『零時の拳』
一
古い映像には、時間より先に、見た人間の目が焼きつく。
志摩結衣は、そのことを冗談ではなく知っていた。
都立映像資料館の地下二階。窓のない修復室には、再生機の回転音と、雨水が排水管を走る音だけが響いている。時刻は午後十時四十七分。残業をしているのは結衣ひとりだった。
机の上には、ラベルのない黒いビデオテープが置かれていた。
解体された地方テレビ局の倉庫から、段ボール箱ごと寄贈されたものだ。ケースにも、テープ本体にも、番組名も収録日もない。ただ、背の部分に白い修正液で、小さくこう書かれていた。
0:00 LIVE
「生放送をテープに録った時点で、もうライブじゃないでしょう」
独り言を言い、結衣は再生ボタンを押した。
画面に砂嵐が走る。
数秒後、古いテレビスタジオが映った。
照明は落ち、床だけが月明かりのように青白い。四十九脚の椅子が、カメラに背を向けて並んでいる。その中央に、巨大な振り子時計があった。
振り子は左右に揺れていた。
だが、音はしない。
映像には音声トラックがある。レベルメーターもわずかに振れている。それなのに、結衣の耳には何も届かなかった。
三十三秒が過ぎたところで、椅子の一つに赤いカーディガンが掛かった。
結衣は瞬きをした。
それは自分が今着ているものだった。
背後を振り返る。
修復室には、予備の椅子が一脚ある。そこには何も掛かっていない。
画面へ戻ると、赤いカーディガンは一列、こちらへ近づいていた。
四十九脚のうち、後ろから二列目。
もう一度、映像が乱れる。
一列目。
振り子時計が止まった。
スタジオの奥から、子どもが歩いてきた。
年齢は十歳ほど。白い衣装を着て、銀色の半面をかぶっている。子どもは後ろ向きのまま、滑るようにこちらへ近づき、カメラの前で止まった。
そして、顔を見せないまま、片手をレンズへ伸ばした。
結衣の机の電話が鳴った。
反射的に受話器を取る。
「はい、映像資料館――」
ざ、と遠い潮騒のような雑音がした。
その奥で、子どもの声が言った。
『見たね』
画面の下に白い数字が浮かんだ。
48:59:59
次の瞬間、修復室の蛍光灯が消えた。
非常灯が赤く点滅する。
モニターの中で、四十九脚の椅子が一斉にこちらを向いた。
どの椅子にも、人間の影が座っていた。
影たちは同時に立ち上がった。
モニターのガラスが、内側から押されるように膨らんだ。
「下がれ!」
修復室の扉が蹴り開けられた。
濡れた黒髪の青年が飛び込んでくる。古びた道着の上に革ジャンを羽織り、肩には帆布のバッグを提げていた。彼は結衣を突き飛ばすように机から離すと、モニターへ向き直った。
画面から、黒い腕が伸びた。
平面のはずなのに、それは肘まで現実へ突き出してくる。
青年は腰を落とした。
息を吸う。
赤い非常灯が一度、消える。
点く。
その明滅の間に、青年の拳が動いた。
乾いた破裂音。
黒い腕は手首から折れ、画面の中へ吹き飛んだ。モニターのガラスは割れていない。代わりに、映像の奥で四十九脚の椅子が爆風を受けたように散った。
青年は拳を開き、ゆっくり息を吐いた。
「間に合ったか」
「あなた、誰ですか」
「小暮岳。怪しいビデオを殴って回ってる」
「職業を聞いているんです」
「だから、それ」
岳は真顔だった。
モニターには、再び無人のスタジオが映っている。
ただし、白い数字は消えていなかった。
48:58:41
結衣は自分の腕を抱いた。
「これ、何なんですか」
「零号放送」
岳の声から、わずかな軽さが消えた。
「見た人間を四十九時間かけて映像の中へ引きずり込む。途中でテープを燃やしても、再生機を壊しても、駄目だ。見た時点で、向こうもこっちを見てる」
