第4話 第二章「空白旗」後編
移動側のククリが、勢いのまま幻の板へ足を置いた。
足裏が抜ける。
「行ける――」
言葉の途中で体が落ちた。
腰の縄が張る。
固定側のユワは反射的に縄を巻き込み、足指で板を掴んだ。弟を放さないため、予定より短く持つ。短くし過ぎた縄が彼女自身を足場から引き剥がした。
「ククリ、返事!」
「いる! 下! 縄一本!」
ククリは笑わなかった。落ちた位置と残った縄を、息の続くうちに先に数えた。
「試験中止!」
セルクが旗を上げる。
フィオが翼風を向ける。
距離が遠い。
トウヤは戻ろうとするが、《昇標》の風が前向きのまま切り替わらない。鼻へ手をやりかけ、そこで笑うのをやめた。
「カナタ!」
ルゥの声。
彼女は工具箱を三度叩き、実技台から切れた試験縄へ銀鋲を投げていた。髪から抜いたのは、橋梁崩落用の一本だった。
「三呼吸だけつなぐ!」
「十分!」
「二人を引くには足りない!」
カナタは三本目の白杭を抱えたまま、保守棚を走る。
正規路へ戻れば遠い。
幻橋は使えない。
空洞を挟み、ユワとククリまで十メートル。
右膝が一度遅れた。カナタは痛みを「足場の音が多いだけ」と飲み込み、二人の縄の角度を見る。ユワが固定輪、ククリが移動環。どちらか一人だけを引けば、もう一人を落とす。
「杭を投げる!」
「届かない!」とアカリ。
「俺も行く!」
「もっと届かない!」
カナタは白杭の先へ運搬縄を結ぶ。
旗竿を保守棚の輪へ差し込む。
白杭を振り子のように振った。
一度。
二度。
三度。
「ククリ、手!」
「次は俺――取る!」
ククリが白杭を掴む。
「ユワ、支点を放せ!」
「放したら二人とも振れる!」
「今は俺が杭を持つ! 姉ちゃんは縄を聞け!」
ユワは一瞬だけ弟の選択を奪いそうになり、親指で固定輪の傷をなぞった。それから、縄の端を耳へ当てる。
「張るよ。三つで」
二人分の重さが一気に来る。
カナタの足が棚から滑った。
「カナタ!」
白旗の竿が鉄輪へ引っかかる。
古い竿が大きくしなる。
「折れる!」
ルゥは実技試験用に組んでいた滑車を、完成前のまま蹴り出した。
「ハルガさん、借ります!」
「試験中だ!」
「人が落ちてます!」
「なら使え!」
銀鋲を四本。
滑車と白杭。
滑車と訓練枝。
カナタの旗竿と保守棚。
「《継ぎ路》!」
銀糸が三角形を作る。
重さが分かれる。
フィオの風が、ユワとククリを同じ方向へ押さず、それぞれの体を壁から別々の角度で離す。
トウヤが空中からユワの固定縄を掴んだ。
「戻る風、まだ出ない! 手で引く!」
「三つで!」とユワ。
「三つで――引く!」とククリ。
四人で一歩ずつ後ろへ下がる。
先にユワが正規足場へ上がり、今度は彼女が腹ばいになってククリの手首を取った。支える側と動く側は、その一度だけ入れ替わった。
最後にカナタ。
白旗へぶら下がったまま、保守棚へ戻る。
竿には細い亀裂が入っていた。
「父ちゃんの竿!」
「人は無事!」
「竿も大事!」
「周りも大事って言ったでしょ!」
ルゥは滑車の銀糸を外す。
指先が赤く腫れている。
ハルガが近づき、完成していない機巧を見た。
「銀鋲、何本使った」
「十二本」
「上限は十本だ」
「失格ですか」
「試験は中止だ」
「じゃあ」
「実地では、規則より先に数えるものがある」
ハルガはユワとククリを見る。
「何人だ」
「二人」
「自分を入れろ」
「三人」
「カナタもだ」
「四人」
「銀鋲一本で、一人を残せたなら安い。だが、次は十一本で済ませろ」
「はい!」
セルクはカナタの前へ来た。
「受験者の進路へ入るなと言った」
「落ちてきた!」
「標杭を指定位置へ置けと言った」
「人が指定位置から外れた!」
「旗を取っても得点にはならんと言った」
「取ってない!」
「言い訳だけは満点だ」
セルクは亀裂の入った白旗を見る。
「勇気は道ではない」
「知ってる!」
「今知った顔だ」
「前から!」
「行き先と、今いる場所。それを見ずに跳べば、ただの落下だ」
カナタはアカリの白札を見る。
今の試験路。
幻の橋ではない場所。
「受験させてくれる?」
「紋が出たらな」
「今のは?」
「標術ではない」
「でも助けた!」
「だから、運搬係の仕事は合格だ」
「登枝士は!」
「不合格」
「半分!」
「別の試験だ!」
トウヤが横から拳を出した。
「次は競争だからな」
「今も負けてない!」
「俺は第一標旗を取った」
「俺は二人取った!」
「二人を一得点にするな」
ユワが短く言った。足指はまだ板を掴んだままだった。
「人を得点にするな」とフィオ。
彼女はユワとククリの傷を確認し、白札を一枚足場へ貼った。
「今日の試験路、閉鎖」
アカリが下から叫ぶ。
「掲示板にも書く!」
