第162話 第九章「大連灯式」後編

「セナ!」

景色の女は振り向かない。

「俺だ!」

七音。

「ヨイは生きている!」

七音。

「返事をしろ!」

七音。

レオンは二灯旗を振り上げる。

「道を動かせば――」

ザンバの旗竿が、その手を止めた。

「動かして何を訊く」

「今の意思を!」

「記録から作るのか」

「黙れ!」

二灯旗と灰旗がぶつかる。

金色の火花。

ザンバは片腕で受ける。

「俺も死者の返事を作ろうとした」

「お前と一緒にするな!」

「アステルが、世界の果てへ進みたかったはずだと決めた」

カナタが顔を上げる。

「父ちゃん?」

「村へ戻ったあいつを、夢を捨てた敗者にした」

灰旗が軋む。

「そうすれば、俺が一人で門を進もうとした道が正しくなるからだ」

レオンの力が止まる。

「死者は、訂正してくれない」

ザンバは言った。

「だから、生きている者に都合のいい続きを言わせられる」

ナナツボシ号の甲板で、セナがまた箱へ手を伸ばす。

ヨイは脱出箱の前へ立った。

十四歳の自分。

二十四歳の自分。

同じ場所に見える。

違う時刻。

「母さんの続きを、私が決めるんじゃない」

小さな旗を抱く。

「母さんが最後に選んだところまで、受け取る」

景色の中へ、一歩を踏み出した。

ハテナシが口を開く。

《まだ》がヨイへ落ちる。

暮色の旗の七つ目の空白が、白い螺旋に呑まれかける。

カナタが走る。

「ヨイまで!」

光板を出そうとする。

ヨイが振り向いた。

「最後は、私が踏む!」

ヨイは風眼鏡を押さなかった。怖い回数を数える代わりに、足元の一歩だけを見る。袖の傷は開き、手は震えている。

勇気があるから最後を奪い返すのではない。到着したかどうかを十年ほかの人に決められたから、自分の足の痛みも迷いも含めて、自分の区間を所有するためだった。

カナタの旗が止まった。

あと一歩。

出せる。

出したい。

けれど、白旗を下ろす。

「おう!」

ヨイは自分の足で、脱出箱へ入った。

十年前のセナの手が、留め具を押す。

初めて、最後まで。

かちり。

小さな音だった。

七隻の事故報告よりも。

港の鐘よりも。

確かに、道が終わる音だった。

留め具が外れた瞬間、七隻の隊列がほどけた。

今まで一つの《第七帰航隊》として重なっていた道が、船ごとに離れる。

ナナツボシ号。

ユウナギ号。

ホタル舟。

ツキミチ号。

カサネ帆号。

アカツキ号。

コダマ号。

七つの事故記録。

同じ七音を鳴らしたあと、それぞれ違う最後へ向かっていた。

「船ごとの記録が見える!」

ナギは鈴を七方向へ投げる。

ルゥが銀糸で、重なっていた航路を離す。

《継ぎ路》――同じにせず、同じ時刻へ!」

七つの景色が円になる。

最初はユウナギ号。

右舷が大きく裂けている。

副長ラシアが、乗員をナナツボシ号へ移そうとしていた。

『先に子どもを!』

記録の声。

返事ではない。

それでも、最後に何をしようとしたかは分かる。

乗員十一人のうち、四人は移乗索へ。

残りは炉を止めようとしている。

「全員、同じ道じゃない」

ナギが札を分ける。

移ろうとした者。

船へ残った者。

何を選んだか記録のない者。

「帰航路を一つに閉じたら、全部同じ位置へ戻される」

ルゥの銀糸が震える。

「移乗中の人は、永遠に船と船の間」

次はホタル舟。

料理人アンが、星形のパンを箱へ詰めている。

事故の直前まで、子どもたちへ配るために。

船長は帆を切る。

見張りは外海へ信号旗を投げる。

機関士は炉から星炭を抜いている。

誰も、帰る姿勢を取っていない。

外の連標網から、メイが星形のパン型を一度鳴らした。

『姉さんの店へ帰る姿にはしない。最後にパンを詰めた記録は、黒札へ残して』

ヨイがホタル舟の束へ黒い記録札を結ぶ。

『着き灯へ入るな!』

船長の声。

『外へ流せ!』

「逃げようとしてた?」

カナタが訊く。

「港から離れることで、灯の引力を弱めようとした」

ルゥが帆の角度を読む。

「帰航を続ける道じゃない」

「生きる道?」

「その時点では」

「今は?」

「記録の先がない」

カナタは拳を握る。

助かったと言いたい。

死んだとも言いたくない。

どちらも、青札には置けない。

ツキミチ号では、九人が円になっていた。

互いの腰を索で結び。

船の重さが裏返ったとき、誰も外へ落ちないように。

最後の一人だけ、索の外。

結び目を作っている途中で記録が止まる。

「あと一人!」

カナタが光板を出しかける。

ヨイが腕を掴む。

「十年前」

「結べば!」

「今、結んだことになる」

「落ちたかもしれない!」

「結べたかもしれない」

「じゃあ――」

「分からない」

ヨイは苦しそうに言った。