「どうして、そんなことを」
「十年前、俺の妹も見た」
岳はモニターを見たまま言った。
「四十九時間後、あいつは消えた。部屋には、テレビのリモコンだけが落ちてた」
画面の奥で、銀の半面をつけた子どもが、ほんの少しだけ首を傾げた。
二
資料館の非常電源が復旧したのは、十五分後だった。
岳は修復室の床に胡坐をかき、結衣が淹れた薄いコーヒーを一口飲んで、露骨に顔をしかめた。
「毒?」
「インスタントです」
「似たようなもんだな」
「帰ってください」
「それは無理だ。あんた、もう印をつけられた」
岳は結衣の右目の下を指した。
鏡を見ると、薄い四角形の痣が浮かんでいる。フィルムのコマのような、小さな黒い枠だった。
「四十九時間たつと?」
「まず鏡に映らなくなる。次に、声が録音できなくなる。最後に本体が消える」
「ずいぶん詳しいんですね」
「妹で全部見た」
結衣は言葉を失った。
岳はバッグから、折れ目だらけの地図と、古い番組表のコピーを取り出した。
「零号放送が作られたのは、たぶん一九八九年。黒橋テレビっていう小さな局だ。局舎は三年前に閉鎖。送信所も今は使われてない」
「寄贈元と同じです」
「テープが資料館へ来たせいで、眠ってた電波が起きた。さっきから街の監視カメラが、同じ映像を吐き始めてる」
岳は古い携帯端末を見せた。液晶には、市内の交差点を映す監視カメラの画像が並んでいる。その全てに、四十九脚の椅子が重なっていた。
「午前零時になるたび、侵食が広がる。あんたの期限が切れる明後日の零時、この街じゅうの画面で本放送が始まる」
「見た人全員が、私と同じ目に遭う?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「前例がない。だから止めに来た」
結衣はモニターへ目をやった。
白い数字は淡々と減り続けている。
48:31:06
「方法は?」
「向こう側の中心を殴る」
「もう少し知的な方法はありませんか」
「十年探して、一番ましなのがこれだ」
結衣はため息をついた。
「私は映像修復の専門です。怪異退治は専門外です」
「俺は映像修復が専門外だ。ちょうどいい」
岳は立ち上がった。
その瞬間、天井の防犯モニターが勝手に点いた。
館内廊下が映る。
誰もいないはずの廊下を、四十九人の黒い人影が歩いていた。足は動かさず、映像が一コマ飛ぶたびに近づいてくる。
「来たぞ」
岳が拳を握る。
「何が?」
「予告編」
修復室の外で、何十本もの爪が扉を引っかいた。
結衣が後ずさる。
岳は扉の前に立ち、耳を澄ませた。
「映像にも呼吸がある」
「え?」
「人間なら心臓。獣なら息。機械なら電源の周期。怪異なら、怖がらせるための“間”だ」
扉がへこむ。
岳は右足を半歩引いた。
「次に来る一拍を読んで、その前を打つ」
蝶番が弾け、扉が内側へ吹き飛んだ。
黒い人影が雪崩れ込む。
岳の身体が沈んだ。
一歩。
踏み込みだけで床が鳴る。
最初の影の胸へ、掌底。影は紙のように折れ、背後の三体を巻き込んだ。岳は振り向かずに肘を後ろへ突き出す。壁から染み出した顔が砕け、黒い粒となって散る。
二体が天井を這い、首だけを長く伸ばした。
岳は机を蹴り上げた。
宙に浮いた机を踏み台にし、回転しながら踵を振り抜く。
空気が輪になって爆ぜた。
二体の影が、廊下の端まで吹き飛ぶ。
だが、床へ落ちた黒い粒はすぐに集まり、四つの新しい影になった。
「増えてる!」
「見られてるからだ!」
岳は天井の防犯カメラを指さした。
「映ってる間、こいつらは何度でも再生される!」
