第11話 第六章「父の残した野営地」前編
笑う者。
傷を負った者。
旗をザンバへ渡す者。
ここまで一緒に来て、途中で別れた者たち。
最初に前へ出たのは、丸眼鏡の女だった。
肩から何枚もの地図を下げている。靴底を左右交互に三度こすり、集落の入口へ残った人影を一人ずつ数えてから前へ出た。
『ノマ』
現在のザンバが名を言った。
残照のノマは、雲に埋もれた小さな集落を指す。
家々の屋根には赤い布。
病が出た印。
『私はここに残る』
若いザンバが地図を奪おうとする。
『門まで、あと十二枝だぞ』
『だから、地図は渡す』
『お前が必要だ』
『ここにも私が必要』
ノマは深いため息をついた。
『今のは風』
誰も訊いていないのに言い訳し、自分の旗を集落の入口へ立てた。旗の裏には、幼い字で書かれた住民の名札が一枚縫われている。隊史から自分の選択が消えても、この集落の側には残るように。
紋は、何本もの線が一枚の地図へ集まる形。
『終わったら追いつく』
『追いつけなければ』
『別の場所から、同じ空を見る』
残照はそこで途切れた。
「追いついた?」
カナタが訊く。
「来なかった」
「病気は?」
「集落は残った。今は、地図を持ち寄る港になり始めている」
「じゃあ、道を変えただけだ!」
「俺たちの隊からは消えた」
「同じじゃない!」
ザンバは答えない。
次に現れたのは、大柄な男。
外套の留め方だけ左右非対称。鍋を渡すときは、敵にさえ柄を相手側へ向ける。旗には湯気の紋。
『ゴウ』
残照の男は、崩れた小舟から三人の子どもを降ろしていた。
『この子らを下の町へ返す』
『往復で半年だ』と若いザンバ。
『腹が減る前に帰す』
『隊を抜けるのか』
『一緒に歩けるところまで一緒だった』
ゴウはアステルへ鍋を投げる。
『残りは自分で煮ろ』
ゴウは笑いながらも、子ども三人の水筒を一つずつ別の順で確かめた。撤退を「失敗」と呼ばれないためではない。戻る途中で一人も減らさないためだ。
アステルが受け止め損ね、鍋を足へ落とした。
『痛っ!』
『最後まで不器用だな』
子どもたちが笑う。
ゴウは三人を連れ、来た道へ戻った。
「帰った?」
「途中の町で食堂を開いた」
「世界の果ては?」
「行かなかった」
「後悔した?」
「知らん」
「聞かなかったのか」
「道を分けた者へ、俺は戻らなかった」
嘘ではない。ただ、ゴウの食堂から二度、差出人のない乾燥肉が届いたことは言わなかった。ザンバは嘘をつかず、情報を一つ抜く。
ザンバの片目は、残照の背中を追っている。
十年どころではない。
もっと前から、追わないと決めた道を見続けてきた目。
三人目は、少年のように小柄な女だった。
短い青髪。相手の話へ必要以上に深く頷くが、反対意見を言う直前だけ動きが止まる。
旗には、二つに分かれた風の紋。
『イサ』
彼女は断崖の分岐へ立っていた。
右の風路は、天頂門へ近い。
左は遠回りだが、嵐が弱い。
『二手に分かれて、向こうで合流しよう』
ノマはもういない。
ゴウも。
残った隊は五人。
若いザンバが右を指す。
『全員で最短を行く』
『荷舟は右風に耐えない』
『捨てろ』
『食料と現標がある』
『命より重いか』
『捨てたあとで命が保つ?』
イサは左へ一歩を置く。
『私は荷舟と行く』
イサは道具の柄をザンバ側へ向け、現標札を渡した。別れるのではなく、向こうで受け取れる形にする動作だった。
『また別れるのか!』
『再会点を決めるだけ』
アステルは二枚の白札を出した。
右の道。
左の道。
その先に、同じ野営地の印。
『三日後、双石で』
『来なければ』とザンバ。
『四日待つ』
『それでも来なければ』
『五日目に考える』
『今決めろ!』
『今決められないこともある』
若いザンバは右へ進んだ。
アステルが一度振り返り、イサへ白札を投げる。
残照が嵐へ変わる。
右風路は予測より強かった。
隊の細い橋が切れる。
荷を捨てても、風が人をさらう。
一人の登枝士が足場から外れた。
バスクだった。
普段は板の継ぎ目だけを踏む男で、地図の端が直角へ揃わないと話を始められない。嵐の中でも、胸に入れた未送付の手紙だけは折れないよう片手で押さえていた。
若いザンバが腕を掴む。
右手一本。
もう片方の手には、隊を支える主索。
『切れ!』
落ちた男が叫ぶ。
『俺の索を切れ!』
『黙れ!』
『全員落ちる!』
アステルが白旗で別の足場を作ろうとする。
出ない。
行き先が嵐に隠れている。
若いザンバの旗に、初めて黒い亀裂が入った。
『ここで終われ』
誰に言ったのか分からない。
落ちた男か。
揺れる索か。
自分の迷いか。
黒い線が走る。
男の索が切れた。
残りの隊は助かった。
