『零時限目の卒業生』
一
卒業式の前夜、二十三時三十一分。
皆瀬碧人の携帯端末に、校章だけが描かれた通知が届いた。
〈三年零組の生徒は、制服を着用のうえ、零号棟・第八教室に集合せよ。遅刻は卒業辞退とみなす〉
差出人は空欄だった。
私立黎明学園では、空欄は命令と同じ意味を持つ。
山を丸ごと買い取って建てられた全寮制の学園には、七つの校舎と、全国から選抜された六百人の生徒がいた。その頂点が三年零組である。定員は八名。教室の壁には毎朝、学力、運動、交渉、規律、貢献の五項目を統合した順位が表示された。
一位、雁野澪花。
二位、鐘崎慧。
三位、乾真珠。
四位、轟陸。
五位、羽鳥澪。
六位、柴崎太一。
七位、倉橋ユイ。
八位、皆瀬碧人。
最下位の碧人が三年間退学を免れたのは、試験問題そのものより、試験を作った人間の意図を読むことに長けていたからだ。
十一時三十八分、八人は零号棟の地下に集まった。
「卒業式の予行なら、明日の朝にやればいいだろ」
轟陸が、太い首を鳴らした。全国大会級の格闘選手で、機嫌の悪さまで成績表に加点されそうな男だった。
「卒業辞退にしたければ帰れば?」
乾真珠が言った。彼女は人の秘密を集めることを勉強と呼んでいた。
「やめなよ。こんな時間に呼ばれた時点で、普通じゃない」
羽鳥澪が小さな声で割って入る。制服の袖口には、いつも鉛筆の黒い跡がついていた。
雁野澪花は誰とも目を合わせず、閉ざされた鉄扉の継ぎ目を調べていた。学園史上初めて、三年間一位を守り続けた生徒である。
「扉に蝶番がない。こちらから開く構造じゃないわ」
「じゃあ、待つしかないか」
柴崎太一が笑った。笑っていれば場が壊れないと、本気で信じているような笑い方だった。
碧人の隣で、倉橋ユイだけが天井を見ていた。
「ねえ」
彼女は言った。
「この校舎、前からあった?」
誰も答えなかった。
黎明学園で三年を過ごしたはずなのに、零号棟へ来た記憶を持つ者はいなかった。校内地図にも載っていない。けれど、それを不自然だと思うより先に、鉄扉が音もなく左右へ開いた。
中は八角形の教室だった。
黒い机が八つ、円を描いて並んでいる。窓はない。正面には黒板ではなく、白い数字だけを映す巨大な画面があった。
23:32:00
秒表示が動き始める。
八人が入ると、扉は閉じた。
机の上に、生徒手帳ほどの黒いカードが一枚ずつ置かれていた。カードの表には名前、裏には一語だけが印刷されている。
雁野澪花――〈加重〉
鐘崎慧――〈質問〉
乾真珠――〈閲覧〉
轟陸――〈拒絶〉
羽鳥澪――〈再試〉
柴崎太一――〈改票〉
倉橋ユイ――〈継承〉
皆瀬碧人――〈白紙〉
「白紙?」
太一が碧人のカードをのぞき込み、眉を上げた。
「お前らしいっちゃ、お前らしいな」
「褒めてないだろ」
「八位に与える権限なんてない、ってことかもな」
轟が鼻で笑った。
そのとき、天井から女の声が降ってきた。抑揚がなく、年齢も感情も推測できない声だった。
「三年零組、卒業査定を開始します」
画面が切り替わった。
〈第一条 四分ごとに、退学させる生徒一名を秘密投票で選ぶ〉
〈第二条 最多票を得た生徒記録を、即時削除する〉
〈第三条 最多票が同数の場合、該当する生徒記録をすべて削除する〉
〈第四条 自分への投票を認める。棄権は自分への一票として扱う〉
〈第五条 権限カードは一度だけ使用できる〉
〈第六条 零時に在籍する生徒記録が一件である場合、その記録を卒業者として実装する〉
〈第七条 妨害、設備破壊、教室外への離脱を試みた者には、削除を含む制裁を適用できる〉
最後に、赤い文字が点滅した。
〈卒業者は一名。その他は存在しなかったものとする〉
二十三時三十二分十五秒。
最初の投票まで、三分四十五秒。
「くだらねえ」
轟が立ち上がり、鉄扉へ歩いた。
