第94話 第十一章「次稿は誰のもの」後編
カナタは船首の箱へ座る。
箱の底が抜けた。
「椅子!」
「荷箱!」
床へ尻から落ちる。
ナギの椅子は、四人が作った形のまま揺れなかった。
「それ、ずっと使うのか」
カナタが訊く。
「今は」
「また変える?」
「壊れたら」
「降りたら?」
ナギは椅子の小鐘へ触れる。
「次の人が使うかも」
「降りるのか!」
「いつか」
「嫌だ!」
即答。
「止める?」
三脚群島で、ミオとルゥから聞かれた問い。
カナタは唇を尖らせる。
「止めない」
「嫌?」
「嫌だ!」
「両方」
「今はいい両方!」
ルゥが笑う。
「私も、いつか降りるかもしれない」
「知ってる!」
「嫌?」
「嫌だ!」
「止める?」
「止めない!」
「成長した」
「褒めろ!」
「してる」
カナタはザンバを見る。
「お前も降りる?」
「今すぐでも」
「嫌だ!」
「止めるか」
「監視役だから止める!」
「役目を本人より先に決めるな」
「お前が言った!」
「今は乗る」
「じゃあ降りるな!」
四人の現標板。
乗船中。
永続ではない。
それでも、今は四人。
「人が増えたら、椅子を増やす?」
カナタは一瞬、空いた場所を全部自分の船長席にしようとした。けれど白旗の端をつまみ、問い直す。
「その人は、座りたいか?」
「最初にそれ」とナギ。
「役目が立つ仕事なら、椅子はいらないかもしれない」とルゥ。
「逃げ道が塞がるなら、増やさない」とザンバ。
増やすことさえ、歓迎する側だけで完成させない。
ナギが訊く。
「増やす!」
カナタ。
「船幅を見る」とルゥ。
「役目を聞く」とナギ。
「逃げ道を残す」とザンバ。
「ばらばら!」
「今の船」
ルゥは工具箱を開く。
中に、セノの斜めねじの写し。
キリから返された銀鋲。
ミナモの二等札。
「カゲノハ村の机へ、次稿を送った」
「何を」
「可変重継舵の図」
「セノが作る?」
「小さい模型」
「俺の船を!」
「仕組み」
「同じのが増える!」
「同じにならない」
村の木。
ミナモの銀枝はない。
セノの手。
ルゥの手ではない。
「別の形になる」
「失敗したら?」
「送ってくる」
「直す?」
「向こうで直せるなら向こう。必要なら私」
「離れてるのに仕事できる?」
「連標網がある」
ルゥは夜の先を見る。
「私が帰る前に、机のほうが先へ進むかも」
「追いつく!」
「どっちが?」
「ルゥ!」
「競争じゃない」
「先に着く!」
「だから競争じゃない!」
ザンバは灰旗の留め具を確かめていた。
オルドが違う長さで直した三本。
「帰る場所」
ナギが言う。
「何だ」
「ザンバの欄、空白」
「書く必要はない」
「帰る場所がない?」
「決めていない」
「カゲノハ村じゃない?」
カナタが横から言う。
「お前が決めるな」
「父ちゃんの仲間!」
「それは過去だ」
「今は俺たちの監視役!」
「それは仕事だ」
「村を壊した分、弁償!」
「戻る理由が弁償か」
「十分!」
ザンバは答えない。
ナギは空白の欄を消さない。
「今は、帰る場所未定」
ザンバの右腕の留め具が、夜の冷えで一つ白く鳴った。幻肢痛が強い日だ。
「風向きのせい」
隠す言葉。
ナギは問い詰めず、小さな締め鍵を左側へ置く。ザンバは生身の左手で受け取った。
「今は痛む」
事実を一つ足すのが、助けを求める言い方だった。帰る場所の欄は未定でも、今いる席で痛みを言える関係はできていた。
「勝手に書け」
「書いた」
「消せとは言わないんだな」とルゥ。
「面倒だ」
「今の返事」
夜の連鐘が一つ鳴る。
ミナモ。
リネから。
『今、ここ』
ナギは同じ音を返す。
トマリギ島へ。
三番港へ。
カゲノハ村へ。
第一歩号は中心ではない。
返事を受け取り。
次へ渡す、一つの場所。
カナタは壊れた荷箱を裏返し、今度こそ座る。
「四人で、どこまで行けるかな」
誰も「ずっと」と答えない。
「次の港」とルゥ。
「次の返事」とナギ。
「次の間違い」とザンバ。
「世界の果て!」
カナタが言う。
四つの答え。
同じ夜へ置かれる。
今は、それで船が進む。
原図庫の一番奥に、《無応答棚》ができた。
「縁起が悪い」
カナタが看板を見る。
「返事がない記録を置く棚」とナギ。
「もう一回呼べばいい!」
「呼んでも返らない相手」
「遠い?」
「今はいない」
カナタの声が止まる。
棚には、三種類の札がある。
――記録のみ。
――発信者不在。
――返答なし。
最初に置かれたのは、エルナの設計冠だった。
同じ棚の別箱には、設計図の魚の落書き。焦げた右袖。誕生日を一日間違えた札。高所作業の前だけ「簡単」と書いた日誌。
