第3話 第二章「空白旗」前編
三日後。
カナタは十五歳になった。
その日は、登枝士の選抜試験が行われる日でもある。
試験場は、村の一番上にある訓練枝。
細い足場。
揺れる縄橋。
落ちれば雲海まで止まらない空洞。
受験者は自分の標術を使い、指定された旗を取って戻る。
ただし、受付には大きな条件が一つ書かれていた。
――道標旗に紋章を持つ者。
「字が多い!」
看板を見上げたカナタが言った。
「そこだけ読めなくても条件は変わらない」
ルゥは訓練枝の手すりへ銀鋲を打ち込んでいた。
「旗に紋がなければ、受験資格はない」
「受付の柵なら跳び越えられる」
「そういう問題じゃない!」
試験官のセルクは、名簿の角を指先でぴたりと揃えた。太い眉を右だけ上げ、次に左だけ寄せる。規則にない言い訳を一つ聞くたび、片手の指を一本折って数えていた。
「カナタ。三日前にも同じ説明をした」
「三日前は、柵の高さを測ってなかった」
「測るな!」
訓練枝には、ほかの受験者もいた。
風を踏む《昇標》を持つトウヤ。競争前だけ、左右の靴紐を違う結び方にする。今日は右が輪、左が二重結びだった。
小さな翼を旗へ浮かべるフィオ。髪ではなく、旗の端から垂らした風見糸を指へ巻き、ほどけ方で空気の揺れを読む。
一本の二色縄を扱う双子の姉弟、ユワとククリ。
姉のユワは固定側。縄の端を耳たぶへ当て、張力を音として聞く。弟のククリは移動側。結び目を歯で締め、話している間も片足だけが次の足場を探して浮いていた。似た顔でも、一本の縄で結ばれていても、二人は同じ一人ではなかった。
彼らはカナタを笑う者ばかりではなかった。村の配達で助けられた者もいる。けれど、紋のない旗で空へ出ることが危険なのは、誰もが知っていた。
「お前、試験を受けなくても上へ行くんだろ」
トウヤが言う。
「もちろん!」
「じゃあ、徽章はいらないじゃないか」
「村公認がいい!」
「壊したとき、村公認で弁償する気?」
「そこは俺個人!」
「分けるところが逆」とルゥ。
カナタは白旗を振った。
何も起きない。
二度。
三度。
風だけが布を鳴らした。
「出ろ!」
旗を地面へ突く。
「星!」
何も出ない。
「翼!」
何も出ない。
「世界の果て!」
白い布が少しだけ膨らみ、すぐ萎んだ。
「旗に怒鳴っても紋は出ない」
「気合いが足りない!」
「旗じゃなくて、あんたの考えが足りないの!」
ルゥは銀鋲を三本、宙へ投げた。
「標術――《継ぎ路》」
鋲と鋲の間を銀色の光糸が結ぶ。
切れていた縄橋の端が持ち上がり、数呼吸だけ一本につながった。
「おお!」
「私の標術は、切れたものを一時的につなぐ」
「何でも?」
「何でもじゃない。もともと関係のあるものだけ」
「壊れた橋みたいに、もとは一つだったものなら負荷は軽い。共通の原図や、受け渡した記録があるものは、そのぶん重い」
「何の関係もないものは?」
「新しく結ぶなら、両方の返事が要る。一呼吸しか保たないし、反動も大きい」
「俺と世界の果ては関係ある!」
「まだ会ったこともないでしょ!」
「これから関係を作る!」
「それができる力なら、今出して!」
カナタは旗を構える。
やはり何も起きない。
銀糸が切れ、縄橋が元へ戻った。
ルゥは指先を揉む。
継ぎ路は便利な力だ。
だが、切れた幅が大きいほど、つなぐ時間が長いほど、術者の指や腕へ同じ負荷が返る。橋一つを長く支えれば、骨まで裂ける。
「お前は試験、受けないのか?」
カナタが訊いた。
「私は航路機巧師の認定を受ける」
「登枝士じゃなくて?」
「機巧師でも上へ行ける」
「じゃあ一緒だな!」
「何が?」
「俺が登枝士になったら、ルゥが船を作る。二人で上へ行く」
カナタは当然のことのように言った。
ルゥは鋲を工具帯へ戻す。
「誰が一緒に行くって決めたの?」
「行かないのか?」
「まだ決めてない」
「なんで?」
「私の道だから」
カナタは首を傾げた。
「俺の船に乗る道だろ」
工具箱が飛んだ。
カナタは白旗で受け止める。
「危ない!」
「今の発言より安全!」
ルゥは工具箱を奪い返し、訓練枝を下り始めた。
「私は、あんたを止めるためだけに機巧師になったんじゃない」
「でも、毎日止めてる」
「必要だから!」
訓練枝の下で、機巧師頭ハルガが腕を組んでいた。
灰色の短髪。両腕に工具の焼け跡。ルゥの師匠だ。
「ルゥ」
「はい」
「銀鋲を一本、余計に使った」
「カナタが橋へ乗ったからです」
「言い訳は正しい。だが、一本で済ませる設計を考えろ」
「はい」
「それから、外へ行きたいなら、自分の口で言え」
ルゥの顔が上がる。
ハルガは空白旗の少年を見た。
「誰かの船に乗るかどうかではない。お前が何を見たいかだ」
