第160話 第八章「夕方を知らない子ども」後編

「灯替え潮!」

警鐘が鳴る。

終わらない朝の町に、初めて夜色の鐘が混じった。

ごおん。

からん。

ご、ごおん――。

発ち灯の金色が脈打つ。

一度。

二度。

三度目で、表面の亀裂が十倍に広がった。

「今夜までじゃなかったの!?」

カナタが叫ぶ。

「港に夜がないから、潮が時刻を読み違えた!」

ルゥは第一歩号の甲板へ銀鋲を打つ。

「予定より四刻早い!」

船体へ積まれた七つの小旗が揺れる。

ルゥの左手首は銀鋲を打つたび熱を持ち、最後の一本で親指が開かなくなった。工具箱の蓋を三度叩き、作業を区切る。

「次の固定、アサギへ」

自分でつなぎ続ける癖を止め、灯脈の留め具を若い発路師へ渡す。条件を十個並べかけ、三つまでに減らした。渡すことも修理の一部だった。

最初の白旗。

三番の銅旗。

四番の灰青旗。

五番の夜色旗。

六番の透明な写し。

二番旗は、トマリギ島。

帰る場所は持ち歩かない。

「ナギ!」

「連標網、現在地確認!」

ナギは四枚の乗員札へ鈴を結んだ。

「船長!」

「いる!」

「航路機巧師!」

「操舵輪!」

「監視役!」

「船尾」

「響路士!」

「ここ!」

最後に船腹を五度叩く。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

朝火炉が低く返した。

「第一歩号、現在!」

五つの現在地。

一つも欠けていない。

町の向こうでは、到着札が空へ舞っていた。

終わらなかった道が、灯替え潮に引かれる。

ハコベの箱。

コハクの教本。

受け取られなかった手紙。

最後の一口。

未了のすべてが、黒い着き灯へ吸われる。

エナの十本傷の歯車まで、夫の帰航を始め直す道へ引かれた。

「これは工房へ渡す!」

女は歯車を胸へ抱き、黒い記録札だけを残す。

高い警鐘はエナには半分しか聞こえない。床の振動を左足で読み、工房への道だけを選んだ。歯車を離す直前、寒くないのに一度身を震わせ、左右の靴底を三度こする。

夫の記録を捨てるのではない。夫の歯車を、今の機関士が使える物へ戻す。記憶と機械の持ち主を分ける決断だった。

ユキトの前には、見たことのない父コウリの姿が何度も立ち上がる。

「父さんのふりで、こっちへ来るな!」

青年は姿へ手を伸ばさず、白抜きの保留札を握った。

メイの空き地には、十年前の姉の店が浮かぶ。

老女は星形のパン型を持ち、子どもたちを今の会堂へ導いた。

「店を待たせる道は終えた。食堂は、明日から始めるよ!」

「着き灯が膨らんでる!」

ヨイが叫ぶ。

黒い球の表面から、白い光が漏れる。

内部に溜まった終路標力。

出口を探し、発ち灯へ伸びる。

「レオンは?」

「発ち塔!」

アサギが走ってくる。

「全発路師を集めた。大連灯式を始める!」

「止める!」

カナタが船首へ飛び乗る。

「船で?」とルゥ。

「歩くより早い!」

「港の中!」

「道が空いてる!」

「荷物が飛んでる!」

「避ける!」

「それができたことある!?」

朝火炉へ火が入る。

第一歩号が浮く。

最初の一歩で、到着札の束を巻き上げた。

二歩目で、空へ落ちる机を帆に引っかける。

三歩目で、ハコベの箱を船首の鍋蓋が受け止めた。

「ほら、避けた!」

「拾ってる!」

ハコベが箱へしがみついている。

「十年ぶんの荷物だ! 落とすな!」

「中身は!」

「夕滴三瓶!」

「夕方?」

「着いたら開ける品だ!」

「まだ着いてないのか!」

「札がそう言う!」

第一歩号は発ち塔へ向かう。

塔の周囲に、何百本もの金旗が立っている。

出航。

開始。

前進。

すべて、始まりを示す旗。

その中央で、レオンが二灯旗を掲げていた。

「全灯路、接続準備!」

金の光が黒い着き灯へ伸びる。

「待てぇぇぇ!」

カナタの声が港へ響く。

レオンは見上げた。

首は固まり、体ごと第一歩号へ向いた。右手の焼け跡を左の掌で押さえ、娘の名を言えないまま灯主の声へ戻る。

朝から何も食べていない胃が痙攣した。それでも空腹ではなく「潮の揺れ」と言い換えた。恐怖を公務へ変えるほど、今いるヨイの返事が遠くなる。

「遅い」

「まだ始めるな!」

「発ち灯が保たん」

「終わらせる道を先に開け!」

「その間に港が落ちる!」

「だから一緒に考える!」

「考える刻は終わった!」

「終わりを勝手に決めるな!」

レオンの顔が歪む。

「お前たちは、終わらせろと言いに来たのではないのか!」

カナタは一瞬、言葉を失った。

その隙に、発ち灯が砕ける。

金色の破片が塔へ降る。

レオンは二灯旗を突き立てた。

「大連灯式を開始する!」

ヨイが第一歩号から叫ぶ。

「灯主!」

レオンの目が孫へ向く。

