第8話 第四章「黒旗と残る者」後編
トウヤは最後まで迷っていた。
昇標なら足場へ届く。
天頂門に近づける。
登枝士への最短路に見える。
母が背中を押した。
「行きなさい」
「母さん」
「行きたいんでしょう」
「でも」
「私たちはフィオと広場にいる」
フィオが目を見開く。
「私まで数えられてる」
「嫌かい?」
「嫌じゃない。でも、トウヤが決める」
トウヤは黒い足場へ一歩近づく。
カナタは止めようとした。
ルゥが腕を掴む。
「本人へ聞いて」
カナタの右足はもうトウヤを止める位置へ出ていた。自分が置いていかれる怖さを、救助の形で他人へ押しつける一歩。気づいて、半歩だけ戻す。
「行くのか!」
「分からない!」
トウヤは怒鳴った。
「上へ行きたい! でも、ザンバの後ろは嫌だ! ここに残って何もできないのも嫌だ!」
「じゃあ、何をする」
フィオが訊く。
トウヤは傾く家を見る。
昇標なら、上へ登るだけではない。
落ちるものを持ち上げられる。
「南橋を支える」
黒い足場から背を向ける。
「今は、そこ」
アカリが札へ書く。
――トウヤ。
――南橋。
――次、まだ決めない。
「まだ、も書くのか」
「今の答え」
トウヤは札を受け取り、走った。
雲漁師の夫婦だけが黒い足場を踏む。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
暗い上枝へ消える直前、二人は村へ自分たちの旗を向けた。
別れではない。
現在地を知らせる印。
アカリは地図に新しい線を引いた。
黒い線ではなく、二人が選んだ青い線。
「ザンバの道を、勝手に色を変えた」
カナタが言う。
「使う人の道だから」
「怒るぞ」
「帰ってきたら、弁償してもらう」
「強い!」
アカリは次の札へ向く。
「カナタ」
「俺?」
「今いる場所」
「広場!」
「次」
「天頂門!」
「目的」
「朝火を取り返す! 父ちゃんのことを聞く! 村へ帰る!」
「三つ」
「全部書け!」
「順番は?」
カナタは少し考える。
「朝火」
「次」
「村へ帰す」
「次」
「父ちゃん」
「天頂門を見るのは?」
「そのあと!」
アカリは三つの行き先を、一本に重ねず、三行に分けた。
「途中で変わったら?」
「書き直す!」
「自分で?」
「字は――」
「帰ったら覚える」
「約束が増えた!」
「帰る理由も増えた」
カナタは札を白旗へ結ぶ。
結び目の下へ、試験場で拾った普通の石を一つ入れた。アカリに頭へ当てられた石だ。戻る理由を言葉だけでなく、重さとして持っていく。
太陽の紙旗の隣。
まだ何も描かれていない布へ、現在地と三つの行き先が揺れた。
カナタは村長の前へ立った。
「三刻、くれ」
「標術もないお前に、何ができる」
「分からない」
村長が目を見開く。
いつものカナタなら、できるまでやると言った。
「でも、朝火は上にある。行き先が分かるなら、一歩は出せる」
「帰れなければ」
「帰る」
「アステルも言った」
「父ちゃんは、帰らなかったんじゃない」
カナタは金色の帰還路を見る。
「道になった」
「それを帰ったと呼ぶのか」
「まだ分からない。上で聞く」
村長は目を閉じた。
「私は、あいつを送り出した」
「今度は俺」
「同じ道へ行くな」
「俺の道は、まだない!」
村長は杖を横へした。
通せんぼではない。
村の南端にある古い風門の封印を外す。
下から上へ、樹液の霧が噴き上がった。
逆さ滝。
「行ってこい」
カナタの足が止まる。
「帰ってこい、じゃないのか」
村長の眉が上がる。
「両方言えばいい!」
カナタは笑う。
「行ってくる! 帰ってくる!」
ルゥが腰へ縄を結ぶ。
「順番は守って」
「行って!」
「帰る!」
「間を抜かさない!」
アカリが走ってくる。
一枚の紙旗を差し出す。
表には赤い太陽。
裏には、震える字で《返事》。
「帰ったら、外の話」
「まだ外へ出てない!」
「上も外」
「じゃあ最初は、逆さ滝!」
「届いたって、返事して」
「おう!」
「自分で」
「ルゥが!」
「自分で!」
「字はあと!」
「帰ったら最初に覚えて」
「世界の果てのあと!」
「遅い!」
遠くで枝が折れた。
広場が傾く。
アカリがカナタへしがみつく。
村長の旗が光り、広場の根を囲む。
「行け!」
セルクが叫ぶ。
「次の六つ鐘まで、ここは保たせる!」
カナタは白旗を背負い直す。
「任せた!」
村長。
ハルガ。
セルク。
トウヤ。
フィオ。
村人たち。
最後にアカリを見る。
「朝を持って帰る!」
アカリは紙旗を高く上げた。
「持って帰るだけじゃなく、着いたって言って!」
「おう!」
二人は裂け目へ立つ。
背後で、何百本もの白札が風に揺れている。
マツバ婆はアカリの前髪を数え、途中で一本多いことに気づいた。
「熱が上がったら、仕事は渡すんだよ」
「手順の中に休憩はない」
