『零時の星屑チャンピオン』
――完全オリジナル読み切り小説――
雨は、環都カグラの夜景を安物の宝石みたいに滲ませていた。
百二十階建ての摩天楼、その谷間に挟まれた築六十年の雑居ビル。三階の曇った窓には、青いネオンでこう書かれている。
〈狩谷夜間相談所――護衛、捜索、揉め事の仲裁。恋愛相談は要予約〉
「最後の一行、今すぐ消しなさい」
大家の千草マコが、入口に立ったまま言った。片手には家賃の請求書、もう片手には業務用の消火器がある。
古い革張りの椅子に足を投げ出していた狩谷篤臣は、新聞から目だけを上げた。
「集客に必要なんだよ。都会の孤独ってやつには、深夜営業の窓口が要る」
「三か月分の家賃を払ってから都会を語りなさい」
「金で解決できる問題は、問題じゃない」
「払えない人間が言うと、ただの開き直りよ」
そのとき、ドアベルが鳴った。
雨の匂いと一緒に、一人の若い女が入ってきた。銀灰色のコート。濡れた黒髪。二十歳を少し越えたくらいだろう。胸元には、小さな六角形のペンダントが光っている。
篤臣は新聞を畳み、三秒で姿勢を正した。
「ようこそ。護衛なら命懸け、食事なら割り勘、恋愛相談なら今夜だけ初回無料だ」
「この人、信用できますか」
「腕だけはね」
マコは消火器を床に置いた。
「それ以外は領収書にも書けないわ」
女は笑わなかった。窓の外を振り返り、追手がいないことを確かめてから、机の上に古い写真を置いた。
写真には三人が写っていた。白衣の男。十歳ほどの少女。そして、制服姿の若い篤臣。
篤臣の表情から、軽さが消えた。
「月城博士の娘か」
「月城凛果です」
女は言った。
「父の遺したものを、今夜零時まで守ってください。零時を過ぎたら、この街は消えます」
説明は短かった。
十二年前、天文学者の月城玲悟博士は、環都地下で発見された隕石質の巨大構造体〈星冠炉〉を研究していた。星冠炉は、人間の感情、とりわけ闘争心を未知のエネルギーへ変換する。
軍は兵器化を望んだ。博士は拒んだ。
その後、研究施設で爆発が起き、博士は死亡。星冠炉は封鎖された――はずだった。
「三か月前から、地下格闘組織〈黒曜宮〉が、旧環状競技場で超人格闘大会を開いています」
凛果は端末に映像を出した。
鋼鉄のリング。仮面をかぶった巨漢。皮膚から火花を飛ばす女。観客席を埋め尽くす富豪たち。常識外れの肉体を持つ闘士たちが、壁を砕き、床を割り、歓声の中で戦っている。
「大会そのものが、星冠炉を動かすための発電装置です。決勝が終わる零時、集めた闘争心で炉が完全起動する。父の計算では、暴走した場合、半径二十キロが重力崩壊に巻き込まれます」
「警察には?」
「黒曜宮は議員も警察幹部も買収しています。それに、炉を止める鍵は私の生体波形だけ。公にすれば、先に私が捕まる」
篤臣は、凛果のペンダントを見た。
「それが制御鍵か」
「ええ。父は最期に、あなたを頼れと」
「最期に?」
「録音が残っていました。『狩谷篤臣を探せ。あいつは最低だが、最後の一線だけは越えない』と」
マコが吹き出した。
「博士、人物評が正確ね」
「褒め言葉だ」
「後半だけよ」
次の瞬間、窓ガラスが内側へ爆ぜた。
黒い雨合羽の男が三人、ワイヤーで飛び込んでくる。全員、顔に金属製の動物面をつけていた。狼、鷹、犀。腕や肩が不自然に膨らみ、皮膚の下で青白い筋が脈打っている。
