第14話 第七章「今いる場所の旗」後編
白い帰還路が一度だけ明るくなる。
足元へ紙のような光が浮かびかけ、すぐ消えた。
代わりに、一呼吸だけ別の音が混じる。
朝葉機関のまだ不揃いな歯車。
南橋を叩く金槌。
誰かが薬箱を置く音。
どれも見えない。
道にもならない。
「村だ!」
「村らしい音」
「同じだ!」
「同じにしない。誰の、いつの音か分からない」
ルゥは現標杭を白路へ立てた。
五つ目の穴は震える。
けれど、四つの穴へ入れた現在地と結びつかない。
「返事は届いたかもしれない。でも、こっちの道を選び直す力はない」
「じゃあ、何の役に立つ!」
「村側に誰かいるらしいと分かる」
「生きてる!」
「そこまでは言える」
カナタは白旗へ結んだ札を開く。
後悔しているときの持ち方で、布の端だけをつまんでいる。ルゥは何も言わず、その手が中央へ戻るまで歩幅を半歩落とした。
一行目。
朝火。
二行目。
村へ帰す。
三行目。
父。
「今は、一番目」
「そう」
返事は道を作らなかった。
それでも、戻るべき仕事が残っていると知らせた。
二人は走る。
道の左右には、昔の村がまだ現れる。
消えない。
足を引く力も残っている。
現標杭が示せるのは、今立っている一枚の床だけだった。
その一枚ずつを確かめながら、二人は森を抜ける。
森の先で、白路が三つへ分かれる。
左には、幼いカナタの家。
戸口でアステルが手を振っている。
右には、完成した巨大飛空艇。
銀の翼。
上下のない機関室。
船首には、ルゥの名が大きく刻まれている。
正面には、暗い森。
天頂門は見えない。
「どれだ!」
カナタが左と正面を見比べる。
「正面」
ルゥは迷わず答えた。
「お前の船は?」
「私がまだ作ってない」
「でも、すごいぞ!」
「誰かが私の記憶から作った完成形」
銀の船では、未来のルゥらしい女が操舵輪を握っている。
工具は一つも汚れていない。
設計図に失敗線がない。
全部が最初から分かっていたような船。
「気持ち悪い」
「格好いいのに?」
「私が作ったなら、もっとつぎはぎになる」
「鍋蓋も?」
「それはつけない」
「じゃあ偽物だ!」
銀の船が霧へ消える。
左の家で、アステルがこちらを向く。
口は動くが、声はない。
それでも名を呼ばれた気がして、疲れた足がそちらへ向きたがる。
今行けば、父へ聞きたいことを全部聞けるかもしれない。
「行きたい?」
ルゥが訊く。
「行きたい」
「今の行き先は?」
カナタは白旗へ結んだ札を開く。
アカリの字。
一行目。
朝火。
二行目。
村へ帰す。
三行目。
父。
「父ちゃんは三番目」
「順番を変える?」
「変えない」
カナタは左の家へ白札を一枚立てた。
「あとで来る」
アステルの影は、ただ手を伸ばしている。
「今は行ってくる!」
正面の暗い森へ一歩を置く。
家の光は消えなかった。
道の横へ残る。
選ばなかったから、なくなるわけではない。
ただ、今は踏まない。
二人が正面へ入ると、森の地面に黒い切断面が現れた。
一つ。
二つ。
何十。
ザンバの《終点》が、帰還路を細かく切っている。
「全部跳ぶ?」
「無理。見えてる切れ目と、見えない切れ目がある」
ルゥはオウギから受け取った現標杭を出した。
五つの穴。
「場所」
一つ目へ、森の樹皮片。
「時刻」
二つ目へ、朝火管の冷え具合を記した小さな針。
「持ち主」
三つ目へ、自分の銀糸。
「行き先」
四つ目へ、カナタの札から切った《朝火》の一文字。
「切るな!」
「帰ったら書き直す」
「俺の字じゃない!」
「だからアカリに謝る」
五つ目は空。
「返事」
ルゥは杭を現在の地面へ突き立てた。
何も起きない。
「返事がない」
「村は遠い?」
「それだけじゃない。こっちが何を訊いてるか伝わってない」
カナタは白旗の石突を五回打つ。
かん。
かん。
かん。
かん。
かん。
「今、ここ」
現標杭の五つ目が震えた。
遠くから同じ五回。
目の前の森へ、現在の道だけが白く浮かぶ。
黒い切断面は、その道の外側に残った。
「返事があれば、今立ってる床が記憶だけの板かどうか、一度は確かめられる」
ルゥは杭を抜く。
「でも、次の一歩までは教えてくれない。ずっと村から届くとも限らない」
「遠くへ行ったら?」
「別の返事をする場所が要る」
「増やす!」
「誰が?」
「会ったやつ!」
「勝手に役目を決めない」
「頼む!」
「先にそれを言う」
黒い切断面を避け、現在路を走る。
途中、細い標杭が一本倒れていた。
橙と白の格子。
セリが戻る際に立てたものだ。
板には短い文字。
――村へ到着。
――オウギ治療中。
――上道、喰路竜ミチバミ通過。
「返事が来た!」
「セリが自分で置いたの」
「同じだ!」
