第92話 第十章「四番目の旗」後編

仮責任者の札を外す。

区切りまで残る、という選択だった。

ミナモは違う。

次稿工房の棚は、朝になるたび増える。

天衡機は動くたび別の誤差を出す。

キリへ渡しても、その次の受取人が現れる。

ここに残るなら、何かが完成するまでではない。

終わらない仕事を、自分の場所として選ぶことになる。

ルゥは一晩、次稿工房で過ごした。

誰も壊していない夜だった。

修理する物がないと落ち着かず、無傷の板へ将来の点検口を作ろうとして、キリに工具を取り上げられた。

「壊れてからでいい」

「壊れる前に開けるのが点検口」

「今は寝る入口」

左手は朝になっても完全には握れなかった。ミナモへ残れば、指を壊してつなぎ続ける役になる危険もある。第一歩号へ乗れば、自分の名がこの町から消えるわけでもない。

ルゥは自分の机札へ、役職ではなく名だけを書いた。

誰にも頼まれず、五十四枚目の軸材を調べ。

夜明け前に工具を置き。

第一歩号へ戻った。

だから今は、答えられる。

カナタの肩が動く。

口は開かない。

ルゥは気づいている。

「聞かないの?」

「何を」

「残るか」

「オルドが聞いた」

「カナタは?」

「……どうしたい」

言いにくそうに訊く。

ルゥは天衡機を見る。

次稿の七本線。

知らない機巧。

自分が何年かけても学びきれない町。

次稿工房。

キリ。

「残りたい」

カナタの顔が固まる。

「今は?」

「今も」

「じゃあ」

「それと、第一歩号へ乗りたい」

「両方!」

「今はいい両方」とキリ。

ルゥは笑う。

「ここへ作業机を一つ置く」

「船を降りるのか!」

「机を置く」

「人は?」

「乗る」

「いつ戻る!」

「決めてない」

「ミナモへ?」

「戻る」

「いつ!」

「連標網で仕事を続ける。必要なら来る」

「遠いぞ!」

「道を増やしたの、誰?」

カナタは口を閉じる。

「同じ船にいなくても、仕事は続く」

三番目の旗で覚えたこと。

四番目では、仕事まで別の場所へ置ける。

「第一歩号の次の目的地は?」

ルゥが訊く。

「星喰いの夜海!」

「行きたい」

「じゃあ乗る!」

「乗る」

「その先も!」

「着いてから」

「嫌だ!」

「知ってる」

「止めない!」

「少しは成長」

「もっと褒めろ!」

ルゥは次稿工房の壁へ、自分の机札を打つ。

――ルゥ。

札の裏へ小さく、《設計者ではなく共同試験者》と足した。

自分の名を機巧史へ残したい。けれど、自分の仕事が誰にも変えられない原図になることは望まない。二つを同時に持つための書き方だった。

その下に、細い空白。

「何を書く?」

キリが訊く。

「使う人の名前」

「私?」

「決めない」

「じゃあ空白?」

「使った人が書く」

工具箱の中から、銀鋲を五本残す。

一本はまっすぐ。

一本は曲がり。

一本は頭が大きすぎる。

一本は短い。

最後の一本は、まだ先端がない。

「完成品を置かないの?」

「全部使ってる」

キリは五本を受け取る。

「返す?」

「次に会ったとき、何に使ったか見せて」

「なくしたら?」

「記録して」

「壊したら?」

「もっと記録して」

「カナタが触ったら?」

「先に止めて」

「そこだけ命令!」

テオは、自分の名前を隣の机へ書く。

――テオ。雷路工房艇。

「一緒に使う?」

キリが訊く。

「別の机!」

「何で」

「爆発する!」

「分けるんだ」

「同じ工房!」

違う机。

同じ仕事場。

カナタは二人の札を見た。

「仲間が増えたのに、船は四人のまま」

「船へ乗ることだけが仲間じゃない」

ナギが答える。

「分かってる!」

「顔」

「嫌なだけ!」

「それも今の返事」

ザンバは原図庫の外にいた。

オルドが隣へ来る。

二人とも、見送る側の顔ではない。

「お前は残らんのか」

オルドが訊く。

「監視役だ」

「船長を?」

「主に」

「いつまで」

「本人が一人で道を決めなくなるまで」

「長いな」

「今のところ」

オルドは設計冠のある棚を見る。

「死者の記録を、どこまで持つ」

「訊く相手を間違えている」

「だから訊く」

ザンバの片目が細くなる。

アステル。

天頂門。

帰還路。

「記録は残る」

「命令にするな、か」

「ああ」

「お前は帰るのか」

「どこへ」

「カゲノハ村」

ザンバは答えない。

村を壊しかけ。

 アステルを敗者と呼び。

 カナタとルゥを連れ出した。

帰る場所だと思ったことはない。

「資格がない?」

オルドが訊く。