「月城凛果を引き渡せ」
狼面が言った。
「断ったら?」
「建物ごと潰す」
「大家さん。それ、敷金で足ります?」
「足りるわけないでしょう!」
犀面が踏み込んだ。床板が波打つ。巨体から繰り出された拳は、机を粉々にする威力だった。
だが、拳が届くより先に、篤臣の右手が動いた。
革のホルスターから抜かれたのは、拳銃に似た黒い器具だった。火薬の代わりに圧縮磁場を撃ち出す、旧式の衝撃銃だ。
乾いた音が三つ。
一発目は天井の照明を落とし、二発目は落下した照明の鎖を切り、三発目は壁の非常ベルを撃った。
暗闇。金属音。けたたましい警報。
犀面の足首に鎖が絡み、勢い余った巨体が狼面を巻き込んで倒れた。
「弾は人に当てない主義でね」
篤臣は言った。
鷹面が暗闇を見通し、腕から刃を伸ばして凛果へ跳ぶ。
「ただし、例外はある」
四発目。
鷹面の刃の根元だけが砕けた。回転しながら床へ落ちた男の後頭部を、マコの消火器が正確に叩いた。
「建物を壊す客は嫌いなの」
白煙が室内を満たした。
狼面は煙の中から立ち上がると、窓の外へ飛び退いた。
「零時、旧環状競技場で待つ。来なければ、炉は起動する」
「招待状にしては乱暴だな」
「黒曜宮の主、ドレフ様がお前を覚えている。逃亡者、狩谷篤臣」
男たちは雨の闇へ消えた。
静寂が戻った。
凛果は篤臣を見た。
「逃亡者?」
篤臣は衝撃銃をホルスターへ戻した。
「昔のあだ名だ」
「どんな昔です」
「人に話すと料金が発生する昔だよ」
そのとき、床がもう一度、大きく揺れた。
壁が外側から破裂した。
土煙の向こうに、山のような男が立っていた。身長は二メートルを優に越え、肩幅はドア二枚分。白い獣の角を模した仮面をつけ、赤いマントの下は、信じがたいほど盛り上がった筋肉で埋まっている。
男は両腕を組み、低い声で名乗った。
「我が名は、白角のゴウ。月城凛果を迎えに来た」
マコは無言で修繕費の請求書を一枚増やした。
「誤解だ!」
五分後、白角のゴウは正座していた。
巨体すぎて、座っていても目線が篤臣とほぼ同じ高さだった。割れた壁にはブルーシートが張られ、雨風がばたばたと鳴っている。
「入口が狭かったゆえ、壁から入った。それだけだ」
「普通の人は狭かったら横を向くの」
「我が肩は、横を向くとさらに広い」
「自慢するところじゃないわ」
マコの指摘に、ゴウは深くうなずいた。
「次から屋上を使おう」
「二度と来るなって意味よ」
凛果は、獣角の仮面を見つめた。
「あなた、父の大会映像にいた……十年前の〈天蓋杯〉王者」
「覚えていたか」
ゴウは仮面を外した。厳つい顔に、一本だけ曲がった鼻。だが目は妙に穏やかだった。
「月城博士には命を救われた。筋肉増強処置の副作用で心臓を壊した俺に、博士は人工星脈を埋め込んだ。代わりに約束した。娘が助けを求める日には、何を捨てても駆けつけると」
「十二年も経ってる」
「約束は腐らん。鍛えれば太くなる」
「約束って筋肉なのか」
「お前の約束は細そうだな、狩谷篤臣」
空気が変わった。
ゴウは篤臣をまっすぐ見た。
「博士が死んだ夜、お前は現場にいた。なのに博士を置いて逃げた」
凛果が息を止めた。
篤臣は答えなかった。
「俺は臆病者に凛果を預けん。護衛は俺がする」
「好きにしろ、と言いたいところだが」