結衣は制御盤へ飛びついた。
館内カメラの電源を落とす。
しかし画面は消えない。電源ランプが消えても、モニターだけが青白く光っている。
「電気じゃない……映像信号そのものが乗っ取られてる」
「切れるか!」
「一秒だけなら!」
結衣は配線ラックから同期信号のケーブルを引き抜いた。
全モニターに横縞が走る。
黒い影たちの動きが、一瞬だけ止まった。
「今です!」
岳は大きく息を吸った。
両の拳を腰へ引く。
次の瞬間、彼の姿がぶれた。
拳、肘、膝、踵。
四方向から同時に雷が落ちたような衝撃が走り、修復室を埋めていた影が一斉に中央へ吸い寄せられた。岳は最後に、束ねられた暗闇へ真っ直ぐ拳を打ち込む。
「間拍拳――四門崩し!」
白い閃光。
黒い影は、裏返るフィルムのように天井へ巻き上がり、消えた。
静寂が戻る。
結衣は息を呑んだまま、岳を見た。
岳は拳を下ろし、肩で息をしている。
「今の、何ですか」
「昔、山奥で変な爺さんに習った」
「説明になってません」
「俺も全部は分かってない。爺さんは、世界は巨大な鼓動だって言ってた。その鼓動の隙間なら、形のないものにも拳が届くって」
岳の右手から血が落ちた。
人差し指の付け根が裂けている。
「怪異を殴ると、怪異も殴り返す」
彼は笑った。
「だから、先に倒す」
結衣は救急箱を取り出しながら、もう一度ため息をついた。
「黒橋テレビへ行きます」
「怖くないのか」
「怖いです。でも、映像を壊すだけでは、何が記録されているのか分からない」
結衣は岳の手に包帯を巻いた。
「修復屋は、欠けた部分を放っておけないんです」
三
黒橋テレビ旧送信所は、市街地から車で二時間、深い杉林の中にあった。
翌日の夕方、二人が到着した時、雨は雪に変わりかけていた。
鉄塔は赤錆び、局舎の窓はほとんど割れている。玄関の上に残る局名の看板からは、「黒」と「橋」の文字だけが落ちていた。
結衣の目の下の痣は、朝より濃くなっていた。
残り時間は二十九時間。
局舎の中には、湿った埃と、焦げた配線の臭いがこもっていた。
受付の壁に、一枚の番組ポスターが残っている。
銀の半面をつけた子どもが、四十九脚の椅子の前に立っていた。
題名は『あなたが見ている』。
放送予定日は、一九八九年十一月三日、午前零時。
出演者欄には、たった一人の名があった。
天城アカネ、十歳。
「この子だ」
結衣はポスターを撮影した。
その瞬間、カメラの液晶の中で、アカネがこちらを向いた。
銀の半面の下から、黒い涙が流れた。
結衣はすぐに電源を切った。
「撮るな」
岳が低く言う。
「ここじゃ、レンズは窓じゃない。口だ」
二人は地下の資料庫へ降りた。
棚の大半は崩れていたが、奥の耐火金庫から、一本のオープンリールと制作台本が見つかった。
結衣は持参した携帯再生機にリールをかける。
音声だけの記録だった。
ざらついた男の声が流れる。
『双方向視聴実験、第四十九回。映像とは、見る者から一方的に奪われる存在ではない。十分な数の視線を同一の像へ集中させれば、像は自らの眼を獲得する』
別の声が割り込む。
『天城先生、アカネちゃんの脈が下がっています。中止してください』
『続けろ。あの子は器だ。四十九台の受像機が同期した瞬間、画面の余白に生じる“無観測域”が開く』
『無観測域?』
『人が瞬きをする一瞬、映像と映像の間に落ちる闇だ。そこには、見られなかったものが全て蓄積している』
テープの向こうで、子どもが泣いた。
『お父さん、もう、だれかいる』
『何が見える、アカネ』
『椅子にすわってる。顔がない。ずっと、次を見せろって言ってる』
激しいハウリング。
