第161話 第九章「大連灯式」前編
二灯旗から伸びた金線が、着き灯へ突き刺さった。
黒い球が膨らむ。
一度。
二度。
三度目で、表面に白い亀裂が走った。
「術を切れ!」
ザンバが灰旗を抜く。
「切れば、発ち灯が砕ける!」
レオンは旗竿へ両手でしがみつく。
もう、自分で振っていない。
十年間、始めることだけを集めた発ち灯。
終えられない着き灯。
二つが、互いを引き始めている。
「ルゥ!」
「灯路が一本になってる!」
ルゥは銀鋲を七本投げた。
七本目で左手首が痙攣し、指が開いた。ルゥは痛みを隠して八本目を探さず、ミクへ渡した予備構造を思い出すように、アサギへ一系統を任せた。
「金線の発ち側を固定!」
「終路師じゃない!」
「今は受け取る側!」
役職の境を越えても、誰か一人が壊れるまでつながない。
「《継ぎ路》! 船路ごとに分ける!」
銀糸が金線へ入る。
一つだった光が七本へ裂ける。
ナナツボシ号。
ユウナギ号。
ホタル舟。
ツキミチ号。
カサネ帆号。
アカツキ号。
コダマ号。
七本とも、すぐ同じ発ち灯へ吸われる。
「分けても、終わりがない!」
「終路弁を開け!」
ヨイが塔の下へ走る。
到着区の七つの弁。
十年間、閉じられたまま。
最初の弁へ手をかける。
動かない。
到着札が絡み、固まっている。
「手伝う!」
アサギが金旗を弁へ差し込んだ。
「発路師が?」
「始めるだけが仕事じゃない!」
二人で引く。
一つ目の弁が開いた。
白い光が噴き出す。
途中まで届いた荷物。
終わらなかった会話。
帰りかけた船。
すべての景色が町へ重なる。
「おかえり!」
「行ってきます!」
「あと一歩!」
「まだ!」
「まだ!」
声が一つの言葉へ集まる。
着き灯の亀裂から、巨大な指が出た。
光る道でできた指。
一歩を上げたまま、どこにも着かない。
二本目。
三本目。
何百本もの脚が、黒い球を内側から開く。
「標災」
ザンバの片目が細くなる。
長い胴。
終わり損ねた航路の束。
尾は途中で切れ、切れた先から新しい頭が生える。
頭には、閉じない輪。
口の中に、白い文字。
口腔の奥には七つの受け窪みがあり、六つまで古い札片で塞がれ、七つ目だけが空いていた。固定七音を呑むたび、その空所へ新しい膜が張り、尾が一節伸びる。
鱗は未了札そのものではない。終点と持ち主を失った標力が、薄い板状に固まったものだった。朝色の鱗ほど新しく、黒ずんだ鱗ほど同じ約束を長く回っている。獣は人間の後悔を理解せず、閉じない道端から流れる微かな標熱を感覚器で追っていた。
――まだ。
「《未了獣ハテナシ》」
「知ってるのか!」
「顔に書いてある」
「俺も読める!」
「今は喜ばないで!」
ハテナシが口を開く。
頭の左右にある細いひげが、完了札の前では閉じ、持ち主のない「まだ」の前でだけ扇状に開いた。食べやすいのは、続ける理由も終える範囲も書かれていない道だった。
港が十年間、すべてを同じ未了へ送ったことで、餌場が一か所へ集まった。思想の怪物ではなく、制度が作った偏った回遊地へ住みついた生物でもある。
白い《まだ》が町へ落ちた。
ハコベが箱の留め金を外す。
まだ。
留め金が戻る。
コハクが教本へ《了》を書く。
まだ。
二本目の線が消える。
アサギとヨイが終路弁を開く。
まだ。
弁は半分で止まり、最初へ戻る。
「終わりを食ってる!」
ルゥが叫ぶ。
ハテナシの脚が港へ下りた。
一歩。
石畳が外へ伸びる。
二歩。
家が道へ引かれる。
三歩。
人々が目的地を越えて歩き始める。
「止まれ!」
カナタは白旗を地面へ突く。
「ここまで!」
一歩分の光板が壁になる。
人々を受け止める。
ハテナシが《まだ》を吐く。
壁の向こうに、次の一歩が生まれた。
「俺の止まれまで続きになった!」
「ヨイ!」
ルゥが叫ぶ。
「道火を消して!」
ヨイは暮色旗を振る。
六つの灯が光る。
近くの出航火が一つ消える。
消えた場所から、二本の道が生えた。
一つは発ち灯へ。
一つは着き灯へ。
「消すほど増える!」
「ザンバ!」
「分ける」
灰旗を振る。
「《岐点》!」
黒い点がハテナシの胴へ入る。
道が三つへ分かれる。
港。
外海。
着き灯。
獣は三つの頭を生やし、全部へ進む。
「選ばない!」
「すべてを続きにする獣だ」
ザンバは歯を食いしばる。
「分岐も、終点も食う」
ハテナシの尾が、連標網へ巻きついた。
「だめ!」
ナギが鈴を引く。
各地から届く青い応答。
トマリギ島。
三脚群島。
ミナモ。
ノクティル。
迎え岸。
カゲノハ村。
音の糸が、未了獣の体へ吸われる。
過去の記録も。
青い応答も。
同じ《まだ》へまとめられようとする。
「記録と現在を分けて!」