篤臣は凛果のペンダントを指した。
「黒曜宮は彼女の顔も生体波形も把握している。正面から競技場へ行けば、入口で終わりだ。内部へ入るには、大会の参加者になるしかない」
ゴウの目が輝いた。
「つまり、戦えばよいのだな」
「嬉しそうだな」
「俺は話し合いが苦手だ」
「見ればわかる」
篤臣は机の引き出しから二枚のカードを出した。偽造の選手登録証だ。
「今夜の大会は二人一組の勝ち抜き戦。俺たちは出場者として地下へ入る。凛果はトレーナーに変装。決勝まで進んで中央制御室へ近づき、炉を止める」
「お前と組むのか」
「不満か?」
「細い」
「機能美と言え」
「胸板が足りん」
「都会じゃ胸板で家賃は払えないんだよ」
「では、何で払う?」
「今そこを掘るな」
マコが請求書を振った。
「帰ってきたら払ってもらうからね。全員、生きて」
最後の三文字だけ、声が少し柔らかかった。
篤臣はコートを羽織った。
「了解、大家さん」
凛果はペンダントを握りしめる。
ゴウは仮面をかぶった。
三人は雨の環都へ出た。
旧環状競技場は、地上から見ると廃墟だった。
しかし地下三百メートルには、別の都市が眠っていた。
金色の照明に照らされた巨大円形闘技場。観客席には、仮面をつけた政財界の人間たち。中央リングの周囲には十二本の黒い柱が立ち、戦う者たちの熱を吸うように脈動している。
天井の巨大時計は、午後十時三十二分を示していた。
「紳士淑女、そして強さに飢えた怪物たちよ!」
司会者の声が響く。
「今宵、〈黒曜十二環戦〉の新たな王が決まる! 優勝者には望むものすべてを! 富、名誉、寿命、復讐――星は、勝者にだけ微笑む!」
歓声が地下を揺らした。
控室で、凛果は白衣と眼鏡に変装し、二人の腕に計測器を巻いた。
「このバンドは星冠炉の吸収を一部遮断します。でも長くは持ちません」
「決勝まで何試合だ?」
「四試合」
「一時間半で四試合か」
篤臣はため息をついた。
「労働基準局に通報したい」
「優勝賞金は出るぞ」
「急にやる気が出た」
「さっきまで街を救う顔をしていたのに」
第一試合の相手は、全身に電極を埋め込んだ双子〈雷索兄弟〉だった。
開始の鐘と同時に、兄弟の間を青い電流が走った。リング全体が高圧電場となり、観客の髪が逆立つ。
「俺が受ける!」
ゴウが前へ出た。
「待て、筋肉は電気をよく通す!」
「ならば、もっと強く締めればよい!」
理屈になっていなかった。
落雷がゴウを直撃した。爆煙が上がる。
観客が沸いた。
煙の中で、ゴウはまだ立っていた。全身を焦がしながら笑っている。
「良い刺激だ。肩こりが消えた」
雷索兄弟の顔が引きつった。
ゴウは両腕で二人まとめて抱え上げた。
「大地抱擁――山嵐落とし!」
投げ落とす寸前、篤臣が叫ぶ。
「床に叩きつけるな! 下に炉の導管がある!」
「では、どこへ投げる!」
「互いに!」
ゴウは忠実に、兄弟を空中でぶつけた。
雷が弾け、二人は目を回して倒れた。
第一試合、勝利。
第二試合は、音波を操る女闘士〈鐘楼のモザエ〉。
彼女が指を鳴らすたび、見えない衝撃が飛ぶ。ゴウの巨体は標的になりすぎた。篤臣はリングを走りながら、天井の照明へ衝撃弾を撃った。
落ちた破片が、音波の節で不自然に止まる。
「そこか」
篤臣は空中の破片を狙って三発撃った。