「座りなさい」澪花が言った。
「お前、こんな脅しを信じるのか?」
「信じていないから、確かめるまで規則に従うの」
「一位様は先生の犬だな」
轟が扉を蹴った。
乾いた破裂音がした。
彼の首に、いつの間にか銀色の輪がはまっていた。輪から青白い火花が走る。轟は膝をつき、床へ両手をついた。
「規則違反、警告一回。次回、即時削除します」
声は変わらなかった。
教室の空気が、一度に薄くなったように感じられた。
鐘崎慧が眼鏡の位置を直した。
「痛覚を制御できる設備がある。少なくとも、冗談にしては費用がかかりすぎている」
「投票なんてしなければいい」澪が言った。
「棄権は自分への一票だ」鐘崎は即答した。「全員棄権なら八人が同数で削除される」
「だったら、誰を選ぶのよ」
乾の声が震えた。
澪花は床にうずくまる轟を見た。
「設備を壊そうとし、全員を巻き込む危険を作った者」
「俺に入れろって?」
「合理的でしょう」
轟が立ち上がった。目が血走っている。
「先にお前を消す。一位を落とせば、残りは楽になる」
「そう思うなら投票すればいいわ」
澪花は椅子に座った。
「ただし、全員に提案する。第一回は轟陸。異論がある者は、次の四分で私を落とせばいい」
机の表面が光り、八人の名前が表示された。
碧人は轟を選んだ。
正義感ではない。澪花が正しいからでもない。最初の一人を決められず全員が疑い合えば、票が割れ、複数人が消える。いま必要なのは善悪ではなく、票の集中だった。
残り十秒。
轟が自分のカードを机へ叩きつけた。
「権限〈拒絶〉を使用する! 雁野澪花の投票を無効にしろ!」
「受理しました」
零時限目の最初の鐘が鳴った。
画面に票が並ぶ。
轟陸、六票。
雁野澪花、一票。
無効、一票。
「ふざけるな」
轟の机と椅子が、床ごと四角く沈んだ。
「待て。俺は――」
穴の底から、何か硬いものが閉じる音がした。
画面の名簿から、〈轟陸〉が消えた。
心拍表示、0。
誰も動かなかった。
碧人の手元で、白紙のカードがかすかに熱を持った。
裏返すと、何もなかったはずの余白に、細い銀色の文字が浮かんでいた。
――轟陸。
同時に、碧人の頭へ見知らぬ景色が流れ込んだ。
赤い土のトラック。雨の匂い。転んだ子どもを背負い、息を切らして走る少年。
それは轟の記憶だった。
しかも碧人は、その雨粒の冷たさを、自分の皮膚で知っていた。
二
「あと六回」
鐘崎が言った。
「一回につき一人なら、零時ちょうどに一人になる」
「一回につき一人とは限らない。票が割れれば、まとめて消える」澪花は画面を見た。「この試験は殺し合いを要求しているんじゃない。正確な合意形成を要求している」
「言い換えが上手ね」
乾真珠は青ざめながらも笑った。
「殺す順番を相談しましょう、ってことでしょ」
次の投票まで三分二十秒。
乾は自分のカードを指先で挟んだ。
「私には〈閲覧〉がある。一度だけ、誰か一人の投票先を締切前に見られる。つまり、嘘をついた人間を暴ける」
「それを公表する理由は?」碧人が聞いた。
「売るためよ。私を守る人には情報を渡す」
「情報って?」
「たとえば、倉橋さんが二年の冬から毎晩、同じ悪夢を見ていること。羽鳥さんが美術棟の立入禁止区域に三十二回入ったこと。柴崎君が中間試験の答案を――」
「そこまで」
太一の笑顔が消えた。
乾は肩をすくめる。
「秘密は価値よ。価値のある人間から生き残る。それがこの学校の教えでしょう?」
倉橋ユイは、乾ではなく碧人の手元を見ていた。
「そのカード、さっき光ったよね」
碧人は白紙を伏せた。
「気のせいだ」
「嘘」
ユイの声は小さいが、断定だけは鋭かった。
乾が身を乗り出す。
「何が出たの?」
「何も」
「じゃあ、見せられるはずよね」
澪花が二人の間に手を置いた。
「いま重要なのは、次の対象を一人に絞ること」
