『零時の拳』

 古い映像には、時間より先に、見た人間の目が焼きつく。

 志摩結衣は、そのことを冗談ではなく知っていた。

 都立映像資料館の地下二階。窓のない修復室には、再生機の回転音と、雨水が排水管を走る音だけが響いている。時刻は午後十時四十七分。残業をしているのは結衣ひとりだった。

 机の上には、ラベルのない黒いビデオテープが置かれていた。

 解体された地方テレビ局の倉庫から、段ボール箱ごと寄贈されたものだ。ケースにも、テープ本体にも、番組名も収録日もない。ただ、背の部分に白い修正液で、小さくこう書かれていた。

 0:00 LIVE

「生放送をテープに録った時点で、もうライブじゃないでしょう」

 独り言を言い、結衣は再生ボタンを押した。

 画面に砂嵐が走る。

 数秒後、古いテレビスタジオが映った。

 照明は落ち、床だけが月明かりのように青白い。四十九脚の椅子が、カメラに背を向けて並んでいる。その中央に、巨大な振り子時計があった。

 振り子は左右に揺れていた。

 だが、音はしない。

 映像には音声トラックがある。レベルメーターもわずかに振れている。それなのに、結衣の耳には何も届かなかった。

 三十三秒が過ぎたところで、椅子の一つに赤いカーディガンが掛かった。

 結衣は瞬きをした。

 それは自分が今着ているものだった。

 背後を振り返る。

 修復室には、予備の椅子が一脚ある。そこには何も掛かっていない。

 画面へ戻ると、赤いカーディガンは一列、こちらへ近づいていた。

 四十九脚のうち、後ろから二列目。

 もう一度、映像が乱れる。

 一列目。

 振り子時計が止まった。

 スタジオの奥から、子どもが歩いてきた。

 年齢は十歳ほど。白い衣装を着て、銀色の半面をかぶっている。子どもは後ろ向きのまま、滑るようにこちらへ近づき、カメラの前で止まった。

 そして、顔を見せないまま、片手をレンズへ伸ばした。

 結衣の机の電話が鳴った。

 反射的に受話器を取る。

「はい、映像資料館――」

 ざ、と遠い潮騒のような雑音がした。

 その奥で、子どもの声が言った。

『見たね』

 画面の下に白い数字が浮かんだ。

 48:59:59

 次の瞬間、修復室の蛍光灯が消えた。

 非常灯が赤く点滅する。

 モニターの中で、四十九脚の椅子が一斉にこちらを向いた。

 どの椅子にも、人間の影が座っていた。

 影たちは同時に立ち上がった。

 モニターのガラスが、内側から押されるように膨らんだ。

「下がれ!」

 修復室の扉が蹴り開けられた。

 濡れた黒髪の青年が飛び込んでくる。古びた道着の上に革ジャンを羽織り、肩には帆布のバッグを提げていた。彼は結衣を突き飛ばすように机から離すと、モニターへ向き直った。

