第12話 第六章「父の残した野営地」後編

「今いる者を、死者の記憶から剥がすためだ」

「今いる者へ聞いたのか!」

ザンバの片目が細くなる。

「落ちる枝に残りたいと答える者へ、責任を持てるか」

「持つ!」

「十五歳のお前が?」

「十五歳でも、いる場所は俺が決める!」

白旗が小さく光る。

野営地の端に、一歩分の光板が生まれた。

黒い線の手前。

「それに、俺一人じゃない」

ルゥが銀鋲を一本、光板へ打つ。

「勝手に数へ入れないで」

「一緒に来た!」

「今はね」

「今は一緒!」

「そこは合ってる」

ザンバは二人を見た。

一瞬だけ、若いころの影が片目へ戻った。

すぐに黒旗を振る。

「なら、天頂門まで来い」

黒い線が野営地の出口を切る。

ザンバの足元だけに、上へ続く道が残った。

「夜明けまで、あと百呼吸」

「待て!」

「待たん」

「話しながら走るって言っただろ!」

「昔話は終わりだ」

ザンバは道を駆け上がる。

森の奥で、ミチバミの咆哮。

腹の朝火が、金色に脈打つ。

黒い線はカナタたちの前で、二メートルの空白になっていた。

ルゥが覗き込む。

「下まで何もない」

「一歩で届く」

「二メートルよ」

「大きい一歩!」

「さっきの標術は一歩分しか出ない!」

「じゃあ、走って跳ぶ!」

「標術を覚えた直後に物理へ戻らないで!」

カナタは白旗を構えた。

「向こう岸の手前!」

一歩分の光板。

空白の中央に生まれる。

二人で踏む。

最後は自分たちで跳ぶ。

着地した瞬間、野営地の焚火が背後で消えた。

残照のアステルが一度だけ振り返る。

口が動いた。

音はない。

カナタには、こう見えた。

――行ってこい。

次の瞬間、森は現在の夜へ戻った。

カナタとルゥが逆さ滝へ飛び込んだあと、カゲノハ村から時間の向きが消えた。

鐘は鳴る。

けれど、何つ鐘なのか分からない。

一度目の音を聞いた者は朝だと言い。

二度目の音を聞いた者は、昨日の夕方だと言った。

広場の苔灯りが消える。

代わりに、もう取り壊したはずの古い灯籠が浮かび上がる。

道の角には、十年前の看板。

家の前には、今はいない人の靴。

帰還路から漏れた記憶が、村の現在へ重なり始めていた。

「その扉、開けないで!」

アカリが叫ぶ。

広場の老人が、何もない壁へ手を伸ばしていた。

老人には、そこに昔の家が見えているらしい。

『おかえり』

若い女の声が、壁の向こうから聞こえる。

「母さん……」

「今の家はこっち!」

アカリは老人の腕を掴み、白札を足元へ置いた。

――ガジュ爺。

――中央広場、東側。

――薬湯を飲む。

「薬湯?」

「次に行く場所!」

「母さんがいる」

ガジュ爺は姿勢だけを急に正し、公的な口調へ逃げた。

「私は旧宅へ帰着する」

「それは、ガジュ爺が覚えてる昔!」

アカリは薬箱を五回叩いた。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

「今、ここ!」

老人は指の関節を一つずつ鳴らした。最後の小指だけは鳴らさない。そこまで鳴らすと、昔の扉へ手を伸ばしてしまう気がするからだ。

老人の濁った目が、白札へ下りる。

現在の苔灯り。

今の広場。

薬箱を抱えた少女。

「……アカリか」

「そう。薬湯、冷めるよ」

壁の扉が薄くなる。

若い女の声は最後にもう一度だけ、『おかえり』と言って消えた。

アカリは老人をフィオへ渡した。

「東の薬場へ」

「分かった」

フィオの翼旗が光る。

小さな風が老人の足元を支えた。

「アカリ、南路の札が足りない!」

トウヤが叫ぶ。

「裏に書いて使って!」

「裏には昨日の場所がある!」

「消さないで線を引いて! 昨日から今日へ!」

「書く場所がない!」

「端!」

「小さい!」

「字を小さく!」

「俺に言うな!」

中央広場には、アカリが描いた大きな村図が広げられていた。

地図の上には、何百枚もの白札。

村人の名前。

今いる場所。

次に行きたい場所。

最初は避難のためだった。

だが、帰還路の残照が濃くなるにつれ、札は別の役目を持ち始めた。

昔の景色へ引かれた人を、今へ戻す。

今の村を、記憶の村から区別する。

現在地の印。

ただし、札を書けば必ず正しくなるわけではなかった。

「北橋の荷車、次は南橋へ!」

伝令の声に、アカリは地図を見て白札を置いた。

――荷車。

――北橋の先。

――次、南橋。

札を置いた場所へ、荷車の輪が光に引かれる。

けれど、そこは今の南橋ではなかった。

五年前まで橋脚があった、古い位置。

現在の橋は枝の成長に合わせ、十二歩東へ架け替えられている。

「違う!」

アカリが叫ぶより早く、荷車の前輪が昔の橋板へ半分沈んだ。

ハルガが太い鉤を投げる。

車軸へ引っかけ、現在の床へ引き戻した。