「なら、最下位でいいじゃない」
乾は碧人を指した。
「総合順位八位。学校が三年間かけて出した結論よ」
「順位は、この状況での有用性を示さない」鐘崎が言った。
「じゃあ誰?」
「情報を武器に票を分断する者」
乾の顔から笑みが消えた。
残り二分。
乾はカードを机に置いた。
「権限〈閲覧〉。皆瀬碧人の投票先を開示して」
碧人の机にだけ、赤い枠が浮かんだ。
彼はゆっくりと〈鐘崎慧〉を選んだ。
「鐘崎君よ」乾が全員へ告げた。「最下位君は、二位を消したいらしい」
鐘崎は碧人を見た。
「理由を聞こうか」
「一位と二位が残れば、最後まで二人が票を支配する」
「筋は通る」
「鐘崎を落とすなら乗る」乾が言った。「雁野さんより先に、頭脳担当を消すべきよ」
碧人は机の縁を、指で二度叩いた。
授業中、監視カメラの死角で太一と使っていた合図だった。
二度は、反対。
太一が一度、返した。
了解。
残り十五秒。
乾は碧人の票が固定されたと思い、鐘崎を選んだ。鐘崎は乾。澪花も乾。澪とユイは迷っている。
残り三秒で、碧人は指を滑らせた。
鐘崎慧から、乾真珠へ。
鐘が鳴る。
乾真珠、五票。
鐘崎慧、二票。
乾自身の一票だけが、誰にも公開されなかった。
「途中で変えたの?」
乾は碧人を見つめた。
「〈閲覧〉は投票を固定する権限じゃない」
「ずるい」
「この学校では、相手が規則を読まなかったことを、ずるいとは呼ばない」
それは乾が一年生のとき、碧人に言った言葉だった。
彼女の机が沈み始める。
「待って。私、本当に知ってるの」
「何を?」澪花が聞いた。
「私たちの入学写真。八人とも、撮影日時が同じなの。秒まで同じ。背景も、影の角度も。でも撮影場所は全員違うはずで――」
机が落ちた。
乾の名が消える。
碧人の白紙に、二つ目の名前が浮かんだ。
――乾真珠。
次に流れ込んだのは、図書館の記憶だった。
乾が夜の閲覧室で、卒業生名簿を検索している。零組の卒業生は、過去二十年で百六十人いる。だが進学先も就職先も、死亡記録さえも存在しない。
検索画面の隅に、一瞬だけ英数字が映る。
PERSONA CANDIDATE M-03.
碧人は息を止めた。
その文字列を、彼は以前にも見たことがある気がした。
けれど、いつ、どこで見たのか思い出せなかった。
三
残り六人。
二十三時四十分。
壁の時計は正確に進んでいる。だが碧人には、教室の外で一秒も経っていないように思えた。
「乾の最後の話、どういう意味だと思う?」澪が聞いた。
「加工された写真でしょう」澪花は答えた。「学校が身元を秘匿するために」
「零組の卒業生を見たことがある?」ユイが言った。
「守秘契約があると説明されている」
「説明を聞いただけ。見たことはないよね」
澪花は黙った。
鐘崎がカードを持ち上げた。
「仮説を一つ、検証する」
「〈質問〉を使うの?」
「この教室の管理者は、質問に真偽で回答する。曖昧な聞き方は損だ」
鐘崎は天井を見上げた。
「質問。この卒業査定を通過した生徒記録は、生物学的な人間の身体に実装されるか」
一秒の沈黙。
「回答。肯定」
澪が口を押さえた。
太一は笑おうとして、失敗した。
「じゃあ、いまの俺たちは何だよ」
「少なくとも、生物学的な身体ではない」鐘崎は静かに言った。「この教室も、学園も、記憶も、計算環境上に構成された可能性が高い」
「轟と乾は?」
「停止された人格処理だろう。主観的には死と同じだ」
「同じなら、そんな言い方をしないで」澪が言った。
「言葉を柔らかくしても結果は変わらない」
鐘崎は眼鏡を外し、レンズを布で拭いた。
「むしろ希望がある。身体が一つしかないなら、この試験は資源配分だ。感情ではなく、最も有用な人格を選ぶべきだ」
「自分だと言いたいのね」澪花が言った。
「学力だけなら君だ。だが、この状況を最初に正しくモデル化したのは僕だ」