 画面から、黒い腕が伸びた。

 平面のはずなのに、それは肘まで現実へ突き出してくる。

 青年は腰を落とした。

 息を吸う。

 赤い非常灯が一度、消える。

 点く。

 その明滅の間に、青年の拳が動いた。

 乾いた破裂音。

 黒い腕は手首から折れ、画面の中へ吹き飛んだ。モニターのガラスは割れていない。代わりに、映像の奥で四十九脚の椅子が爆風を受けたように散った。

 青年は拳を開き、ゆっくり息を吐いた。

「間に合ったか」

「あなた、誰ですか」

「小暮岳。怪しいビデオを殴って回ってる」

「職業を聞いているんです」

「だから、それ」

 岳は真顔だった。

 モニターには、再び無人のスタジオが映っている。

 ただし、白い数字は消えていなかった。

 48:58:41

 結衣は自分の腕を抱いた。

「これ、何なんですか」

「零号放送」

 岳の声から、わずかな軽さが消えた。

「見た人間を四十九時間かけて映像の中へ引きずり込む。途中でテープを燃やしても、再生機を壊しても、駄目だ。見た時点で、向こうもこっちを見てる」

「どうして、そんなことを」

「十年前、俺の妹も見た」

 岳はモニターを見たまま言った。

「四十九時間後、あいつは消えた。部屋には、テレビのリモコンだけが落ちてた」

 画面の奥で、銀の半面をつけた子どもが、ほんの少しだけ首を傾げた。

 資料館の非常電源が復旧したのは、十五分後だった。

 岳は修復室の床に胡坐をかき、結衣が淹れた薄いコーヒーを一口飲んで、露骨に顔をしかめた。

「毒?」

「インスタントです」

「似たようなもんだな」

「帰ってください」

「それは無理だ。あんた、もう印をつけられた」

 岳は結衣の右目の下を指した。

 鏡を見ると、薄い四角形の痣が浮かんでいる。フィルムのコマのような、小さな黒い枠だった。

「四十九時間たつと?」

「まず鏡に映らなくなる。次に、声が録音できなくなる。最後に本体が消える」

「ずいぶん詳しいんですね」

「妹で全部見た」

 結衣は言葉を失った。

 岳はバッグから、折れ目だらけの地図と、古い番組表のコピーを取り出した。

「零号放送が作られたのは、たぶん一九八九年。黒橋テレビっていう小さな局だ。局舎は三年前に閉鎖。送信所も今は使われてない」

「寄贈元と同じです」

「テープが資料館へ来たせいで、眠ってた電波が起きた。さっきから街の監視カメラが、同じ映像を吐き始めてる」

 岳は古い携帯端末を見せた。液晶には、市内の交差点を映す監視カメラの画像が並んでいる。その全てに、四十九脚の椅子が重なっていた。

「午前零時になるたび、侵食が広がる。あんたの期限が切れる明後日の零時、この街じゅうの画面で本放送が始まる」

「見た人全員が、私と同じ目に遭う?」

「たぶんな」

「たぶん?」

「前例がない。だから止めに来た」

 結衣はモニターへ目をやった。

 白い数字は淡々と減り続けている。

 48:31:06

「方法は?」

「向こう側の中心を殴る」

「もう少し知的な方法はありませんか」

「十年探して、一番ましなのがこれだ」

 結衣はため息をついた。

「私は映像修復の専門です。怪異退治は専門外です」

「俺は映像修復が専門外だ。ちょうどいい」

 岳は立ち上がった。

 その瞬間、天井の防犯モニターが勝手に点いた。

 館内廊下が映る。

 誰もいないはずの廊下を、四十九人の黒い人影が歩いていた。足は動かさず、映像が一コマ飛ぶたびに近づいてくる。

「来たぞ」

 岳が拳を握る。

「何が?」

「予告編」

 修復室の外で、何十本もの爪が扉を引っかいた。

 結衣が後ずさる。

 岳は扉の前に立ち、耳を澄ませた。

「映像にも呼吸がある」

「え?」

「人間なら心臓。獣なら息。機械なら電源の周期。怪異なら、怖がらせるための“間”だ」

 扉がへこむ。

 岳は右足を半歩引いた。

「次に来る一拍を読んで、その前を打つ」

 蝶番が弾け、扉が内側へ吹き飛んだ。

 黒い人影が雪崩れ込む。

