第10話 第五章「逆さ滝」後編
ただし、カナタが行き先を言い。
ルゥが今いる場所を確かめ。
二人が実際に踏まなければ、次は生まれない。
最後の光板が裂け目の手前へ出る。
「また手前!」
「最後は自分で!」
「分かった!」
二人は同時に跳んだ。
上層枝の苔原へ転がり込む。
直後、ミチバミの牙が裂け目へ突っ込んだ。
硬い岩が砕ける。
竜は頭を抜けず、怒った声だけを空洞へ響かせた。
カナタとルゥは巨大な茸の根元へ倒れた。
しばらく、どちらも動かなかった。
「生きてる?」
ルゥが訊く。
「たぶん」
「返事ができるなら生きてる」
「五回叩く?」
「今は見えてる」
二人は並んで仰向けになる。
頭上には空があった。
カゲノハ村では幾重もの枝葉に隠されていた、本当の夜空。
星が一つ。
雲の切れ間で瞬いている。
「……あれが星か」
カナタの声が小さくなる。
「たぶん」
「小さいな」
「遠いの」
「行ける?」
「機巧があれば」
ルゥは星を見たまま答えた。
「逆さ銀樹の枝は、空の重さを変えるっていう。そこへ行けば、今より遠くへ飛べる船を作れるかもしれない」
「第一歩号より?」
「まだ作ってない船に名前をつけないで」
「じゃあ、作るんだな」
「見たいだけ。残るかもしれないし、別の町へ行くかもしれない」
カナタは横を向いた。
ルゥの目は星ではなく、その先にある何かを見ている。
「俺と違う場所?」
「同じ世界の果てでも、私が見たいものは違う」
「でも、今は一緒に天頂門へ行く」
「今はね」
カナタは少しだけ考えた。
「じゃあ、今は一緒だ」
カナタは言い切ったあと、ルゥの返事を待った。以前なら「同じだ」と決めて終えていた。今は一呼吸だけ、相手が別の言葉を置く場所を空ける。
「それでいいの?」
「先の話は、先で聞く」
「少しだけ賢くなった」
「標術が出たからな!」
「そこは関係ない」
白旗を見る。
金の線は消えていた。
けれど、布の端に小さな足跡が一つ残っている。
紋章ではない。
今踏んだ場所を、旗が忘れないための傷のようだった。
森の奥から、拍手が聞こえた。
一度。
二度。
乾いた音。
「見事だ」
黒旗のザンバが、折れた大枝へ腰かけていた。
右腕の包帯が風に揺れている。
その背後には、上へ続く一本の古い道。
道の縁に、白い杭が何本も立っていた。
カナタが村で見た、帰還路の光と同じ色だった。
「父ちゃんも、今の力を使ったのか」
「似たものをな」
ザンバは枝から降りる。
「ただし、あいつは一歩を作るたび、帰る場所を一つ増やした」
「どういう意味だ」
「知りたければ来い」
黒旗を古い道へ向ける。
「アステルが最後に野営した場所が、この先にある」
「罠?」とルゥ。
「そう思うなら戻れ」
「戻れる道を食わせたのは誰よ」
「俺だ」
「正直!」
ザンバは背を向けた。
「夜明けまで、あと半刻。昔話を聞く時間は短い」
カナタは立ち上がる。
足は震えている。
それでも白旗を肩へ担いだ。
「聞きながら走る」
「お前の父も、同じことを言った」
ザンバは初めて、ほんの少しだけ苦い顔をした。
上層枝の森には、二つの時刻が重なっていた。
今の夜。
十年前の夕暮れ。
ザンバのあとを追って古い道へ入ると、苔の上へ長い影が落ちた。
太陽は出ていない。
それでも木々の隙間に、赤い光が揺れている。
「帰還路の残照」
ルゥが道の端へ銀鋲を当てる。
光糸が白い杭へ絡み、遠くへ伸びた。
「今の森じゃない。誰かがここを歩いたときに見た景色」
「誰かって?」
「多すぎる」
ルゥは目を閉じる。
「登枝士。荷運び。村の人。たぶん、アステルさんも。記憶が何層も重なってる」
道の右側に、小さな家が現れた。
カゲノハ村の家だった。
十年前に火事でなくなった、古い菓子屋。
窓の中で、若い店主が焼き菓子を並べている。
カナタが近づくと、店主は顔を上げた。
『おかえり』
「俺を知ってる?」
「残照よ」
ルゥが腕を引く。
「あなたへ言ってるんじゃない。ここを通った誰かが、昔そう言われた」
家は二人の横を通り過ぎ、森の奥へ溶けた。
次に現れたのは、機巧小屋。
今より少し狭い。
入口に、幼いルゥが座っている。
両手で大きすぎる工具を持ち、銀鋲を曲げていた。
小屋の奥から、ハルガの声。
『壊れたなら、どこで壊れたか覚えろ。直すってのは、前と同じにすることじゃない』
ルゥの足が止まる。
「師匠、そんなこと言ったか?」
「言った」
「いいこと言うな」
「そのあと、曲げた鋲を弁償させられた」
「やっぱりハルガだ!」
幼いルゥがこちらを見る。
『帰ってくる?』
今のルゥは、腰の工具帯を握った。
「帰る。でも、ここへ戻るんじゃない」
銀鋲を一本、足元へ打つ。