弾は破片に当たり、角度を変え、さらに別の破片へ跳ねる。最後の一発が、モザエの背後にある音響増幅器だけを壊した。
「人を撃たずに勝つなんて、気取ってるね」
モザエは膝をつきながら笑った。
「顔が商売道具なんでね」
「あんたの顔じゃないよ」
「わかってる」
第三試合は、全身を鉱物化する大男〈玄武岩バサラ〉。
拳と拳がぶつかるたび、リングが沈んだ。
ゴウは真っ向から力比べを挑み、篤臣は外周を回って相手の足元を崩す。だがバサラの岩肌は衝撃弾を弾き、ゴウの腕に亀裂が走った。
「下がれ、ゴウ」
「まだだ」
「腕が折れてる」
「骨は折れても、約束は折れん!」
ゴウは踏み込んだ。
バサラの拳が迫る。
その瞬間、篤臣はゴウの足元へ一発撃った。床がわずかに跳ね、ゴウの姿勢が低くなる。拳が頭上を通過した。
「勝手に援護するな!」
「二人一組だ、諦めろ!」
低い姿勢から、ゴウはバサラの腰を抱えた。
「星脈全開!」
胸の中央に埋め込まれた人工器官が、赤く輝く。
盛り上がった筋肉の上を、星座のような光の線が走った。
「天柱返し!」
数トンはある岩の巨体が、宙を舞った。
だがゴウは投げ切らず、バサラを静かにリング外へ置いた。
「なぜ止めた」
バサラが問う。
「お前は悪人の目をしていない」
「試合中だぞ」
「戦いは、相手を壊すためだけにあるのではない」
バサラはしばらく黙り、それから大声で笑った。
「気に入った。行け、白角。あの黒い王座をぶち壊せ」
観客席の一部から、拍手が起こった。
他の敗退した闘士たちも立ち上がる。雷索兄弟が親指を上げ、モザエが口笛を吹いた。
天井時計は、午後十一時四十三分。
残るは決勝だけだった。
そして決勝の相手は、誰もいない。
中央リングが割れ、黒い階段がせり上がる。
階段の最上段に、一人の男が立っていた。
銀の髪。黒い礼服。胸には、日蝕を模した紋章。
「久しいな、狩谷篤臣」
黒曜宮の主、ドレフは微笑んだ。
「十二年前、月城玲悟を見捨てた男よ」
競技場の扉が一斉に閉じた。
黒い柱から光の鎖が伸び、リング上のゴウを縛る。観客席にいた闘士たちも、腕や胸の星脈を吸われ、次々と倒れた。
「大会は罠だったのか!」
凛果が制御端末へ走る。
だが床から現れた兵士たちが彼女を囲んだ。
ドレフは指を鳴らす。
凛果のペンダントがひとりでに開き、光の欠片が空中へ引き寄せられた。
「星冠炉の最後の鍵。ようやく帰ってきた」
「返して!」
「これは君の父が盗んだものだ」
ドレフの背後に、巨大な映像が浮かんだ。
十二年前の研究施設。
若い篤臣が、警備隊の制服で走っている。警報。炎。隔壁の向こうに月城博士。
『篤臣、退け!』
『博士も一緒に!』
『炉心は私が封じる。君は地上へ戻れ!』
映像が乱れる。
次に映ったのは、博士に背を向けて走る篤臣だった。
凛果の顔から血の気が引いた。
「本当に……父を置いて逃げたの?」
篤臣は黙って映像を見上げた。
「命令だった、とは言わないのですね」
ドレフが愉快そうに言う。
「彼には選択肢があった。英雄として死ぬか、臆病者として生きるか。彼は後者を選んだ」
「そうだ」
篤臣は言った。
「俺は逃げた」
ゴウの筋肉が膨れ、光の鎖が軋んだ。
「貴様――!」
「怒るな、ゴウ。事実だ」
篤臣は凛果を見た。
「博士を連れ戻すと約束した。だが隔壁が閉じる直前、俺は一人で外へ出た。あの日から、約束は細いままだ」
