第163話 第十章「ここまでの音」前編
脱出箱が光った。
十四歳のヨイを乗せた箱が、ナナツボシ号から離れる。
一歩。
着き灯へ。
二歩。
港へ。
三歩目はない。
箱は、十年前の到着場所で止まった。
景色の中のセナが、初めて操舵輪から手を離した。
ヨイへ向く。
声は届かない。
それでも、唇は動いた。
――行っておいで。
ヨイは首を振った。
「違うよ、母さん」
箱の蓋へ手を置く。
「私は、帰ってきた」
二十四歳の手で、蓋を開ける。
十四歳の自分が光になり、今の体へ重なった。
暮色の旗に、七つ目の灯が浮かぶ。
淡い夕焼け色。
同時に、ナナツボシ号の景色が止まった。
消えない。
戻らない。
最後の姿のまま、一枚の記録になる。
セナの旗。
操舵輪。
六隻へ向けた終路分離の合図。
ヨイを見送った手。
すべてが、一度だけの出来事として残った。
「母さんの道が……」
ヨイの声が震える。
「なくなってない」
ナギが答える。
「終わったから、戻らなくなった」
残る六隻も、別々の位置で止まっている。
まだ終点は置かれていない。
六十九人全員の意思は分からない。
だから、消さない。
帰ってきたことにもしない。
ナギは六十九枚の札を、七つの船名ごとに束ねた。
「《記録中》」
新しい欄へ置く。
「白抜き札ではないのか」
レオンが訊く。
「返事を待つ道を、今の港へ流し続けない」
ナギは答えた。
「記録を保管して、調べる道は続ける。でも、毎日の到着路にはしない」
「いつか、本当にどこかで生きていたと分かったら」
「そのとき、青札を新しく置く」
「分からないままなら」
「分からないまま残す」
レオンの顔が歪む。
「それでは、待つこともできない」
「待てる」
ナギは静かに言った。
「でも、待つ人の今日まで止めない」
ハテナシが吠えた。
ヨイの道が一つ終わったことで、体の一部が崩れている。
それでも、残りの未了路を食べて膨らむ。
口の《まだ》が、今度はカナタへ向いた。
白旗の中央。
大きな空白。
そこへ、道の景色が流れ込む。
カゲノハ村。
天頂門。
トマリギ島。
三脚群島。
ミナモ。
ノクティル。
空の岸。
世界の果て。
双灯港。
「お前の旅は、まだ終わっていない」
獣の口が言う。
「世界の果ては、もっと先にある」
「先はある」
カナタは答えた。
「なら進め」
「進む」
「終わるな」
カナタの足が止まる。
似ている。
ずっと自分が言ってきた言葉に。
できるまでやる。
着くまで進む。
終わったと思わなければ、失敗ではない。
「カナタ」
ルゥが隣へ立つ。
「どの旅を、今してるの」
「世界の果てへ――」
言いかける。
もう、着いた。
空の岸で。
向こう側の人と会った。
自分の到達旗を立てる場所は、先客の一歩のために空けた。
「世界の果てへ行く旅は」
右膝が痛み、白旗を支える手が布の端へ移った。言葉を終えれば、自分まで止まる気がする。声は低く、いつもの勢いだけでは先へ出なかった。
それでもルゥもナギも答えを代わりに言わない。ザンバは椅子を半指ずらし、待つ。カナタは先頭でしか作れなかった沈黙を、初めて仲間の前で使った。
白旗を握る手が震える。
「終わった」
ハテナシが《まだ》を吐く。
「旗を立てていない」
「立てなかった」
「父との約束を果たしていない」
「果てを見つけた」
「もっと先へ行ける」
「行く!」
カナタは叫んだ。
「でも、それは別の旅だ!」
白旗の中央から、一本の道が浮かぶ。
カゲノハ村から。
天頂門を越え。
空の岸へ。
その先の紫空へ。
世界の果てへ行くために歩いた道。
カナタは道の最後へ立った。
「俺の、世界の果てへの旅は――ここまでだ!」
終点を置く。
道は消えない。
金色の一本として、白旗の紋へ残った。
その先。
世界の果てから始まる空は、まだ何も描かれていない。
「次は、世界の果てから始める!」
ハテナシの頭が一つ、砕けた。
カナタの空白から《まだ》の螺旋が抜ける。
しかし、白旗には別の細い道が残った。
カゲノハ村へ向けて残した、まだ名前のない細い線。
帰路と呼ぶには、始点も足場も決まっていない。
父の声が響く。
『たまには帰れ』
カナタはその道へ終点を置かなかった。
帰る道を残したのは、父の命令に従うためでも、昔の家へ戻るためでもない。今の村へ帰ったとき、「お前がいなくても進んでいた」と言われ、それでも新しい席を一つ選ばせてもらう。その願いは、まだ行き先として誰にも渡せていない。
終えない理由を言えないことまで、白抜きのまま残した。
「これは、まだだ」
ルゥが見る。
「いいの?」
「ああ」
「獣と同じ言葉よ」
「違う」
カナタはアカリの紙旗を白旗へ結ぶ。
「終わってない道を、終わったことにしない」
ザンバが薄く笑った。
「ようやく区別したか」
「一つだけな!」
