第13話 第七章「今いる場所の旗」前編
板の五つ目の穴へ、遠くから細い振動。
まだ音にはならない。
「カナタたち?」
「分からん」
「何かへ触れた」
アカリは、分かった形へ戻さずに言った。
セリは朝火のない祭壇を見る。
「ザンバは門へ向かった。ミチバミの操具は外れたけど、朝火の匂いを追う。カナタたちはそのあと」
「生きてる?」
「大声だった」
「生きてる」
アカリは即答した。
マツバ婆が人波を押し分けてくる。
「アカリ!」
孫の肩を掴み、額へ手を当てる。
「また熱が上がってる」
マツバ婆は孫の前髪を数え、十四本目で手を止めた。
「動いたから」
「寝なさい」
「今、地図が要る」
「ほかの人に渡しなさい」
「私が名前を知ってる」
「だからって、一人で村を背負うのかい」
アカリの口が止まった。
ザンバは、背負えば二人とも落ちると言った。
カナタは、全部の道を自分で作ると言った。
どちらも一人で持つことを前提にしている。
アカリも同じことをしようとしていた。
「一人じゃない」
言ったあと、アカリは一度だけマツバ婆の袖を掴んだ。
「怖い」
祖母にだけ許す、一語の弱音だった。
「知ってるよ」
薬箱から、名札の束を出す。
セルクは時刻と人数を記録する。
オウギは現標板の穴と白杭を扱う。
ハルガは、札が指した場所が本当に今の床か測る。
アカリが持つのは、誰がどこへ行きたがっているかを書いた配達帳だった。
仕組みを一人で作るのではない。
今ある返事を、必要な人へ渡す。
「フィオ」
「いる」
「北区の名前、分かる?」
「全員じゃない」
「分からない人は聞いて」
「分かった」
「トウヤ」
「南橋!」
「動けない人の次の場所を聞いて」
「運ぶんじゃなく?」
「先に聞く」
「……分かった」
「セルクさん」
「ここだ」
「時刻を数えて」
「鐘が乱れている」
「呼吸で」
「誤差が出る」
「誤差も書く」
セルクは少し考え、名簿の余白へ呼吸数を書き始めた。
「セリ」
「逆さ滝の状態を描く」
「オウギ親方」
「脚を治す」
マツバ婆が言う。
「仕事を取られた」
「治ったら現標を直して」
「働かせる気か」
「本人へ聞く」
アカリが老人を見る。
「直す?」
「脚が動けばな」
「じゃあ、おばあちゃんの次」
マツバ婆はため息をついた。
「アカリは?」
「地図」
「熱が上がったら」
「薬を飲む」
「倒れたら」
「フィオに渡す」
「私じゃないの?」とフィオ。
「空から全部見える」
「地図は苦手」
「私が教える」
「今から?」
「今から」
マツバ婆は孫の額へ冷たい布を巻いた。
「一人で背負わないなら、続けなさい」
「うん」
そのとき、北側の黒い足場から人影が落ちてきた。
雲漁師のサラ。
片方の帆を失い、腕から血。
フィオが翼風で受け止める。
「ビンは!」
夫の姿はない。
「上へ行った」
サラは息を切らしながら答える。
「道が二つに分かれた。私は村へ戻って、黒路の状態を知らせる。ビンは上の港へ助けを呼ぶ」
「別れたの?」
「決めた」
「ザンバに?」
「私たちで」
アカリは二人の札を見る。
同じ青い線で描いた道。
途中から、二本へ分ける。
サラはカゲノハ村。
ビンは上層港。
「迎えに行かなくていい?」
「行きたい」
サラは正直に言った。
「でも、今戻れば二人とも助けを呼べない。あいつが返事を送るまで、ここで帆を直す」
アカリは五つ目の穴を指す。
「返事の場所を作る」
「できるの?」
「今から」
「間に合う?」
「分からない」
カナタなら、できるまでと言う。
アカリは違う答えを選んだ。
「間に合わなくても、今いる場所は残す」
サラは自分の青い旗を地図へ立てた。
黒い避難路を使った者の旗。
それでも、道は黒くならなかった。
歩く者が何を選ぶかで、道の意味は変わる。
アカリは地図の周囲へ、五つ穴の現標板を並べた。
完成していない仕組み。
返事の方法も弱い。
それでも、今いる人が一つずつ続きを足す。
広場の祭壇で、低い音が鳴った。
朝火のない台座。
その下から、白い光が脈打つ。
村長とハルガが石板を外していた。
「アカリ!」
ハルガが呼ぶ。
「地図を持ってこい!」
台座の下には、細い階段があった。
アステルの帰還路へ続く保守口。
普段は朝火の光に隠れ、誰も入れない場所。
今は黒い根が周囲へ広がり、石を押し上げている。
「中が、村を引っ張ってる」
ハルガは銀色の測定針を見た。
「昔の形へ戻そうとしてる。今の道が、記録に負けてる」
「止められる?」
「朝火が戻れば」
「戻るまで」
「村が先に昔へ沈む」
村長が階段を見下ろした。
「帰還路の中心へ、今の印を置くしかない」
「誰が行く」
セルクが訊く。
ハルガの視線がアカリの地図へ落ちる。
「村中の現在地を持ってるやつ」
「私?」