凛果の目に涙が浮かんだ。
「だったら、なぜ今さら来たんです」
「今度こそ守れると思った、なんて言えば格好がつくが――違うな」
篤臣は自嘲した。
「十二年間、怖かった。博士の娘に会えば、自分が何をしたか認めることになる。だから逃げ続けた。今夜ここへ来たのも、たぶん償いじゃない。ただ、もう一度逃げたら、本当に俺は俺を撃ちたくなる。それだけだ」
ドレフは肩をすくめた。
「美しい告白だ。だが遅い」
零時まで、あと十分。
空中の鍵が回転した。
地下深くで、星冠炉が目覚める。
黒い柱を結ぶ光が天井へ集まり、巨大な日蝕の輪を描いた。重力が歪み、観客席の椅子や瓦礫がゆっくり浮かび上がる。
ドレフは両腕を広げた。
「星冠炉は、闘争を純粋な力へ変える。人は争いをやめられない。ならば、その醜さで世界を照らせばいい!」
「照らす?」
篤臣は周囲を見た。
「真っ暗じゃないか」
ドレフの微笑みが消えた。
篤臣は袖口から小さな金属片を落とした。
第二試合で壊した音響増幅器の部品。その表面に、衝撃弾が一発だけ仕込まれている。
「俺が走り回っていたのを、逃げてるだけだと思ったか?」
金属片が爆ぜた。
リングの下に隠されていた制御線が切れる。
ゴウを縛る光の鎖が、一瞬だけ緩んだ。
「ぬうううううっ!」
ゴウが両腕を開く。
鎖が砕けた。
彼は跳び、凛果を囲む兵士たちの前へ着地する。床が陥没し、衝撃だけで兵士たちが吹き飛んだ。
「凛果に触れるな!」
ドレフは舌打ちし、右手を上げた。
日蝕の輪から黒い光が降り、彼の全身を包む。
礼服が裂け、その下から漆黒の装甲が現れた。肩には刃のような環、胸には光を吸う穴。背後には六枚の影が翼のように広がる。
「星殻装――〈蝕王ノクス〉」
重力が一気に増した。
ゴウが片膝をつく。篤臣の衝撃銃が床へ落ちた。凛果は息さえできず、倒れかける。
「これが、人類の闘志を束ねた王の力だ」
ドレフが一歩進むたび、リングが沈む。
ゴウは立ち上がろうとした。だが折れた腕と消耗した星脈が限界を告げている。
「まだだ……約束は……」
「やめて!」
凛果が叫んだ。
「もう十分です。父との約束のために、死なないで!」
ゴウは顔を上げた。
「違う」
赤い星脈が、再び胸で灯る。
「これは、今の俺が結び直した約束だ。お前を守りたいと、俺自身が決めた」
光は腕へ、肩へ、全身へ広がった。
周囲に散らばった闘士たちの星脈が、それに呼応する。
雷索兄弟の青。
モザエの金。
バサラの橙。
「持っていけ、白角!」
「貸しだからね!」
「王座ごと投げ飛ばせ!」
光がゴウへ集まり、白銀の装甲を形作った。
獣角の兜。
城壁のような胸当て。
両腕を覆う巨大な星鋼の籠手。
「星殻装――〈白嶺獅子〉!」
ゴウが立つ。
重力が彼の足元で割れた。
ドレフの拳と、ゴウの拳が衝突する。
音が消えた。
一拍遅れて、衝撃波が競技場を一周した。
互角――ではない。
漆黒の装甲が闘士たちから力を吸い続ける限り、ドレフは強くなる。ゴウの白銀の籠手に、少しずつ亀裂が入った。
「篤臣!」
凛果が叫ぶ。
「父のペンダントに、あなたの生体記録があります。星冠炉はあなたにも反応するはず!」
「俺には星脈なんてない」
「あります。十二年前、父があなたへ埋め込んだ。あなたを地上へ帰すために!」