「助けないんじゃない。今の私たちが、最後を作らない」

カナタは旗を下ろす。

光板は生まれない。

代わりに四番旗の頁へ、記録を写す。

――九人目、結索未確認。

空白のまま。

カサネ帆号では、十人が積み荷を捨てていた。

重すぎる船を軽くするため。

荷物には、港の人々が待つ品がある。

薬。

種。

手紙。

夕滴。

「ハコベの箱」

ヨイが一つを見つける。

三本の瓶を入れた箱。

船員が最後に外へ投げた。

箱だけが着き灯へ吸われ、港へ届いた。

「人より荷が先になったんじゃない」

ハコベの三千六百回の道が重なる。

「人が、荷を先へ送った」

ヨイは記録札へ書く。

――カサネ帆号。積み荷分離。

――夕滴箱、到着確認。

――受取人、港。

「これなら、箱を開けられる?」

カナタが訊く。

「持ち主が、港へ送った記録がある」

「青い鈴は鳴らない」

「送付先は記録で決まってる」

「終える道は?」

「配達だけ。船員の帰航は別」

「細かい!」

「だから混ぜないの!」

アカツキ号は、七隻の中で最も灯へ近かった。

船首が白い境界へ半分入っている。

七人のうち三人は、着いた景色として固定され。

四人はまだ外。

同じ船なのに、帰航路の内外へ分かれている。

レオンが息を呑む。

「大連灯式で動かせば」

「三人は出航路へ流れ、四人は着き灯へ引かれる」

ルゥが答える。

「船が二つに裂ける」

「継ぎ路で」

「記録を継いでも、今の体にはならない」

「では、どうしろと!」

「記録する」

ルゥは声を強くする。

「三人が内。四人が外。その状態で記録が途切れてる。都合よく七人を甲板へ戻さない」

レオンはアカツキ号へ手を伸ばす。

触れない。

記録の船員は、何度も境界へ引かれ、同じ位置へ戻る。

最後のコダマ号は、声だけが残っていた。

船体の景色が薄い。

七人の姿も見えない。

船腹を叩く音。

一度。

二度。

七度。

そのあと、別の音。

短く。

長く。

短く。

「信号?」

ナギが耳を澄ます。

「コダマ号の古い符号」

トバリの記録札を照らし合わせる。

――《灯外へ退避》

「退避した?」

ヨイが訊く。

「しようとした」

「成功は?」

「分からない」

ナギは何度も音を聞く。

七音の事故報告。

退避符号。

その先に、かすかな雑音。

風か。

船体が割れた音か。

別の場所へ抜けた音か。

「これを、帰航完了にしたらだめ」

「死亡確認にも」とザンバ。

外からユキトの声が届く。

『その先は白抜きのままにして。父さんを、俺の望む最後へ動かさないで』

「うん」

コダマ号の札へ、最も大きな空白を残す。

――退避行動後、記録途絶。

――白抜き札、現在地未確認。

七つの船を分けるほど、《第七帰航隊》という一つの答えは崩れていく。

帰ろうとした者。

退避しようとした者。

他船へ移ろうとした者。

積み荷を先へ送った者。

記録が足りない者。

「母さんの命令だけで、全員の最後を決められない」

ヨイが言った。

「帰航長でも?」

カナタが訊く。

「事故の指示は出せる。でも、一人一人が何を思ったかまでは」

「レオンの式も」

「全員を『帰りたい』にする」

「終標も、全員を『終えたい』にしたら同じだ」

ザンバの言葉に、ヨイが頷く。

「だから、私が終えるのは私の道」

脱出箱。

十四歳のヨイ。

今の二十四歳。

母が最後まで押した留め具。

「母さんの記録は、最後まで受け取る。でも、ほかの六十九人は保管する」

「待つ?」

「調べる」

「違う?」

「待つだけで港を止めない」

レオンは七つの景色を見回した。

自分が十年間、一つの船団として見てきたもの。

分ければ、娘の姿だけを追えない。

名前も。

選択も。

不明点も増える。

「分けるほど、分からなくなる」

「最初から分からなかった」

ナギが答えた。

「一つにして、分かった形にしてただけ」

ハテナシの三つの頭が、七つの記録へ迫る。

《まだ》の白い文字が、それぞれの空白を埋めようとする。

退避成功。

帰航中。

生存。

死亡。

どれか一つへ決めれば、獣の道になる。

「空白を守る!」

カナタは白旗を振る。

「どの空白!」

ルゥが叫ぶ。

「全部!」

「一つにまとめないで!」

「一枚ずつ出す!」

七つの記録の手前へ、一歩分の光板を七枚。

同じ大きさではない。

船ごとの距離。

記録の形。

足りない場所に合わせる。

カナタの腕が震える。

「多い!」

「だから、私たちもいる!」

ルゥが銀糸で七枚を支える。

ザンバが獣の進路を七つへ分ける。

ナギが記録音を船ごとに聞き分ける。

ヨイは母の脱出箱へ向く。

「私の最後は、私が踏む」

七つの灯が揺れる。

最後の一つへ、夕焼け色の輪郭が生まれ始めた。