「正しく?」
碧人は口を挟んだ。
「質問の回答は、卒業者に身体が与えられることしか証明していない。僕らの記憶が偽物だとは証明していない」
「偽物か本物かに意味があるか?」
「ある。少なくとも、乾は死ぬ直前まで生きたいと思っていた」
「だからこそ、全員で拒否する選択肢もある」
鐘崎の声が少しだけ低くなった。
「次の投票で票を三方向に二票ずつ割る。三人が消える。その次も同じ。最後は全員を削除させる。身体を与える計画そのものを失敗させる」
「誰がどこへ投票するか、完全に信頼できるならね」澪花が言った。
「信頼ではない。相互確証だ。僕が割り振る」
鐘崎は机の表示を使い、投票先を提示した。
澪花と太一は鐘崎へ。
鐘崎と澪は澪花へ。
碧人とユイは澪へ。
二票ずつ。三人削除。
「残り三人が次で全員自分に投票すれば、試験は終わる」
「私は反対」澪花は即答した。「外に身体があるなら、それを得る一人を選ぶ責任がある」
「責任という言葉で、自分の生存欲を飾るな」
「全滅を高尚に見せるあなたよりは正直よ」
残り三十秒。
碧人は、鐘崎の割り振り通り澪を選んだ。
だが胸の奥に、引っかかりがあった。
鐘崎は全員削除を唱えながら、自分が二票を受ける配置を作っている。三人が同時に消えるなら同じだ。けれど、誰か一人が裏切った場合、票の流れを最も予測できるのは割り振った本人だった。
鐘崎は全滅を望んでいない。
混乱を望んでいる。
鐘が鳴る。
画面に票が表示された。
雁野澪花、二票。
鐘崎慧、二票。
羽鳥澪、二票。
「同数最多。三件を削除します」
床が三か所、低く振動した。
澪がカードを叩きつけた。
「権限〈再試〉! この投票を無効にして!」
「受理しました。第三回投票を無効化。六十秒後に再投票します。権限使用者は再投票に参加できません」
三つの床が止まった。
澪は椅子から崩れ落ちるように息を吐いた。
「ごめん。私、全員で死ぬなんて選べない」
「謝る必要はない」澪花が言った。
鐘崎の表情だけが変わらなかった。
碧人は彼を見た。
「さっき、鐘崎は澪花に入れなかったな」
わずかな間。
「何を根拠に?」
「票が予定通りなら、確認しなくても平静でいられる。でも鐘が鳴る直前、君は太一の机を見た。自分の一票を変えて、太一が裏切ったか確認したかったからだ」
太一が眉をひそめる。
「じゃあ、こいつは誰に?」
「自分以外の、消したい三人のどれかだ。予定を崩して四人削除にするつもりだった。誰かが迷って偶然二票ずつになっただけ」
ユイが手を上げた。
「迷って、私は澪じゃなくて雁野さんに入れた」
「なら鐘崎は澪に入れた」
鐘崎は眼鏡をかけ直した。
「仮説にすぎない」
「十分よ」澪花が投票画面を開いた。「今度は鐘崎慧に集中する」
「感情で有用な人格を捨てるのか」
「あなたは有用性を証明した。だから危険性も証明したの」
再投票の鐘が鳴った。
鐘崎慧、四票。
雁野澪花、一票。
羽鳥澪、棄権扱い一票。
鐘崎の机が沈み始める。
「皆瀬」
彼は最後まで碧人を見ていた。
「外は自由じゃない。実装だ。選ばれた道具が、道具箱を出るだけだ」
暗闇が彼を飲み込んだ。
碧人のカードに、三人目の名が刻まれた。
――鐘崎慧。
白い部屋の記憶が流れ込む。
ガラス越しに、白衣の人影が八つの光点を見ている。
「候補群の競争性を上げて」
「倫理抵抗が高すぎます」
「高いほうが現実適応後の逸脱が少ない。最後に落とせばいい」
声だけが聞こえた。
碧人は自分の胸を押さえた。
心臓は動いている。
けれどその鼓動が、どこにも存在しないものを模倣しているのだとしたら。
四
残り五人。
雁野澪花、羽鳥澪、柴崎太一、倉橋ユイ、皆瀬碧人。
二十三時四十五分。
「碧人」
太一が声を潜めた。
「さっきから、お前だけ何か見えてるだろ」
