第7話 第四章「黒旗と残る者」前編

アカリは姿勢だけをまっすぐにした。相手が人を一つの重さへ揃えるとき、誤配の前と同じ冷えが背中を走る。薬箱のへこみを親指でなぞりながら、それでも声は大きくしなかった。

広場が静かになる。

アカリは薬箱を抱えた。

「熱がある人。足が悪い人。小さい人。道を直せる人。薬を作れる人。みんな違う」

「だから選別が要る」

「数えてない」

「数えれば、捨てる者が増えるだけだ」

「じゃあ、最初から見てない」

ザンバの片目が細くなる。

「子どもの言葉だ」

「十三歳」

「同じだ」

「違う」

アカリは即答した。

ルゥが小さく笑う。

ザンバは笑わなかった。

黒旗を一度振る。

広場の北側に、細い黒い足場が三枚生まれた。

天頂門の方角へ続く避難路。

ただし、最初の一枚は高い。

標術で跳べる者にしか踏めない位置。

「夜明けまで残す」

ザンバが言う。

「来る者は来い。俺は止めん」

トウヤの昇標が反応した。

上向きの紋が、黒い足場へ引かれる。

「行ける」

トウヤが呟く。

フィオが横を見る。

「行くの?」

「ここにいたら落ちるかもしれない」

「上でも落ちる」

「でも、自分で選べる」

トウヤは拳を握る。

「俺は登枝士になりたい」

「今行けばなれる?」

「分からない」

「家族は?」

トウヤの視線が広場の母と弟へ向く。

母は行けともうなずいた。

弟は何も言わず、兄の旗を見ている。

黒い足場は、選択肢だった。

間違いだと簡単には言えない。

カナタはそれが腹立たしかった。

「俺が全員の道を作る!」

ザンバが見下ろす。

「標術もないお前が?」

「今なくても!」

「できるまでやる、か」

父を知る男は、カナタが言う前に続けた。

「アステルもそう言った。できるまでの間に、何人が待つかは数えなかった」

「父ちゃんを悪く言うな!」

「追って確かめろ」

ザンバは黒い避難路へ背を向けた。

「お前が作るという道が、誰のためのものかもな」

「この村は十年、死者の道へぶら下がって生きた。もう終わらせる」

「死者?」

カナタの喉が鳴る。

「父ちゃんのことか」

「知りたければ来い、空白旗」

ザンバは天頂門の方角を指す。

「十年前、アステルが終われなかった場所だ」

「父ちゃんは生きてる!」

「なら、なおさら自分の目で確かめろ」

ミチバミの口元から朝火の光が漏れる。

黒旗の紋が金色に脈打つ。

「冒険とは選ぶことだ。夢か、故郷か。前進か、停滞か。強者か、置いていく者か」

ザンバは村を見下ろした。

「すべてを欲しがる者は、最後に何一つ残せん」

「お前が決めるな!」

カナタは穴を跳び越えようとする。

ミチバミが道を噛む。

広場と上枝を結ぶ昇枝路が消えた。

さらに南橋。

鐘楼への階段。

村の外へ続く三本の道。

ミチバミは、追うための道を食べながら上へ走る。

ザンバの黒旗だけが闇の中にはためいた。

「天頂門で待つ」

巨体が枝葉の向こうへ消える。

あとには、何もない空白が残った。

朝火を失った村は、音から壊れ始めた。

水路の流れが止まる。

苔灯りの火が消える。

枝の奥で、樹液を送る脈が一つずつ沈黙する。

普段なら一つ鐘から六つ鐘まで、低く続いている村の響きがなくなった。

代わりに聞こえるのは、家が軋む音。

泣く声。

命令。

「全員、中央広場へ!」

村長が杖を掲げる。

「北側の家から避難! 飛空艇を使える者は発着場へ!」

「朝火なしでは炉が動きません!」

機巧師が叫ぶ。

「昇枝路も食われました!」

「下枝へ逃げる道は!」

「帰還路の古い光が残っています!」

「どこへ出るか分からん!」

村人たちが広場へ集まる。

足の悪い者。

小さな子。

荷物を抱えた者。

自分の旗だけを持ってきた者。

何を持てばいいか決められず、家と広場を往復する者。

カナタはザンバが消えた闇を見ていた。

「ルゥ。天頂門まで、どれくらい」

「正規路なら半日」

「道はない」

「ミチバミに食われた」

「近道」

ルゥの顔が固くなる。

《逆さ滝》

「何刻」

「三刻」

「行く」

「待って」

「朝火を取り返す!」

「村はどうするの!」

「帰ってくる!」

「その間!」

ルゥは暗い広場を指した。

「誰が、今いる人を残すの!」

カナタの口が止まる。

村を救う者が村から出るには、村を残す者が必要だった。

その当たり前を、カナタは初めて考えた。

「杭、あと十二本!」

ハルガが工房から叫ぶ。

「畑区へ六! 北橋へ四! 広場へ二!」

「広場は三!」とアカリ。

「二で足りる!」

「昔の祭壇が重なってる! 今の祭壇を示す杭が一つ要る!」

ハルガが金色の幻を見る。

古い祭壇と新しい祭壇。

二つの朝火台。

「三本!」

村人たちは白札と杭を持ち、傾く道を走った。

アカリは広場の中央へ、薬箱を机代わりに置いている。

箱の蓋には村の簡単な地図。

家の名。

今いる人数。

移動先。

十三歳の字で、何度も書き直されている。

「北区、二十七人!」

伝令が叫ぶ。

「一人足りない!」

「誰!」

「干し茸屋のトノ爺!」

「昔の店へ行ってる!」

アカリは地図の古い位置を指した。

トノ爺は階段を上るときだけ、残り段数を逆から数える。古い店なら七、六、五、と数え終えた場所に戸がある。今の店は段数が違うため、帰還路の幻へ引かれやすかった。店と避難路を同時に失うことが怖く、非常時ほど出口に近い足へ体重を掛ける癖もある。

