第9話 第五章「逆さ滝」前編

鉄輪の先には、細い保守棚が残っていた。

二人は這い上がる。

保守棚は、途中から二つに折れていた。

片方はカナタたちの足元。

もう片方は、風の向こうで上下逆さまに揺れている。

その上に、人影が二つあった。

「誰かいる!」

カナタが叫ぶ。

返事の代わりに、金属を叩く音。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

五回。

アカリと同じ間隔だった。

「今、ここ!」

カナタが白旗を五回、保守棚へ打つ。

向こうの人影が大きく手を振った。

一人は、短い赤髪の少女。

カナタたちより少し年上。

腰に標杭を何本も差し、背には白と橙の格子旗。

もう一人は、片脚を木の添え板で固めた老人だった。

少女は老人を棚へ縛り、自分の片腕で支えている。

旗竿の石突は、親指で磨き続けた跡だけ光っていた。誰かを残す選択へ近づくほど、そこを触る癖がある。飲み水の小瓶は棚の右端、指二本ぶんだけ正確に寄せられていた。

「風路守のセリ!」

主語を省く現場口調の少女が、責任を取るときだけ自分の名を言った。

「こっちはオウギ親方! ザンバに保守路を切られた!」

「上へ行く途中?」

「下へ戻る途中!」

「反対だ!」

「今の私たちには、そっちが上!」

逆さ滝では、方向の言葉はすぐ役に立たなくなる。

ルゥは二つの棚の間を見る。

距離は十五歩。

風の中央には、ミチバミが食べた空白。

上昇気流がない。

「先に助ける」

「朝火は!」

「二人を置いていくの?」

カナタは天頂門の方角を見る。

時間は減っている。

村は待っている。

けれど、目の前にも今いる人がいる。

「助ける!」

「即答まで一呼吸かかった」

「考えた!」

「成長!」

カナタは白旗を向ける。

「セリの棚まで!」

一歩分の光板。

次。

その次。

しかし、五枚目を出したところで旗が重くなった。

布の金線が薄れる。

「出ない!」

「同じ行き先を言い続けて!」

「セリの棚まで!」

六枚目。

小さい。

片足の半分しか載らない。

「標力が足りない」

ルゥは銀鋲を残り数えた。

ミチバミとの遭遇前なのに、もう半分以下。

「全部つなげたら、向こうへ着く前に切れる」

「じゃあ一歩を大きくする!」

「できるの?」

「気合い!」

「最後!」

セリが向こうから標杭を一本投げた。

風へ流され、二人の間で止まる。

杭の両端に、橙色の輪。

《風留杭》! 気流を一呼吸だけ止める!」

「届いてない!」

「そっちから一歩!」

「こっちからも一歩!」

カナタは杭の手前へ光板を出す。

セリも自分の棚から跳んだ。

格子旗が開く。

「標術――《格風》!」

ばらばらの風を、四角い一区画へ揃える。

完全な道ではない。

けれど、一呼吸だけ空気が床のように固まった。

セリが杭へ着地する。

カナタが反対側から手を伸ばす。

「取る!」

「取られる!」

二人の手がつながる。

カナタの足元の光板が傾く。

ルゥが一枚だけ銀鋲を投げた。

《継ぎ路》!」

光板と風留杭をつなぐ。

三人分の重さが一本の糸へ来る。

ルゥの指に血。

「早く!」

セリはカナタの横へ渡ると、すぐ振り向いた。

「親方を!」

「棚ごと引く!」

老人の棚には、切れた保守索が二本残っている。

ルゥが一本をつなぐ。

セリの格風で、棚の揺れを止める。

カナタは光板を一枚ずつ、棚の進む先へ置く。

「道じゃなく、車輪みたいに使う!」とルゥ。

「板が回る?」

「棚が乗ったら次を前へ!」

一枚目へ棚が載る。

後ろの板が砕ける前に、カナタが次を出す。

一歩。

一歩。

人が歩くのではない。

老人を載せた棚が、カナタの一歩を順番に受け取って進む。

最後の板から保守棚へ滑り込む。

セリが老人を抱える。

「親方!」

「聞こえとる」

オウギは片目を開けた。

決断の前だけ寒くもないのに一度体を震わせ、痛む脚へ重心を偏らせる。白い髭に樹液が固まっている。

「大声の若いのが、また増えたな」

「カナタです!」

「聞こえとると言った」

老人の腰には、古い現標板が下がっていた。

白い四角。

五つの穴。

点検路で見た《現標受け》と同じ形。

「それ、父ちゃんの?」

「アステルの試作品だ」

オウギは板を外し、カナタへ渡す。

「場所。時刻。持ち主。行き先」

「四つ?」

「五つ目の仕組みを決めきれず、あいつは門へ行った」

「何を入れる予定だった?」

「返事だ、と言っておった」

アカリの紙旗が揺れた。

「帰る者が自分の場所を知らせるだけでは、片道だ。待つ側から何か返せれば道が往復するかもしれん――アステルは、そこまで書いて門へ行った」

ルゥが現標板を見る。

「だから五つ穴」

彼女は指先で、五つの穴を順にたどった。

「前に、五つ目は更新者だと思った。でも、返事を入れるつもりだった可能性がある」

「返事を入れたら、今の村へ帰れる?」

オウギは口を開きかけ、閉じた。自分の記憶だけを正解として残すことを、誰より警戒している。

「分からない」

ルゥは即答した。

《帰還路》が記憶を足場にすること。《朝火》が今見えている景色を支えること。《現標》が場所、時刻、持ち主、行き先を残すこと。分かってるのは四つまで。五つ目が何を変えるかは、まだ試せてない」