「今の私の場所は、ここ」
光糸が現在の森へつながる。
機巧小屋の残照が薄くなった。
ザンバは振り返らず歩く。
「帰還路は、帰る者が覚えている景色を足場にする」
「父ちゃんの力?」
「あいつ一人の力で始まった。十年のあいだ、村人の記憶を食って育った」
「食って?」
「借りた、と言い換えてもいい」
ザンバの声は冷たい。
「だが、借りた記憶は同じではない。ある者の家は、別の者には畑だ。死んだ者を覚えている者もいれば、生きている姿しか認めぬ者もいる」
道の左右に、違うカゲノハ村が現れた。
一本目は、広場の祭壇が新しい。
二本目は、苔灯りが赤い。
三本目には、存在しない大きな鐘楼がある。
どれも誰かにとっては、本当の故郷。
「朝火があれば、今の枝へ重ねて整えられた」
ザンバが続ける。
「今はないから、古い景色が勝手に道へなる」
「お前が奪ったんでしょ!」
ルゥが怒鳴る。
「ああ」
「整えてたものを外して、危ないって証明する気?」
「整えていたのではない。押さえ込んでいただけだ」
ザンバは黒旗の石突で、白い杭を叩いた。
杭に亀裂が入る。
道の横にあった三つの村が、いっせいに揺れた。
「このままなら、いずれ記憶の重さが今を上回る。村は落ちるより先に、昔へ閉じる」
「だから全部切る?」
「終わらせる」
「同じ!」
「違う」
ザンバは短く答えた。
「切れば、今いる者だけが残る」
「帰る場所は?」
「自分で作り直せ」
「父ちゃんが残した道は!」
「死者の仕事を、生者がいつまで使う」
カナタは返事を飲み込んだ。
森の先に、小さな空き地が現れた。
円形に石が並び。
その端には、誰かが拾った普通の石が三つだけ、地図の重しに使われていた。派手な鉱石ではない。野営地を「誰と歩いたか」で覚えるための石だったのかもしれない。
中央に、錆びた鍋。
枝へ張られた古い布。
登枝士の野営地だった。
十年たっているはずなのに、焚火の赤い炭がまだ消えていない。
「父ちゃんの?」
「ああ」
空き地へ入った瞬間、夕暮れが濃くなった。
人影が二つ現れる。
一人は若いザンバ。
両目があり、右腕もある。
黒旗には、割れていない羅針盤の紋。
もう一人。
ぼさぼさの黒髪。
擦り切れた赤い上着。
白い旗を肩へ担いだ男。
カナタとよく似ていた。
「父ちゃん」
足が勝手に前へ出る。
ルゥが袖を掴んだ。
「記憶」
「分かってる」
分かっていても、止まれなかった。
アステルは焚火へ茸を放り込んだ。
『食えるか?』
若いザンバが顔をしかめる。
『色が悪い』
『焼けば全部、同じ色だ』
『毒もか』
『食ってから考える』
アステルは自分の皿の最後の一口だけ残し、布で包んだ。
『帰ってから食う』
『帰る日を決めろ』
『晴れた日だ』
『いつだ』
『そのときの晴れだ』
日付を問われると冗談へ逃げる。カナタが知らなかった父の弱さまで、残照は同じ速さで繰り返した。
『お前はいつか死ぬぞ』
『今まで生きてるから大丈夫だ』
カナタが笑った。
「父ちゃんだ」
「最悪なところが似てる」
ルゥは呆れながらも、少し笑っていた。
景色が進む。
アステルは白旗の布へ、小さな線を描いていた。
一つはカゲノハ村。
一つは、今いる野営地。
その間をつなぐのではなく、それぞれを別の印として置く。
『帰り道は、一本じゃだめだ』
アステルが言う。
『何本もあれば迷う』と若いザンバ。
『違う。帰るやつが何を覚えてるか、俺には決められない』
『なら、同じ印を置け』
『同じ印じゃ、違う景色を潰す』
アステルは布の中央を空けた。
『今いる場所は、そのとき生きてるやつが足す』
「今の印……」
ルゥが呟く。
野営地の端に、白い薄板が何枚か置かれている。
カゲノハ村でアカリたちが立てていた札と、よく似た形。
ただし、文字は消えていた。
「父ちゃんも考えてたのか」
「完成はしなかった」
現在のザンバが答える。
「天頂門へ着くほうが先だった」
残照が変わる。
夜。
遠くで轟音。
地面が揺れる。
若いザンバが立ち上がる。
『下層枝が折れた』
『村のほうだ』
アステルは焚火を踏み消し、白旗を取る。
『門は目の前だぞ』
『だから急ぐ』
『上へか』
『下へだ』
若いザンバが腕を掴む。
『二十年だ! ここまで何人置いてきた!』
『置いてきたんじゃない。俺たちが先へ来ただけだ』
『同じだ!』
『違う』
アステルは手を外した。
『道は、先頭が独りで持つもんじゃない』
残照が揺れる。
景色の端に、名も知らない登枝士たちが現れた。
記録ごとに、アステルの姿も少し違った。ある人の記憶では豪快な先頭。別の人の記憶では、帰る日を言わない困った男。カナタの中だけにいる理想の父とは、重ならない部分がある。