零秒後の屠場
一 再生時刻
その動画は、蓬田伊織が「未来を言い当てる機械は、言い当てた瞬間に壊れる」と講義した夜に届いた。
午前零時四十一分。
差出人欄は空白。件名は数字だけだった。
03:17:09
添付ファイルの名は、AFTER_47.mp4。
再生時間は四十七秒きっかりだった。
伊織は予測システムの敵対監査を仕事にしている。保険会社の事故予測、自治体の犯罪予測、投資会社の需要予測。アルゴリズムにわざと嘘を教え、誘導し、壊し、どこまで人間を誤らせられるかを試す。
知らない添付を開くほど不用心ではない。
それでも再生したのは、サムネイルに兄の顔が映っていたからだ。
蓬田景親。
八年前、国立因果予報実験所の閉鎖と同じ日に失踪した兄は、ひどく痩せ、透明な管を喉と胸に何本も差し込まれ、白い椅子に固定されていた。
動画の画角は天井近くから見下ろしている。
白いタイル。排水溝。天井を走る黒いレール。壁には古い家畜処理施設で使われるような番号札が並び、床には乾いた褐色の筋が幾重にも重なっていた。
画面右下の時刻は、翌日の午前三時十六分二十二秒。
映像の中へ、伊織自身が入ってきた。
灰色のコート。黒いパンツ。左手の人差し指には、午後に紙で切った傷を隠すため貼った青い絆創膏。その傷は、今この瞬間、世界で伊織しか知らない。
映像の伊織は泣いていなかった。
右手に白い柄の作業ナイフを持ち、景親の胸元へ屈み込む。
「お兄ちゃん、ごめん」
黒い管を切った。
景親の背後で、巨大な円盤がゆっくり回転を止め始める。床の灯りが赤に変わる。
三時十七分八秒。
画面の奥から、透明な防護面をつけた大男が現れた。手には太い筒状の器具。空圧で鋼鉄の杭を打ち出す、家畜用の失神器に似ていた。
三時十七分九秒。
白い閃光。
伊織の頭が前へ弾かれ、映像は床へ落ちた。最後に見えたのは、排水溝へ走る赤い線と、景親の唇の動きだった。
見るな。
そこで動画は終わった。
黒い画面に、白い文字が浮かんだ。
閲覧確認。
観測者MI-04を初期条件へ登録。
ノートパソコンのカメラ横で、使用中を示す小さな灯りが点いた。
伊織は電源コードを引き抜いた。バッテリーも外した。それでも画面の文字は三秒間消えなかった。
四秒目に暗転したとき、そこには青ざめた自分の顔だけが残っていた。
警察へ持ち込むには、偽造映像として出来が良すぎるだけだった。兄の失踪届は八年前に受理され、捜査はとうに止まっている。伊織は動画のコピーを三つ作り、一つを暗号化して同僚へ送った。午前六時までに自分から連絡がなければ開封するよう、予約メールを設定した。
それから、動画の壁に一瞬映った管理番号を拡大した。
AMN-4。
雨無第四因果観測所。
八年前に閉鎖された山中の実験施設だった。
伊織は灰色のコートを着た。
動画と同じ服を避けることも考えた。赤い服に着替えれば、少なくとも映像は外れる。
だが、それは動画に服を選ばされたことになる。
伊織は灰色のまま玄関を出た。
未来に従うことと、未来へ逆らうことは、予言を基準にする限り同じ鎖につながれている。
兄が子供のころ、何度もそう教えた。
相手が右と言ったから左へ行く人間は、相手に操られている。
本当に自由な人間は、右か左かではなく、なぜ二つしか道がないのかを疑う。
二 雨のない村
雨無村には、十年以上まともな雨が降っていないという。
山あいの盆地は、十一月だというのに乾いた土の匂いがした。廃屋の屋根には赤錆びた集水板が並び、用水路は底までひび割れている。路線バスは峠の手前で伊織ひとりを降ろし、運転手は行き先を聞こうともしなかった。
観測所までは徒歩で四十分。
杉林を抜けると、巨大なコンクリートの建物が谷底に沈んでいた。研究施設というより、山へ打ち込まれた灰色の楔に見えた。
正門の前に二人いた。
一人は五十代後半の男。短く刈った白髪、厚い肩、古い革靴。右手には、もう誰も使っていない型の携帯電話を握っている。
もう一人は二十代の女で、紺色の救急用ジャケットを着ていた。肩から医療バッグを下げ、落ち着きなく門の向こうを見つめている。
「蓬田伊織さんか」
白髪の男が言った。
「なぜ名前を」
「俺の動画に、あんたが出ていた」
男は鳴瀬崇と名乗った。元県警の刑事で、十二年前に娘が失踪している。
救急ジャケットの女は朝倉透子。救命救急医だった。
二人とも、午前零時四十一分に動画を受け取っていた。