「私は、ここにいる!」

返事はなかった。

金色の光が、黒い灯へ走った。

光が二つの灯へ届く前に、ナギが鈴を投げた。

一つ。

二つ。

七つ。

七個の小鈴が、二灯の間へ弧を描く。

《響路》!」

鈴同士が細い音の糸でつながった。

金色の光が、その糸へ触れる。

港中に、七音が響いた。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

「第七帰航隊へ!」

ナギが叫ぶ。

「一つ目。今、どこにいますか!」

七音。

「二つ目。ナナツボシ号は、帰航を続けますか!」

七音。

「三つ目。ヨイは二十四歳になりました。聞こえますか!」

七音。

「四つ目。双灯港には、新しい到着路が必要ですか!」

七音。

「五つ目。セナさん。あなたは、娘へ何と返しますか!」

七音。

「六つ目。六十九人のうち、今も帰りたい人は何人ですか!」

七音。

ナギは最後の鈴を握った。

舌先で五拍を数えようとして、四つ目で吐き気が来た。七個の鈴と港中の声が重なり、口の中は鉄の味がする。

「六つ目まで、音型を確認して」

ルゥへ波形板、ヨイへ問いの文、アサギへ港側の時刻を渡す。七つ目だけを自分一人の耳で決めない。判断を分けても、責任は薄まらない。

レオンを見た。

「七つ目。この音を、青札に置けますか!」

七音。

間隔も。

強さも。

一音も変わらない。

港の家族たちが、音を聞いた。

十年間、帰航の合図だと思っていた音。

どんな問いにも同じように返る、最後の事故報告。

「青札には置けません」

ナギの声が震える。

悲しいからではない。

否定する言葉の重さに、両手で耐えている。

「でも、無意味じゃない。最後に七隻が一緒に打った記録です」

レオンは二灯旗を握りしめた。

「灯の内側では、声が変わらないだけだ」

「じゃあ、今いる人へ聞いて」

ヨイが言った。

「何を」

「七十人目」

甲板から一歩、光板へ下りる。

「私は、着いた?」

レオンの唇が動かない。

「答えて」

「隊は――」

「私」

ヨイは自分の胸を指す。

「セナの娘。十四歳で脱出箱に入れられて、十年ここで生きた。到着札を拾って、火を消して、朝しかない町で大きくなった私」

暮色の旗を広げる。

ヨイの手首の縫い傷が開き、布へ小さな赤がついた。「座るほどではない」は言わない。今の自分を数えてほしい問いの中で、傷だけを隠せば、また十四歳の無傷な記録へ近づいてしまう。

「二十四歳。手首、出血あり。まだ立てる」

自分で現在を足してから、祖父の返事を待った。

六つの灯。

空白の七つ目。

「私は、着いた?」

レオンの背後で、発路師たちが旗を下ろし始めた。

アサギも。

家族たちも、レオンを見る。

「一人だけでは、帰航ではない」

ようやく出た言葉だった。

ヨイは目を閉じた。

「そう」

七つ目の空白が、暗くなる。

カナタが光板を蹴った。

レオンのいる塔へ一歩。

「一人は、一人だ!」

「分かっている!」

「分かってない!」

「分かっているから、全員を戻す!」

「戻したら、この一人を見るのか!」

レオンの顔が固まる。

「六十九人の後ろへ、また隠すんじゃないのか!」

カナタの言葉が、自分へ返ってくる。

父の声。

たまには帰れ。

今の村。

今のアカリ。

昔の橋。

どちらも村。

同じではない。

「俺も、記録の父ちゃんばっかり見てる」

声はそれまでより低かった。白旗の中央ではなく端を握り、右膝を一歩出しかけて戻す。

自分の弱さを言葉にすれば、船長の勢いまで終わる気がしていた。けれど終わったのは、父の記録を盾に今の返事を押しのける道だけだった。ルゥは励まさず、隣の足場へ立った。

思わず口から出た。

ルゥが顔を上げる。

「カナタ」

「今の村が返事しても、父ちゃんの声を先に聞く」

白旗の中央で、空白が揺れた。

「帰ったら、父ちゃんがいる村に戻れる気がしてる」

言うほど、胸が痛んだ。

「でも、あれは十年前の声だ」

ナギは何も足さない。

カナタ自身が続けるのを待つ。

「消したくない。今も、たまには帰れって言ってると思いたい」

アカリの紙旗を握る。

――古い橋は終わったよ。村はなくなってない。

「でも、今いる港へヨイを着かせるなら、十年前の七音じゃなく、ここにいるヨイの声を聞かなきゃいけない」

レオンを見る。

「お前もだ」

発ち灯の亀裂が、また広がった。

時間は待たない。

それでも今度は、誰もすぐに旗を上げなかった。

ヨイがもう一度訊く。

「私は、着いた?」

レオンの口が開く。

音になる直前。

発ち灯の外殻が大きく崩れた。

金色の光が二灯旗へ逆流する。

レオンの腕が、勝手に振り上げられた。

「灯主!」

術が、持ち主より先に始まりを選んだ。