凛果は空中の鍵へ手を伸ばした。
ペンダントから、別の記録映像が開く。
さきほど途切れた続きだった。
隔壁の向こうの月城博士が、若い篤臣へ小さな光を撃ち込む。
『君は逃げるんじゃない。届けるんだ』
『何を……』
『失敗した者にも、次があるという証拠を。娘に会ったら伝えてくれ。私は、星より人を信じたと』
『自分で言ってください!』
『それができないから、君に頼む』
博士は笑っていた。
『走れ、野良星。誰の軌道にも従わず、必要な場所へ落ちろ』
映像が消える。
篤臣の胸の奥で、十二年間眠っていた熱が脈打った。
逃げた夜。
捨てた制服。
救えなかった人々。
それでも、深夜の相談所を閉めなかった理由。
助けを求める声が来るたび、断れなかった理由。
「まったく」
篤臣は笑った。
「死んだあとまで、人使いの荒い博士だ」
胸から淡い光が溢れた。
だが現れた装甲は、ゴウのように立派ではなかった。
古びた銀の胸当て。
片方だけの肩装甲。
星屑を縫い込んだような黒い外套。
そして右手には、落としたはずの衝撃銃が、長い光の銃身をまとって戻ってくる。
兜すらない。
ゴウがドレフと押し合いながら叫んだ。
「お前の星殻、ずいぶん薄いぞ!」
「都会仕様だ。軽量化って言え!」
凛果の端末に名前が表示される。
登録されていない星殻。
既存の軌道を持たず、流れ続ける小さな星。
「星殻装――〈迷い星ストレイ〉」
篤臣は光銃を構えた。
ドレフの装甲には十二の吸収点がある。黒い柱とつながり、闘士たちの力を奪う結節。
一つでも外せば、力の流れが変わる。
一つでも撃ち損じれば、全員が潰れる。
距離、百二十メートル。
障害物、浮遊する瓦礫が三百以上。
重力屈折で、光すら曲がる。
篤臣は目を閉じた。
「見ないのか!」
ゴウが叫ぶ。
「見えるものばかり狙ってたから、十二年も外したんだよ」
音を聞く。
柱の振動。
闘士たちの鼓動。
凛果の呼吸。
ゴウの足が床を踏む音。
そして、重力に引かれて落ちる星屑の軌道。
篤臣は引き金を十二回引いた。
一発目が瓦礫に当たる。
二発目がその破片を弾く。
光弾は何度も角度を変え、競技場を駆け巡った。
一、二、三。
ドレフの肩の結節が砕ける。
四、五、六。
背後の影の翼が消える。
七、八、九。
黒い柱が次々と沈黙する。
十、十一。
胸の穴に亀裂が走る。
最後の一発だけが、届かない。
ドレフは左手で光弾を握り潰した。
「見事だ。だが一つ残った」
最後の結節は、額。
そこから星冠炉の全出力が流れ込んでいる。
ドレフはゴウを弾き飛ばした。
白銀の巨体が宙を舞い、リング端へ転がる。
零時まで、十秒。
ドレフの胸に黒い光が集まる。
「終わりだ」
篤臣の光銃は弾切れだった。
星殻も薄れ始める。
その襟首を、後ろから巨大な手がつかんだ。
「何を――」
「狩谷篤臣!」
ゴウが立っていた。
白銀の装甲は砕け、片腕は動かない。それでも残った腕で、篤臣を投擲姿勢に構えている。
「お前は必要な場所へ落ちる星なのだろう!」
「人を砲弾みたいに言うな!」
「射程が足りぬなら――俺が投げる!」
ドレフが黒い光を放つ。
ゴウが篤臣を投げた。
「双星墜とし――流星担ぎ!」
「技名、今つけたなあああっ!」
篤臣は黒い奔流の脇をすり抜けた。
外套が焼け、肩装甲が砕ける。
一直線に、ドレフへ飛ぶ。
右手の光銃は空だ。