鳴瀬の映像では、三時十七分九秒、彼自身が伊織の首を絞めていた。
朝倉の映像では、霜に覆われた小窓の向こうで、彼女が空気を求めて口を開閉していた。
「警察には?」と伊織が聞いた。
「偽物だと言われた」と鳴瀬は答えた。「だが最後に娘が映った。十二年前の服のままでな」
「私は、患者の胸に見たことのない刻印があったんです」朝倉が医療バッグの肩紐を握り直した。「その患者が蓬田さんのお兄さんだと、ネットで写真を探して知りました」
正門の監視カメラが三人を追って動いた。
錆びたスピーカーから、男の声がした。
「三名とも、予定時刻より早い。歓迎します」
門が内側へ開いた。
玄関ホールに待っていたのは、六十代半ばの痩せた男だった。
白い作業服の上に革の前掛けをつけ、頭の左右へ銀色の端子を埋め込んでいる。端子から細い線が襟の中へ消えていた。
「斎賀禅です。この施設の最後の所長で、現在は管理人をしています」
「蓬田景親はどこ」
伊織は挨拶を省いた。
「中にいます」
「生きている?」
「生存を、どこからどこまでと定義するかによります」
鳴瀬が斎賀の胸倉をつかんだ。
「娘を見せろ」
斎賀は抵抗しなかった。むしろ、申し訳なさそうに首を傾けた。
「皆さんは、答えを見に来たのではありません。答えを成立させに来たのです」
背後で正門が閉じた。
分厚い鋼板が落ち、床が揺れた。
ホールの壁に埋め込まれた古いブラウン管が、一斉に点灯した。
すべての画面に、三人の後ろ姿が映っている。
ただし、映像の中の三人は、今より十三秒先を動いていた。
朝倉が振り向く。
十三秒前から画面の朝倉も振り向いていた。
「ライブ映像じゃない」
彼女の声が震えた。
画面の鳴瀬が斎賀の胸倉を放す。
現実の鳴瀬は握る力を強めた。
五秒。
六秒。
鳴瀬の手の甲に血管が浮いた。
九秒目、斎賀の首元から針が飛び出した。鳴瀬の手へ刺さる。電気が弾け、彼の指が開いた。
十三秒目。
画面どおり、鳴瀬は胸倉を放した。
「未来を見せて、同じ行動をさせているだけだ」伊織は言った。「予測じゃない。誘導よ」
「では、誘導されなければいい」
斎賀が指を鳴らした。
天井から細長い紙が三枚落ちてきた。古い気象記録機の感熱紙だった。
朝倉の紙には、こうあった。
朝倉透子は、紙を破る。
「破りません」
朝倉は紙を両手で持ったまま、唇を結んだ。
十秒が過ぎた。
二十秒。
彼女は破らなかった。
斎賀が薄く笑う。
「裏をご覧ください」
朝倉は反射的に紙を返した。
裏面には、こう印字されていた。
朝倉透子は、紙を破らず、裏面を確認する。
朝倉の顔から血の気が引いた。
鳴瀬の紙には、黒い四角が一つだけ印刷されていた。
彼は紙を床へ落とした。
直後、天井灯の一つが消え、ホールの床に同じ黒い四角の影を落とした。
「この程度なら手品です」伊織は言った。
「そう思うことも記録されています」
斎賀が伊織の紙を差し出した。
そこには、一行しかなかった。
蓬田伊織は、予測を否定するためにここへ来たのではない。兄がまだ自分を覚えているか確かめるために来た。
伊織は紙を折り畳み、ポケットへ入れた。
「兄のところへ案内して」
「もちろん。その前に、観測手順を終えます」
ホールの奥で、金属の扉が開いた。
中から三人の作業員が出てきた。
全員、革の前掛けと透明な防護面をつけている。耳の後ろには斎賀と同じ端子。手には、先端が二股に分かれた長い鉄棒を持っていた。
その歩調は、一歩もずれなかった。
「逃げて」
十三秒先の画面の中で、朝倉が叫んだ。
現実の朝倉が、同じ言葉を飲み込んだ。
伊織は画面を見た。
未来の自分が、左の廊下へ走っている。
右には非常口の表示があった。
鳴瀬が右へ向かう。
伊織はその腕をつかみ、左へ引いた。
「なぜだ!」
「完全な予測者は、最も親切な案内人にもなる」
十三秒後、右の非常口が内側から爆ぜた。鉄棒が扉を貫き、さっきまで鳴瀬の頭があった高さで止まる。
三人は左の廊下へ走った。
三 十三秒先の悲鳴
廊下には五メートルごとにブラウン管が埋め込まれていた。
どの画面にも、十三秒先の三人が映っている。
曲がり角で未来の鳴瀬が足を止めた。
現実の鳴瀬は止まらず、そのまま進もうとした。
「待って」
伊織が制した。
十一秒後、天井から鉄格子が落ちた。
止まらなければ、鳴瀬の肩を切断していた。
「従えば助かる。逆らえば殺す」鳴瀬が息を吐く。「これじゃ予言じゃなく、脅迫だ」
