に、小さな訂正記事が載っていた。

 天環百貨店火災の発生時刻は、長年「午後十一時五十七分」とされてきたが、保存されていた館内時計の記録から、正確には「午後十一時五十九分」であった。

 ただし、その時計は出火後の一分間だけ、針が逆向きに進んでいた。

 理由は、今もわかっていない。