第95話 第十二章「未完成の出航」前編
「聞く?」
「何を」
「アステルの記録」
カゲノハ村から届いた帰還路の声。
原図庫へ写しを置くか、まだ決めていない。
「ここへ置くものではない」
「どこ」
「帰還路」
「聞かない?」
ザンバは片目を閉じる。
天頂門。
アステルが最後に笑った場所。
自分がその選択を恨んだ時間。
「一度だけ」
ナギは響瓶を開く。
古い声。
『ザンバ』
カナタが驚く。
「父ちゃん、お前も呼んでたのか!」
記録は続く。
『先へ行け』
息。
『俺は帰る』
そこで終わる。
ザンバは返事をしない。
ナギが札を用意する。
「何て書く」
「記録」
「返事」
「なし」
「今後」
「未定」
ナギはそのまま書く。
カナタが男を見る。
「父ちゃんへ何も言わないのか」
「死者へ言うことは、生きている者へ聞かせる言葉になる」
「悪い?」
「決めていない」
「言いたいことは?」
「ある」
「じゃあ言え!」
「今ではない」
「長い!」
ザンバは灰旗を肩へ担ぐ。
「言う場所を選ぶ」
「帰還路?」
「かもしれん」
カナタは目を大きくする。
「帰る気になった?」
「お前が決めるな」
「今、かもしれんって!」
「聞き間違いだ」
「ナギ!」
「記録した」
「消せ」
「今の返事」
無応答棚には、空きが多い。
返らない問い。
まだ言わない言葉。
返事を待つためではなく。
返事がなくても、問いをなかったことにしないための場所。
カナタは棚の一番下へ、小さな紙を置いた。
――父ちゃんへ。
字が大きく、棚から半分はみ出す。
「何て書いた?」
ルゥが覗く。
「話すことがある」
「いつ?」
「空けた!」
「返事は?」
「帰還路に記録がある!」
「今の返事じゃない」
「分かってる!」
カナタは紙を押し込みすぎない。
半分だけ外へ残す。
いつ、どこで話すかも。
その道を自分が戻るのかも、まだ書かない。
その日まで、問いは途中だった。
ミナモ標が連標網へ加わった夜。
次稿工房へ、カゲノハ村から四つの音板が届いた。
一枚目。
十年前。
二枚目。
第一歩号が出航した日。
三枚目。
今日の朝。
四枚目。
今日の夕方。
黄緑の板の角だけ丸い。受取人がいる札へ、アカリがつける形だった。
板の裏には左手の細い筆跡と、右手で薬箱を渡したときの擦れ音。さらに小さく、《眩暈、一回。配達継続、交代あり》と自分の体調まで書かれている。
今の村とは、橋や机だけではない。記録する人の体も、交代した人の名も含む。
同じ村の板なのに、重ねると道が半分ずつずれた。
南橋。
旅人宿。
朝見台。
ルゥの机。
「一枚へ直す?」
キリが訊く。
「直さない」
ルゥは即答した。
「でも、天衡機へ入れるなら一つの座標が要る」
「使う時刻を決める」
「いつ?」
「今は、受け取った時刻」
ナギは四枚の板を、色の違う受け皿へ置いた。
古い記録は灰。
出航日の記録は白。
今日の二枚は黄緑。
届かなかった箇所には、何も置かない。
言葉で分類し直さない。
札の場所だけを分ける。
「四枚目の端に、布の音」
ナギが言った。
黄緑の受け皿から、アカリの声が小さく返る。
『次の授旗期が近い』
「アカリ、十四になるのか!」
カナタが船室から顔を出す。
『布は黄緑にした』
「紋は!」
『まだない』
「俺と同じ!」
アカリは遠い響路の向こうで、黄緑の布を指の形に折った。白い空白旗と同じにされるのが嫌なのではない。紋がない今を、誰かの物語へ先に入れられるのが嫌だった。
『同じところは、まだ決まってないことだけ』
「それなら同じ!」
『違う返事を、同じにしないで』
ナギと同じ言葉が返り、カナタは笑った。
『白じゃない』
「色だけ先!」
『今は布だけ』
返事の後ろで、紙を畳む音。
授旗の形を先に決めない。
黄緑の布だけが、今日の村図の端へ記された。
「これを何に使う」
キリは四枚の音板を見る。
「遠隔次稿」
ルゥが答える。
「離れた場所の今を、原図へ潰さず受け取る板」
「帰還路にも?」
カナタが訊く。
「まだ使わない」
「何で!」
「出航前の試航で失敗したでしょ」
「今度は四枚ある!」
「四枚あるから、どれを足場にするか決まらない」
「全部!」
「船が裂ける!」
「じゃあ、一枚!」
「誰が決めるの」
カナタの口が止まる。
キリは四枚を読むための枠を作った。
四層の透明板。
一番下へ、十年前。
その上へ、出航日。
今日の朝。
今日の夕方。
重ねても、一枚にはしない。
必要な層だけを持ち上げる。
「試す」
小さな第一歩号の模型を、枠の外へ置く。
帰還路の写し糸を、四層板へつなぐ。
最初に引かれたのは、一番下だった。