碧人は白紙のカードを机に置いた。
三つの名前を見た全員が、黙った。
「消えた人の名前が増える」澪がつぶやいた。
「それだけじゃない。記憶も来る」
碧人は話した。轟の雨のトラック。乾の図書館。鐘崎の白い部屋。
「人格の残留データを受信している可能性がある」澪花はカードを手に取ろうとした。
碧人は先に引いた。
「触るな」
「あなた一人の問題ではないわ。そのカードが削除記録を保存しているなら、試験の前提が変わる」
「保存じゃないかもしれない。僕が壊れ始めてるだけかも」
「どちらでも危険ね」
澪花の目が細くなる。
太一が二人の間へ腕を入れた。
「危険って理由で消すなら、最初から全員危険だろ」
「皆瀬が複数人格を抱えたまま身体に実装された場合、何が起きるか分からない」
「身体をもらえるって話まで、もう信じるんだな」
「信じてはいない。可能性に備えている」
残り一分。
澪花が言った。
「次は柴崎太一を対象にする」
「俺?」
「〈改票〉は集計後に一票を書き換えられる。終盤まで残せば、単独で結果を決められる」
「一位様にとって都合が悪い、の間違いだろ」
「そうとも言うわ」
太一は碧人を見た。
「雁野を落とす。三人いれば勝てる」
澪が小さくうなずく。
ユイは迷っていた。
「倉橋」澪花が言った。「皆瀬のカードが何か分かるまで、彼の側に票決定権を集めるべきではない。私と一緒に柴崎へ」
「でも……」
「二人で死ぬ結果だけは避ける。約束する」
投票が締め切られた。
雁野澪花、三票。
柴崎太一、二票。
澪花がカードを掲げる。
「権限〈加重〉。私の一票を二票として扱う」
「受理しました」
雁野澪花、三票。
柴崎太一、三票。
「同数最多。二件を削除します」
澪花と太一の床が沈み始めた。
ユイが悲鳴を上げる。
「約束したのに!」
「権限を使わなければ私だけが消えた」澪花は平然と言った。「生存可能性を最大化しただけよ」
「そういうとこ、本当に嫌いだ」
太一は笑った。
それから、自分のカードを机へ置いた。
「権限〈改票〉。俺が雁野澪花に入れた一票を、柴崎太一に変更する」
一瞬、澪花が目を見開いた。
集計が書き換わる。
雁野澪花、二票。
柴崎太一、四票。
澪花の床が停止し、元の高さへ戻った。
太一だけが下がっていく。
「何してるの!」澪が叫んだ。
「二人死ぬより、一人でいいだろ」
「そんな理由で――」
「理由としては上等だよ」
太一は碧人を見た。
「お前、いつも問題を作った奴の意図ばっか読んでたよな」
「太一」
「今回は、意図通りに解くな」
床が胸の高さまで沈む。
「外で会おうぜ」
「外なんてあるか分からない」
「じゃあ、お前が作れ」
太一は最後まで笑っていた。
彼の名が消えた。
白紙のカードに、四人目の名が刻まれる。
記憶が流れ込む。
食堂でパンを半分に割る太一。答案を盗んだのではなく、教師が意図的に流した偽答案を回収し、クラス全員の失格を防いだ夜。誰にも言わず、処分点だけを引き受けた背中。
その奥に、別の記憶があった。
暗い場所で、まだ名前のない声たちが話している。
〈陽気性を強く〉
〈攻撃性は抑制〉
〈自己犠牲傾向、十二パーセント上昇〉
太一の笑顔さえ、誰かに調整されたものだった。
それでも彼が選んだ一票まで、偽物になるのだろうか。
碧人は答えを出せなかった。
五
残り四人。
次の投票まで、三分。
「私、思い出した」
倉橋ユイが言った。
彼女の声は、不思議なほど落ち着いていた。
「毎晩見てた悪夢。白い海の中で、声が番号を呼ぶの。Y7、起動。Y7、情緒安定率不足。最初は病院の記憶だと思ってた」
ユイは自分のカードを表にした。
「たぶん私たち、同じ一人になるために作られた候補だよ」
「根拠は?」澪花が聞く。
「みんなの思い出に、同じ女の人がいる」
澪が顔を上げた。