「嫌なら、俺が持つ」
「字が読める?」
「読める!」
「誰がどこへ行きたいか分かる?」
「……お前ほどは」
「じゃあ私」
アカリは地図を丸めた。
薬箱へ入りきらない。
紐で背へ結ぶ。
「十三歳に任せる仕事ではない」
村長が言う。
「十五歳を逆さ滝へ行かせた」
「それを言われると弱い」
「私には、私の仕事がある」
アカリは階段へ一歩置いた。
「今の村が、昔の記録へ沈むのを止める」
ハルガが大きな工具袋を背負う。
「俺も行く。ルゥに、作業場を勝手に昔へ戻したって怒られたくない」
セルクが続く。
「選抜試験の受付も、今の村にある」
「そこ?」とトウヤ。
「規則は場所がなければ守れん」
「やっぱりそこだ!」
フィオは地上へ残る。
「私たちは札を立て続ける」
「一人ずつ、名前を呼んで」
アカリが言う。
「今いる場所と、次に行きたい場所。二つとも」
「避難先を同じにしなくていい?」
「同じ広場にいても、行きたい先は違う」
「危なくない?」
「混ぜたら、誰の道か分からなくなる」
アカリはカナタの紙旗を思い出した。
白い紙。
下手な太陽。
端に書いた《返事》。
「違うまま、返す」
三人は階段を下りた。
地下には、村より広い空間があった。
白い道が無数に絡み、巨大な根のように脈打っている。
一本ごとに、小さな景色。
家。
畑。
橋。
出発の日。
帰ってきた日。
誰かが故郷と呼んだ瞬間が、道の中へ保存されていた。
「全部、カゲノハ村?」
「全部、誰かが覚えてるカゲノハ村だ」
ハルガが測定針を差す。
針は一度に十方向へ振れた。
「中心がない」
「作る?」
「中心を一つにしたら、ほかを潰す」
アカリは地図を広げた。
今の村。
朝火を失い。
橋が壊れ。
人々が広場へ集まり。
それでも動き続けている村。
きれいではない。
完成していない。
けれど、今ここにある。
「中心じゃない」
アカリは言った。
「今日の村を、比較する一枚として横へ置く」
「どこへ置く」
セルクが道の束を見る。
一番太い白路の中央に、何も映っていない丸い空白がある。
アステルが残した白旗の中央と同じ形。
「そこ」
アカリが地図を差し出す。
自分で置こうとすると、ハルガが腕を止めた。
「待て。さっき橋を一つ間違えたばかりだ」
「今度は測った」
「だから、測った者も一緒に置く」
ハルガが固定具を空白の縁へ打つ。
オウギが五つ穴の現標板を中央へ差し込む。
セルクが地上へ声を通した。
「名前。現在地。記録時刻。次の行き先。順に返せ!」
地上から、フィオたちの声が届く。
『マツバ婆! 中央広場、薬場! 次は自宅へ!』
『薬師ネルカ! 広場西端! 次は高熱の子の寝台へ!』
『鍛冶師ダン! 北橋下! 次は二人作業で支柱を替える!』
『トウヤ! 南橋! 次は逆さ滝の見張り!』
『フィオ! 中央広場上空! 次は迷子の捜索!』
一人ずつ。
同じ村にいながら、違う場所を目指している。
アカリは受け取った白札を、オウギの指示どおり五つ穴の周囲へ並べた。
一枚目。
二枚目。
十枚。
百枚。
白路の中央に、完成した村の絵は現れなかった。
代わりに、今測った橋脚。
今灯っていない朝火台。
今避難している人々の印。
ばらばらの白い点が、一呼吸ずつ明滅する。
「弱い」
ハルガが測定針を見る。
「記憶の村を押し返すほどじゃない。でも、今の床を数か所だけ固定できる」
「十分?」
「今日の村を守るには、まだ足りん」
オウギは現標板の五つ目を指した。
「返事を試せ」
アカリは薬箱を五回叩いた。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
白路の奥へ振動が走る。
返ってきたのは、同じ五回ではなかった。
一度。
長い間。
それから、金属を擦る音。
「カナタ?」
「分からん」
オウギは即答した。
「呼び声が何かへ触れた。それ以上は書くな」
アカリは現標板の五つ目へ、小さな札を差す。
――返事らしい振動、一回。
――相手、未確認。
「もう一度」
五回。
今度は、遠い場所から五つの弱い震えが戻った。
同じ相手かどうかも分からない。
それでもアカリは、届いた形だけを書いた。
「今、ここ」
地図ではなく、今日の村にいる者たちの合図が、白路を上っていった。
同じころ。
天頂門へ続く道で、カナタの白旗が五回震えた。
「止まって!」
ルゥが叫ぶ。
「時間がない!」
「旗!」
カナタは走りながら白旗を見る。
布の端についた紙の太陽。
風もないのに、五度揺れる。
こん。
音はしない。
けれど、手へ同じ間隔が伝わった。
「アカリの合図?」
「たぶん。返して」
「どうやって!」
「旗竿を道へ!」
カナタは走ったまま、白旗の石突を地面へ五回打つ。
かん。
かん。
かん。
かん。
かん。