十年前の発着場。
模型の船首が、古い村へ向く。
「父ちゃんの道」
カナタが言う。
灰色の受け皿から、固定記録が流れた。
『たまには帰れ』
一度。
同じ間。
もう一度。
『たまには帰れ』
ナギは灰札を動かさない。
キリは二層目を持ち上げる。
出航日の発着場。
模型の向きが半歩変わる。
三層目。
今日の朝。
模型は動かなかった。
「返事があるのに」
カナタが言う。
「道へ切り替える仕組みがない」
ルゥは写し糸を止める。
「四枚目」
今日の夕方。
南橋の手すりが一本戻り。
旅人宿の客が一人増え。
机の右側に新しい穴。
黄緑の布。
模型は、また動かない。
現在稿は、今を知らせる。
帰還路の行き先までは変えない。
「失敗?」
カナタが訊く。
「試験結果」
キリは札へ書く。
――現在の層は受信できる。
――古い帰還像と分けて保存できる。
――帰還路の誘導先は変更できない。
――使用日の確認方法、未定。
「最後を直せばいい!」
「誰が受け取る」
ルゥが訊く。
「俺!」
「帰る人だけじゃ足りないかもしれない」
「アカリ!」
「待つ側だけでも足りないかもしれない」
「じゃあ二人!」
「それも、まだ分からない」
カナタは不満そうに、使用日の欄を見る。
白い。
書けば埋まる。
けれど、書く言葉がない。
「次に試す日って書く!」
「日付は?」
「分からん!」
「なら空白」
キリが筆を取り上げた。
「勝手に完成させない」
どこかで聞いた言葉。
カナタは白い欄へ指を置く。
「空白も渡すのか」
「次の課題として」
遠隔次稿板へ、四つの札をつける。
――現在の形。
四層の村図を、別々に表示できる。
――失敗。
今の返事を、帰還路の足場へ切り替えられない。
――次の課題。
使う日の現在確認と、帰還者側の選択方法。
――受取人。
キリ。
その横へ、もう一つ空欄。
「二人目は?」
カナタが訊く。
「次に試す人」
「俺!」
「今は夜海へ行く人」
「じゃあ、次にこの板を使うとき!」
「そのとき、まだ試すなら」
ルゥが言う。
「厳しい!」
「今の返事」
キリは自分の名の下へ署名する。
――受取。完成扱いにしない。
遠隔次稿板は、カゲノハ村へ結果を返した。
紙ではない。
四つの音。
一つ目。
受信。
二つ目。
分離保存。
三つ目。
誘導失敗。
四つ目。
次の課題あり。
アカリから五回の返事。
『受け取り、確認』
「黄緑の布も?」
ナギが訊く。
『今、現標板の横』
「旗になった?」
『まだ布』
アカリは、未来の紋を描かなかった。
黄緑の布を畳み。
四枚目の現在稿の隣へ置く。
帰る日の村図も描かない。
遠いミナモで、四層板の最後の欄が白く残る。
どの村図を帰路の足場にするか。
誰が、いつ、何を確かめるのか。
その答えは、まだ受け取る人がいなかった。
四枚目が示したのは帰る道ではない。
帰る日を、誰かが先に完成させないための空白だった。
ミナモを出る朝。
第一歩号の現標板には、四つの乗船欄があった。
カナタ。
ルゥ。
ナギ。
ザンバ。
以前のように、名前を先へ書かない。
カナタは一人ずつ訊く。
問いの前に、右足を半歩戻す。相手が自分で踏む場所を空けるためだ。
白旗は中央ではなく、いつもの端を握っている。離れる答えを聞くのは今も怖い。怖さがなくなったから尋ねられるのではなく、怖いまま本人へ選択を返す。
「ルゥ。今、第一歩号へ乗るか」
ルゥは左手を一度開き、握れる範囲を確かめた。痛みは残る。髪の銀鋲は九本だけで、一本を次稿工房へ置いてきた。
工具箱を三度叩き、自分の返事を技術用語へ逃がさず言う。
「乗る」
「どこまで」
「星喰いの夜海」
「その先!」
「着いてから」
「分かった!」
顔は分かっていない。
それでも欄へ書く。
――ルゥ。乗船。次、星喰いの夜海。
「ナギ!」
ナギは舌先で五拍を数え、片耳栓の位置を直した。初めて聞いたミナモの声の小石を、青い帳面の袋へ加える。
返事を受け取る仕事は、聞こえない日も含めて続く。
「乗る」
「まだ訊いてない!」
「今の返事」
「どこまで!」
「夜海で、次の声を聞くまで」
「分かりにくい!」
「星喰いの夜海」
「分かった!」
――ナギ。乗船。響路、継続。
「ザンバ!」
ザンバは機巧の右腕で灰旗を立て、生身の左手で乗船札を受け取った。椅子は壁へ背を向けない角度。留め具はオルドが直した三本の長さを、そのまま残している。
「乗る」
「先に答えるな!」
「時間の無駄だ」
「どこまで!」
「お前が四番目の意味を忘れるまで」
「忘れない!」
「なら次の港で降りる」
「夜海まで!」
「今は乗る」
――ザンバ。乗船。監視、継続。