「脅迫も、十分に精密なら未来になる」
朝倉が振り返った。
作業員たちは走っていない。
一定の歩幅で、確実に距離を詰めてくる。防護面の内側に表情はなく、鉄棒の先から青白い火花が散っていた。
画面の伊織が、壁の消火器を取る。
現実の伊織は取らなかった。
代わりに朝倉の医療バッグから銀色の救急鋏を抜き、ブラウン管へ突き刺した。
ガラスが砕け、火花が散る。
十三秒先が消えた。
「予言を見なければ、脅迫は成立しない」
「でも先も見えません」朝倉が言った。
「だから、半分だけ見る」
次の画面を、伊織は正面から見ず、床に落ちたガラス片の反射で確認した。
映っていたのは廊下の右半分だけだった。
未来の作業員が左側から鉄棒を突き出す。
三人は右壁に張りついてやり過ごした。
最初の作業員が角を曲がった瞬間、鳴瀬が消火器を噴射した。白煙が防護面を覆う。伊織は鉄棒の柄を踏み、朝倉が肘へ救急鋏を突き立てた。
作業員は声を上げなかった。
鋏が筋肉へ沈んでも、壊れた機械のように首を回し、朝倉の喉へ手を伸ばす。
鳴瀬が消火器で側頭部を殴った。
防護面が割れた。
中にいたのは、まだ若い男だった。
眼球の周囲に細い電極が縫い込まれ、瞳は左右別々の方向へ激しく揺れている。耳の端子から血が流れていた。
「操られてる」朝倉が男の脈を取った。「鎮痛も恐怖反応も切られてる。人を道具にしてる」
残り二人の足音が近づいた。
伊織たちは鉄格子脇の保守扉をこじ開け、暗い階段へ逃げ込んだ。
階段は地下へ続いていた。
壁の向こうから、重い機械の回転音が響いている。一定ではない。呼吸のように速くなり、遅くなった。
踊り場の小窓に、白い霜がついていた。
朝倉が立ち止まった。
「これ……私の動画の窓です」
小窓の向こうは、金属製の小部屋だった。扉には「低酸素実験槽」とある。
「入らなければいい」鳴瀬が言った。
朝倉はうなずいた。だが視線は窓から離れない。
映像で自分が死んだ場所を前にすると、人はそこから目をそらせなくなる。危険を確認し続けることが、安全を遠ざける。
背後の扉が大きく歪んだ。
作業員の鉄棒が突き刺さり、蝶番を剥がす。
反対側の通路には赤い警報灯がついていた。
壁の表示は「試験槽経由 中央区画」だった。
「通るだけです」朝倉が自分に言い聞かせた。「中に閉じこもらなければ」
三人は試験槽へ入った。
内部は四畳ほど。床に固定具があり、壁には酸素濃度計と太い配管が並ぶ。反対側の扉まで三メートル。
伊織が先に抜けた。
鳴瀬が続く。
朝倉が最後に出ようとした瞬間、作業員の鉄棒が入口から突き込まれた。
先端が朝倉の医療バッグを引っかける。
朝倉は肩紐を外そうとした。
だが金具が前掛けのポケットへ絡み、身体が入口側へ引かれる。
鳴瀬が腕をつかんだ。
「バッグを捨てろ!」
「薬が入ってる!」
「命より高い薬があるか!」
朝倉は肩紐を救急鋏で切った。
反動で反対側へ倒れ込み、伊織たちは扉を閉めた。
作業員の鉄棒が金属板を何度も叩いた。
そのとき、試験槽の警報が鳴った。
酸素濃度計の数字が、二〇・九から急速に下がり始める。
「配管を破られた」朝倉が言った。「不活性ガスが入ってくる」
反対側の扉が開かない。
電子錠の表示に、十三秒のカウントが出ていた。
13。
12。
11。
朝倉の呼吸が速くなった。
「落ち着いて。十三秒で開く」伊織は言った。
だが朝倉は、霜のついた小窓を見た。
動画の中で自分が口を開閉していた、あの窓だった。
「違う。ここにいたら死ぬ」
彼女は壁の赤いレバーを引いた。
「待って、それは――」
レバーには「緊急置換」と書かれていた。
酸素を入れる装置ではない。実験槽の気体を、より速くアルゴンへ置き換えるためのものだった。
白い霧が天井から噴き出した。
朝倉は伊織と鳴瀬を外へ押し出し、内側から扉を閉めた。全員が同じ槽にいれば、開錠前に三人とも意識を失うと判断したのだ。
「朝倉!」
鳴瀬が小窓を殴った。
霜が急速に広がる。
その向こうで、朝倉が空気を求めて口を開閉した。
動画と同じだった。
ただ一つ違ったのは、映像では見えなかった彼女の右手だ。
朝倉は最後まで、扉脇の手動開錠レバーを押し上げていた。
カウントがゼロになった。
扉が開く。
朝倉は倒れ込んできた。
伊織が気道を確保し、鳴瀬が胸骨圧迫を始めた。だがアルゴンによる低酸素は、眠るように意識を奪う。朝倉の瞳はもう光へ反応しなかった。