「残りは多い」とナギ。
「だから進む!」
「別の旅でね」とルゥ。
ハテナシが残った頭を振る。
まだ無数の未了路がある。
一人の宣言だけでは、町は終われない。
カナタは白旗を掲げた。
「今度は、全員に聞くぞ!」
着き灯の中に、白い頁が開いた。
終わりを置く場所。
何も書かれていない。
「これへ、道の名前を書く」
トバリの声が連標網から届く。
外の会堂で、到着札を一枚ずつ読んでいる。
トバリは七枚ごとに鍵を机へ置き、八枚目へ入る前に呼吸を整えた。背中の傷が引くときは、ナギの作った休止札を一枚使う。
以前なら休めば名前を飛ばすと思って続けた。今は、休まず誤読するほうが、札の持ち主を再び一つの事故へ潰すと知っている。
「誰の道か。どこからどこまでか。終えるのか、保管するのか、続けるのか」
「一枚ずつ!?」
カナタが叫ぶ。
「三千二百枚ある」
「多い!」
「十年ぶんだ」
「できるまで――」
言いかけて止まる。
「今日じゅうには無理だ」
ルゥが驚いた顔をした。
驚いた拍子に、髪の銀鋲を一本抜いた。怒りではなく、負荷が下がった印だった。
カナタが「今日じゅうには無理」と言えたことで、ルゥも三千二百枚を自分でつなぐ計画を捨てる。灯脈図を七区画へ分け、港の若い職人へ名前つきで渡した。条件を増やして結局渡さない、いつもの失敗をここで終える。
「自分で言えた」
「俺だって数字を覚えた!」
「関係ない!」
「今終える分だけを選ぶ」
ナギが五番旗の小布を広げた。
夜色の五つの点。
「現在地と、本人の返事がある道」
外の港で、人々が順番に答える。
『ハコベ。夕滴三瓶の配達路。受取人は、今ここ』
『終える』
『コハク。今日の授業』
『終える。明日は新しい頁』
『アサギ。大連灯式へ向かう発路』
アサギが答える。
『終える。発ち灯を守る仕事は続ける』
違う道。
違う範囲。
一つずつ。
白い頁に名前が浮かぶ。
最後に、短い印を置く欄がある。
「《了》」
コハクの声が連標網から聞こえる。
『二本で書けるよ!』
「俺も書く!」
カナタは白旗の石突を筆にした。
最初の一画。
大きすぎて、頁の半分を使う。
「長い!」とルゥ。
「終わりは大きい!」
「文字の大きさじゃない!」
二画目。
反対へ曲がった。
「それ、《子》に近い」とナギ。
「読める!」
「違う字!」
ハテナシが《まだ》を吐く。
書きかけの印が消えそうになる。
カナタは旗竿を両手で押さえた。
「終わるのは、怖い」
誰へともなく言う。
「書いたら、もう同じ旅へ戻れない」
「戻らなくていいの?」
ルゥが訊く。
「戻りたくなったら、記録を見る」
「歩き直したくなったら?」
「別の旅で歩く」
「父親へ会いたくなったら?」
手が止まる。
「……帰る旅は、まだ始め方が分からない」
今は、その空白を別の答えで埋めない。
「だから、この旅だけを終える」
それでも、二画目を引いた。
歪んだ《了》。
白い頁へ定着する。
世界の果てへ行く旅。
出発、カゲノハ村。
到着、空の岸。
終路確認、カナタ。
記録保存。
次の旅、未定。
「未定じゃない!」
カナタが書き足そうとする。
「世界の果てから始める!」
「それは目的地じゃない」とルゥ。
「じゃあ、空ける!」
次の欄を空白のまま残す。
白旗の中央にも、空白がある。
以前より小さく。
けれど、確かに。
誰かの次の一歩を受け取れる場所。
外の人々も、自分の道へ《了》を置き始めた。
ハテナシの脚が一本ずつ崩れる。
崩れた脚は煙にならず、指ほどの細い個体へほどけた。口の七番目が空のままのものは、続行札の端へ集まり、区間が書かれた《了》には近づかない。
餌がなくなったのではない。終える道、続ける道、調べる道へ分けられ、巨大な一頭へ集まる必要がなくなった。制度の変化が、生態の大きさを変えていた。
終えた道は消えず、色の違う記録線へ変わる。
続ける道は、今の持ち主へ戻る。
保管する道は、四番旗の灰青色の頁へ収まる。
ルゥが目を見開く。
「キリの《次稿》が、記録の形を作ってる」
四番旗の小布が開き、三千二百枚の札を飲み込む。
潰さない。
同じ形にしない。
持ち主。
区間。
終えた理由。
残る問い。
次に読む者。
一枚ずつ違うまま、頁になる。
「四番目は、終わった道も渡せるんだな」
「途中だけじゃない」
ルゥは頷く。
「記録を渡せば、次の人が同じ事故から始めなくていい」
レオンは六十九枚の札を見た。
「この者たちは、終路確認できない」
「だから、《記録保留》」
トバリが答える。
「毎日の帰航路から外し、七船記録庫へ。調査は続ける。姿を町へ繰り返させない」
「俺が、終わりを決めるのか」
「違う」
ヨイが言う。
「終わったことにもしない。帰ってきたことにもしない。分からないことを、分からないまま受け取る」