第6話 第三章「道の下にある道」後編
幻を退けた場所の壁に、小さな穴が五つ並んでいた。
ルゥが鋲を一本差す。
ぴたりとはまる。
「これ、もともと印を入れる穴だ」
「五つ?」
「たぶん、場所、時刻、持ち主、行き先、更新者」
「分かりやすく!」
「今の道を、昔の記憶と区別するための情報」
穴の横に、細い字。
アステルの筆跡だった。
ルゥが指でなぞる。
「《現標受け》」
「父ちゃん、作ってた!」
「途中まで」
五つの穴のうち、金属の仕組みが残っているのは三つだけ。
二つは空のまま。
「完成してない?」
アカリが訊く。
「誰が何を入れるか、決めきれなかったのかも」
「今、五回叩いた」
「たまたま」
「五つ数えた」
「薬箱まで」
「今いるもの」
アカリはへこんだ箱を一つ目の穴へ当てる。
入らない。
「大きすぎる」
「札なら入る」
白札を細く折る。
――今、ここ。
一つ目の穴へ差す。
金色の筋が一度だけ白く光った。
三人の足元に、今の通路がはっきり浮かぶ。
「動いた!」
「一つだけ」
「残り四つ、何を入れる?」
ルゥは答えなかった。
帰還路を設計した本人でさえ、空けたままにした場所。
今ここで、勝手に全部を決めるべきではない。
「地上へ戻って、みんなで考える」
ルゥは言い切ったあと、左手の指を右手で揉んだ。三本の銀糸を同時に張った反動で、爪の際が赤い。カナタが気づき、何も言わず工具箱の重いほうを持つ。言葉で心配すると拒まれることを知っているからだ。
カナタが不満そうにする。
「今決めよう!」
「誰の帰る道?」
「村のみんな!」
「なら、みんなに聞く」
アカリが言った。
カナタは口を閉じる。
「……聞く」
「珍しい」とルゥ。
「今、学んだ!」
「五呼吸は覚えて」
遠くで、別の音がした。
五回ではない。
一度。
鋭く。
何かが帰還路を外から切った音。
金色の筋の一部に、黒い断面が現れた。
ルゥは銀鋲を近づける。
糸が触れる前に途切れる。
「切れてるんじゃない」
「何?」
「ここから先へ、道があったこと自体を終わらせてる」
黒い断面の中央に、割れた羅針盤の小さな跡。
アカリが薬箱を抱え直す。
「誰の?」
カナタはその紋を知っていた。
父アステルと一緒に旅をした男。
村人が名前を口にするとき、声を低くする登枝士。
「ザンバ」
通路の奥から杖の音がした。
村長が立っている。
その隣にハルガ。
「外出禁止を、三人で破るとはな」
「一人増えたのは途中から!」とカナタ。
「数の問題ではない!」
村長は金色の筋へ手を置いた。
「《帰還路》」
低く言う。
「十年前、天頂門の崩落から村を救った道だ」
「誰が作った」
カナタの問いに、老人は答えない。
「朝火とともに枝を支えている。通常は、帰ってきた者の最後の一歩を助けるだけだ」
「今は暴れてる」
ルゥが言った。
「上から引かれてる。誰かが天頂門側の道へ触ってる」
「ザンバか」
村長の顔が固くなる。
カナタが身を乗り出す。
「父ちゃんの道なんだな」
「カナタ」
「誰が作った!」
通路全体が震えた。
上方で、巨大な顎が閉じる音。
金色の筋が一本、途中から消える。
村のどこかで橋が落ちた。
警鐘が鳴る。
六つ鐘ではない。
低く、乱暴で、村の骨まで震わせる音。
村長が点検口へ向く。
「答えは、上から来た」
次の瞬間。
天井を巨大な爪が突き破った。
最初に闇を割ったのは、巨大な顎だった。
村の上を覆う枝葉が砕け、木片の雨が降る。
翼のない竜。
長い胴を枝へ巻きつけ、六本の脚で樹皮を抉る。口の周囲には歯が幾重にも並び、噛みついた場所から道も橋も家も、まるで最初から存在しなかったように消えていく。
「喰路竜――ミチバミ!」
ハルガが叫んだ。
左の第四歯が欠け、尾が必ず左回りに道を探る個体。以前、上枝の保守路を半月追い回した記録があり、職人たちは《ミチバミ》と名をつけていた。
道を食う災害獣。
一頭現れれば、三つの村が地図から消えると言われる怪物だ。
カナタたちは点検口から広場へ飛び出した。
ミチバミは祭壇の外周を左へ回っている。
腹の薄い皮の内側には、食べた道が金色の像となって逆向きに流れていた。空腹になるほど像は速くなり、首の操具痕だけが黒く沈む。
家々へはまだ噛みつかない。
橋。
昇枝路。
避難路。
人が逃げるための道だけを、選んで食べている。
「操られてる」
ルゥが言った。
ミチバミの頭上に、一人の男が立っていた。
長い灰色の外套。
左目から頬へ走る傷。
右腕には黒い包帯。その下で機巧の接続部が朝火の振動に合わせて軋んでいる。
左の生身の手は空いていた。落ちてきた小石を反射的に受け取り、何事もなかったように地面へ置く。