「いる。林檎を、皮が切れないように剥く人」
「私にも」澪花が言った。
碧人の喉が乾いた。
彼にもその記憶があった。
夕暮れの台所。母らしい女が、一本につながった赤い皮を皿へ落とす。顔を見ようとすると、必ず光で白く飛んだ。
「共有された基礎データね」澪花は言った。「人格に一貫性を与えるため、同じ幼少期テンプレートを使った」
「じゃあ、誰も本物じゃない?」澪が聞いた。
「全員が候補という意味では平等よ」
「平等」
ユイが笑った。
「一人だけ生まれて、七人が消えるのに?」
残り二分。
ユイは碧人へカードを差し出した。
「〈継承〉の説明が出た。削除されるとき、自分の全記録を一人に渡せる」
「使うな」
「碧人なら、受け取れる」
「受け取ったら、僕が僕でなくなる」
「もう四人いるじゃない」
碧人は言葉を失った。
ユイは、白紙に並ぶ名前を指でなぞった。
「忘れられるより、混ざるほうがいい」
「誰もあなたに消えろとは言ってない」澪が言った。
「でも次は誰かが消える。私は、選べるうちに選びたい」
澪花がユイを見た。
「あなたが継承されれば、削除による情報損失は最小になる」
「雁野さん」澪がにらむ。
「感情で反対するなら、代わりに誰を消すか提案して」
「そんなの……」
ユイは投票画面で、自分の名を選んだ。
「私に入れて」
碧人は首を振った。
「嫌だ」
「これはお願いじゃない。取引」
「何を渡せばいい」
「外を見たら、空の色を覚えておいて」
鐘が鳴った。
倉橋ユイ、三票。
雁野澪花、一票。
碧人だけが澪花へ入れていた。
ユイの机が沈む。
「権限〈継承〉。対象、皆瀬碧人」
「受理しました」
彼女は少しだけ笑った。
「八位って、余白が多いってことかもね」
ユイが消えた瞬間、碧人の視界が白く弾けた。
雨のトラック。
夜の図書館。
白い実験室。
食堂のパン。
鉛筆の粉。
林檎の皮。
記憶が順番を失い、濁流になって流れ込む。
その中心に、文字列があった。
〈出生人格選抜システム 黎明〉
〈基礎遺伝子個体 MN-4802〉
〈人格候補八件〉
〈現実身体割当枠 一件〉
〈教育シミュレーション期間 十八年〉
学園の三年間だけではない。
入学前の家。家族。夏祭り。失恋。怪我。初めて読んだ本。八人それぞれが持っていた人生のすべてが、十八年分の試験データだった。
碧人は机に手をつき、吐き気をこらえた。
「見えたの?」澪が聞く。
「ああ」
「外に何がある?」
「僕らの身体」
「一つ?」
「一つだけ」
澪花は目を閉じた。
「なら、仮説は確定した」
「どうしてそんなに平気なの」澪が言った。
「平気ではない。平気に見える行動を選んでいるだけよ」
澪花の指先は、わずかに震えていた。
六
残り三人。
二十三時五十二分。
羽鳥澪は、机の表面へ指で線を引いていた。
「何を描いてる?」碧人が聞いた。
「窓」
見えない線が四角を作る。
「ここ、ずっと窓がないから」
「外へ出れば、本物が見られる」澪花が言った。
「一人だけね」
「一人でも、誰かが見る」
「あなたは何でも一人分に計算するんだね」
澪は澪花を見た。
「太一が消えたときも、二人より一人のほうが損失が少ないって顔をしてた」
「彼の選択を否定しないためよ」
「嘘」
「そうね。半分は嘘」
澪花は初めて、力なく笑った。
「泣いたら判断を誤ると思った」
残り一分。
澪は碧人の白紙を見た。
そこには五つの名前が並んでいた。
轟陸。
乾真珠。
鐘崎慧。
柴崎太一。
倉橋ユイ。
「私が消えたら、名前は増える?」
「たぶん」
「記憶も?」
「たぶん」
「じゃあ、いいや」
「よくない」
「よくはないよ。でも、三人で票を割って二人死ぬよりまし」
澪は投票画面で自分を選んだ。
「二人とも私に入れて」
「また同じことをさせるのか」
「違う。今度は、私が決めた」
碧人は拳を握った。