誰かが叫ぶ。
ガラスが割れ、機械が爆発する音。
最後に、アカネの声だけが残った。
『お願い。音のないところを、たたいて』
録音はそこで終わっていた。
岳は目を閉じた。
「アカネが化け物なんじゃない」
結衣は頷いた。
「大勢の視線を集める実験で、“見られなかったもの”が形を持った。アカネさんは、それに扉として使われた」
「妹を連れていったのも、そいつか」
「恐らく」
制作台本の最後のページには、赤い字で走り書きがあった。
放送事故後、送信設備は封鎖。
ただし、マスターテープは回収できず。
映像は複製されるたび、欠落フレームを補うため、視聴者の記憶を素材として使用する。
四十九人の視聴が揃った時、本放送へ移行。
結衣は顔を上げた。
「四十九脚の椅子は、視聴者の席です。呪いに取り込まれた人が一人増えるたび、埋まっていく」
「今、何人だ」
「さっきの映像では……四十八」
地下の照明が消えた。
暗闇の中で、どこかのテレビが点いた。
続いて、二台目。
三台目。
棚の隙間、床、天井裏。使われていないはずのブラウン管が次々に青白く灯る。
四十八台の画面に、それぞれ違う人間が映った。
老女。学生。作業服の男。泣いている幼児。
全員が、画面の向こうから助けを求めるように口を動かしている。
音はない。
岳の視線が、一台のテレビで止まった。
制服姿の少女が映っていた。
十六歳ほど。短い髪。左の眉に小さな傷。
「美羽……」
少女は笑った。
岳が一歩、近づく。
「岳、駄目!」
結衣が叫んだ時には遅かった。
画面の中の少女が手を伸ばし、岳の手首を掴んだ。
テレビの表面が水のように波打つ。
岳の右腕が肘まで沈んだ。
「兄ちゃん」
今度は声が聞こえた。
十年ぶりに聞く妹の声だった。
「遅いよ」
岳の顔から血の気が引く。
画面の少女の背後で、巨大な何かが立ち上がった。
四十九のテレビ画面を縦に重ねたような身体。どの画面にも、目のない顔が映っている。長い腕はノイズででき、指先には無数の再生ボタンが並んでいた。
結衣は携帯再生機の停止ボタンを押した。
反応はない。
ならば、とオープンリールそのものを掴み、力任せに逆回転させる。
録音が逆再生される。
テレビの映像も一瞬だけ巻き戻った。
少女の指が岳の手首から離れる。
岳は後ろへ転がり、画面から抜けた。
直後、四十八台のテレビが一斉に破裂した。
ガラス片が飛ぶ。
岳は結衣を抱えて床へ伏せた。
頭上をノイズの腕が薙ぐ。金属棚が紙のように断ち切られた。
「美羽じゃなかった」
岳が歯を食いしばる。
「いや、記憶は本物です」
結衣は割れた画面を見た。
「呪いは取り込んだ人の記憶を再生している。だから、姿も声も本物に近い。でも、それを使っているものは別です」
ノイズの巨体が、四十八台の残骸から這い出してくる。
天井を突き破り、地下室いっぱいに膨らんだ。
四十九番目の空白の画面が、その胸で点滅していた。
そこに、結衣の顔が映った。
白い数字が重なる。
28:14:02
「俺が引きつける!」
岳が立ち上がる。
「その間に、マスターテープを探せ!」
「一人で勝てるんですか」
「勝てなくても、殴り続けりゃ時間は稼げる!」
「それを勝てないと言うんです!」
巨体の腕が振り下ろされる。
岳は正面から踏み込んだ。
拳とノイズが衝突する。
地下室全体が揺れた。
岳の足元のコンクリートが円形に陥没する。ノイズの腕は弾けたが、次の瞬間には二本に増えて再生された。
左からの一撃を岳は肘で受ける。
骨が鳴る。
右から来た腕を蹴り上げる。
天井の配管が破裂し、水が降る。
岳の拳が赤く光った。
炎ではない。