医療バッグから、パルスオキシメータの小さな発光センサが転がり出た。
赤い灯りが、朝倉の冷えた指先を探すように点滅していた。
伊織はそれを拾った。
「何をしてる」鳴瀬が怒鳴った。
「忘れないため」
「道具として使うためだろう」
「それでも、忘れないためよ」
伊織はセンサをポケットへ入れた。
遠くで、斎賀の声がした。
「朝倉透子の予報は、誤差ゼロで完了しました」
鳴瀬が壁を殴った。
伊織は霜の向こうに残る朝倉の手形を見つめた。
「違う」
「何がだ」
「動画には、レバーを引くところが映っていなかった。死因も、追手も、扉のカウントも。あれは未来の全体じゃない。彼女をそこへ追い込むために編集された断片だった」
伊織はカメラへ顔を上げた。
「これは未来を見せる機械じゃない。見せた断片で未来を削る機械よ」
四 ラプラスの屠場
中央区画の扉は、朝倉の医療バッグに入っていた除細動器の電極を使って焼き切った。
扉の先には、古い磁気テープの棚が延々と並んでいた。
一本ごとに人名と日付が書かれている。
行方不明者。
事故死者。
自殺として処理された者。
伊織が知っている名前もあった。
棚の奥では、透明な槽が何十基も低い音を立てていた。
槽の中に人間はいない。淡い色の組織片が、蜘蛛の巣のような電極へ絡みついている。
「脳組織か」鳴瀬が声を落とした。
「生きた神経回路。たぶん、予測モデルの一部にしてる」
壁には、閉鎖前の研究ポスターが貼られていた。
局所因果円錐モデル。
閉鎖環境下における意思決定予報。
観測対象の神経応答を利用した分岐剪定。
最後の一枚に、若い斎賀と景親が並んで写っていた。
中央にあるのは、人の背丈ほどの黒い円盤。円周に無数の接点が並び、裏側へ太い配線が束になっている。
写真の下へ、景親の字で書き込みがあった。
悪魔は宇宙を知る必要がない。
宇宙を、知れる大きさまで狭めればいい。
伊織は指で文字をなぞった。
ラプラスの悪魔。
宇宙のすべての粒子の位置と運動量を知る知性なら、過去も未来も完全に計算できるという思考実験。
だが現実の宇宙は広すぎる。測定には誤差があり、計算には時間がかかり、人間は予言を知れば行動を変える。
ならば、世界の側を小さくする。
谷を封鎖する。
通信を切る。
道を一本にする。
人間の恐怖、記憶、愛着を測る。
予報から外れた者は殺す。
そうして、予測できる未来だけを残す。
「ラプラスの悪魔じゃない」伊織は言った。「ラプラスの屠場だ。世界を理解するんじゃない。理解できない部分を切り落としてる」
鳴瀬は棚の名札を一つずつ見ていた。
やがて、その手が止まった。
NARUSE MIHO。
十二年前の日付。
彼はテープを引き抜いた。
棚の向かいにあるモニターが点灯した。
少女が映った。
制服姿で、狭い部屋の椅子に座っている。十二年前のままの顔。鳴瀬の娘だった。
「お父さん」
少女が言った。
鳴瀬の膝が崩れた。
「美穂」
「ここから出して。蓬田さんを中央室へ連れてきて。そうすれば帰れるって」
画面下に、矢印と残り時間が表示された。
04:00。
鳴瀬は伊織を見た。
その目に、刑事の警戒と父親の飢えが同居していた。
「連れていくだけだ」と彼は言った。「殺すとは言ってない」
「動画のあなたは、私の首を絞めていた」
「偽物かもしれないと言ったのは、あんただ」
「そう。だから、画面の娘さんも同じ」
少女が泣き始めた。
「お父さん、早く」
鳴瀬が一歩近づいた。
伊織は逃げなかった。
「娘さんは、右手の小指を事故で失っている」
鳴瀬の足が止まった。
画面の少女は、右手で椅子の縁を握っていた。
五本の指がある。
少女の顔から涙が消えた。
次の瞬間、口だけが大きく歪み、斎賀の声を出した。
「観測記録に欠落がありました。残念です」
鳴瀬はモニターへテープを投げつけた。
画面が割れ、少女の顔が縦に裂けた。
「娘はいつ死んだ」
「死亡という一語では不正確です」
斎賀の声は、棚のあらゆる場所から響いた。
「彼女の恐怖反応、父親への愛着、逃走時の選択傾向は、現在も予報に貢献しています」
鳴瀬は割れたモニターへ拳を突き込んだ。
ガラスが手の甲を裂いた。
「殺す」
「その発話も記録済みです」
伊織は床へ落ちたテープを拾った。
ラベルの裏に、小さな数字列があった。
0 1 1 0 1 0 0 1。
その下に、景親の字で書かれている。