「地図が古い!」

「私が、前の橋を覚えてた」

急な冷えで視界が白くなり、アカリは薬箱のへこみへ親指を押しつけた。自分の症状を記録から外そうとする悪い癖に気づき、地図の隅へ小さく《眩暈、一回》と書く。

アカリは唇を噛んだ。

自分が初めて渡った橋。

怖くなって、床へ手をついた場所。

よく知っているつもりだったから、測らずに札を置いた。

セルクが現在の橋脚へ白杭を立てる。

「札は、置く者の記憶を正しくする道具ではない。今を確かめてから置け」

「……うん」

アカリは間違えた札を捨てなかった。

左手で赤い線を引き、誤った位置を糸で囲う。裏へ《誤置・旧橋位置》と書き、名前札の角だけは丸く切り直した。間違いは残しても、人を傷つける角は残さない。

「次に同じ間違いをしないため?」とフィオ。

「私だけじゃなく、次に置く人も」

トウヤが現在の橋まで十二歩を測り直した。

アカリはその数字を聞いてから、新しい札を置く。

「南の吊り橋、消えます!」

セルクの声。

広場の端にある橋が半透明になっていた。

代わりに、十年前の細い縄橋が重なる。

今の橋を渡っていた荷車の車輪が、昔の隙間へ落ちかける。

「トウヤ!」

《昇標》!」

トウヤが旗を掲げる。

荷車の下に上向きの光が生まれた。

「フィオ、綱!」

「こっち!」

翼の風が橋の端へ縄を運ぶ。

セルクと村人たちが引く。

荷車は現在の橋へ戻った。

しかし、橋の中央から古い板が一枚浮かび上がる。

板には幼い手形。

「私のだ」

アカリが呟いた。

五年前。

初めて一人で橋を渡った日に、怖くなって床へ手をついた。

その記憶を、帰還路が拾っている。

板の向こうに、幼い自分が立っていた。

『待って』

小さなアカリが手を伸ばす。

『一人で行けない』

今のアカリの足が止まった。

胸の奥で、熱を出して寝ていた昨日の自分が重なる。

配達を待つだけだった自分。

誰かに道を作ってもらうしかなかった自分。

「アカリ!」

マツバ婆の声が遠い。

幼い自分が近づく。

『ここにいて』

アカリは薬箱を抱え直した。

蓋には、カナタが落ちたときにつけた大きなへこみ。

今朝までは薬を受け取る箱だった。

今は、村中の名前と札を運んでいる。

「待たない」

アカリは言った。

「待ってるだけに、戻らない」

白札を古い板へ置く。

――アカリ。

――南吊り橋。

――次は、朝火を迎える場所へ。

「私が行く」

幼いアカリの姿が揺れる。

手を伸ばしたまま、今の少女へ重なった。

消えたのではない。

歩いたこととして、背中へ残った。

現在の橋が戻る。

「……今の、何?」

トウヤが目を丸くしている。

「昔の橋が薄くなった」

「札だけじゃない」

アカリは橋の両端を指した。

ハルガの固定杭。

セルクが測り直した十二歩。

フィオとトウヤが支えた今の床。

「私は、どこにいるかを書き直しただけ。昔の橋を押し戻したのは、みんなの仕事」

「札は?」

「次に間違えないための印」

「分かりにくい!」

「カナタみたいなこと言わないで!」

南橋の向こうで、風が大きく裂けた。

白と橙の格子旗が現れる。

「道を空けて!」

セリが、オウギを背負ったまま逆さ滝から飛び出した。

着地に失敗し、二人で白札の山へ転がる。

「着いた!」

「誰かに似てる」とフィオ。

「俺より上手い!」とカナタのいない場所へトウヤが言う。

「比べる相手を間違えるな!」

セリは起き上がると、最初に周囲を見回した。

「薬箱がへこんでる子!」

「私」

アカリが手を上げる。

「分かりやすい!」

オウギは背中から降ろされると、痛む脚を引きずり、アカリの地図へ来た。

「これを作ったのは、お前か」

「みんなで」

「誰が中心だ」

「中心にしたら、動いた人がずれる」

老人は片眉を上げた。

「アステルより話が早い」

「父ちゃんより!?」と、いないカナタの声が聞こえた気がした。

オウギは腰の現標板を外す。

五つの穴。

「場所。時刻。持ち主。行き先。最後が返事」

アカリの薬箱が、指の中で小さく鳴った。

「返事?」

「アステルは、五つ目をそう呼んでおった。帰る者が自分の場所だけ送っても、向こうに誰がいるか分からん、と」

「待ってる人が、今いるって返す穴?」

「かもしれん。だが、返したあと道がどうなるかは、あいつも確かめていない」

「じゃあ、今は返事が届くかだけ」

「穴へ先の答えまで詰めるな。それでよい」

アカリは五つの穴へ、白札を細く折って入れる。

一つ目。

――中央広場。

二つ目。

――朝火消失後、四半刻。

三つ目。

――アカリ。

四つ目。

――帰還路の中心へ。

五つ目は空ける。

「返事は、相手が入れる」

「そうだ」

オウギは現標板を地図の端へ置いた。

金色の帰還路が一度だけ白く光る。