 岳の身体が沈んだ。

 一歩。

 踏み込みだけで床が鳴る。

 最初の影の胸へ、掌底。影は紙のように折れ、背後の三体を巻き込んだ。岳は振り向かずに肘を後ろへ突き出す。壁から染み出した顔が砕け、黒い粒となって散る。

 二体が天井を這い、首だけを長く伸ばした。

 岳は机を蹴り上げた。

 宙に浮いた机を踏み台にし、回転しながら踵を振り抜く。

 空気が輪になって爆ぜた。

 二体の影が、廊下の端まで吹き飛ぶ。

 だが、床へ落ちた黒い粒はすぐに集まり、四つの新しい影になった。

「増えてる!」

「見られてるからだ!」

 岳は天井の防犯カメラを指さした。

「映ってる間、こいつらは何度でも再生される!」

 結衣は制御盤へ飛びついた。

 館内カメラの電源を落とす。

 しかし画面は消えない。電源ランプが消えても、モニターだけが青白く光っている。

「電気じゃない……映像信号そのものが乗っ取られてる」

「切れるか!」

「一秒だけなら!」

 結衣は配線ラックから同期信号のケーブルを引き抜いた。

 全モニターに横縞が走る。

 黒い影たちの動きが、一瞬だけ止まった。

「今です!」

 岳は大きく息を吸った。

 両の拳を腰へ引く。

 次の瞬間、彼の姿がぶれた。

 拳、肘、膝、踵。

 四方向から同時に雷が落ちたような衝撃が走り、修復室を埋めていた影が一斉に中央へ吸い寄せられた。岳は最後に、束ねられた暗闇へ真っ直ぐ拳を打ち込む。

「間拍拳――四門崩し!」

 白い閃光。

 黒い影は、裏返るフィルムのように天井へ巻き上がり、消えた。

 静寂が戻る。

 結衣は息を呑んだまま、岳を見た。

 岳は拳を下ろし、肩で息をしている。

「今の、何ですか」

「昔、山奥で変な爺さんに習った」

「説明になってません」

「俺も全部は分かってない。爺さんは、世界は巨大な鼓動だって言ってた。その鼓動の隙間なら、形のないものにも拳が届くって」

 岳の右手から血が落ちた。

 人差し指の付け根が裂けている。

「怪異を殴ると、怪異も殴り返す」

 彼は笑った。

「だから、先に倒す」

 結衣は救急箱を取り出しながら、もう一度ため息をついた。

「黒橋テレビへ行きます」

「怖くないのか」

「怖いです。でも、映像を壊すだけでは、何が記録されているのか分からない」

 結衣は岳の手に包帯を巻いた。

「修復屋は、欠けた部分を放っておけないんです」

 黒橋テレビ旧送信所は、市街地から車で二時間、深い杉林の中にあった。

 翌日の夕方、二人が到着した時、雨は雪に変わりかけていた。

 鉄塔は赤錆び、局舎の窓はほとんど割れている。玄関の上に残る局名の看板からは、「黒」と「橋」の文字だけが落ちていた。

 結衣の目の下の痣は、朝より濃くなっていた。

 残り時間は二十九時間。

 局舎の中には、湿った埃と、焦げた配線の臭いがこもっていた。

 受付の壁に、一枚の番組ポスターが残っている。

 銀の半面をつけた子どもが、四十九脚の椅子の前に立っていた。

 題名は『あなたが見ている』。

 放送予定日は、一九八九年十一月三日、午前零時。

 出演者欄には、たった一人の名があった。

 天城アカネ、十歳。

「この子だ」

 結衣はポスターを撮影した。

 その瞬間、カメラの液晶の中で、アカネがこちらを向いた。

 銀の半面の下から、黒い涙が流れた。

 結衣はすぐに電源を切った。

「撮るな」

 岳が低く言う。

「ここじゃ、レンズは窓じゃない。口だ」

 二人は地下の資料庫へ降りた。

 棚の大半は崩れていたが、奥の耐火金庫から、一本のオープンリールと制作台本が見つかった。

 結衣は持参した携帯再生機にリールをかける。

 音声だけの記録だった。

 ざらついた男の声が流れる。

『双方向視聴実験、第四十九回。映像とは、見る者から一方的に奪われる存在ではない。十分な数の視線を同一の像へ集中させれば、像は自らの眼を獲得する』

 別の声が割り込む。

