第5話 第三章「道の下にある道」前編
北橋の根元には、枝の内部へ下りる点検口がある。
鍵は閉まっていた。
「ルゥ」
「何」
「俺が蹴る?」
「鍵が傷つく」
「扉は?」
「もっと傷つく」
「じゃあ静かに蹴る」
「矛盾してる」
ルゥは工具箱を三度叩いた。細い工具を差し込み、三呼吸で開ける。鍵の傷は増やさない。壊すより、どこで負荷が逃げるかを試すほうが面白かった。
「鍵を壊した!」
「開けただけ」
「同じだろ!」
「違う!」
点検口の先は、天樹の枝の中だった。
樹皮の下を細い通路が走る。
壁には赤金色の朝火管。
青白い苔水管。
そのさらに下を、金色の細い筋が何本も通っている。
筋は機巧の管ではない。
樹そのものの木目へ溶け、遠く上方と下方を結んでいた。
「北橋だけじゃない」
ルゥが銀鋲を当てる。
「村中にある」
「道の下に道がある!」
「大声出さない」
「すごいぞ!」
「今は危ない!」
銀糸を一本、金色の筋へつなぐ。
ルゥは目を閉じた。
切れてはいない。
一本の道が、天樹の上へ伸びている。
天頂門。
そこから下へ何百本にも分かれ、カゲノハ村の家、橋、広場、畑を支えている。
ただし、単に場所を結んでいるのではない。
道の中に、人の声がある。
『ただいま』
『おかえり』
『ただいま』
『おかえり』
何百回も。
帰ってきた人の数だけ。
「何が聞こえる?」
カナタが顔を近づける。
「近い!」
「俺も聞く!」
「耳で聞いてる!」
「じゃあ耳を近づける!」
「私の耳に近づけない!」
背後で、小さなくしゃみがした。
二人が振り向く。
点検口の階段に、アカリが立っていた。
最後の一段で眩暈が来たのか、壁へ肩を預ける。見られたと気づくと、姿勢だけを妙にまっすぐに戻した。
厚い上着。
首にはマツバ婆の古い布。
片手に薬箱。
もう片方に白札の束。
「何してる!」
カナタとルゥの声が重なる。
「届け物」
「誰に!」
「ルゥ」
薬箱を開ける。
中には薬ではなく、銀鋲と新しい糸巻きが入っていた。
「ハルガさんから。『外出禁止を破るなら道具くらい持て』って」
ルゥが額を押さえる。
「師匠、知ってるの?」
「二人が点検口へ入るところ見てた」
「止めなかったのか!」とカナタ。
「止めても行くからって」
「分かってる!」
「それから、私も白札を届ける」
「熱は?」
「下がった」
「昨日まで寝てた!」
「昨日、薬が届いたから」
「俺の配達!」
「薬の力」とルゥ。
「両方」
アカリは短く言った。助けられたことを認めながら、助けられた人のままにされるのは嫌だった。
アカリは白札を通路の入口へ打った。
――今の入口。
震える字だった。
「これ、何?」
金色の筋を指さす。
「昔の道」とカナタ。
「まだ決まってない」とルゥ。
「帰る声がする」
アカリは耳を近づけた。
金色が強く光る。
通路の壁が消えた。
三人の前に、小さな部屋が現れる。
布団。
水桶。
枕元の紙旗。
昨日、アカリが寝ていた部屋。
「私の家」
アカリが一歩出る。
カナタが腕を掴んだ。
「待て。道じゃない」
「でも、今の家」
「昨日の家」とルゥ。
「同じだよ」
「薬箱が違う」
幻の部屋には、ひしゃげた薬箱がまだ枕元にある。
今、アカリが持つ箱は、道具箱へ使い直されている。
窓の紙旗も、幻では枕元。
本物はカナタの白旗に結ばれている。
「昨日の、帰りたい形」
ルゥが呟く。
「場所を見せてるんじゃない。アカリが覚えてる『帰る前の家』を作ってる」
「帰る前?」
「薬を待ってたとき」
アカリは幻の自分を見た。
布団の上で目を閉じている。
マツバ婆が手を握っている。
「でも、薬は届いた」
アカリは白札を一枚出した。
幻の戸口ではなく、今立っている通路へ貼る。
――今、ここ。
金色の部屋が薄くなる。
「帰らないのか?」とカナタ。
「もう出たから」
「昨日の家だぞ」
「今は、こっち」
アカリは薬箱を持ち上げた。
「届ける側」
幻が消えた。
ルゥは白札を見つめる。
「今、ここ」
「五つ書いた」
「五つ?」
「私の家。おばあちゃんの家。薬箱。今いる場所。帰る場所」
「薬箱は家じゃない」とカナタ。
「届け先がある」
「じゃあ道だ!」
「物よ」とルゥ。
「どっち?」
「今は物!」
通路の奥で、金色の筋がまた光った。
今度は大きな家が現れる。
カナタの家。
今より屋根が低く、壁が新しい。
扉の前に、一人の男が立っている。
ぼさぼさの黒髪。
赤い上着。
背中に白金色の旗。
「父ちゃん」
カナタの声が消えた。
右足だけが半歩先へ出る。白旗の端をつまんだ手は、救助のときより弱く震えた。
男が振り向く。
顔は光で見えない。
手を伸ばす。
唇が動く。音はない。
それでもカナタには、帰ってこいと言われたように見えた。
カナタの足が前へ出る。
