第1話 第一章「朝のない村」前編

道がないなら、最初の一歩になればいい。

それが、カナタの信条だった。

もっとも、その信条の半分ほどは勇気で、残りの半分は、道を探すより先に飛び出してしまう性分からできていた。

ただし、飛び出したあとに誰が困るかまで見えていないわけではない。見えたうえで、自分が先に着けば間に合うと思い込む。

カナタは、自分が最初の一歩を置けば、それだけで道になると思っていた。

天樹アトラスの第七百二枝――カゲノハ村。

世界を支えるという巨大樹の、はるか下方へ張り出した一本の枝に、その村は苔のようにへばりついていた。

枝といっても、端から端まで歩けば半日はかかる。樹皮の割れ目には家が建ち、太い葉脈の上には畑があり、枝の節をくり抜いた水槽には、上層から落ちてくる雫が溜められている。

それでも、空だけは狭かった。

頭上を幾重もの大枝と葉が覆っているせいで、太陽が見えるのは一日にほんの三分ほど。朝も昼も薄暗く、家々の窓には青白い苔灯りが揺れている。

村人たちは空の色ではなく、鐘の数で一日を知った。

一つ鐘で起きる。

二つ鐘で畑へ出る。

三つ鐘で最初の食事。

四つ鐘で仕事を替え。

五つ鐘で帰り支度。

六つ鐘で、その日を終える。

鐘が鳴らなければ、朝は来ない。

その日、五つ鐘が鳴る少し前。

「どけどけどけぇーっ! 命より大事な荷物のお通りだぁーっ!」

絶叫とともに、少年が空から降ってきた。

正確には、落ちてきた。

ぼさぼさの黒髪。擦り切れた赤い上着。背には本人より大きな荷袋。両手で握るのは、破れた布を張った二枚の鍋蓋だった。

鍋蓋は羽のつもりらしい。

少年の名はカナタ。十四歳。三日後には十五歳になるが、着地の仕方だけは六歳のころからほとんど変わっていない。

それでも、落ちる直前の目だけは笑っていなかった。

干し茸屋の屋根。吊り橋の手すり。洗濯物。祭壇前の苔玉。荷箱へ一番衝撃を通さず、自分の右膝だけで済む順番を、一瞬で選んでいる。古傷が熱を持ったが、本人はそれを痛みではなく「助走が足りない音」と呼んでいた。

「それのどこが飛行具なのよーっ!」

村の広場で、金髪の少女ルゥが叫んだ。

「心だ!」

「足りないのは頭よ!」

カナタは干し茸屋の屋根を削った。

吊り橋の手すりを片方さらった。

洗濯物を三列まとった。

最後は、祭壇前に積まれた巨大な苔玉へ頭から突っ込んだ。

ぼふん、と青い胞子が舞う。

広場が静まった。

苔玉から、腕だけが突き出る。

その手は胸より先に、背負った木箱の底を探った。瓶が転がる音はない。そこで初めて親指が立つ。

「配達……完了……!」

「どこがよ!」

ルゥが足首をつかみ、苔の中からカナタを引きずり出した。

彼女は十五歳。腰に工具帯を巻き、金髪には十本近い銀の鋲を挿している。村一番の機巧師見習いであり、カナタの幼なじみであり、本人の同意なく暴走停止係へ任命された被害者でもあった。

銀鋲は飾りではない。右の前髪から、軽傷、重傷、橋梁崩落、船体分解と危険度順に挿してある。ルゥは苔まみれのカナタを見て、重傷用を一本抜いた。投げずに済んだことが、今のところ唯一の幸運だった。