呼吸と心拍を限界まで重ねた時、皮膚の周囲に生まれる圧力の膜だった。
「間拍拳――震雷!」
打ち出した正拳が、空気を白く圧縮する。
衝撃波が巨体の胸を貫き、その向こうの壁まで円形に吹き飛ばした。
しかし、砕けた画面の一枚一枚に、岳が今放った技が映っている。
四十八人の岳が、同じ構えを取った。
「まずい!」
映像の中から、四十八発の震雷が撃ち返された。
岳は両腕を交差する。
白い爆発が地下室を呑み込んだ。
四
結衣が目を開けた時、雨が顔に落ちていた。
地下室の天井が半分なくなっている。
瓦礫の向こうに、岳が倒れていた。
「岳!」
駆け寄ると、彼は血を吐きながら笑った。
「今のは、ちょっと効いた」
「ちょっとで済む顔をしていません」
右肩が外れ、肋骨も何本か折れている。結衣は応急処置をしながら、震える指を抑えた。
「同じ技を返された」
岳が空を見上げる。
「見られた動きは、全部あいつのものになる」
「映像ですから。記録されたものは再生できる」
「じゃあ、記録できない拳を打つしかないな」
「そんなものが?」
「知らん」
「威張らないでください」
岳はゆっくり起き上がった。
巨体は消えていた。
代わりに、局舎の上階から、振り子の音が聞こえる。
今度は、はっきりと。
かち。
かち。
かち。
二人は音を追って、崩れかけた階段を上った。
最上階の主調整室には、四十九台のモニターが半円形に並んでいた。その中央に、巨大な送出機がある。
機械の内部で、黒いビデオテープが回っていた。
ケースもリールもない。
磁気テープだけが蛇のように空中を巡り、四十九台のモニターを一本につないでいる。
「あれがマスター……」
結衣が近づくと、全ての画面が点いた。
銀の半面をつけたアカネが映る。
その背後に、顔のない観客が四十八人。
空いている椅子は一脚だけ。
アカネが半面を外した。
その下に顔はなかった。
ただ、夜空のような暗闇があり、無数の小さな画面が星のように明滅していた。
『四十九人目』
部屋中のスピーカーから声がした。
子どもでも、男でも、女でもある声。
『座って』
結衣の足元から黒いケーブルが伸び、足首に巻きつく。
岳がそれを踏み砕いた。
「断る」
『あなたは、もう見た』
「見たからって、最後まで付き合う義理はねえ」
『次を見せて』
四十八人の観客が立ち上がる。
『もっと。もっと。もっと』
声が重なり、局舎が震える。
窓の外で、街の光が一斉に瞬いた。
結衣の携帯端末が勝手に起動する。市内の駅、病院、商業施設、家庭のテレビ。あらゆる画面に、同じスタジオが映り始めていた。
まだ本放送ではない。
予備信号が流れている。
「期限が早まってる」
画面の数字は、残り二十三時間を示していたはずだった。
だが、ノイズが走るたびに桁が飛ぶ。
22:59:59
15:12:03
07:44:21
00:59:59
「一時間……」
『視線が増えた。時間は満ちた』
岳が送出機へ突進する。
四十八人の観客が画面から飛び出した。
一体目の拳をかわし、腹へ膝を突き刺す。二体目の顎を掌底で跳ね上げる。三体目の足を払って、四体目へ投げつける。
だが、影たちは岳の動きを一拍先に知っていた。
拳を出す前に腕を押さえられる。
蹴る前に軸足を刈られる。
岳は何度も床へ叩きつけられた。
「全部、読まれてる……」
「違います!」
結衣はモニターの映像を見比べていた。
「読んでいるんじゃない。少し先を再生している!」
四十九台のうち、中央の一台だけ映像が三フレーム早い。
そこに岳の未来の動きが映り、他の画面へ伝播している。
結衣は送出卓へ飛びついた。
