第2話 第一章「朝のない村」後編

「お前、分かってるな!」

「褒めてない。まだ何も描いてないってこと」

「これから描く!」

「どこまで?」

カナタは旗を肩へ担ぎ、天井の向こうを指した。

家の天井。

枝の天井。

天樹を覆う暗い葉の、そのさらに上。

「天樹のてっぺんまで。世界の果てを見つけて、そこにこいつを立てる!」

「帰ってくる?」

アカリが訊いた。

カナタの右足が、寝台のほうへ半歩出た。置いていかれる話になると、本人より先に足が相手との距離を詰める。

白旗の中央ではなく、布の端をつまむ。胸を張るときにはしない持ち方だった。

カナタの答えは早かった。

「もちろん!」

「いつ?」

「世界の果てを見たあと!」

「何日?」

「分からん!」

「帰る日、決めてないの?」

「行き先もまだだ!」

「それ、帰るって言わないんじゃない?」

カナタは口を開いた。

答えが出ない。

ルゥが小さく笑った。

「病人に負けた」

「負けてない! 世界の果ては遠いから、日が決められないだけだ!」

「じゃあ、便り」

アカリは薬箱の蓋へ指を置いた。

「帰れないなら、今どこか送って」

「どうやって?」

「道を作るんでしょ」

今度はカナタが笑った。

「任せろ!」

「その返事、箱を見ると不安」とアカリ。

「正しい」とルゥ。

窓の外で、五つ鐘が鳴った。

アカリは目を閉じる。

「次は、私が届ける」

眠りへ落ちる直前、もう一度そう言った。

マツバ婆の家を出るころには、六つ鐘まであと半刻になっていた。

帰り道で、カナタは三軒から夕食を押しつけられた。

干し茸屋から、屋根の修理代を差し引いた焼き茸。

畑守から、洗濯物を返した礼ではなく、返さなかった靴下の弁償として根芋。

村長の家からは、明日の試験に遅れないよう固い黒パン。

「俺、人気者だな!」

「一人で暮らす十五歳目前の子を、村中で見張ってるの」

「同じだ!」

「違う!」

帰り道で、カナタは焼き茸へふうふう息を吹きかけていた。とうに冷めている。

「それ、冷たいけど」

「熱いかもしれない!」

「触ったでしょ」

「心が!」

「食べ物に心配される側よ、あんたは」

ルゥは呆れたが、カナタが食事へ息を吹くのは、父がいたころからの癖だと知っている。誰かと同じ食卓へ座る前に、温度を確かめるふりをして時間を稼ぐのだ。

カナタの家は、村の外れにあった。

天樹の枝が細くなり始める場所。

小さな二階家。

屋根の一部は、カナタが過去三度の着地で直したため、板の色が四種類ある。

玄関の横には、背丈を測った傷が並んでいる。

六歳。

七歳。

八歳。

九歳から先は、線が曲がっていた。

自分でつけるようになったからだ。

家の中は、片づいている場所と、そうでない場所がはっきり分かれていた。

台所はマツバ婆が週に一度見に来るため整っている。

寝室はルゥが勝手に窓を修理するため、工具だけは決まった場所にある。

居間はカナタの地図と縄と、途中まで作った飛行具で埋まっていた。

窓辺には、何の鉱石でもない灰色の石が三つ並ぶ。一つはマツバ婆と薬草を拾いに行った根道。一つはルゥと初めて橋を直した日。一つは、父がいなくなった翌朝、誰にも見つからない場所から拾ったものだった。カナタは場所ではなく、一緒にいた人で石を覚えている。

食卓には椅子が二脚ある。自分の椅子と、父の椅子。

カナタはどちらにも座らず、黒パンを手に立ったまま食べ始めた。

「座れば」

「今、地図を見る!」

「パンしか見てない」

ルゥは父の椅子を壁へ寄せず、二脚の間に工具箱を置いた。席を一つに決める代わりに、作業台を増やす。

カナタはようやく自分の椅子へ片膝だけ載せた。

そして二階の奥に、一部屋だけ手つかずの場所がある。

アステルの部屋。

階段の最後の一段だけ、カナタは跳んだ。

「到着」

「家の中で毎回言うの?」

「言わないと、階段が終わったか分からない!」

「目で見て」

「入るの?」

ルゥが階段の下から訊いた。

「明日、試験だからな」

「関係ある?」

「父ちゃんの登枝士徽章を借りる!」

「受験資格の代わりにはならない!」

扉を開ける。

乾いた木と古い布の匂い。

壁には、天樹の枝を描いた地図。

下端には、第七百二枝のカゲノハ村。幹沿いを上れば逆さ滝と天頂門、その向こうに雲海の航路と上層港。さらに上は、地名も線もない白い余白だった。

アステルの旅線は、ほとんどすべてその余白へ向かっている。

机には、片方だけの風眼鏡。

欠けた羅針盤。

何も入っていない鞘。

皿の縁には、炭になった黒パンの角が一つだけ残っている。父はいつも最後の一口を「帰ってから」と残した。十年たって食べられるはずもないのに、誰も捨てられなかった。

父の旅道具は、使えそうなものから村人が修理へ回したため、残ったのは壊れた物ばかりだった。

「徽章、どこだ」

「本物を持って旅に出たんじゃない?」

「予備!」

「登枝士徽章に予備はない」

「父ちゃん、なくしそうだぞ」

「そこは否定できない」

机の一番下から、薄い木箱が出てきた。

蓋には、一本の線。

途中で何度も分かれ、最後はまた一つの丸へ集まっている。

「これ、父ちゃんの紋?」

「違う」

ルゥは工具箱の蓋を、こん、こん、こん、と三度叩いてから開けた。中身の位置を音で確かめる癖だ。近くの細い傷はよく見えるのに、窓の外に立つ人の顔は服の色で判別する。今も木箱へ顔を寄せ、指で埃を払った。