「じゃあ、試す!」

「壊さない範囲でね」

「アステルは何でも途中まで作る」

オウギは笑った。

「続きを誰かに押しつける悪い癖だ」

「任せるんだ!」

カナタが言う。

「言い方を変えるな」

「どっちでも、続きは作る!」

セリは上方を指す。

「ザンバは天頂門へ。ミチバミの首に操具がある。朝火を食わせたら、門を支える帰還路ごと噛ませるつもり」

「急ぐ!」

カナタが立つ。

「二人は?」

「下へ戻る」

セリは老人を背負う。

「村へ道の状態を知らせる。上で戦うより、今できる仕事」

「一緒に来ない?」

「親方を置いて?」

「背負って!」

「逆さ滝で二人分は無理!」

ザンバと同じ言葉。

けれど、セリは置いていかない。

自分が安全に持てる道を選び、下へ戻る。

「じゃあ、村でアカリって子を探して!」

「誰?」

「薬箱を持ってる!」

「それだけ?」

「へこんでる!」

「分かりやすい!」

セリは格子旗を下向きの風へ開く。

オウギが現標板の予備杭を一本、ルゥへ投げた。

「今の道へ立てろ。昔の足場に騙されるな」

「返します」

「返す日を決めるな。使い終わったら、次へ渡せ」

二人は風の下へ消えていった。

最後に、金属を五回叩く音。

カナタも五回返す。

別々の方角へ進んでも、現在地だけは一度つながった。

息を整える暇もなく、空洞の下から低い唸りが響いた。

闇が持ち上がってくる。

ミチバミだった。

左へ一周してから進路を決める尾が、空白の前で何度も迷っている。操具へ従う苦痛と、朝火へ向かう空腹が腹の道像で混線していた。

六本の脚で樹皮を抉り、長い胴を螺旋に巻きつけて登ってくる。

口を開く。

何重もの歯が、風を噛んだ。

ごう、と鳴っていた上昇気流が、その一帯だけ消える。

風に支えられていた岩も、古い梯子も、いっせいに落ちた。

「風まで食べた!」

「道として流れてるものなら、何でも食べる!」

ミチバミの頭が保守棚へ迫る。

カナタは旗を構えた。

「竜の鼻!」

一歩分の光板。

竜の眼前へ生まれる。

カナタは踏み切った。

「朝火、返せ!」

旗竿を振り下ろす。

硬い鱗へ弾かれ、両腕が痺れた。

「効いてない!」

「今、分かった!」

「遅い!」

ミチバミが首を振る。

カナタは吹き飛ばされた。

ルゥが銀鋲を三本投げる。

《継ぎ路》――縫い止め!」

一本が上顎。

一本が下顎。

最後の一本が保守棚へ刺さる。

光糸が竜の口を閉じた。

「三呼吸!」

「十分!」

「毎回それ!」

カナタが竜の背へ着地する。

ルゥも光糸を滑って続く。

二人は暴れる鱗の上を走った。

頭の後ろ。

首の付け根。

そこに、黒い金具が食い込んでいる。

ザンバが取りつけた標具らしい。

朝火は竜の腹の奥で金色に光っていた。

「先に操具を外す!」

ルゥが叫ぶ。

「朝火は!」

「竜ごと上へ行かれたら取れない!」

「分かった!」

「本当に?」

「分からないけど分かった!」

ルゥが金具へ工具を差し込む。

竜が体を壁へ打ちつけた。

カナタは白旗を突く。

「ルゥの足元!」

一歩分の光板が、鱗の上へ重なる。

竜が傾いても、板だけはルゥの今いる場所を支えた。

「もう一枚!」

「工具の先!」

小さな足場。

ルゥはそこへ膝を置き、両手を自由にする。

金具の一つを外す。

二つ目。

三つ目。

「抜ける!」

最後の金具が外れた。

ミチバミが大きく身をよじる。

黒い命令紋が消えた。

だが、自由になった竜は止まらなかった。

怒りのまま、今度はカナタたちへ尾を振る。

「操られてなくても怒ってる!」

「怒りだけじゃない! 朝火を吐き出して腹が空になったの!」

ミチバミの腹では、食べた道の像が逆流している。終点のない餌を噛まされ続けた獣は、どこで食事が終わるのか分からない。

「今まで殴ったからでしょ!」

「一回だ!」

「十分!」

尾が迫る。

カナタは咄嗟に旗を向けた。

「出口まで!」

光板が一枚。

その先は遠い。

上層枝の裂け目まで、二十歩以上。

「一歩しか出ない!」

「一歩でいい!」

ルゥがカナタの手を引く。

「次を出して!」

一枚を踏む。

次。

さらに次。

尾が一枚目を砕く。

ルゥの光糸が二枚目と三枚目をつなぐ。

ミチバミが追う。

「右!」

「右!」

「上!」

「上!」

「出口!」

「出口!」

一歩ごとに、空白が道へ変わる。