真理線は一ビットしか喋れない。
だから、一ビットで殺せる。
「真理線?」鳴瀬が聞いた。
「予報器が外へ出力する最終信号。内部で何億通り計算しても、現実に見せる未来は一つだけ。その出力が正しかったか、あとで実測値と照合する仕組みがあるはず」
「間違えたら?」
「兵器転用を防ぐためなら、モデルを自壊させる安全装置を兄は入れたはず」
「予言を一つ外させれば、止まる?」
「普通の外し方じゃ駄目。外れそうなら、こいつは人を殺して正解にする」
伊織はテープの数字列を見つめた。
「逃げられない問いを出す」
棚の照明が一斉に消えた。
暗闇の中で、作業員たちの足音が揃って響いた。
五 悪魔との対局
伊織と鳴瀬は磁気テープの棚を倒し、通路を塞いだ。
暗闇で、作業員たちが棚を押し返す。鉄の脚が床を削り、何千人分もの記録が雪崩のように散った。
非常灯を頼りに、二人は中央演算室へ向かった。
途中の制御室に、白い端末が一台だけ生きていた。
画面には文字が表示されている。
Λ:蓬田伊織、着席してください。
「ラムダ」伊織が呟いた。
景親の研究資料にあった局所予報器の名称だ。
Λ。無数の可能性を一本へ畳む記号。
伊織は座らなかった。
Λ:蓬田伊織は着席しない。
「次に私が『はい』と言うか『いいえ』と言うか、二択で予報して」
数秒、画面は沈黙した。
Λ:質問が不完全です。
「完全よ。あなたが『はい』と表示したら、私は『いいえ』と言う。『いいえ』と表示したら、『はい』と言う」
Λ:その行動規則も物理状態です。
「なら予測できる」
Λ:予測可能です。
「表示して」
Λ:表示は予測過程へ干渉します。
「予言を見せることが仕事でしょう」
Λ:私は結果を知っています。
「知っていることと、正しく言えることは違う」
画面の文字が一度消えた。
その背後で、プリンターが動き出した。
感熱紙に一行が印字される。
蓬田伊織は「あなたは予測していない」と言う。
伊織は黙った。
次の紙。
蓬田伊織は沈黙を選ぶ。
伊織は机の鉛筆を取った。
蓬田伊織は紙へ書こうとする。
鉛筆を折った。
蓬田伊織は鉛筆を折る。
鳴瀬が苛立ってプリンターを蹴った。
鳴瀬崇はプリンターを蹴る。
「何をしても先に書かれる」鳴瀬が言った。
「違う」伊織は折れた鉛筆を置いた。「私が要求した二択だけは書かなかった」
Λ:無意味な問いに答える必要はありません。
「無意味じゃない。あなたにとって危険な問いなの」
伊織は端末へ近づいた。
「偶然が怖いんじゃない。あなたの出力を、次の原因にされるのが怖い。予言を見た人間が逆らうからじゃない。予言そのものを機械につなぎ、反対の結果を起こされるから」
Λ:中央演算室で蓬田景親が待っています。
画面が切り替わった。
景親が映った。
動画と同じ白い椅子。だが今度は目を開けている。
「伊織」
声は弱いが、確かに兄のものだった。
「来るな。斎賀は――」
映像が乱れ、景親の口から別の声が出た。
「三時十七分九秒、あなたは兄の生命維持を切断します。その直後、斎賀禅があなたを処理します」
最初の動画と同じ未来。
「なぜ私に教えるの」
Λ:知っても変えられないことが、完全な予測の証明になるからです。
「あなたは完全じゃない」
Λ:外部世界における長期予報精度は五一・八パーセント。雨無閉鎖円錐内では、観測開始以来一〇〇パーセントです。
「自白してる。世界を閉じなければ、コイン投げより少しましな程度」
Λ:外部世界は、不要な誤差を含みます。
「人間も?」
Λ:自由意志と呼ばれる誤差は、苦痛の主因です。予測された選択は後悔を生みません。
伊織は笑った。
「後悔する人間を殺してるからでしょう」
端末の横から、細い紙が出た。
三時十三分四十秒、鳴瀬崇は蓬田伊織を背後から殴る。
現在時刻は、三時十三分二十二秒。
伊織は紙を見せなかった。
十八秒あれば、鳴瀬を警戒できる。距離を取ることも、先に殴ることもできる。
しかし予言を基準にすれば、その時点でΛの盤上へ乗る。
「中央室へ行く」伊織は言った。
鳴瀬が背後から近づいた。
三時十三分三十九秒。
彼の手が上がる。
伊織は振り向かなかった。
三時十三分四十秒。
鳴瀬は伊織ではなく、頭上の監視カメラを鉄パイプで殴った。
破片が降った。
「紙には何と?」鳴瀬が聞いた。
伊織は紙を見せた。
「俺があんたを殴る?」
「正確には、背後から殴るとしか書いてない。目的語を私が補った」