設計冠の冷静な声と、これらは矛盾している。どれかを削って「本当のエルナ」へ一つにしない。故人は現在の問いへ答えられなくても、複数の残り方から、完成品ではなかった人間として立ち上がる。
キリが冠の前へ座る。
隣にはナギ。
少し離れて、オルド。
カナタたちも入口にいる。
「聞く」
キリは冠をかぶらない。
透明羽根の外から、小さな再生輪を回す。
エルナの声。
『支点、第三大枝』
一度。
『解錠、第二層待機』
二度。
『航向、北枝へ』
古い手順。
「母さん」
キリが呼ぶ。
「五十四枚目、町を動かした」
『支点、第三大枝』
「斜めねじを使った」
『解錠、第二層待機』
「次稿って名にした」
『航向、北枝へ』
「どう思う?」
冠は同じ息継ぎで最初へ戻る。
カナタが前へ出た。
「声が小さい!」
「違う」
「俺が呼ぶ!」
「もっと違う」
「母さーん!」
原図庫中に響く。
棚の紙が何百枚も揺れた。
冠の記録。
『支点、第三大枝』
「ほら、返った!」
「同じ記録」
「聞こえた!」
「今の質問へ答えてない」
ナギは冠の横へ札を置く。
――エルナ記録。
――現在の返答、なし。
キリは札を見た。
「なしって書いたら、終わる?」
「終わらない」
「もう聞かない?」
「聞きたければ聞く」
「返らないのに?」
「記録は聞ける」
「質問は」
「残せる」
ナギは白い紙を一枚渡す。
「何を書く?」
「今の声」
キリは筆を持つ。
――母さんへ。
そこまで書いて止まる。
「読まないよね」
「今のエルナは」
「じゃあ、誰が読むの」
「キリ。オルド。次に冠を使う人」
「母さんじゃない」
「うん」
簡単に答える。
慰めるための嘘をつかない。
キリは最初の行を消さなかった。
その下へ続ける。
――五十四枚目は、あなたの試作と、私の五十三枚と、知らない村のねじで動いた。
――あなたの答えだったとは書かない。
――私の答えだけだったとも書かない。
――次に読む人へ。今の町を見てから使って。
最後。
――返事は、ない。
「自分で書くの?」
カナタが訊く。
「ないから」
「嫌じゃない?」
「嫌」
「じゃあ書かない!」
「でも、今はない」
キリは紙を冠の横へ置く。
返事がないことを、返事が要らないことにはしない。
寂しいまま残す。
オルドが棚へ近づく。
「私も書く」
「母さんへ?」
「ああ」
「何を」
「隠したこと。命令にしたこと。キリを娘の続きとして見たこと」
「私にも言った」
「記録へも残す」
「許してほしい?」
「返事はない」
オルドは自分で札を取る。
――返答なし。
銀の記録筆ではなく、右手で書いた。震えて《なし》の最後が少し曲がる。
左手なら原図どおりに整えられる。だが、娘へ謝る札を、機巧の正確さで完成させたくなかった。
書いたあと、髪の金属輪を直そうとし、また半指ずれたまま残した。
「分かってるんだ」
「遅い」
「うん」
キリの返事。
許しではない。
拒絶でもない。
今の二人の間に置かれた一言。
原図庫を出ると、食堂には遅い朝食が残っていた。
オルドは十一年前から同じ銀の器を取る。キリは、その向かいへ形の違う欠けた皿を置いた。隣ではなく向かい。仲直りの席でも、絶縁の席でもない。
三角パンが一つ。
老人はいつものように丸くちぎりかけ、手を止めた。
「エルナも、こう食べた」
「設計冠には残ってない」
「私の記憶だ」
「母さんは高いところが平気だった?」
オルドはすぐ答えなかった。
英雄像なら、平気だったと言う。作業記録なら、機関室へ迷いなく入ったと書く。けれど、焦げた袖の写真では、足場の縁だけを見ないよう顔を上げていた。
「怖がっていた。私には言わなかった」
「誕生日、忘れた?」
「一度」
「二度かも」
「記録は一度だ」
「私の記憶は二度」
どちらかへ復元しない。二つのまま、パンを半分ずつ取る。
オルドは食事の途中で、白髪を束ねる金属輪の位置を原図どおりへ直した。変わらない癖もある。次に、キリの風眼鏡へ手を伸ばしかけ、引っ込めた。
「高音警報を増設すべきだ」
「私には聞こえにくい」
「だから低振動と二系統へする」
「それなら賛成」
意見が一致しても、娘のことが解決したわけではない。
「許すかは?」
オルドの声量が落ちた。同じ問いを語順まで変えず繰り返しそうになる。
キリは風眼鏡を額へ上げたまま答えた。
「今日は決めない」
「明日なら」
「明日の私へ聞いて」
老人は新しい定義へ言い換えず、同じ銀の器を持ち上げた。
「分かった」
分かったのは、許されたことではない。次も尋ねる相手が今ここにいることだった。
ザンバは入口から動かない。
ナギが訊く。