ルゥは少しだけ黙った。
「逆さ銀樹を見たいです」
「何だ、それ!」
カナタが割り込む。
ルゥは工具箱の底から古い紙を一枚出した。
根を空へ伸ばし、枝を雲海へ垂らす銀色の樹。その枝には、上下のない町が描かれている。
「父の古い図面にあった。天頂門の向こうから流れ着いた機巧を写したもの」
「すげえ!」
「銀枝がどうやって重さを分けるのか、自分で確かめたい」
「じゃあ、世界の果てへ行く途中で寄る!」
「私の行き先を、あんたの寄り道にしないで」
カナタの口が止まる。
ハルガが鼻で笑った。
「それを覚えたら、試験を受けろ」
その日の選抜試験は、受験者だけでなく、村中の見物人を集めた。
カゲノハ村から正式な登枝士が出るのは、三年ぶりだった。
訓練枝の下には、焼き根芋の屋台。
落下者を受け止めるための雲綿網。
怪我人用の薬場。
そして、受験できない少年が一人、受付の横で白旗を振っていた。
「応援係、カナタ!」
「違う」
セルクが名簿を閉じる。
「標杭運搬係だ」
「試験場へ入れる!」
「受験者の進路へ入るな。標杭を指定位置へ置き、戻れ。旗を取っても得点にはならん」
「最後のところ、聞こえなかった!」
「聞け!」
標杭は、試験路の現在位置を示す白い棒だった。
揺れる枝は、一刻ごとに形を変える。
朝にはあった足場が、昼には下へ垂れる。
そのため、試験官がその日の安全路へ杭を立て、受験者は杭から杭へ進む。
「現標の仲間?」
カナタが一本を担ぐ。
「これはただの白杭」
「今いる場所を示す!」
「用途は似てるけど、標術はない」
ルゥは訓練枝の下で、別の試験を受けていた。
壊れた滑車。
切れた縄。
歪んだ足場。
制限時間内に、受験者が通れる状態へ直す《航路機巧師》の実技。
ハルガが腕を組み、弟子の手元を見ている。
「銀鋲は十本まで」
「九本で直します」
「言ったな」
「八本でも」
「減らすことを目的にするな」
「分かってます!」
試験鐘が鳴った。
トウヤは親指を立てる角度を一度確かめた。真正面より少しだけカナタ側へ向けるのが、彼なりの「見てろ」だった。
トウヤが最初に飛び出す。
「《昇標》!」
旗の上向き矢印が光り、足元へ小さな風が生まれる。
一歩。
二歩。
揺れる縄橋を使わず、空中を蹴って最初の標杭へ着地した。
「速い!」
見物人から歓声。
トウヤは振り返り、カナタへ得意そうに親指を上げる。
「俺も!」
「杭を運べ!」とセルク。
フィオは急がなかった。
風見糸を一度ねじり、戻る速さを確かめる。自分が飛べる瞬間ではなく、後ろの者が怖がらず踏める瞬間を待つ。
翼旗から細い風を出し、縄橋の揺れを読む。
右へ揺れる。
戻る。
最も負荷の少ない瞬間に一歩。
ユワは固定輪を足場へ掛けた。
「先に支点。三つで張るよ」
「三つで――次は俺!」
ククリは姉の最後の語を復唱してから笑い、移動環を腰へ回す。ユワは足指で板を掴み、ククリは片足を浮かせたまま前へ出た。
一本の縄で結ばれていても、二人の進み方は違った。ほかの受験者も同じだった。
カナタは三本の白杭を背負い、指定された保守路へ走る。
正規の試験路ではない。
細く、樹皮の裏側を通る道。
「こっちのほうが難しい!」
「運搬係が受験者より目立つな!」
セルクの声が伝声管から追う。
一本目の杭を立てる。
――第三折枝、現在地。
二本目。
――北風路、通行可。
三本目の場所へ向かう途中、目の前に橋が現れた。
白い板。
太い手すり。
訓練枝の地図にはない。
「新しい近道!」
カナタが足を置きかける。
紙の太陽が、白旗の端で逆方向へなびいた。
橋の向こうに、幼いころの自分が見える。
父の肩へ乗り、笑っている。
『こっちだ、カナタ』
「父ちゃん」
足が前へ出る。
背後から、小石が飛んだ。
頭へ当たる。
「痛っ!」
下を見る。
アカリが訓練枝の根元に立ち、二つ目の石を構えていた。
「そこ、橋ない!」
「あるぞ!」
「白札がない!」
アカリは掲示用の地図を広げる。
今の試験路。
カナタが立つ保守棚の先には、何も描かれていない。
「現在地、そこまで!」
カナタは足元を見る。
白い橋。
父の背中。
今の杭がない道。
片足を戻す。
橋は霧のように消えた。
目の前には、底のない空洞。
「危ねえ!」
「今さら!」
アカリは石を薬箱へ戻した。
その石は、どこにでもある灰色だった。試験のあと、カナタは黙って一つだけ拾い、窓辺の三個へ加える。誰が投げたかで覚える石が、また増えた。
「石まで配達するのか!」
「届いた」
「頭に!」
そのとき、試験路で悲鳴が上がった。
帰還路の幻橋は、カナタの場所だけではなかった。
第二標杭の先に、古い縄橋が重なっている。