古い機械だ。ボタンは錆び、フェーダーは固着している。それでも構造は分かる。同期信号、映像入力、音声入力、遅延補正。
映像には必ず区切りがある。
一秒は連続していない。
三十枚の静止画を、人間の目が連続だと思い込んでいるだけだ。
「音のないところを、たたいて……」
アカネの言葉。
結衣は制作台本を開いた。
事故報告書の端に、技術者の走り書きがある。
同期不良、一〇〇〇フレームごとに一フレーム欠落。
「岳!」
岳は影たちに囲まれ、片膝をついていた。
「千フレームに一度、記録されない瞬間があります! 三十三秒と三分の一ごとに、一フレームだけ映像が消える!」
「いつだ!」
「次は……二十一秒後!」
岳が立ち上がる。
唇の端から血が流れている。
「一フレームって、どれくらいだ」
「三十分の一秒!」
「長いな」
「短いです!」
「拳を一発入れるには、十分だ」
岳は目を閉じた。
影たちが襲いかかる。
彼は反撃しなかった。
肩を殴られ、腹を蹴られ、頬を裂かれても、ただ呼吸を整えている。
吸う。
吐く。
心臓の音が、振り子と重なる。
かち。
かち。
かち。
岳の師は、かつて言った。
――強さは、速さでも重さでもない。
――相手が世界を決める、その一瞬前に立て。
――拳を見せるな。拳があったという結果だけを残せ。
結衣は秒数を数える。
「五……四……三……」
顔のない観客が岳へ殺到する。
「二!」
中央モニターに、岳が倒される未来が映った。
「一!」
結衣は同期レバーを力いっぱい引いた。
全ての画面が黒くなった。
三十分の一秒。
世界から映像が消えた。
その暗闇の中で、岳は心臓を一拍だけ止めた。
呼吸も、足音も、殺気も消す。
次のフレームが戻った時、彼はもう送出機の前にいた。
拳は、深く引かれている。
四十九台のモニターに、その過程は映っていない。
結果だけが現れた。
「間拍拳、奥義――零拍」
岳の拳が、空中を巡る黒い磁気テープへ触れた。
音はしなかった。
最初に起きたのは、静寂だった。
次に、送出機の中心で一点の光が生まれた。
光は針の穴ほど小さく、それでも朝日を折り畳んだように眩しかった。
四十九台のモニターが内側へへこむ。
床が波打ち、壁が遠ざかる。
一秒遅れて、衝撃が来た。
轟音。
黒い磁気テープが空へ向かってほどけ、巨大な渦となる。顔のない観客たちは声もなく吹き飛ばされ、画面の中へ吸い戻された。
送信塔から白い光の柱が立ち上がった。
雲が円形に裂ける。
街じゅうの画面に走っていたノイズが、同時に途切れた。
岳は拳を振り抜いた姿勢のまま、息を吐いた。
「届いた」
しかし、黒いテープは切れていなかった。
渦の中心で、四十九の画面が集まり、一つの巨大な顔を作る。
目も鼻もない。
口だけが、地平線のように開いた。
『次を』
局舎の屋根が吹き飛ぶ。
夜空いっぱいに、その顔が広がった。
『次を見せろ』
五
それは、怪物というより欲望だった。
終わらない番組。
閉じられない窓。
次の映像、次の悲鳴、次の人生を求めて、ただ見続けるもの。
巨大な口の中に、無数の記憶が流れていた。
誕生日。葬式。事故。告白。喧嘩。産声。誰にも見せなかった涙。
取り込まれた人々の人生が、娯楽のように切り刻まれ、繰り返し再生されている。
その中に、岳は妹を見た。
十年前の夏。
美羽は扇風機の前で変な声を出して笑っている。
次の場面では、岳と喧嘩している。
『兄ちゃんなんか、世界で二番目に嫌い!』
『一番は誰だよ』
『ピーマン!』
映像が切り替わる。
零号放送を見た夜。
美羽は一人で震えながら、それでも消える直前まで、兄への置き手紙を書いていた。