「橋を使えばよかったでしょ!」

「橋は昨日、枝蟲に食われて通行止めだ!」

「だからって、谷を三十メートル跳ぶ人がある!?」

「なかっただろ、道!」

「道がないときに鍋蓋を持つ発想がないの!」

「今、できた!」

「消して!」

カナタの背から、ひしゃげた木箱が転がった。

「あっ」

広場の端で待っていた老婆――マツバ婆が駆け寄り、箱を拾う。角は潰れていた。蓋には鍋蓋の丸いへこみが二つある。

恐る恐る開く。

中の薬瓶は一本も割れていなかった。

マツバ婆は喜ぶより先に、栓を一本ずつ鼻先へ運んだ。熱冷まし、鎮痛、薄め水。文字が擦れていても、匂いなら間違えない。三本目を確かめてから、ようやく肩を落とした。

「おお……熱冷ましだ。間に合ったよ」

マツバ婆は胸をなで下ろした。

「孫が朝から熱を出してね。薬師橋が落ちて、どうしたものかと思っていたんだ」

「配達屋カナタに、不可能はないぜ!」

カナタは青い胞子まみれの胸を張った。

「配達物以外は全部壊れてるけどね」

「大事なものは無事だ!」

「周りも大事!」

マツバ婆の家は、広場からさらに二本下の小枝にあった。

正規橋は枝蟲に食われ、残った道は細い根を伝うしかない。カナタは今度こそ歩くと言い張ったが、ルゥは鍋蓋を取り上げ、荷袋も奪い、腰へ安全縄を三重に結んだ。

「信用がない!」

「実績がある!」

「どっちの!」

「壊したほう!」

「分かってるなら反省して!」

薄暗い根道を下ると、金色の細い筋が樹皮の中に走っていた。

村のあちこちにある、古い光の道。

十年前、天頂門から伸びた《帰還路》の一部だと村人は呼んでいる。崩れかけた枝を支え、離れた小枝同士を細い足場で結ぶ、カゲノハ村の命綱だった。

カナタが光の筋を踏んだとき、足元に一瞬だけ別の道が重なった。

新しい板ではない。

十年前の古い橋。

手すりには、今はもう消えた赤い傷。

その先を、赤い上着の男が歩いている。

「父ちゃん?」

カナタが顔を上げた。

男の背中はすぐに光へ溶けた。

「何?」

ルゥには見えていなかったらしい。

「今、父ちゃんがいた」

「また?」

「またって何だよ」

「帰還路を踏むと、昔の景色を見る人がいるの。出稼ぎから戻った人が、建て替える前の家を見たとか。亡くなった家族が戸口に立ってたとか」

「じゃあ本物かもしれない!」

「道に残った記憶よ」

「記憶でも父ちゃんだ!」

ルゥはしゃがみ、金色の筋へ銀鋲を当てた。

《継ぎ路》

鋲から細い光糸が伸び、帰還路へ触れる。

途端に糸が何本にも分かれた。

今の根道。

古い橋。

まだ建っていない何かの輪郭。

ルゥは眉を寄せた。

「変ね」

「何が?」

「普通の道は、場所と場所をつなぐ。でもこれは、歩く人が覚えてる形を混ぜてる」

「分かりやすく!」

「帰る人が『ここだった』と思ってる場所を、足場にしてるみたい」

「父ちゃん、便利な道を作ったな!」

「便利だけど、怖いの。人の記憶は同じじゃないでしょ」

「同じ村を覚えてるだろ」

「同じ村でも、見てた場所は違う」

ルゥは光糸を外した。

金色の筋は、何事もなかったように薄暗い根道へ戻った。

マツバ婆の家へ着くと、戸口には水桶と冷却布が積まれていた。

根道の最後の段で、カナタは癖のように一段を跳んだ。右膝が遅れ、着地が半歩ぶれる。

「到着」

本人だけに聞こえる声で言う。

「今の段まで壊したら、薬より先に膝を診るよ」

マツバ婆は振り返らずに言った。

寝台では、十三歳の少女が頬を赤くしている。

短い黒髪。汗で額へ張りついた前髪。枕元には、何枚もの紙が散らばっていた。村の橋や階段を描いた地図らしい。どれも途中で線が切れている。

線を引いたのは左手だった。消した跡はなく、間違えた場所だけが赤い糸で囲われている。正しくない道も、なかったことにはしないためだ。

熱を出す前から、アカリはマツバ婆の配達帳を手伝っていた。橋が動くたびに道を描き直し、家の横へ住人の名と必要な薬を書き込む。村の道を覚えるためというより、誰がどこで何を待っているかを忘れないための地図だった。

「アカリ、薬が来たよ」

マツバ婆が声をかける。

少女は重いまぶたを開けた。

重要なことを言う前、アカリはへこんだ薬箱の角を親指で三度なぞった。熱に浮かされていても、回数だけは間違えない。

「……遅い」

「病人の第一声がそれ!?」

「五つ鐘までに、って言った」

「まだ鳴ってない!」

「もうすぐ」

「間に合った!」

「屋根の音、三回した」

「近道した!」

「洗濯物も飛んでた」

「見えてたのか!」

アカリは少しだけ笑った。

マツバ婆が薬を飲ませる。薬は冷えているのに、アカリは一度だけ息を吹きかけた。苦いらしく、少女は顔をしかめる。

マツバ婆はその間に、汗で額へ貼りついた前髪を一本ずつ数えていた。十二本。昨日より二本多い、と分かっても熱は下がらないのに、数えずにはいられなかった。

「箱、見せて」

カナタがひしゃげた箱を渡す。

アカリは角のへこみを指でなぞった。

「薬は割れてない」

「だろ!」

「箱は割れそう」

「次までに直す!」

「次は、私が持つ」

「え?」

「熱が下がったら、私が届ける側になる」

アカリは枕元の紙を一枚持ち上げた。

薬師小屋から自宅までの地図。

正規橋には大きな×。

その横に、細い根道。

さらに横には、カナタが鍋蓋で飛んだと思われる、勢いのよい放物線が描かれていた。

「その道は使うな!」とルゥ。

「でも一番早い」

「命も早く終わる!」

「じゃあ、別の道を探す」

アカリは紙の空いた場所へ、新しい線を一本引いた。

「待ってるだけは、嫌」

熱で弱い声だった。

それでも、線はまっすぐだった。

カナタは自分の背の旗へ手を伸ばした。

少年の背丈ほどもある、古びた白い旗。

正確には、旗竿だけが古い。

父アステルが旅へ出る前、練習に使っていたものだ。布は、カナタが十四歳の授旗式で受け取った自分の道標旗だった。

天樹に生きる者は、十四歳になる年の初めに《道標旗》を授かる。旗へ浮かぶ紋章は、その者が進みやすい道を示し、《標術》と呼ばれる力を形にする。

鍛冶師には炎。

薬師には雫。

機巧師には歯車や継ぎ目。

登枝士には星、翼、羅針盤。

だが、カナタの布へ浮かんだものは、何もなかった。

真っ白。

空白。

道なし。

村人の多くは、不吉だと言った。

「白い紙は、地図を描くには一番いい」

アカリが言った。

カナタが目を丸くする。