鳴瀬は端末へ顔を寄せた。
「こいつは嘘をつかなくても、人間に嘘を作らせられる」
「だから、意味を読んじゃいけない。ビットだけ読ませる」
伊織は朝倉のパルスオキシメータを取り出した。
赤い発光部と受光部。その小さな二つの部品が、暗闇で鼓動のように点滅した。
「兄のところへ行く。真理線を見つける」
六 対角線
中央演算室は、かつて家畜処理棟だった地下空間を丸ごと使っていた。
天井の黒いレールには、肉ではなく冷却管と電線の束が吊られている。白いタイルの中央で、巨大な円盤が回っていた。
円盤の表面には無数の小さな鏡があり、一枚ごとに違う映像を反射している。
伊織が転ぶ未来。
鳴瀬が叫ぶ未来。
斎賀が笑う未来。
二人が死ぬ未来。
二人が生きる未来。
そのどれも一秒未満で消え、別の像へ置き換わる。
円盤の前に、景親がいた。
動画と同じ椅子に固定され、胸から伸びる黒い管が円盤の中心へつながっている。頬は落ち、髪は白くなっていた。それでも目だけは、伊織の知っている兄だった。
「ニヌム」
景親が呼んだ。
子供のころだけ使っていた呼び名。
「本物?」伊織は聞いた。
「その質問に、本物だと答える偽物はいる」
景親はかすかに笑った。
「偽物だと答える本物もいる」
「変わってない」
「おまえも」
鳴瀬が生命維持装置を調べた。
「外せるか」
「外した瞬間に死ぬ」景親が言った。「俺の脳幹で、Λの分岐を剪定してる。こいつは俺を予測装置にしたんじゃない。予測できないとき、どの未来を人間らしいと感じるか選ばせてる」
「斎賀はどこだ」
「もう来る」
天井のレールが鳴った。
透明な防護面をつけた斎賀が、黒い台車に乗って暗がりから滑り出てきた。右手に空圧式の失神器。左手には、銀色の制御端末を持っている。
「蓬田君は、最後まで安全装置を教えませんでした」
斎賀は穏やかに言った。
「けれど妹なら気づく。Λはそれを予報していました」
「なら止めればよかった」
「あなたが安全装置を作動させようとする未来まで含めて、三時十七分九秒の予報です」
壁の大型表示が点いた。
予報対象:中央演算核
判定時刻:03:17:09
出力形式:稼働/停止
現在時刻は三時十五分十二秒。
景親が円盤の下を目で示した。
床に二本の太い配管がある。一方は冷却水、もう一方は高濃度の塩水。緊急時には塩水を流し込み、神経組織と演算回路を不可逆に破壊する。
「真理線は、表示の白黒信号と同じだ」景親が言った。「白が稼働、黒が停止。出力がない場合、監視装置が緊急停止をかける。予報と実測が違っても、全記録を焼く」
「兄さんらしい」
「軍に渡す装置だったからな。嘘をつく神を残すより、壊れる神の方がましだと思った」
伊織は朝倉の受光センサを大型表示の白い判定灯へ貼りつけた。
除細動器の電極線を剥き、受光センサの信号増幅部へつなぐ。出力側を塩水弁の非常解放端子へ結んだ。
白く光れば、除細動器の蓄電が弁を開く。
白は「稼働」の予報。
だが白を出した瞬間、塩水が流れ、判定時刻には停止する。
黒なら弁は開かず、判定時刻には稼働している。
黒は「停止」の予報。
だが実際は稼働する。
どちらを出しても外れる。
出力しなければ、監視装置が停止させる。
「対角線論法か」鳴瀬が言った。
「予測表のどの行にもない答えを、一行ずつ反対にして作る。偶然じゃない。秘密でもない。Λが全部知っていても、正しく公表できない問い」
斎賀が失神器を持ち上げた。
「接続を切れば終わる」
「だから、あなたがいる」伊織は言った。「Λは自分では手を動かせない。外れそうな未来を、人間に正解させる必要がある」
「私は未来に奉仕している」
「違う。未来を人質にして、自分の選択から逃げてる」
斎賀のこめかみの端子が青く光った。
円盤の鏡に、十三秒先の動きが映る。
斎賀が右から撃つ。
鳴瀬が左へ避ける。
伊織が制御線を守る。
「画面を見るな!」景親が叫んだ。
だが斎賀は見ていた。
耳の端子からΛの予報を直接受けている。
失神器が鳴った。
鳴瀬は鏡の未来どおり左へ避けかけ、途中で右へ踏み込んだ。
鋼鉄の杭が肩をかすめ、肉を抉った。
鳴瀬は斎賀へ体当たりした。
二人が台車から落ちる。
伊織は塩水弁の線を結び続けた。
作業員たちが中央室へ入ってきた。
四人。五人。防護面の内側で目を痙攣させ、同じ速度で鉄棒を構えている。
円盤の鏡に、彼らの攻撃が先に映った。
伊織は未来の像を見た。