『天城先生、アカネちゃんの脈が下がっています。中止してください』

『続けろ。あの子は器だ。四十九台の受像機が同期した瞬間、画面の余白に生じる“無観測域”が開く』

『無観測域?』

『人が瞬きをする一瞬、映像と映像の間に落ちる闇だ。そこには、見られなかったものが全て蓄積している』

 テープの向こうで、子どもが泣いた。

『お父さん、もう、だれかいる』

『何が見える、アカネ』

『椅子にすわってる。顔がない。ずっと、次を見せろって言ってる』

 激しいハウリング。

 誰かが叫ぶ。

 ガラスが割れ、機械が爆発する音。

 最後に、アカネの声だけが残った。

『お願い。音のないところを、たたいて』

 録音はそこで終わっていた。

 岳は目を閉じた。

「アカネが化け物なんじゃない」

 結衣は頷いた。

「大勢の視線を集める実験で、“見られなかったもの”が形を持った。アカネさんは、それに扉として使われた」

「妹を連れていったのも、そいつか」

「恐らく」

 制作台本の最後のページには、赤い字で走り書きがあった。

 放送事故後、送信設備は封鎖。

 ただし、マスターテープは回収できず。

 映像は複製されるたび、欠落フレームを補うため、視聴者の記憶を素材として使用する。

 四十九人の視聴が揃った時、本放送へ移行。

 結衣は顔を上げた。

「四十九脚の椅子は、視聴者の席です。呪いに取り込まれた人が一人増えるたび、埋まっていく」

「今、何人だ」

「さっきの映像では……四十八」

 地下の照明が消えた。

 暗闇の中で、どこかのテレビが点いた。

 続いて、二台目。

 三台目。

 棚の隙間、床、天井裏。使われていないはずのブラウン管が次々に青白く灯る。

 四十八台の画面に、それぞれ違う人間が映った。

 老女。学生。作業服の男。泣いている幼児。

 全員が、画面の向こうから助けを求めるように口を動かしている。

 音はない。

 岳の視線が、一台のテレビで止まった。

 制服姿の少女が映っていた。

 十六歳ほど。短い髪。左の眉に小さな傷。

「美羽……」

 少女は笑った。

 岳が一歩、近づく。

「岳、駄目!」

 結衣が叫んだ時には遅かった。

 画面の中の少女が手を伸ばし、岳の手首を掴んだ。

 テレビの表面が水のように波打つ。

 岳の右腕が肘まで沈んだ。

「兄ちゃん」

 今度は声が聞こえた。

 十年ぶりに聞く妹の声だった。

「遅いよ」

 岳の顔から血の気が引く。

 画面の少女の背後で、巨大な何かが立ち上がった。

 四十九のテレビ画面を縦に重ねたような身体。どの画面にも、目のない顔が映っている。長い腕はノイズででき、指先には無数の再生ボタンが並んでいた。

 結衣は携帯再生機の停止ボタンを押した。

 反応はない。

 ならば、とオープンリールそのものを掴み、力任せに逆回転させる。

 録音が逆再生される。

 テレビの映像も一瞬だけ巻き戻った。

 少女の指が岳の手首から離れる。

 岳は後ろへ転がり、画面から抜けた。

 直後、四十八台のテレビが一斉に破裂した。

 ガラス片が飛ぶ。

 岳は結衣を抱えて床へ伏せた。

 頭上をノイズの腕が薙ぐ。金属棚が紙のように断ち切られた。

「美羽じゃなかった」

 岳が歯を食いしばる。

「いや、記憶は本物です」

 結衣は割れた画面を見た。

「呪いは取り込んだ人の記憶を再生している。だから、姿も声も本物に近い。でも、それを使っているものは別です」

 ノイズの巨体が、四十八台の残骸から這い出してくる。

 天井を突き破り、地下室いっぱいに膨らんだ。

 四十九番目の空白の画面が、その胸で点滅していた。

 そこに、結衣の顔が映った。

 白い数字が重なる。

 28:14:02

「俺が引きつける!」

 岳が立ち上がる。

「その間に、マスターテープを探せ!」

「一人で勝てるんですか」

「勝てなくても、殴り続けりゃ時間は稼げる!」

「それを勝てないと言うんです!」

 巨体の腕が振り下ろされる。

 岳は正面から踏み込んだ。