男は嵐へ消えた。
残照のザンバは、その場から動かない。
「《終点》が生まれた日だ」
現在の男が言った。
「名前は?」
カナタが訊く。
ザンバはすぐに答えなかった。指のない機巧腕ではなく、左の生身の手で、自分の外套の継ぎ目を直角へ揃える。バスクの癖を、十年以上も無意識に繰り返していた。
「バスク」
「置いてきた?」
「切った」
ザンバは機巧腕ではない左手を握る。
「切らなければ、五人落ちた」
「だから正しかった?」
「正しかったと言わなければ、次を歩けなかった」
ルゥが静かに言う。
「歩くために、終わったことにした」
「事実、終わった」
「ザンバの中では?」
男は答えない。
残照は三日後の双石へ移る。
右の隊は二人を失い、ぼろぼろで着いた。
左からイサの荷舟が来る。
全員無事。
食料。
現標。
治療具。
バスクを救えたかもしれない道具まで載っていた。
若いザンバは荷舟を見た。
喜ばない。
『なぜ、こっちへ来なかった』
イサが目を見開く。
『決めた再会点へ来た』
『最初から一緒なら、バスクは死ななかった』
『右を選んだのはあなた』
『隊を分けたのはお前だ!』
アステルが二人の間へ入る。
『今は傷を診ろ』
『今の話をしてる!』
『バスクの道を、誰かを責めるためだけに使うな』
若いザンバは黒く割れ始めた羅針盤を見た。
『道が分かれるから、人が死ぬ』
イサは自分の旗を下ろした。
『道が一つでも死ぬ』
『なら、迷わない一つを選ぶ』
『誰が?』
『俺が』
その言葉から、ザンバの羅針盤は少しずつ二つに割れた。
イサは隊を離れた。
今、イサは双石の渡し守を目指しているという。
残照の中では、彼女が分かれた旅人へ再会点を教えようとしていた。
「みんな、途中で別の道を選んだ」
カナタが言う。
「お前は、置いていかれたと思った」
「隊は小さくなった」
「道は増えた」
「増えた道の先を、俺は知らん」
「知らないから、終わったことにした?」
ザンバの黒旗が風に鳴る。
「終わりを置かなければ、歩けない道もある」
「でも、終わったか決めるのは、歩いたやつだ」
「十五歳が、何人見送った」
「まだ少ない」
カナタは残照の人々を見る。
「だから、今から名前を覚える」
「字も読めんくせに」とザンバ。
「ルゥが読む!」
「自分で覚えなさい!」
重い話の途中でも、工具の柄が飛んだ。
カナタは白旗で受け止める。
残照のアステルが大声で笑った。
『俺たちの夢は、門をくぐることだった!』
若いザンバが叫ぶ。
『俺の夢は、向こうを見ることだ』
アステルは答えた。
『帰ってくる道がなきゃ、見たことを誰にも渡せない』
残照が途切れた。
焚火だけが残る。
現在のザンバは右腕の包帯をほどいた。
肘から先は、黒い木のような機巧腕だった。
表面に、何本もの切断痕。
「天頂門で、下層枝と村をつなぎ直すため、アステルは自分の旗を門へ打ち込んだ」
ザンバは機巧腕を見た。
「俺は止めた。旗を切ろうとした。門の重さに腕を持っていかれた」
「父ちゃんは」
「命を道へ変えた」
カナタの喉が乾く。
「死んだのか」
「ああ」
言葉は短かった。
逃げる場所がないほど、まっすぐだった。
カナタは焚火を見る。
赤い炭の向こうに、父の笑顔が浮かぶ。
世界の果てで待っていると、ずっと思っていた。
帰ってこなかった人だと、村人に言われるたび否定した。
その人は、毎日踏んでいた道になっていた。
「父ちゃんは、村を捨てなかった」
カナタは旗の中央ではなく端をつまんでいた。父を庇いたい子どもと、自分の夢を父から切り分けたい少年が同じ手の中にいる。
「夢を捨てた」
「違う」
カナタは顔を上げる。
目に涙が溜まっている。
それでも声は揺れなかった。
「帰るほうへ、一歩置いたんだ」
「門の向こうを見ずに」
「俺が見る」
「息子へ続きを押しつけた、と?」
「俺が選んだ!」
白旗を握る。
「父ちゃんが行けなかったからじゃない。俺が行きたいから行く」
「村も救う。門も越える。父親の続きを歩く。全部か」
「全部じゃない」
カナタは一度、言葉を探した。
「今は、朝火を取り返す。村へ帰す。そのあと、門を見る」
ルゥが横目で見る。
「順番を覚えたのね」
「少しだけ」
ザンバは笑った。
乾いた、怒りに近い笑い。
「アステルも、最後まで順番を変え続けた」
「だから何だ」
「一つも終えられなかった」
黒旗を地面へ突く。
野営地の周囲へ黒い線が走った。
残照の家。
昔の道。
焚火。
すべてが中央から切り離される。
「俺は終える。アステルの帰還路を切り、門を開く。上へ登れる者は連れていく」
「村は落ちる」
「古い枝だ。いずれ落ちる」
「今、住んでる!」