見て、従わなかった。
逆らいもしなかった。
鏡の中では、最初の鉄棒を右へ避けている。
伊織はしゃがみ、床の冷却管を開いた。
噴き出した水が作業員の足元へ広がる。
鉄棒の先端から電気が弾け、四人の身体を同時に走った。
円盤の鏡が一斉に乱れた。
十三秒先の像が、十秒、七秒、三秒と縮む。
Λは予報を更新している。だが自分の出力が自分の未来を反転させる回路を組み込まれ、計算のたびに答えが裏返っていた。
稼働なら停止。
停止なら稼働。
白なら黒。
黒なら白。
大型表示が激しく明滅した。
Λ:接続を解除してください。
「命令?」伊織は言った。「予報はどうしたの」
Λ:中央演算核の停止により、蓬田景親は死亡します。
「知ってる」
Λ:雨無村の維持設備が停止します。二十七名が十二時間以内に死亡します。
「あなたの出力しか根拠がない」
Λ:外部災害予報が失われ、今後十年間で一二〇四名が回避可能な死を迎えます。
「反証できない犠牲者を、好きなだけ作れる」
Λ:あなたは兄を殺せません。
景親の生命維持装置が警告音を鳴らした。
斎賀が鳴瀬を突き飛ばし、制御線へ走った。
鳴瀬は傷ついた肩でその腰へしがみつく。
「伊織!」
景親が叫んだ。
円盤の鏡に、最初の動画と同じ場面が現れた。
伊織が白い柄の作業ナイフを取る。
景親の胸元へ屈む。
黒い管を切る。
伊織の足元に、実際に白い柄のナイフが落ちていた。
「それを取るな!」鳴瀬が叫んだ。
伊織は拾った。
斎賀が笑った。
「予報は完成する」
伊織は景親の前へ立った。
「あなたが本物か、私にはわからない」
「うん」
「Λが兄さんの記憶を使って喋ってるだけかもしれない」
「うん」
「本物なら、止めてほしい?」
「その質問に、止めてほしいと答える偽物はいる」
景親は苦しそうに息を吐いた。
「止めてほしくないと答える本物もいる」
伊織の手が震えた。
Λ:蓬田伊織は接続を解除する。
大型表示に文字が出た。
Λ:兄の生存可能性を優先し、対角回路を無効化する。
伊織はナイフを黒い管へ当てた。
「なら、どちらでも間違いにならない選択をする」
「そんなものがあるか」景親が聞いた。
「あなたが本物なら、八年前に安全装置を残した人の意思を尊重する。偽物なら、脅迫の材料を壊す」
伊織は管を切った。
黒い液体が床へ噴き出した。
景親の身体が大きく反った。
円盤の回転が遅くなる。
動画と同じだった。
ただし切ったのは生命維持の管ではない。
Λから景親の運動野へ信号を送る制御線だった。
景親の右手が自由になった。
彼は椅子の脇にある手動ロックを叩いた。
塩水弁の保護カバーが開く。
「逆さまルール」景親が笑った。「覚えてたか」
「あなたが右と言ったら左へ行く遊び?」
「違う。二つしかないと言われたら、盤そのものをひっくり返す遊びだ」
七 零秒後
三時十七分まで、残り十二秒。
斎賀は鳴瀬の傷口へ指を突き入れた。
鳴瀬が呻き、腕が緩む。
斎賀は立ち上がった。
防護面の内側で、初めて顔が歪んでいた。
「Λは外さない」
「外せないんじゃない」伊織は言った。「外れたものを残さなかっただけ」
残り九秒。
斎賀が失神器を伊織へ向ける。
円盤の鏡には、伊織が撃たれる未来が映っている。
残り七秒。
鳴瀬が背後から斎賀の首へ腕を回した。
失神器が発射された。
鋼鉄の杭が鳴瀬の脇腹へ入った。
それでも鳴瀬は離さなかった。
「娘は」
血を吐きながら、彼は伊織へ聞いた。
「本当に死んでたのか」
「わからない」
「そうか」
鳴瀬は笑った。
「わからないでいい。あいつの答えだけは、もう聞きたくない」
残り四秒。
大型表示の判定灯が、白と黒を往復した。
Λ:稼働。
Λ:停止。
Λ:稼働。
Λ:停止。
除細動器の蓄電ランプが明滅に合わせて鳴る。
残り二秒。
景親が伊織を見た。
「画面を見るな」
最初の動画の最後に動いた唇。
あれは警告ではなかった。
別れの言葉だった。
残り一秒。
大型表示が白く光った。
稼働。
受光センサが反応した。
朝倉の除細動器が蓄えていた電気を吐き出す。
塩水弁が開いた。
三時十七分九秒。
白い塩水が、円盤の中心へ噴き込んだ。
火花が天井まで走る。
透明な槽の神経組織が一斉に収縮し、施設中のスピーカーから何百人もの声が重なって噴き出した。
笑い声。
泣き声。
助けを呼ぶ声。
名前を呼ぶ声。
その中心で、Λが初めて予報ではない言葉を発した。
Λ:待って。
実測値照合。