 拳とノイズが衝突する。

 地下室全体が揺れた。

 岳の足元のコンクリートが円形に陥没する。ノイズの腕は弾けたが、次の瞬間には二本に増えて再生された。

 左からの一撃を岳は肘で受ける。

 骨が鳴る。

 右から来た腕を蹴り上げる。

 天井の配管が破裂し、水が降る。

 岳の拳が赤く光った。

 炎ではない。

 呼吸と心拍を限界まで重ねた時、皮膚の周囲に生まれる圧力の膜だった。

「間拍拳――震雷!」

 打ち出した正拳が、空気を白く圧縮する。

 衝撃波が巨体の胸を貫き、その向こうの壁まで円形に吹き飛ばした。

 しかし、砕けた画面の一枚一枚に、岳が今放った技が映っている。

 四十八人の岳が、同じ構えを取った。

「まずい!」

 映像の中から、四十八発の震雷が撃ち返された。

 岳は両腕を交差する。

 白い爆発が地下室を呑み込んだ。

 結衣が目を開けた時、雨が顔に落ちていた。

 地下室の天井が半分なくなっている。

 瓦礫の向こうに、岳が倒れていた。

「岳!」

 駆け寄ると、彼は血を吐きながら笑った。

「今のは、ちょっと効いた」

「ちょっとで済む顔をしていません」

 右肩が外れ、肋骨も何本か折れている。結衣は応急処置をしながら、震える指を抑えた。

「同じ技を返された」

 岳が空を見上げる。

「見られた動きは、全部あいつのものになる」

「映像ですから。記録されたものは再生できる」

「じゃあ、記録できない拳を打つしかないな」

「そんなものが?」

「知らん」

「威張らないでください」

 岳はゆっくり起き上がった。

 巨体は消えていた。

 代わりに、局舎の上階から、振り子の音が聞こえる。

 今度は、はっきりと。

 かち。

 かち。

 かち。

 二人は音を追って、崩れかけた階段を上った。

 最上階の主調整室には、四十九台のモニターが半円形に並んでいた。その中央に、巨大な送出機がある。

 機械の内部で、黒いビデオテープが回っていた。

 ケースもリールもない。

 磁気テープだけが蛇のように空中を巡り、四十九台のモニターを一本につないでいる。

「あれがマスター……」

 結衣が近づくと、全ての画面が点いた。

 銀の半面をつけたアカネが映る。

 その背後に、顔のない観客が四十八人。

 空いている椅子は一脚だけ。

 アカネが半面を外した。

 その下に顔はなかった。

 ただ、夜空のような暗闇があり、無数の小さな画面が星のように明滅していた。

『四十九人目』

 部屋中のスピーカーから声がした。

 子どもでも、男でも、女でもある声。

『座って』

 結衣の足元から黒いケーブルが伸び、足首に巻きつく。

 岳がそれを踏み砕いた。

「断る」

『あなたは、もう見た』

「見たからって、最後まで付き合う義理はねえ」

『次を見せて』

 四十八人の観客が立ち上がる。

『もっと。もっと。もっと』

 声が重なり、局舎が震える。

 窓の外で、街の光が一斉に瞬いた。

 結衣の携帯端末が勝手に起動する。市内の駅、病院、商業施設、家庭のテレビ。あらゆる画面に、同じスタジオが映り始めていた。

 まだ本放送ではない。

 予備信号が流れている。

「期限が早まってる」

 画面の数字は、残り二十三時間を示していたはずだった。

 だが、ノイズが走るたびに桁が飛ぶ。

 22:59:59

 15:12:03

 07:44:21

 00:59:59

「一時間……」

『視線が増えた。時間は満ちた』

 岳が送出機へ突進する。

 四十八人の観客が画面から飛び出した。

 一体目の拳をかわし、腹へ膝を突き刺す。二体目の顎を掌底で跳ね上げる。三体目の足を払って、四体目へ投げつける。

 だが、影たちは岳の動きを一拍先に知っていた。

 拳を出す前に腕を押さえられる。

 蹴る前に軸足を刈られる。

 岳は何度も床へ叩きつけられた。

「全部、読まれてる……」

「違います!」

 結衣はモニターの映像を見比べていた。