ルゥが腕を掴んだ。
「待って」
「父ちゃんだ!」
「カナタが聞きたい言葉!」
「同じだ!」
「本物のアステルさんは、何て言った?」
カナタは止まる。
幼い記憶。
父が出ていく朝。
自分の頭へ手を置き、笑った男。
『行ってこい』
まだ旅にも出ていない子へ、そう言った。
幻のアステルは手を伸ばし続ける。
同じ無音の口の動きへ、カナタ自身の願いが言葉を足す。
カナタは白札を出した。
字は書けない。
代わりに、アカリの赤い太陽を描く。
今の自分が見たことのない朝。
これから見たい場所。
幻の家ではなく、通路の床へ貼る。
「今は、こっちだ」
アステルの影が消えた。
ルゥは細く息を吐く。
「帰還路は、帰りたい気持ちを足場にする」
「便利だろ」
「強すぎたら、今へ帰れない」
アカリがカナタを見る。
「私、大きくなっても昨日の布団に帰るの?」
「布団を大きくする!」
「そういう話じゃない」とルゥ。
幻の家が消えたあとも、金色の筋は静まらなかった。
通路の奥で、いくつもの声が重なる。
『カナタ』
『ルゥ』
『アカリ』
呼び方は正しい。
声も、知っている人に似ている。
けれど、三人がいる場所とは違う方向から聞こえた。
「誰?」
アカリが薬箱を胸へ寄せる。
「返事するな」
ルゥは銀鋲を三本、壁へ打った。
「道に残った声が、今いる人を呼んでる」
「呼ばれたら行けばいい」とカナタ。
「さっき父親へ行きかけた人が言わないで」
「今度は気をつける!」
「何に?」
「全部!」
「分かってない!」
金色の筋が三つに分かれた。
左へ、カナタの家。
右へ、機巧小屋。
正面へ、マツバ婆の家。
それぞれの戸口に、人影が立つ。
アステル。
ハルガ。
マツバ婆。
『こっちだ』
三人が同時に呼ぶ。
「今の師匠は地上にいる」
ルゥは右の影を睨む。
「おばあちゃんも」
アカリは正面を見ない。
「父ちゃんは……」
カナタの声が小さくなる。
「今いる場所が分からない」
「だから一番危ない」
ルゥは三本の銀糸を自分たちの腰へ結ぶ。
「離れないで」
その瞬間、通路の床が別々に動いた。
左へ。
右へ。
正面へ。
三人を結ぶ銀糸が張る。
「道が引っ張ってる!」
「自分が帰りたい場所へ分けようとしてる!」
「俺は父ちゃんのところ!」
「言わない!」
白い家の扉が開く。
アステルの影が手を伸ばす。
機巧小屋では、完成した銀色の船がルゥを待っている。
マツバ婆の家では、アカリが布団へ戻り、何も運ばず眠っている。
どれも、疲れた心には優しい景色だった。
行けば、もう迷わなくて済む。
今の自分より、少し前の形へ戻れる。
「目を閉じて!」
ルゥが叫ぶ。
「道が見えない!」
「見えてるものが道じゃない!」
三人は目を閉じる。
声だけが残る。
『カナタ』
『ルゥ』
『アカリ』
誰がどこにいるか分からない。
銀糸の張る向きも、帰還路に曲げられている。
「返事して!」
アカリが叫ぶ。
「してる!」とカナタ。
「声じゃない!」
薬箱を叩く。
こん。
一度。
「何回?」
ルゥが訊く。
アカリはへこんだ薬箱の角を親指で三度なぞった。返事を作る前に、自分の呼吸を現在へ戻す。
「分かるまで!」
こん。
二度。
「数えるのか!」
「今いるものを!」
三度。
自分。
四度。
ルゥ。
五度。
カナタ。
「五つ!」
「三人だぞ!」
「薬箱と、今いる場所!」
「物まで数えた!」
「声より分かる!」
ルゥが近くの壁を、工具の柄で五回叩く。
かん。
かん。
かん。
かん。
かん。
左側。
カナタは白旗の石突で五回。
こつ。
こつ。
こつ。
こつ。
こつ。
右上。
幻の声も二人の名を呼び続ける。
だが、同じ五回は返さない。
「分かった!」
アカリは目を閉じたまま、音の方向へ薬箱を投げた。
「なんで投げる!」
カナタの声。
直後、箱が何かへ当たる。
「痛っ!」
「カナタ!」
「頭!」
「今いる!」
ルゥが銀糸を音の方向へ引く。
三人の距離が縮まる。
幻の床が抵抗する。
カナタは白旗を横へして、二人の体をまとめて抱える。
「今の通路へ!」
「標術もないのに命令しないで!」
「足で戻る!」
三人は同時に一歩を踏んだ。
白い家。
銀の船。
暖かい布団。
すべてが後ろへ流れる。
目を開くと、元の狭い通路にいた。
薬箱はカナタの額へぶつかったあと、床へ落ちている。
新しいへこみが一つ増えた。
アカリは直そうとするルゥの手を止めた。
「残す」
「傷よ」
「今の場所を当てた傷」
正しさだけでなく、どう間違えて戻ったかも箱に残す。
「箱!」
「俺!」
「どっちも大事」とアカリ。
「薬が入ってないから俺が先!」
「今は道具が入ってる」
「俺より?」
「同じくらい」
「同じならいい!」
「よくない」とルゥ。
金色の筋が弱くなる。