「標路図の記号。複数の帰還点を一つの記録へ入れる印」

「分かりやすく!」

「開けて」

「説明を諦めた!」

中には、薄い板が何十枚も入っていた。

アステルの字。

カナタには読めない部分が多い。

日付を書き込む欄だけ、どの板も空いていた。帰る場所は細かく描くのに、帰る日を決めない。笑って約束を先へ延ばす父の弱さが、余白の形で残っている。

絵なら分かった。

村の広場。

北橋。

天頂門。

それぞれの横に、小さな白い四角。

「さっきの札みたいだ」

《現標》って書いてある」

「何て?」

「げん、ひょう。今の場所を示す標」

「帰還路に使う?」

「たぶん。ここに『帰る者の記憶だけでは、道が古くなる』ってある」

ルゥは板を傾ける。

文字の後半は焦げていた。

「続きは?」

「読めない」

「直せる?」

「文字は《継ぎ路》で直らない。意味が切れてるから」

「意味もつなげればいい」

「勝手につないだら、父親が言ってないことになる」

別の板には、家の図。

戸口へ白い四角。

その横に、子どもの背丈を測る線。

六歳のカナタが描いたらしい、歪な太陽も残っている。

「俺の絵!」

「字より上手」

「褒めてる?」

「太陽には見える」

板の裏側に、短い文章。

ルゥが読み上げた。

「『帰る場所は、残すだけでは足りない。待つ者も、帰る者も、変わる』」

カナタは地図の上の家を見る。

「父ちゃん、帰る気だったんだな」

「そう書いてるとは限らない」

「帰る道を考えてた」

「誰かのためかもしれない」

「俺のためだ!」

強く言ったあと、部屋が静かになった。

ルゥは机の縁へ腰かける。

「カナタ。世界の果てへ行きたいのと、アステルさんを見つけたいの、どっちが先?」

「同じだ」

「違うかもしれない」

「父ちゃんは世界の果てへ行った」

「行ったって、誰も確認してない」

「ザンバは知ってる」

「村へ来ない人の話を信じるの?」

「父ちゃんを置いていったやつだから、追いつけば分かる」

カナタは窓へ向いた。

暗い枝葉。

その向こうに、見たことのない空がある。

「父ちゃんがいなくても、世界の果てはある」

ルゥが黙る。

「見つからなくても、行く?」

「行く」

「死んでたって分かっても?」

カナタはすぐには答えなかった。

声が一音ずつ低くなる。怖いときほど大声にならないことを、ルゥだけは知っていた。

白い旗の中央を避け、両端を握る。

「……行く」

「どうして」

「父ちゃんの夢だからじゃない」

今度は、迷いながら言う。

「俺が見たい」

「なら、その言葉を忘れないで」

「忘れない!」

「明日には忘れそう」

「旗に書く!」

「字を覚えてから」

ルゥは板を元へ戻した。

ただし、《現標》と書かれた一枚だけは机の上へ出しておく。

「これ、ハルガさんに見せたい」

「持っていっていい?」

「父ちゃんのだぞ」

「だから聞いてる」

カナタは少し考えた。

「返す?」

「返す」

「いつ?」

「読み終わったら」

「何日?」

「分からない」

「アカリみたいだな!」

「今の質問、覚えてたのね」

板を布へ包み、ルゥの工具箱へ入れる。

蓋を閉める前、ルゥは逆さ銀樹の古い図面へ一度だけ触れた。カナタの父の続きを調べたいのではない。自分の名前で、まだ誰も直せない機巧へ一行を足したい。その願いを口にすると、幼なじみの旅の付属品にされそうで、まだ言えなかった。

そのとき、二階の扉がひとりでに閉じた。

かちり。

「風?」

「窓は閉めた」

扉の表面へ、別の取っ手が浮かんだ。

今の鉄製ではない。

アステルがいたころの、削れた木の取っ手。

向こう側から三回、音がする。

こん。

こん。

こん。

「父ちゃん?」

カナタが手を伸ばす。

ルゥは止めなかった。

代わりに、机から白い紙を取り、今の鉄の取っ手へ巻く。

「開けるなら、今のほう」

カナタは二つの取っ手を見る。

古い木。

白紙を巻いた鉄。

右足は古い扉へ出たまま、左手が今の鉄へ伸びる。誰かを受け止めるとき、考えるより先に出るのも、その手だった。

鉄のほうを握った。

扉が開く。

そこには廊下。

今の家。

古い取っ手は消えた。

「現標」

カナタは白紙を指す。

「たぶんね」

「俺、使えた?」

「私が巻いた」

「俺が選んだ!」

「半分ずつ」

「道になった!」

階下で、一つ鐘の前触れが鳴った。

十五歳へ向かう朝が、鐘より先に家へ来た。