だから、銃そのものを握りしめた。
最後の星脈を銃身へ込める。
それは弾丸ではない。
逃げ続けた十二年。
結び直した一夜。
誰かに渡された、次の機会。
「暁穿ち!」
光銃の先端が、ドレフの額に触れた。
小さな光が、一点だけを貫いた。
最後の結節が砕ける。
零時。
星冠炉の全出力が逆流した。
ドレフの漆黒装甲が崩れ、黒い柱が白い光へ変わる。競技場を押し潰していた重力が消え、浮いていた瓦礫が雨のように落ち始めた。
凛果は制御盤へ鍵を差し込んだ。
「炉心、封鎖します!」
光の輪が閉じていく。
だが中央に、ドレフが落ちていた。
崩壊する星冠炉へ引かれ、体が宙に浮く。
「放せ!」
ドレフは、腕をつかんだ篤臣へ叫んだ。
「私は負けた! 敗者に価値などない!」
「それ、今夜いちばん負けた奴らの前で言ってみろ」
篤臣のもう片方の腕を、ゴウがつかむ。
さらにゴウの足を、バサラがつかんだ。
バサラを雷索兄弟が。
兄弟をモザエが。
倒れていた闘士たちが次々とつながる。
「敗者をなめるなよ、王様!」
「負けたから、次は勝てるのさ!」
「勝者だけで世界が回るなら、観客席なんて要らないだろ!」
何十本もの腕が、一つの鎖になった。
凛果が最後の封鎖命令を実行する。
白い光が弾けた。
星冠炉は、静かに眠りについた。
朝。
雨は上がり、環都カグラの高層建築に薄い陽が差していた。
黒曜宮の幹部と買収されていた役人たちは、凛果が送信した記録によって一斉に逮捕された。旧環状競技場から救出された闘士たちは、全員生存。
ドレフも重傷ではあったが、生きていた。
狩谷夜間相談所では、マコが修繕費の見積書を読み上げていた。
「窓三枚、壁二面、机一台、照明一式。合計――」
「待て。街を救った英雄割引は?」
「ない」
「人情は?」
「家賃と相殺」
「相殺してこの額?」
篤臣は机に突っ伏した。
向かいでは、ゴウが小さなエプロンを無理やり身につけ、巨大な手で朝食を作っている。フライパンがままごと道具に見えた。
「白角、なぜいる」
「新しい約束を結んだ。相談所の用心棒となる」
「給料は出ないぞ」
「寝床と高蛋白の食事があればよい」
「それが一番高いんだよ」
凛果は窓辺で笑った。
昨夜のペンダントは、もう光っていない。ただの古い六角形の金属片になっていた。
「父の伝言、受け取りました」
篤臣は顔を上げる。
「遅くなった」
「十二年も」
「ああ」
「利息が必要ですね」
「金以外で頼む」
凛果は少し考え、彼の頬へ軽く口づけした。
篤臣が固まる。
ゴウの手からフライパンが落ちた。
マコの眉が上がった。
凛果は鞄を持つ。
「前払いです。残りは、あなたが逃げずに生きていたら」
ドアベルが鳴り、彼女は朝の街へ出ていった。
三秒の沈黙。
篤臣はゆっくり立ち上がり、コートの襟を直した。
「大家さん。看板の恋愛相談、もっと大きく――」
「消す」
「なぜだ! 今、需要が証明された!」
「勤務中の私情だから」
「厳しすぎる!」
ゴウが真剣な顔で尋ねた。
「恋愛も筋肉で解決できるか?」
「お前はまずフライパンを拾え」
朝日が、割れた窓から差し込む。
古びた相談所の床に、小さな星の形が浮かんだ。
誰かの軌道を外れた星は、もう迷ってはいなかった。
必要な夜が来れば、また落ちる。
誰かの「助けて」が、聞こえる場所へ。
了