「お前は、ここへ戻る資格があったか」

「町に残っていた」

「娘の言葉からは逃げた」

オルドは苦く笑う。

「それでも、孫が名を呼んだ」

「返事は保留だ」

「返事がある」

ザンバは灰旗へ触れた。

「帰る場所は、持ち歩けん」

「なら、行かなければ分からんな」

「お前まで言うか」

「誰かに言われた言葉だ」

オルドは原図庫へ戻る。

ザンバはしばらく、遠い天頂門の方角を見ていた。

帰還路からは、何も聞こえない。

それは拒絶ではない。

まだ、呼んでいないだけだった。

第一歩号の修理は、三日で終わる予定だった。

十七日かかった。

主な理由は、船長が毎日、新しい部品へ名前をつけたからである。

「完成した!」

カナタが外周桟橋で両手を広げる。

船首には、二枚の鍋蓋。

その後ろへ、銀色の細い輪が一つ増えていた。

輪の内側に、四枚の小さな羽根。

一枚目は根重区の重板。

二枚目は翼重区の透明羽根。

三枚目は炉重区の三角弁。

四枚目は、何もついていない空の枠。

中心を締めるのは、セノの斜めねじを写した可変ねじ。

《可変重継舵》

ルゥが正式名を告げる。

《第四翼》!」

カナタが即座に言う。

「舵」

「四枚ある!」

「最後は空枠」

「空気の翼!」

「そこへ、次の場所で部品を足せるようにしたの」

「やっぱり翼!」

「第四は、番号じゃない」

「四枚目!」

キリが空枠へ小さな札を結ぶ。

――用途、次の重場で決める。

「名前は保留」とナギ。

「第四翼!」

「船長案、記録」

「採用!」

「保留」

舵を動かす。

第一歩号が右へ傾く。

斜めねじが一山締まる。

上へ落ちる。

二山目。

横風。

三山目。

向きが変わるたび、違う羽根が仕事を受け取る。

「すごい!」

カナタがレバーを握る。

「触るな!」

「試運転!」

「今、固定索!」

レバーを引く。

可変重継舵が四方向の重さを同時に掴んだ。

第一歩号がその場で一回転する。

固定索がねじれる。

桟橋の看板へ船尾が近づく。

「右!」

「どっちの!」

「私の!」

「みんな回ってる!」

「止めて!」

カナタは逆へ引く。

斜めねじが別の山へ噛む。

第一歩号は反対へ二回転した。

未定入口の看板が迫る。

「前!」

「今、船尾!」

「じゃあ後ろ!」

「同じ場所!」

終路鐘の綱を、ザンバが引く。

ごおん――。

四人が、今は止まりたい。

鐘が最後まで鳴る。

可変重継舵が空枠へ力を逃がした。

第一歩号は看板の一指手前で止まる。

「成功!」

「何が!」

キリは看板と船の隙間を測る。

「一指」

「予定どおり!」

「予定は動かさないこと!」

「一指空けた!」

「偶然!」

未定入口のねじが、振動で少し締まった。

セノの仕組みは働いている。

第一歩号の帆柱へ、灰青色の小旗が結ばれた。

キリの旗を写したもの。

欠けた歯車。

ただし、欠け目の縁に細い余白線がある。

「四番目の旗」

キリが渡す。

「本物は?」

「私」

自分の背中の旗を示す。

「これは?」

「次稿札」

「旗だろ!」

「小さい」

「旗!」

「じゃあ、写し旗」

「何ができる?」

「第一歩号へ新しい部品をつけたら、前の形を消さずに記録できる」

「強くなる!」

「記録が増える」

「同じ!」

「違う!」

ルゥが小旗の根元へ、白い帳面をつなぐ。

最初の頁。

カナタ。

自分で書いた三文字。

次の頁。

第一歩号の原形。

その次。

カゲノハ村の古木。

 トマリギ島の青板。

 三脚群島の三路舵。

 ミナモの銀板と可変重継舵。

どれも上書きしない。

「この先、十一番目の翼をつけても?」

「翼は増えない!」

「記録は増える」とキリ。

「じゃあ、つけられる!」

「壊さないで」

「努力する!」

「しないとは言わないんだ」

ナギは帆柱の小旗へ、小さな鐘を一つ結ぶ。

ミナモの連標網。

新しい中継点。

呼び声を送る。

「ミナモ。今、ここ?」

次稿工房。

四拍子。

テオ。

暮重区。

歌鐘。

原図庫。

オルドの銀指が二回。

キリ。

工具で三回。

違う返事が、第一歩号へ届く。

「連標網、ミナモ標。接続」

現標板へ新しい札。

――逆さ銀樹ミナモ。

――返事、複数。

――次稿、継続中。

「完成じゃない?」

カナタが訊く。

「続いてる」とナギ。

「いつ完成する?」

キリが答える。

「必要なとき」

「終わったら?」

「次を始める」

「終わらない!」

「冒険みたいでしょ」

カナタは少し考えた。

「いいな!」