「読んでいるんじゃない。少し先を再生している!」

 四十九台のうち、中央の一台だけ映像が三フレーム早い。

 そこに岳の未来の動きが映り、他の画面へ伝播している。

 結衣は送出卓へ飛びついた。

 古い機械だ。ボタンは錆び、フェーダーは固着している。それでも構造は分かる。同期信号、映像入力、音声入力、遅延補正。

 映像には必ず区切りがある。

 一秒は連続していない。

 三十枚の静止画を、人間の目が連続だと思い込んでいるだけだ。

「音のないところを、たたいて……」

 アカネの言葉。

 結衣は制作台本を開いた。

 事故報告書の端に、技術者の走り書きがある。

 同期不良、一〇〇〇フレームごとに一フレーム欠落。

「岳!」

 岳は影たちに囲まれ、片膝をついていた。

「千フレームに一度、記録されない瞬間があります! 三十三秒と三分の一ごとに、一フレームだけ映像が消える!」

「いつだ!」

「次は……二十一秒後!」

 岳が立ち上がる。

 唇の端から血が流れている。

「一フレームって、どれくらいだ」

「三十分の一秒!」

「長いな」

「短いです!」

「拳を一発入れるには、十分だ」

 岳は目を閉じた。

 影たちが襲いかかる。

 彼は反撃しなかった。

 肩を殴られ、腹を蹴られ、頬を裂かれても、ただ呼吸を整えている。

 吸う。

 吐く。

 心臓の音が、振り子と重なる。

 かち。

 かち。

 かち。

 岳の師は、かつて言った。

 ――強さは、速さでも重さでもない。

 ――相手が世界を決める、その一瞬前に立て。

 ――拳を見せるな。拳があったという結果だけを残せ。

 結衣は秒数を数える。

「五……四……三……」

 顔のない観客が岳へ殺到する。

「二!」

 中央モニターに、岳が倒される未来が映った。

「一!」

 結衣は同期レバーを力いっぱい引いた。

 全ての画面が黒くなった。

 三十分の一秒。

 世界から映像が消えた。

 その暗闇の中で、岳は心臓を一拍だけ止めた。

 呼吸も、足音も、殺気も消す。

 次のフレームが戻った時、彼はもう送出機の前にいた。

 拳は、深く引かれている。

 四十九台のモニターに、その過程は映っていない。

 結果だけが現れた。

「間拍拳、奥義――零拍」

 岳の拳が、空中を巡る黒い磁気テープへ触れた。

 音はしなかった。

 最初に起きたのは、静寂だった。

 次に、送出機の中心で一点の光が生まれた。

 光は針の穴ほど小さく、それでも朝日を折り畳んだように眩しかった。

 四十九台のモニターが内側へへこむ。

 床が波打ち、壁が遠ざかる。

 一秒遅れて、衝撃が来た。

 轟音。

 黒い磁気テープが空へ向かってほどけ、巨大な渦となる。顔のない観客たちは声もなく吹き飛ばされ、画面の中へ吸い戻された。

 送信塔から白い光の柱が立ち上がった。

 雲が円形に裂ける。

 街じゅうの画面に走っていたノイズが、同時に途切れた。

 岳は拳を振り抜いた姿勢のまま、息を吐いた。

「届いた」

 しかし、黒いテープは切れていなかった。

 渦の中心で、四十九の画面が集まり、一つの巨大な顔を作る。

 目も鼻もない。

 口だけが、地平線のように開いた。

『次を』

 局舎の屋根が吹き飛ぶ。

 夜空いっぱいに、その顔が広がった。

『次を見せろ』

 それは、怪物というより欲望だった。

 終わらない番組。

 閉じられない窓。

 次の映像、次の悲鳴、次の人生を求めて、ただ見続けるもの。

 巨大な口の中に、無数の記憶が流れていた。

 誕生日。葬式。事故。告白。喧嘩。産声。誰にも見せなかった涙。

 取り込まれた人々の人生が、娯楽のように切り刻まれ、繰り返し再生されている。

 その中に、岳は妹を見た。

 十年前の夏。

 美羽は扇風機の前で変な声を出して笑っている。

 次の場面では、岳と喧嘩している。

『兄ちゃんなんか、世界で二番目に嫌い!』

『一番は誰だよ』

『ピーマン!』