右の機巧腕で、大剣のような旗竿を担いでいる。
旗は夜より黒い。
中央に浮かぶ紋は、真っ二つに割れた羅針盤。
「十年ぶりだな、カゲノハ村」
男の声は大きくない。
それでも、広場の隅まで届いた。
「黒旗のザンバ……」
村長の唇が震える。
「アステルの相棒」
カナタが顔を上げた。
「父ちゃんを知ってるのか!」
ザンバの喉が一度だけ鳴った。アステルの名を呼べなくなるときの、本人にも止められない反応だった。
ザンバの片目が、カナタへ向く。
白い旗。
ぼさぼさの黒髪。
赤い上着。
ほんの一瞬。
男の顔に、痛みに似たものが走った。
すぐに、冷たい笑みに隠れる。
「似ているな。無謀な目だけは」
「父ちゃんはどこだ!」
「答えが欲しければ、追ってこい」
ミチバミが首を伸ばす。
狙う先は、広場の祭壇。
中央に浮かぶ拳大の金色結晶。
《朝火》。
上層から分け与えられた太陽の欠片。
苔灯りを育て。
枝の脈を温め。
村の命を支える心臓。
「やめろ!」
カナタが走る。
ザンバは黒旗を一閃した。
「標術――《終点》」
空間に、黒い線が走る。
カナタと祭壇の間。
二メートルぶんの石畳が、音もなくなくなった。
裂けたのではない。
道の終わりを置かれ、その先が世界から切り離された。
踏み出したカナタは、突然現れた穴へ落ちる。
「カナタ!」
ルゥの銀鋲が飛ぶ。
光糸が腰へ絡み、すんでのところで引き戻した。
その間に、ミチバミが朝火を丸呑みにする。
金色が喉を通ると、歯列だけが満腹の色へ光り、尾打ちが一度ゆっくりになった。命令へ従ったのではない。人が「道」と呼んだ線を餌として追う生態を、ザンバの操具が利用している。
村中の苔灯りが、一斉に消えた。
闇。
悲鳴。
足元の大枝が、深く軋む。
アカリの手から紙旗が落ちた。
カナタは穴の縁へ手をつき、ザンバを睨む。
「返せ!」
「朝火を失った枝は、次の六つ鐘までに枯れる」
ザンバは告げた。
「助かりたければ上へ来い。登れる者だけは、天頂門の向こうへ連れていく」
「老人や子どもはどうする!」
村長が叫ぶ。
「置いていけ」
ザンバの声は変わらない。
広場の端で、誰かが息を呑んだ。
「上へ……行けるのか」
声を上げたのは、若い木工師ラドだった。
名を口にする前、一度だけ生唾を飲み込む。家の下には幼い妹。彼は妹を名前ではなく、照れ隠しに「家守」と呼んでいた。
背中には、梯子の紋を持つ旗。
「天頂門の向こうなら、枝は落ちないんだな」
「少なくとも、この枝と一緒には落ちん」
ザンバは答えた。
「家守も連れていけるか」
「自分で登れるなら」
「七歳だぞ!」
「なら置いていけ」
木工師の顔から色が消える。
ザンバは周囲を見回した。
「一人が二人分の重さを背負えば、難所で二人とも落ちる。荷を捨てられぬ者から死ぬ」
「人を荷物みたいに言うな!」
カナタが穴の縁から叫ぶ。
「重さは重さだ」
「名前がある!」
「名を呼べば軽くなるか」
「一緒に持つやつが増える!」
「その増えた者も、重くなる」
ザンバの言葉は冷たい。
だが、知らずに言っている声ではなかった。
何度も誰かを背負い。
何度も、背負ったまま落ちかけた者の声。
村長が杖を進める。
「十年前、お前はアステルとともに門へ着いた」
「ああ」
「なぜ今さら戻った」
ザンバの片目が帰還路へ向く。
「今さらではない」
黒旗を持ち上げる。
村のあちこちにある、黒い断面が同時に光った。
点検路で見た跡。
北橋の下。
古い宿の残照。
畑へ出た、死者の道。
「十年、外へ漏れた帰還路を切ってきた」
「お前が?」とルゥ。
「死者の記憶が上層の道へ混じれば、旅人が消える。昔の家へ帰ろうとし、空へ落ちる」
ザンバは右腕の黒い包帯へ触れた。
「アステルが残したものを、俺が終わらせ続けた」
「守ってたって言うの?」
「結果としてな」
「上から帰還路を引いたのも、お前?」
ルゥは竜の首元を指した。
黒い金具。
何本もの細い線が、ザンバの旗へつながっている。
「ああ。散らばった道を朝火へ集めるためだ。切れ端を一つずつ追うのは、今夜で終える」
「だから喰路竜を?」
「帰還路は切っても増える。朝火は、今の村を帰還路へ結ぶ錨だ。竜に呑ませれば、竜はその標力を追って天頂門まで金路を食う。門で朝火ごと《終点》を置けば、枝を支える根まで二度と戻らん」
「村ごと!」
「帰還路が村を支えているからだ」
「順番が逆!」
「支えを失えば、生きている者は自分の足で立つ」
アカリが紙旗を拾った。
「立てない人は?」
ザンバは少女を見る。
「誰だ」
「アカリ」
「名を聞いたわけではない」
「今いる人を知らないで、置いていく人を決めるの?」