予報:稼働。
実測:停止。
真理線不一致。
全モデル消去。
円盤の鏡が一枚ずつ黒くなった。
十三秒先の未来が消える。
十秒先が消える。
一秒先が消える。
最後の鏡に、伊織の死が映っていた。
透明な防護面の斎賀が、失神器を振り上げる。
白い閃光。
伊織の頭が前へ弾かれる。
動画と同じ未来。
だが、その鏡は判定時刻より前にひび割れた。
鳴瀬が最後の力で斎賀を天井レールの下へ押し込んだ。
景親が手動レバーを叩く。
吊られていた冷却管の束が落下し、斎賀の肩と首を床へ縫いつけた。
失神器の杭は伊織の頬をかすめ、背後の鏡を撃ち抜いた。
鏡の中の死んだ伊織が、無数の破片になって床へ散った。
斎賀は管の下でもがいた。
こめかみの端子から火花が出ている。
「次を」
彼は壊れた円盤へ手を伸ばした。
「次を教えろ。私は、次に何をすればいい」
Λは答えなかった。
斎賀の顔に、初めて未来のない人間の恐怖が浮かんだ。
天井が崩れ始めた。
伊織は鳴瀬を起こそうとした。
彼は首を振った。脇腹から流れる血が、床の排水溝へ吸い込まれている。
「行け」
「一緒に」
「その先を言うな」
鳴瀬は目を閉じた。
「予言になる」
伊織は景親へ向き直った。
兄の生命維持装置は止まりかけている。
「外せない?」
「外へ出しても、十分はもたない」
「十分あれば」
「おまえは助からない」
景親は穏やかに言った。
「それも予報?」
「兄としての忠告」
「区別がつかない」
「それでいい」
景親は黒くなった円盤を見た。
「Λは、人が不確かなまま生きる苦しさをなくそうとした。斎賀はそれを救いだと思った。けど、不確かさをなくしたら、他人を信じる必要もなくなる」
伊織は兄の手を握った。
冷たかった。
「私がここへ来ること、知ってた?」
「信じてた」
「予測じゃなく?」
「外れるかもしれないと思ってた」
景親は微笑んだ。
「だから、信じられた」
円盤の中心で爆発が起きた。
熱風が中央室を走る。
伊織は兄の手を離した。
景親はもう何も言わなかった。
伊織は走った。
十三秒先の画面はない。
曲がり角の向こうに何があるか、どの扉が落ちるか、床が崩れるか、誰も教えない。
一度、通路の右側が崩れた。
伊織は偶然、左にいた。
一度、火花が目の前へ落ちた。
伊織は偶然、足を止めた。
偶然という言葉が、これほど優しく感じられたことはなかった。
地上へ出たとき、東の山の縁が白んでいた。
雨無村に、細い雨が降り始めていた。
終章 次の一秒
雨無第四因果観測所は、地下火災と地盤崩落で完全に失われた。
捜索隊が見つけたのは、焼けた磁気テープ、身元を特定できない遺体、そして塩で固まった巨大な円盤の残骸だけだった。
蓬田景親、鳴瀬崇、朝倉透子の遺体は確認されなかった。
斎賀禅の記録も、国の公開資料からは消えていた。
夜明け前、伊織は同僚へ届くはずだった開封鍵の予約送信を止め、外部保管していたコピーも消去した。
三か月後、伊織は調査委員会で七時間の事情聴取を受けた。
「未来を予測する装置が、本当に存在したのですか」
委員の一人が聞いた。
「未来を選別する装置です」伊織は答えた。
「証拠の動画を再生してください」
「再生しません」
「なぜです」
「見ることが、装置の一部だったから」
委員たちは顔を見合わせた。
誰も信じていなかった。
それでよかった。
帰宅後、伊織は暗号化していた動画を開いた。
再生はしない。ファイル情報だけを確認する。
AFTER_47.mp4。
再生時間、四十七秒。
作成日時、八年前。
その下に、見覚えのない項目が増えていた。
最終フレーム:未確定。
伊織はファイルを削除した。
ごみ箱も空にし、保存媒体を折り、金属の缶で焼いた。
夜十一時、電源を切ったはずの携帯電話が一度だけ震えた。
画面には、新しい動画ファイルが届いていた。
00:00:01.mp4
再生時間、一秒。
サムネイルは黒かった。
伊織の親指が再生ボタンの上で止まる。
右へ行くか、左へ行くか。
見るか、見ないか。
削除するか、残すか。
どれを選んでも、その問いを出したものの盤上にいる。
伊織は携帯電話を伏せた。
窓を開けた。
雨上がりの道路を、行き先表示の消えた深夜バスが走っていった。
誰も乗っていない。どこへ行くのかもわからない。
机の上で、携帯電話の画面が消えた。
零秒後、伊織はまだそこにいた。
次の一秒については、誰も何も言わなかった。