『兄ちゃんは、すぐ殴るから、ちゃんと考えてから動いて』
文字は途中で途切れた。
「勝手なこと言いやがって」
岳は呟いた。
右腕はもう上がらない。
零拍で筋肉が裂け、拳の骨にもひびが入っている。
巨大な口から、ノイズの雨が降る。
結衣の頬に触れた雫が、皮膚を四角く消した。そこだけが粗い映像になる。
「岳、あれは殴っても消えません」
「だろうな」
「見る人がいる限り、“次”を欲しがる。映像を壊しても、別の画面へ移るだけです」
「じゃあ、どうする」
結衣は送出卓の奥に、一つだけ残ったボタンを見つけた。
赤い蓋がついている。
END TRANSMISSION
放送終了。
だが、ボタンを押しても反応しない。
画面に文字が出た。
END FRAME MISSING
「終了画面がない」
「何?」
「事故で番組が終わらなかったから、零号放送には“終わり”が記録されていない。だから永遠に次を求めている」
結衣はバッグから小型カメラを取り出した。
「終わりがないなら、今ここで撮ります」
「何を」
「最後の一コマを」
結衣はカメラを岳へ向けた。
「立ってください」
「もう立ってる」
「もっと格好よく」
「注文が多いな」
岳はふらつきながら背筋を伸ばした。
背後には、裂けた夜空と巨大な怪異。
足元には崩壊する局舎。
どう見ても番組の終わりにふさわしい画ではない。
結衣はカメラを下ろした。
「違う」
「何がだ」
「これは怪異が欲しがる画です。派手で、怖くて、次が気になる。これでは終われない」
彼女は周囲を見回した。
東の空が、わずかに白み始めている。
本来なら、まだ夜明けには早い。
だが、送信塔から放たれた光が雲を裂き、その向こうに月ではない淡い明るさが見えていた。
結衣は壊れた壁の外へ出た。
山の向こうに、街がある。
無数の窓。
無数の暮らし。
画面を消し、眠っている人々。
誰にも見られていない朝が、静かに始まろうとしている。
結衣はその風景へカメラを向けた。
「最後は、誰かの不幸じゃなくていい」
録画ボタンを押す。
風が杉の梢を揺らす。
雪まじりの雨がやむ。
雲の切れ間から、一筋の光が山へ落ちた。
ただそれだけの映像。
何も起きない。
誰も叫ばない。
続きがなくても困らない、一秒。
結衣は録画を止めた。
データを送出卓へ接続する。
「これを終了フレームにします」
『許さない』
巨大な口が叫んだ。
空が裏返る。
無数の画面が流星のように降り、結衣へ殺到する。
岳が前へ出た。
上がらない右腕を、左手で支える。
「送れ」
「でも、その腕では」
「腕が駄目なら、肩で打つ。肩が駄目なら、頭で行く」
「それを考えてから動いた結果だと言えますか」
岳は一瞬、妹の映像を見た。
それから笑った。
「今回は、たぶん」
無数の画面が壁となって迫る。
岳は一歩踏み込んだ。
左拳で最初の画面を砕く。
二枚目を額で割る。
三枚目を膝で蹴り上げる。
砕けた破片には、過去の岳が映っていた。泣く岳。怒る岳。妹を守れなかった岳。十年間、何も変えられなかった岳。
破片の一つが胸へ突き刺さる。
それでも進む。
「俺たちは、お前の続きじゃない!」
岳は叫んだ。
「見たものに、人生の先を決めさせるか!」
最後の一枚へ、壊れた右拳を叩き込む。
骨の砕ける音。
画面が割れ、道が開いた。
「今だ、結衣!」
結衣は終了ボタンを押した。
朝の映像が、四十九台のモニターへ流れる。
杉の梢。
止んだ雨。
薄い光。
画面の中央に、白い文字が現れた。
――この放送は終了しました。
巨大な口が閉じていく。
『次を』
声が小さくなる。
『次を、見せて』
結衣はマイクを取った。
「ありません」