「今は近い」
ルゥは杭の裏へ、新しい文字を足す。
――カナタ、ルゥ、門へ進行。
カナタが覗き込む。
「俺の名前!」
「読める?」
「最初の三つ!」
「全部で三つ」
「読めた!」
「帰ったら自分で書く」
「約束がまた増えた!」
標杭を立て直す。
これで、下から来る者は二人の現在地を知る。
道の途中へ残すのは、到達の証ではない。
次に来る人が、今の道を選ぶための情報。
森の奥で、金属が軋んだ。
天頂門の支柱。
朝火を失った帰還路が限界へ近づいている。
「走る!」
「今いる場所を見て!」
「見た!」
「行き先!」
「朝火!」
「よし!」
初めて、ルゥが先に走り出した。
カナタはその一歩へ、自分の二歩目を重ねた。
前方に、白い石の環が見えた。
高さ百メートル。
内側に、夜空より深い青。
門の中心には、一本の古い旗。
そこから無数の白い光糸が下方へ伸び、カゲノハ村を支えている。
「父ちゃんの旗」
カナタの足が一度だけ止まる。
門前の祭壇で、ミチバミが腹を大きく膨らませていた。
口から、金色の結晶を吐き出す。
朝火。
ザンバが片手で受け取る。
黒旗の石突へはめ込んだ。
夜より黒い布に、金色の炎が走る。
「間に合ったな」
ザンバは門の中央を見上げた。
「父親の道が終わるところへ」
朝火を得た黒旗は、影ではなく穴に見えた。
光を飲み込み。
風を断ち。
旗の周囲だけ、世界が一歩ぶん欠けている。
ザンバは石突を天頂門の台座へ置いた。
「最後に聞く」
片目がカナタを捉える。
「村を捨て、門を越えるか」
「聞く相手が違う」
「何?」
「村のやつが、どこへ行くかは村のやつが決める」
カナタは白旗を構えた。
「俺は朝火を返して、門を見る」
「両方は選べん」
「順番にやる!」
「言葉を変えても、欲張りは同じだ」
「お前が二つしか並べないだけだ!」
ザンバの黒旗が横薙ぎに走る。
「標術――《終点》」
カナタの足元から門まで、黒い線が引かれた。
次の瞬間、その線上にあった石畳が消える。
裂けたのではない。
二メートルぶんの道が、最初から存在しなかったように抜け落ちた。
カナタは白旗を突く。
「向こう岸の手前!」
一歩分の光板。
空白の中央へ生まれる。
踏む。
ザンバがもう一度、旗を振る。
光板が終わる。
「出せば切る」
「切ったら出す!」
二枚目。
黒線。
三枚目。
黒線。
カナタは消える一歩を踏み切りながら進む。
ザンバの間合いへ入る。
白旗を振り下ろす。
黒旗が受ける。
金属音。
腕が痺れる。
ザンバの旗竿が回り、カナタの脇腹へ入った。
「ぐっ!」
体が浮く。
さらに石突が顎へ迫る。
ルゥの銀鋲が飛んだ。
「《継ぎ路》!」
カナタの上着と、横の石柱を光糸でつなぐ。
体が空中で引かれ、石突を避けた。
ルゥは別の鋲をザンバの外套へ投げる。
「縫い止め!」
黒旗が一閃する。
光糸の途中に終点が生まれた。
銀糸はザンバへ届かず落ちる。
「つなぐだけでは、終わりを越えられん」
「終わりを勝手に置かなければいい!」
ザンバは黒旗を返し、今度はカナタではなくルゥへ向けた。
「先に、つなぐ者を終わらせる」
黒い線がルゥの足元を囲む。
円ではない。
彼女のいる一枚の石床だけを、周囲の道から切り離す形。
「ルゥ!」
石床が沈む。
門の外へ。
底のない空へ落ち始める。
カナタは白旗を突く。
「俺のところ!」
一歩分の光板が、自分とルゥの間へ生まれる。
だが、ルゥは踏まなかった。
「違う!」
「何が!」
「私の行き先を聞いて!」
ルゥは怒りで銀鋲を一本抜いた。だが投げる前に、落下しながら周囲を見る。自分の道を他人に決められる恐怖を、技術用語へ逃がさず言葉にした。
右には門の支柱。
左には朝火を吐いたミチバミの跡。
真上にザンバ。
カナタの場所へ戻れば、また二人まとめて黒旗に狙われる。
「第三支柱の裏!」
「そこ!?」
「早く!」
「第三支柱の裏!」
光板がルゥの足元へ生まれる。
カナタのほうではない。
支柱の陰へ向かう一歩。
ルゥが踏む。
次の板を、自分では求めなかった。
銀鋲を支柱へ投げる。
「《継ぎ路》!」
光糸が腕を引き、体を石柱の裏へ運ぶ。
ザンバの黒線が、カナタへ戻る道を切る。
ルゥはすでに別の場所へ着いていた。
「俺のところじゃなくてよかったのか!」
「同じ場所にいなくても戦える!」
第三支柱の裏には、天頂門の機巧脈が露出していた。
朝火を流すための金色管。
帰還路を分ける白い輪。
ザンバはそこを黒旗で断ち、門の力を自分の刃へ集めている。
「操具を見つけた!」
「壊せる?」
「壊すんじゃない。切られた場所を別につなぐ!」
「分かった!」
「何が?」
「ルゥの行き先!」
「今だけ正しい!」
ルゥは銀鋲を金色管へ一本。