 映像が切り替わる。

 零号放送を見た夜。

 美羽は一人で震えながら、それでも消える直前まで、兄への置き手紙を書いていた。

『兄ちゃんは、すぐ殴るから、ちゃんと考えてから動いて』

 文字は途中で途切れた。

「勝手なこと言いやがって」

 岳は呟いた。

 右腕はもう上がらない。

 零拍で筋肉が裂け、拳の骨にもひびが入っている。

 巨大な口から、ノイズの雨が降る。

 結衣の頬に触れた雫が、皮膚を四角く消した。そこだけが粗い映像になる。

「岳、あれは殴っても消えません」

「だろうな」

「見る人がいる限り、“次”を欲しがる。映像を壊しても、別の画面へ移るだけです」

「じゃあ、どうする」

 結衣は送出卓の奥に、一つだけ残ったボタンを見つけた。

 赤い蓋がついている。

 END TRANSMISSION

 放送終了。

 だが、ボタンを押しても反応しない。

 画面に文字が出た。

 END FRAME MISSING

「終了画面がない」

「何?」

「事故で番組が終わらなかったから、零号放送には“終わり”が記録されていない。だから永遠に次を求めている」

 結衣はバッグから小型カメラを取り出した。

「終わりがないなら、今ここで撮ります」

「何を」

「最後の一コマを」

 結衣はカメラを岳へ向けた。

「立ってください」

「もう立ってる」

「もっと格好よく」

「注文が多いな」

 岳はふらつきながら背筋を伸ばした。

 背後には、裂けた夜空と巨大な怪異。

 足元には崩壊する局舎。

 どう見ても番組の終わりにふさわしい画ではない。

 結衣はカメラを下ろした。

「違う」

「何がだ」

「これは怪異が欲しがる画です。派手で、怖くて、次が気になる。これでは終われない」

 彼女は周囲を見回した。

 東の空が、わずかに白み始めている。

 本来なら、まだ夜明けには早い。

 だが、送信塔から放たれた光が雲を裂き、その向こうに月ではない淡い明るさが見えていた。

 結衣は壊れた壁の外へ出た。

 山の向こうに、街がある。

 無数の窓。

 無数の暮らし。

 画面を消し、眠っている人々。

 誰にも見られていない朝が、静かに始まろうとしている。

 結衣はその風景へカメラを向けた。

「最後は、誰かの不幸じゃなくていい」

 録画ボタンを押す。

 風が杉の梢を揺らす。

 雪まじりの雨がやむ。

 雲の切れ間から、一筋の光が山へ落ちた。

 ただそれだけの映像。

 何も起きない。

 誰も叫ばない。

 続きがなくても困らない、一秒。

 結衣は録画を止めた。

 データを送出卓へ接続する。

「これを終了フレームにします」

『許さない』

 巨大な口が叫んだ。

 空が裏返る。

 無数の画面が流星のように降り、結衣へ殺到する。

 岳が前へ出た。

 上がらない右腕を、左手で支える。

「送れ」

「でも、その腕では」

「腕が駄目なら、肩で打つ。肩が駄目なら、頭で行く」

「それを考えてから動いた結果だと言えますか」

 岳は一瞬、妹の映像を見た。

 それから笑った。

「今回は、たぶん」

 無数の画面が壁となって迫る。

 岳は一歩踏み込んだ。

 左拳で最初の画面を砕く。

 二枚目を額で割る。

 三枚目を膝で蹴り上げる。

 砕けた破片には、過去の岳が映っていた。泣く岳。怒る岳。妹を守れなかった岳。十年間、何も変えられなかった岳。

 破片の一つが胸へ突き刺さる。

 それでも進む。

「俺たちは、お前の続きじゃない!」

 岳は叫んだ。

「見たものに、人生の先を決めさせるか!」

 最後の一枚へ、壊れた右拳を叩き込む。

 骨の砕ける音。

 画面が割れ、道が開いた。

「今だ、結衣!」

 結衣は終了ボタンを押した。

 朝の映像が、四十九台のモニターへ流れる。

 杉の梢。

 止んだ雨。

 薄い光。

 画面の中央に、白い文字が現れた。

 ――この放送は終了しました。

 巨大な口が閉じていく。

『次を』

 声が小さくなる。