中止になった試験は、誰も合格者を出さなかった。
その夜、セルクは誰もいない受付で名簿を三度開いた。
《受験資格なし》。
《規則外介入》。
《標杭運搬係、任務達成》。
最後の一行を正式な合格欄へ入れるか、例外判定の薄帳へ入れるかで三案作り、全部消した。勇気を点数へ変えたくない。けれど規則の外で二人が助かった事実も、消したくなかった。
最終的に、名簿の裏へ一行だけ残した。
――不合格者カナタ。人命救助、記録継続。
それでも、受験者たちは同じ道で同じことを学んだわけではない。
トウヤは、戻る風の出し方を練習すると決めた。
フィオは、救助風の幅を測り直した。
ユワは、固定側だけが支え続けない結び方を探し始めた。
ククリは、事故で裂けた腰縄を捨てず、姉へ渡すための固定側手袋をこっそり作り始めた。次は自分が残って支える番だと、まだ口には出さなかった。
ルゥは十一本で滑車を作り直した。
指の裂け目を隠すように工具帯へ手を入れたが、左手で髪を結び直せなかった。ハルガは見ていて、薬場を指す代わりに「次は一本減らせ」とだけ言う。弟子が痛みを自分から申告するまで待つ、優しくない教え方だった。
カナタは白旗の亀裂へ布を巻きながら、今いる場所を見てから跳ぶ、と三度唱えた。
四度目には忘れた。
広場へ戻ると、アカリが掲示板へ紙を貼っていた。
まだ顔色は少し白い。
けれど、肩には例のひしゃげた薬箱をかけている。マツバ婆がつけた新しい布紐は、黄緑色だった。
――薬師橋、通行止め。
――根道を使うこと。
――鍋蓋による飛行、禁止。
「最後、俺のことか!」
「ほかにいる?」
「世界は広い!」
「村の掲示板」
アカリは左手で紙の下へ、小さな地図を描く。正規路と根道を分け、今日使えなかった幻橋だけ赤い糸で囲う。名前札の角は、指で一枚ずつ丸く切った。
「配達見習いになる」
「もう?」
「今は、道を覚えるところから」
「俺が教える!」
「正規路だけ」
「近道も!」
「生きて帰れるのだけ」
アカリは白旗を見る。
「世界の果てに着いたら、旗の裏にも何か書いて」
「裏?」
「向こうから読む人がいるかもしれない」
カナタは白い布をめくった。
表も裏も真っ白だった。
「じゃあ、名前を書く!」
「書ける?」
「……ルゥ!」
「自分で覚えなさい!」
六つ鐘が鳴った。
一日の終わりを告げる音。
その余韻へ、別の音が混じった。
ご、と。
低く。
遠い根の奥で、何か巨大なものが道を噛んだような音。
帰還路の金色が一瞬、黒く濁った。
六つ鐘のあと、カゲノハ村は眠る。
苔灯りを半分落とし。
工房の炉を閉じ。
見張りだけが枝の縁を歩く。
その夜は、誰もよく眠れなかった。
家の壁に、昔の扉が浮かんだからだ。
広場の端に、十年前に解体した宿が一呼吸だけ現れた。
畑区では、亡くなった老人が遠い道の先へ立ち、帰ってきた息子へ手を振った。
北橋の空白には、古い橋が何度も重なった。
踏めば落ちる。
けれど、目には確かに道だった。
「外出禁止!」
村長の命令が伝声管で村中へ回る。
「金色の道へ触れるな! 見知った者が現れても追うな! 各家、現在の戸口を白札で示せ!」
「現在の戸口?」
カナタは自宅の屋根から、隣の家を見た。
隣家には扉が三つあった。
今使っている青い扉。
五年前の茶色い扉。
カナタが幼いころ、建て替える前に使っていた小さな扉。
全部が同じ壁に重なっている。
「便利だな!」
「どれを開ける気?」
屋根の下からルゥの声。
「全部!」
「落ちるから一つにして!」
嘘をつく前の癖で、カナタは大きく息を吸った。
「今のは風だ!」
「何も訊いてない!」
カナタが屋根から飛び下りる。
今の青い扉へ着地したつもりだった。
足が茶色い幻を抜け、壁へ頭からぶつかる。
「痛い!」
「便利だった?」
「道が悪い!」
「今のは扉!」
ルゥは工具箱のほかに、白い札を何十枚も抱えていた。
「何してる?」
「村長に頼まれた。今ある扉へ打って回る」
「俺も!」
「家で待ってて」
「黒くなった帰還路を探す!」
「だから待ってて!」
「見つけたら呼ぶ!」
「先に飛びかかるでしょ!」
「話を聞いてから!」
「何呼吸?」
「二!」
「短い!」
ルゥはカナタの白旗を見る。
端には、アカリが描いた小さな太陽旗を結んである。金色の道が浮かぶたび、紙の太陽はかすかに同じ方向を向いた。
「それも調べたい」
「旗?」
「紙のほう」
「太陽だから?」
「色だけで標術は動かない」
「気合い?」
「もっと動かない」
ルゥは辺りを確認した。
見張りはいない。
「北橋の下へ行く」
「外出禁止!」
「誰のせいで破ると思ってるの」
「黒い道!」
「主にあんた」
二人は影の濃い路地を走った。