「その言葉が出たら、休憩だ」
祖母は柔らかく言ったが、反対するときだけ語尾を伸ばさなかった。
今いる場所。
待っている人。
帰ってきたとき、もう一度見つけるための印。
「絶対に手を離さないで!」
ルゥが叫ぶ。
「離したら?」
「先に飛んだほうが、あとから来るほうを受け止める!」
「名案!」
「どこがよ!」
二人は逆さ滝へ飛び込んだ。
アカリは裂け目の縁まで走り、薬箱を五回叩いた。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
今、ここ。
まだ、その合図に名前はなかった。
カナタには風の音しか聞こえない。
それでも白旗の紙の太陽が、一度だけ村のほうへ振り返った。
逆さ滝には、落ちるという言葉が役に立たなかった。
裂け目へ飛び込んだ瞬間、風が地面になった。
「上が下になった!」
「上は上!」
「じゃあ、なんで足が空に向いてる!」
「私に聞かないで!」
カナタとルゥの体は、樹液の霧をまといながら、枝の内側を猛烈な速さで吹き上げられた。
右には黒い樹皮の壁。
左には底のない空洞。
頭上からは、岩と折れた橋板が雨のように落ちてくる。逆向きの風に乗っているため、落ちてくるのに上へ消えていく。
「板!」
「見えてる!」
「三枚!」
「増えた!」
ルゥが腰の銀鋲を二本投げる。
「《継ぎ路》!」
光糸がカナタの腰と、裂け目の壁へ残る古い鉄輪をつないだ。
二人の軌道が横へ折れる。
一枚目の橋板が鼻先を通り。
二枚目がカナタの荷袋を削り。
三枚目が二人を結ぶ縄へ当たった。
ぷつん。
「あ」
「今の『あ』は何!」
「縄が切れた音!」
「説明が遅い!」
二人の体が別々の風へさらわれる。
カナタは上へ。
ルゥは斜め下へ。
「ルゥ!」
カナタが白旗を伸ばす。
届かない。
ルゥも銀鋲を投げる。
光糸は旗竿へ届いた。
だが、途中へ流れてきた岩が糸を弾く。
「切れた!」
「もう一本!」
「残り三本!」
ルゥは危険度順に挿した銀鋲を指で確かめる。橋梁崩落用は試験で失い、いま残るのは細部補修用ばかり。指の腱が鳴ったが、「自分の番ではない」と飲み込んだ。
「いっぱいある!」
「少ないの!」
ルゥの背後に、巨大な根が迫った。
逆さ滝の中を横切る、古い支根。
風に押されれば、体ごと叩きつけられる。
カナタは白旗を根へ向けた。
「ルゥの前!」
何も起きない。
「出ろ!」
白い布だけが、ばたばたと鳴る。
根まで、あと十歩。
ルゥが銀鋲を構える。
届かない距離。
「カナタ! どこへ行きたいの!」
「お前のところ!」
「もっとちゃんと!」
「今のお前の足元!」
白旗の中央に、細い金の線が走った。
カナタの耳へ、風とは違う声が届く。
――どこから。
今いる場所。
どこへ。
行きたい場所。
それだけを訊く声だった。
「ここから――ルゥの足元へ!」
旗竿を、何もない空へ突く。
かん、と硬い音がした。
空中に、一枚の光る板が生まれた。
人が片足を置けるだけの、小さな足場。
「出た!」
「踏んで!」
カナタは光板を蹴た。
一歩。
体が風を横切る。
板は踏まれた直後に砕けた。
まだ遠い。
「次!」
「ルゥの右手!」
もう一枚。
一歩。
「次!」
「ルゥの肩!」
「そこへ踏むの!?」
「手前!」
三枚目。
カナタは空を駆け、ルゥの腕を掴んだ。
二人の体がぶつかる。
直後、ルゥがいた場所を巨大な根が通り過ぎた。
「取った!」
「取られた!」
「同じだ!」
「今だけは同じ!」
二人は抱き合ったまま風へ回される。
白い足場はもうない。
上昇気流の中心からも外れていた。
「次、どこ!」
カナタが叫ぶ。
ルゥは樹皮の壁を見る。
古い鉄輪。
切れた梯子。
風の向き。
その全部を一息で測った。
「左上、十二歩! あの赤い鉄輪!」
「十二枚出す!」
「一枚ずつ! 行き先を変えないで!」
白旗を振る。
「赤い鉄輪まで!」
一枚。
踏む。
「赤い鉄輪まで!」
二枚。
ルゥがカナタの背へつかまりながら、砕けかけた板へ銀鋲を打つ。
「《継ぎ路》!」
一枚目と二枚目が、細い光糸でつながった。
踏み終えた板が、すぐには消えない。
三枚目。
四枚目。
カナタが一歩を作る。
ルゥが、その一歩を次の一歩へつなぐ。
長い道ではない。
最初から完成した橋でもない。
一枚ずつ。
そのたび、二人が今いる場所を確かめる。
「九!」
「数えるな! 長く感じる!」
「十!」
「あと二枚!」
「数えてるじゃねえか!」
「十一!」
「最後!」
「赤い鉄輪の手前!」
「手前?」
「最後は自分で掴む!」
十二枚目は出さなかった。
カナタは十一枚目から跳ぶ。
片手が鉄輪へ届く。
指が滑る。
もう片方の手を、ルゥが下から押した。
がしり。
二人は輪へぶら下がった。
「着いた……!」
「掴まっただけ!」
「同じだろ!」
「今は近い!」