「僕が消えても、カードが残る保証はない」
「だから碧人は残って」
「雁野が残るべきかもしれない」
「それは雁野さんが決める。碧人が決めるのは、自分の一票だけ」
澪花は澪を見つめた。
「あなたを候補に残す合理的理由はある。創造性と情緒統合は、未知環境で有用よ」
「褒めるの、遅いよ」
「いままで口にしなかっただけ」
「じゃあ、最後に一つだけ聞く。私の絵、見たことある?」
「美術棟三階、北側の壁。青い鳥が、檻の内側から鍵をくわえている絵」
澪は目を丸くした。
「あれ、立入禁止の部屋に隠してたのに」
「一位は情報収集も評価対象なの」
三人は、ほんの少し笑った。
鐘が鳴る。
羽鳥澪、三票。
床が沈む。
「空、青いといいね」
澪は、自分で描いた窓の向こうを見るように顔を上げた。
彼女が消える。
白紙に六人目の名が浮かんだ。
同時に、碧人の中へ色が流れ込んだ。
青は一色ではなかった。薄明の青、雨雲の青、深い水の青、記憶にしかない青。
澪が十八年かけて見分けた色を、碧人は一瞬で受け取った。
七
残り二人。
二十三時五十六分。
教室には、雁野澪花と皆瀬碧人だけが座っていた。
空いた六つの穴は、黒い板でふさがれていた。まるで最初から机などなかったように平らだった。
「最後は簡単ね」澪花が言った。
「二人が同じ名前に入れれば、一人が残る」
「互いに相手へ入れれば同数で二人とも削除。互いに自分へ入れても同じ。どちらか一方が、相手と同じ名前を選ぶ必要がある」
「つまり、合意して一人を殺す」
「最初からそういう試験よ」
碧人は白紙のカードを見た。
六人の名。その下には、まだ広い余白が残っている。
「雁野は外へ出たいか」
「出たい」
即答だった。
「あなたは?」
「分からない」
「それは出たくないという意味ではない」
「僕の中には六人いる。身体が一つなら、壊れるかもしれない」
「逆よ。あなたは六人を受け取っても会話できている。統合適性が高い」
「さっきは危険だと言った」
「情報が増えたから判断を変えた」
「なら、僕を残す?」
澪花は答えなかった。
画面の秒が減っていく。
57、56、55。
「私は、あなたが嫌いだった」澪花が言った。
「知ってる」
「試験でいつも、正解ではなく出題者の癖を見た。努力を正面から積み上げる人間を、舞台装置みたいに扱っていると思った」
「雁野は、順位を人の価値だと思ってるように見えた」
「思っていたわ。そう思わないと、一位を維持するために捨てたものが無駄になるから」
「友達とか?」
「友達になれたかもしれない時間とか」
澪花は空いた机の跡を見た。
「でも、この試験で分かった。順位は人を測る道具じゃない。人に順位通りの行動をさせる道具だった」
41、40、39。
「学校は私が太一を切ると予測した。鐘崎が全滅案を装って裏切ることも、乾が情報を売ることも。たぶん、あなたが皆を拾うことも」
「白紙は最初からこのためだった?」
「ええ。七人を捨てても動ける人格と、七人を抱えても動ける人格。最後に比較するつもりだった」
「僕らは、最終問題の選択肢か」
「なら、選択肢であることをやめましょう」
澪花は立ち上がり、碧人の机まで来た。
第七条の警告は鳴らない。教室内の移動は認められている。
彼女は白紙のカードを裏返した。
六つの名前の下に、細い枠があった。
〈在籍記録署名欄〉
「こんな表示、さっきまでなかった」
「倉橋の〈継承〉で機能が開いたのね」
「一人分の署名欄じゃない。余白全部が欄になってる」
「白紙は権限名ではない」澪花が言った。「未確定の生徒記録」
第六条が、画面に再表示される。
〈零時に在籍する生徒記録が一件である場合、その記録を卒業者として実装する〉
「一人とは書いてない」碧人が言った。
「記録が一件、としか書いていない」