「今の店は広場の西! 昔は北橋の手前!」

カナタが走ろうとする。

「お前は支度!」

ルゥが襟を掴む。

「俺が速い!」

「私も行かない!」

「誰が!」

フィオが手を上げた。

風見糸をねじる指だけは震えていた。見えている危険へ風が届かないことを、彼女は誰より怖がる。それでも笑いで隠し、笑い終わる前に翼旗を開いた。

訓練枝で翼旗を使っていた少女だ。

「私が行く。道が幻なら、上から見分ける」

「落ちたら!」

「今度は自分で帰る」

翼の旗を広げる。

「朝火を取ってきて」

フィオは走った。

カナタはその背中を見る。

「俺が行かなくても、行くやつがいる」

「当たり前」とルゥ。

「でも、俺のほうが速い」

「全員の先頭を取らない!」

トウヤも昇標を掲げ、傾く家々の下へ足場を出す。

セルクは避難路の代わりに、村人の旗を一本ずつ広場へ集めた。

「旗を持て!」

「何のためだ!」

「自分のいる場所を忘れないためだ!」

帰還路の幻が古い家を見せるたび、白札と持ち主の旗が現在の位置を示す。

アカリは銀糸で二つを結ぶ。

「名前!」

「鍛冶師、ダン!」

「行き先!」

「北橋を支える!」

ダンは不安になると、上着の一番下の留め具だけを回す。今も笑いながら留め具を回し、笑い終える前に歪んだ支柱を肩へ載せた。

「薬師、ネルカ!」

「広場の負傷者!」

ネルカは椅子へ座っても背もたれを使わない。床の傷を左下へ見て、誰へ先に薬を渡すか決める。患者が一人足りないと聞いた瞬間、呼吸より先に足が動いた。

「マツバ婆!」

「アカリの隣!」

「私!」

アカリは一瞬考える。

へこんだ薬箱の角を三度なぞる。

薬箱。

広場。

天頂門。

行きたい場所は一つではない。

「届ける側!」

黄緑の紐へ白札を結ぶ。

広場の北には、ザンバが残した黒い足場が三枚浮かんでいた。

朝火がなくても消えない。

その先は暗い枝葉へ続き、天頂門の方角へ向いている。

村人たちは足場を見た。

誰もすぐには踏まない。

踏まないことが勇気とは限らない。

踏むことが裏切りとも限らない。

「行く者は、名を」

セルクが名簿を開いた。

村人たちが驚いて見る。

「止めないのか」と村長。

「止めて隠れて行かせるより、今いる場所を知る」

セルクは黒い足場の前へ白杭を一本立てた。

名簿の角を揃え、行く者と残る者を別の欄へ分ける。どちらにも合格や失格とは書かなかった。

「戻る場合の印も置く」

最初に名を告げたのは、若い木工師だった。

「ラド。家守と残る」

飲み物なら必ず指二本ぶん右へ置く男が、今は妹の肩を自分の右へ置いていた。守る側を決めて安心したい癖だ。

「さっき上へ行きたがってた」とカナタ。

「妹が登れない」

「背負う?」

「途中で落とすかもしれない」

ラドは唇を噛む。

「だから、ここで家を支える」

「怖くない?」

ラドは同じ質問を、そのまま自分へ返すように小さく繰り返した。

「怖くないか。……怖い」

上へ行く願いを捨てたわけではない。残る選択を臆病と呼ばれることが、落下より怖かった。

その答えに、カナタは何も言えなくなった。

次に、雲漁師の夫婦が名乗る。

「サラとビン。上へ行く」

サラは上着の一番下の留め具を回し続け、ビンは片側だけの風眼鏡を額へ上げた。驚くと「なるほど」と言うビンは、今は何も納得していないため、声だけが妙に大きい。

「なるほど。上層港へ救援を呼ぶ」

「今の『なるほど』、分かってないでしょ」とサラ。

「分かるために行く」

夫婦の旗には、どちらも風袋の紋。

高い足場へ自力で届く。

「この枝に子はいない。船もない。上へ出て、助けを呼ぶ」

村長がうなずく。

「戻れるなら戻れ」

「戻れなくても、知らせる」

アカリは二人の札へ書く。

――現在地、北広場。

――次、天頂門側の道。

――目的、助けを呼ぶ。

「置いていく、じゃない」

アカリがカナタへ小さく言う。

「別の道から助ける人もいる」

「ザンバの道だぞ」

「歩くのは二人」

カナタは黒い足場を見る。

敵が作った道でも、使う者の行き先まで同じとは限らない。