『なぜ』
「終わったからです」
四十九脚の椅子が、空の画面に映る。
座っていた人影が一人ずつ立ち上がり、朝の光へ歩いていく。
その最後に、銀の半面を持ったアカネがいた。
今度は、顔がある。
泣き腫らした目をした、普通の少女だった。
『見つけてくれて、ありがとう』
アカネは結衣へ頭を下げる。
次に岳を見た。
『あの人は、ずっと待ってた』
画面の端に、美羽が立っていた。
十六歳のまま。
岳は何も言えなかった。
美羽は眉をひそめる。
『兄ちゃん、相変わらず顔が怖い』
「お前は相変わらず口が悪いな」
『知ってる』
「帰ってこられないのか」
美羽は少しだけ目を伏せた。
『私の時間は、もうテープの中にしかないから』
岳の拳が震える。
『でも、兄ちゃんの時間は外にある』
「……そうか」
『ちゃんと使って』
美羽は笑った。
『あと、考えてから殴ること』
「善処する」
『絶対しない言い方』
映像が白く薄れていく。
岳は最後まで目を逸らさなかった。
「美羽」
『なに』
「世界で二番目に嫌いって言ってたな」
『うん』
「今は?」
美羽は少し考えるふりをした。
『三番目』
「下がってんじゃねえか」
『納豆が入ったから』
笑い声が、初めてきちんとスピーカーから聞こえた。
そして画面は、朝の風景だけになった。
黒い磁気テープが、静かに床へ落ちる。
白い文字が消える。
モニターの電源が、一台ずつ落ちた。
最後の一台が暗くなる直前、アカネが小さく手を振った。
六
三日後。
黒橋テレビ旧送信所は、落雷による倒壊事故として報道された。
零号放送を記録していたテープは、全て白紙になっていた。磁気信号も、音声も、映像もない。まるで一度も使われていない新品のようだった。
結衣の目の下の痣も消えた。
右目だけ、暗い場所で時々、画面の走査線のような光が見えるようになったが、医師には疲労だと言われた。
岳は両腕を包帯で吊ったまま、資料館の修復室に居座っていた。
「働いてください」
「療養中だ」
「うちの職員ではありません」
「コーヒーぐらい出してくれてもいいだろ」
「毒なんでしょう」
「人間、毒にも慣れる」
結衣は無視して、最後の確認作業を続けた。
あの夜、終了フレームとして撮影した一秒の映像。
杉林と、止んだ雨と、夜明け前の街。
ファイルに異常はない。
再生する。
静かな風景が流れる。
一秒。
終了。
結衣は巻き戻し、もう一度再生した。
「どうした」
「今、何か……」
映像を一フレームずつ送る。
杉の梢。
雲。
山。
二十七フレーム目。
街の一番遠い窓に、小さな人影が二人立っていた。
一人は銀の半面を手にした少女。
もう一人は、制服姿の短髪の少女。
二人は並んで、こちらへ手を振っている。
次のフレームでは、もういない。
岳はしばらく黙って見ていた。
それから、包帯だらけの右手を少しだけ持ち上げた。
「修復できるか」
「何をです」
「そこだけ、もう少し長く」
結衣は首を横に振った。
「一フレームで十分です」
「そうか」
「ええ。続きがなくても困りません」
岳は笑った。
修復室のモニターが暗転する。
黒い画面に、二人の姿が映り込んだ。
その間に、誰かが立っているように見えた。
結衣が振り向く。
誰もいない。
もう一度モニターを見る。
そこには、結衣と岳の二人しか映っていなかった。
岳は立ち上がる。
「腹減ったな」
「怪我人はお粥です」
「肉がいい」
「考えてから食べてください」
「それは無理だ」
二人が修復室を出る。
扉が閉まる直前、消えたはずのモニターに、一瞬だけ白い文字が浮かんだ。
――おわり。
今度こそ、その先には何も映らなかった。