ナギは二つの鈴を左右へ投げた。
「《響路》――二列点呼!」
左。
残された声。
右。
今いる者の返事。
七音は左へ。
アカリの声は右へ。
『古い橋は終わったよ。村はなくなってない』
ハテナシの頭が、青い列へ噛みつく。
カナタが光板を出す。
「アカリの声の手前!」
一歩分の盾。
獣の牙を受ける。
白旗の中央へ、螺旋が入り始めた。
次。
次。
まだ。
「カナタ、放して!」
ルゥの銀糸が白旗へ絡む。
「今の村の声がある!」
「その道ごと食われる!」
ハテナシの口が未踏路へ噛みついた。
カナタの一歩を舌に変える。
第一歩号まで引かれる。
「船が!」
ナギの五音点呼が乱れる。
金属味が喉まで上がり、左右の音が一瞬入れ替わった。ナギは能力を押し通さず、船腹へ掌を当てる。
「耳、誤差あり。目視で二つ返して!」
ルゥが工具を、ザンバが生身の左手を上げる。触覚と視覚を借りて不足の二音を補う。聞こえない瞬間にも、響路士の仕事は点呼を止めないことだった。
こん。
こん。
こん――。
二音、足りない。
ザンバが落下路へ黒い点を置いた。
「《岐点》!」
第一歩号の進路が二つへ分かれる。
一つは外海。
一つは、着き灯の裂け目。
「選べ、船長!」
「着き灯!」
「また全員で!?」
ルゥが叫ぶ。
「今いる全員で!」
「言い直しても全部!」
第一歩号が横へ折れる。
カナタ。
ルゥ。
ザンバ。
ナギ。
ヨイ。
レオン。
アサギまで、銀糸へ掴まる。
七人と一隻が、白い裂け目へ飛び込んだ。
ハテナシの三つの頭が、あとを追う。
港の朝が、黒い灯の中へ吸い込まれた。
着き灯の中では、すべての道が同時に始まっていた。
カゲノハ村の橋。
トマリギ島の鐘。
三脚群島の分岐。
ミナモの工房。
ノクティルの暗舟。
空の岸。
双灯港の第一到着門。
過去も現在も、順番を失って重なっている。
第一歩号は、その中を落ちた。
「上!」
カナタが叫ぶ。
「全部上!」とルゥ。
「じゃあ前!」
「全部前!」
「便利!」
「最悪!」
船首の鍋蓋が、昔の薬師橋へ引っかかる。
橋は丈夫だったころの形。
その上に、通行終了の現標板が重なる。
古い板一枚は、配達所に保存されている。
「橋が二つ!」
「三つ!」
ナギが指す。
十三歳のアカリが熱を出した日の橋。
現在の崩れた橋。
記録棚へ移された橋板。
「どれへ乗る!」
「青い鈴!」
ナギが右の鈴を鳴らす。
現標板の光だけが強くなる。
第一歩号は、現在の記録棚の上を滑った。
昔の橋は消えない。
しかし、足場には選ばれない。
カナタの耳に声が届く。
『たまには帰れ』
アステル。
十年前と同じ。
その隣。
『古い橋は終わったよ。村はなくなってない』
アカリ。
青い鈴の声。
「どっちも村だ」
カナタは呟く。
「同じじゃない」
白旗の螺旋が、少し緩む。
ハテナシが追いついた。
尾の節は、着き灯へ残った三千二百枚の未了札と同じ数ではない。札が同じ約束へ戻るたび、一節だけ太くなる。量より反復を食べる生き物だった。
保存棚へ収まった橋板の前では、ひげが閉じる。終わっても記録として所在がある道は餌にならない。ハテナシが食うのは、消えたくない道ではなく、どこまで続くか誰にも決められていない流れだった。
口から《まだ》を吐く。
終了札の文字が薄れる。
保存された橋板が、元の道へ戻ろうとする。
「戻すな!」
カナタは白旗を振った。
「橋板は、配達所!」
一歩分の光板。
ただし、板の続きへは置かない。
保存棚の手前だけ。
アカリが最後の一歩を、自分で踏んだ記録が光る。
橋板は棚へ収まった。
「今のは、道を作らなかった?」
レオンが訊く。
「最後を、向こうへ残した」
「六番目か」とザンバ。
「少し違う」
ルゥが言う。
「歩いた本人が、最後を踏む場所を残した」
第一歩号の前に、ナナツボシ号が現れる。
その甲板の細部は一つの英雄像へ揃わなかった。セナの地図は北を内側へ折られ、指示紐は七本。脱出箱の留め具には左指の擦れ。水筒には一口。
ラシアは右肩を下げ、干し梨袋を腰へ残している。自分の眩暈薬は未開封。リトは左手で機関弁へ触れ、咳を隠す布を工具箱へ押し込む。コウリは高い帆柱で震えながら、音程の外れた歌を口の形だけで歌っている。
同じ七音の背後に、別々の体と失敗があった。
その背後に六隻。
七音。
同じ事故報告。
レオンが船縁へ出る。
右手の焼け跡へ左掌を押しつける。七音を聞くたび同じ動作をしてきたせいで、皮膚には掌の形の薄い圧痕が残っていた。
「セナ」
公の場で娘の名を呼ぶのは十年ぶりだった。首が固まり、体ごと記録へ向く。返事がないことより、今の孫の前で自分の希望を言うことを恐れていた。