『次を、見せて』

 結衣はマイクを取った。

「ありません」

『なぜ』

「終わったからです」

 四十九脚の椅子が、空の画面に映る。

 座っていた人影が一人ずつ立ち上がり、朝の光へ歩いていく。

 その最後に、銀の半面を持ったアカネがいた。

 今度は、顔がある。

 泣き腫らした目をした、普通の少女だった。

『見つけてくれて、ありがとう』

 アカネは結衣へ頭を下げる。

 次に岳を見た。

『あの人は、ずっと待ってた』

 画面の端に、美羽が立っていた。

 十六歳のまま。

 岳は何も言えなかった。

 美羽は眉をひそめる。

『兄ちゃん、相変わらず顔が怖い』

「お前は相変わらず口が悪いな」

『知ってる』

「帰ってこられないのか」

 美羽は少しだけ目を伏せた。

『私の時間は、もうテープの中にしかないから』

 岳の拳が震える。

『でも、兄ちゃんの時間は外にある』

「……そうか」

『ちゃんと使って』

 美羽は笑った。

『あと、考えてから殴ること』

「善処する」

『絶対しない言い方』

 映像が白く薄れていく。

 岳は最後まで目を逸らさなかった。

「美羽」

『なに』

「世界で二番目に嫌いって言ってたな」

『うん』

「今は?」

 美羽は少し考えるふりをした。

『三番目』

「下がってんじゃねえか」

『納豆が入ったから』

 笑い声が、初めてきちんとスピーカーから聞こえた。

 そして画面は、朝の風景だけになった。

 黒い磁気テープが、静かに床へ落ちる。

 白い文字が消える。

 モニターの電源が、一台ずつ落ちた。

 最後の一台が暗くなる直前、アカネが小さく手を振った。

 三日後。

 黒橋テレビ旧送信所は、落雷による倒壊事故として報道された。

 零号放送を記録していたテープは、全て白紙になっていた。磁気信号も、音声も、映像もない。まるで一度も使われていない新品のようだった。

 結衣の目の下の痣も消えた。

 右目だけ、暗い場所で時々、画面の走査線のような光が見えるようになったが、医師には疲労だと言われた。

 岳は両腕を包帯で吊ったまま、資料館の修復室に居座っていた。

「働いてください」

「療養中だ」

「うちの職員ではありません」

「コーヒーぐらい出してくれてもいいだろ」

「毒なんでしょう」

「人間、毒にも慣れる」

 結衣は無視して、最後の確認作業を続けた。

 あの夜、終了フレームとして撮影した一秒の映像。

 杉林と、止んだ雨と、夜明け前の街。

 ファイルに異常はない。

 再生する。

 静かな風景が流れる。

 一秒。

 終了。

 結衣は巻き戻し、もう一度再生した。

「どうした」

「今、何か……」

 映像を一フレームずつ送る。

 杉の梢。

 雲。

 山。

 二十七フレーム目。

 街の一番遠い窓に、小さな人影が二人立っていた。

 一人は銀の半面を手にした少女。

 もう一人は、制服姿の短髪の少女。

 二人は並んで、こちらへ手を振っている。

 次のフレームでは、もういない。

 岳はしばらく黙って見ていた。

 それから、包帯だらけの右手を少しだけ持ち上げた。

「修復できるか」

「何をです」

「そこだけ、もう少し長く」

 結衣は首を横に振った。

「一フレームで十分です」

「そうか」

「ええ。続きがなくても困りません」

 岳は笑った。

 修復室のモニターが暗転する。

 黒い画面に、二人の姿が映り込んだ。

 その間に、誰かが立っているように見えた。

 結衣が振り向く。

 誰もいない。

 もう一度モニターを見る。

 そこには、結衣と岳の二人しか映っていなかった。

 岳は立ち上がる。

「腹減ったな」

「怪我人はお粥です」

「肉がいい」

「考えてから食べてください」

「それは無理だ」

 二人が修復室を出る。

 扉が閉まる直前、消えたはずのモニターに、一瞬だけ白い文字が浮かんだ。

 ――おわり。

 今度こそ、その先には何も映らなかった。