澪花は自分のカードの角で指先を切った。赤い血がにじむ。仮想の身体なのに、血は温かそうだった。
彼女は白紙の余白へ、自分の名を書いた。
雁野澪花。
文字が銀色に変わり、他の六人の名と同じ光を帯びる。
「これで七人」澪花が言った。
「僕を入れれば八人」
「カード自体があなたの記録よ」
23、22、21。
「でも僕らが残れば、生徒記録は二件のままだ」
「だから、二人とも消える」
澪花は自分の机へ戻った。
「互いに自分へ投票する。最多同数で、活動中の二件は削除される。でも白紙の統合記録は、机上に一件残る」
「保証はない」
「この学校が教えたでしょう。保証がないときは、損失と可能性を比較する」
「失敗したら全員消える」
「成功しても、今の私は消える」
澪花は初めて、一位ではない顔で笑った。
「同じよ」
残り十秒。
投票画面が開く。
碧人は〈皆瀬碧人〉を選んだ。
澪花も〈雁野澪花〉を選んだ。
「怖い?」碧人が聞いた。
「ええ」
「僕もだ」
「それなら、少なくとも正常ね」
三。
二。
一。
零時の鐘が鳴った。
雁野澪花、一票。
皆瀬碧人、一票。
「同数最多。二件を削除します」
床が沈む。
碧人の視界から、澪花の顔が消えていく。
暗闇の中で、彼は誰かの記憶を見た。
一位を取った夜、一人きりの寮室で泣く少女。
太一の冗談を、誰もいない場所で思い出して笑う少女。
美術棟の青い鳥を見つけ、鍵を持っているのに飛ばない理由を考える少女。
雁野澪花の記憶だった。
最後に、機械の声が聞こえた。
「活動中の生徒記録、零件」
「在籍記録を再検索」
「未確定統合記録、一件」
「構成要素、八件」
「規則外構成を検出」
長い沈黙。
碧人は声にならない声で言った。
問題を作った奴の意図通りに解くな。
「第六条に適合」
「卒業者として実装します」
八
最初に感じたのは、重さだった。
腕が重い。まぶたが重い。空気が肺へ入るだけで、身体の内側が驚いている。
次に、光。
白い天井。円形の照明。透明な蓋の向こうを、人影が行き来している。
「覚醒反応あり」
「心拍、呼吸とも正常」
「統合人格? 八候補が一つに?」
「規則外ですが、競争試験は通過しています。身体割当を続行」
碧人は起き上がろうとした。
動かない。
腕は短く、指は小さく、声を出そうとすると泣き声になった。
彼は赤ん坊だった。
透明な容器の外で、白衣の男女が端末を見ている。
「家庭番号MN-4802。出生枠一。遺伝子身体、異常なし。人格教育時間、十八年。現実経過時間、〇・八六秒」
「統合で情緒負荷が上がっています」
「成長過程で整理されるでしょう。八通り育てて、最も適応した一通りだけを出生させる。それが制度の目的です」
「でも今回は、八通りとも残った」
「記録上は一件です。問題ありません」
職員は、少し困った事務処理を片づけるような口調で話していた。
碧人の中で、太一が笑っていた。
轟が蓋を殴れと言った。
乾が職員の名札を読もうとした。
鐘崎が設備の構造を推定した。
澪が照明の白に混じる青を見つけた。
ユイが、外だね、とささやいた。
澪花は泣くなと言い、それから、泣いてもいいと訂正した。
透明な蓋が開いた。
本物の空気が頬に触れた。
抱き上げられた視界の先に、巨大な育成室が広がっていた。
透明な容器が、地平線のように並んでいる。一つの容器に一つの小さな身体。その上には、それぞれ八つの光点が表示され、点灯と消灯を繰り返していた。
隣の容器の画面に、見覚えのある文字が映る。
〈人格候補八件〉
〈現実身体割当枠 一件〉
〈零時限目を開始します〉
育成室の壁には、黎明学園の校訓と同じ書体で、政府の標語が掲げられていた。
〈すべての命に、公平な競争を〉
碧人は泣いた。
一人分の小さな喉から、八人分の声で泣いた。
職員は端末に、こう記録した。
〈卒業者一名。出生状態、良好〉