第159話 第八章「夕方を知らない子ども」前編

「書いたら、本当に終わる?」

「頁はね」

アサギが答える。

「明日の授業は?」

「次の頁から始める」

「次の頁、白い」

「だから書ける」

コハクは《了》の最後を引いた。

授業札が淡く光る。

今日の頁が閉じた。

隣に、新しい白紙が開く。

コハクは目を丸くした。

「消えなかった」

「何が?」

「読んだ頁」

前の頁をめくる。

ちゃんと残っている。

アサギは、その様子を見ていた。

「俺も、夜が怖かった」

ぽつりと言う。

「夜?」

「発ち灯が弱くなると、町が止まる気がした。止まったら、父さんの船が出られない。仕事も、声も、俺も、全部なくなる気がした」

「父さんは?」

「十五年前に出た」

「帰った?」

「帰航札は来た。本人は別の港に住んでる」

「じゃあ生きてる!」

カナタが言う。

「ああ」

「会いに行ける!」

「手紙は来る。俺は、ここで発路師になるって決めた」

「なんで父さんを待つみたいに、朝を続ける」

コハクが訊く。

子どもの問いは、真っ直ぐだった。

アサギは答えを探す。

「出ていく道を守れば、いつか誰かが戻ると思った」

「出ていく道なのに?」

「……そうだな」

教室の窓から、金色の発ち灯が見える。

黒い着き灯。

二つの間に、朝だけが引き伸ばされている。

「夕方って、どんな色?」

コハクがヨイに訊いた。

「知らない」

「ヨイも?」

「十四歳のころ、見たかもしれない。でも覚えてない」

「ルゥは?」

「金色と赤と紫が混ざる」

「カナタは?」

「腹が減る色!」

「参考にならない」と全員。

ザンバが窓辺で言った。

「影が長くなる色だ」

「怖い?」

「以前はな」

「今は?」

「終わるものが見える」

「やっぱり怖い」

「だから、見る」

教室の鐘が鳴った。

始業の鐘。

今日、九度目だった。

コハクは閉じた教本を抱える。

「今日はもう終わった」

席へ戻らない。

鐘は鳴り続ける。

それでも、子どもは教室を出た。

アサギがあとを追う。

入口で一度、振り返った。

「灯主は、もう塔へ入った」

「式を始める?」

ヨイが訊く。

「家族を集めてる。予定より早い」

発ち灯の表面に、新しい亀裂が走った。

金色の破片が一枚、朝の空へ落ちる。

地面へ触れた瞬間、出航路になった。

教室の机が一列、外へ滑り始める。

「夕方を待てないみたいだな」

カナタは白旗を取った。

「なら、こっちから終わりを持っていく」

教室を出たあと、ヨイは着き塔の屋上へ上がった。

黒い灯に最も近い場所。

風は発ち灯から外へ向かっている。

何も終わらない港では、風まで帰ってこない。

ナギがあとを追う。

「一人でいたい?」

「少し」

「じゃあ、少し離れる」

屋上の反対側へ座る。

近くもない。

聞こえないほど遠くもない。

ヨイは暮色旗を膝へ置いた。

「ナギ」

「うん」

「母さんへ、何て言った?」

「会ったとき?」

「七年ぶりに」

ナギは鈴の縁を指でなぞる。

「最初は、『母さん』」

「それだけ?」

「それしか出なかった」

「向こうは?」

「私の名前」

「おかえりは?」

「あと」

「ただいまは?」

「もっとあと」

ヨイは少し安心したような、困ったような顔になる。

「すぐ言えなくてもいい?」

「言いたくなったとき」

「母さんは、返してくれない」

「うん」

「記録の口が、おかえりって動いたら?」

「記録にある言葉」

「信じたらだめ?」

「信じてもいい」

「黒札なのに?」

「黒札だって分かったままなら」

ナギは言った。

「母さんが昔、そう言いたかったって受け取れる」

「今も?」

「そこは空ける」

「また空白」

「嫌い?」

「嫌い」

「私も」

「でも空ける?」

「返事がない場所へ、私の欲しい言葉を書かないため」

ヨイは黒い灯へ背を向けた。

「私は、おじいちゃんに言ってほしい」

「おかえり?」

「うん」

「レオンさんは、今いる」

「今いるのに、返事しない」

「それは、記録より難しいね」

二人は少し笑った。

屋上の階段から、足音。

レオンだった。

二灯旗を持たず、一人。

外套の金留めも外している。

灯主ではなく、疲れた老人に見えた。

「ナギ」

「はい」

「席を外してくれ」

ナギはヨイを見る。

ヨイが小さく頷く。

「階段の下にいる」

完全には離れない。

レオンは何も言わなかった。

孫の隣へ立つ。

レオンは座れない。座れば待ち終えたと体が誤解する気がして、十年、ヨイの隣で立ち続けてきた。

ヨイは袖の縫い傷を隠し、「座るほどではない」と言いかけた。けれど空いた段へ座る。祖父にも同じ場所を掌で示した。命令ではなく、今日の孫からの頼みだった。レオンはすぐには応じず、やがて片方だけの靴を脱いで腰を下ろした。

座らない。

「十四歳のこと、覚えてない」

ヨイが先に言った。

「脱出箱の中以外」

「あれも、灯の記録で見たものだ」

「自分の記憶じゃない?」

「お前は、箱の中で眠っていた」

「じゃあ、私の最初の記憶は?」

「港の診療所。俺の外套を掴んでいた」

「何て言った?」

「母さんを迎えに行け」

「おじいちゃんは?」

「行くと言った」

「十年、行ってない」

「灯の中へは入れなかった」

「道を開けなかったのは?」

「俺だ」

「どうして」

レオンは着き灯を見る。

「開ければ、セナの最後を見る」

「見たくなかった?」

「見れば、戻せると思った」

「どっち」

「両方だ」

老人の声が小さくなる。

「お前が『閉じないで』と泣いたとき、安心した」

ヨイの指が旗へ食い込む。

「私のせいにできたから?」

「自分の希望を、お前の言葉へ隠した」

風が二人の間を抜ける。

「じゃあ、今、やめる?」

「発ち灯が壊れる」

「式を」

「戻せる可能性を捨てられない」

「まだ、私のせい?」

「違う」

レオンはすぐ答えた。

「俺の選択だ」

「なら、私の選択も聞いて」

「母親を終わらせたいのか」

「私の帰航を終わらせたい」

「同じだ」

「違う!」

ヨイの声が屋上へ響く。

黒い灯が七音を返す。

まるで、二人の会話へ割り込むように。

「ほら」

レオンが言う。

「まだ返っている」

「今の質問に答えてない!」

「聞こえていないだけだ!」

「十年、同じ音しか出ない!」

「だから、今度こそ動かす!」

レオンは二灯旗を持っていない。

それでも、言葉は灯主へ戻っている。

「私が着いたって言ったら」

ヨイは繰り返す。

「何て返すの」

レオンの口が開く。

言葉が出ない。

母親の船を置いたまま、孫だけを迎えること。

それが裏切りに思える。

「言えない?」

「今は」

「いつ」

「帰航隊が――」

ヨイは立ち上がった。

「もういい」

「ヨイ」

「よくない。でも、青いほうは聞いた」

暮色旗を背負う。

「今は、言わない」

階段へ向かう。

レオンが腕を掴みかける。

掴まない。

「式を止める気か」

「私一人で止めない」

「では」

「町に聞く」

「時間がない」

「十年あった」

ヨイは階段を下りる。

ナギが待っている。

「聞こえた?」

「青いほうだけ」

「記録は?」

「七音」

「分けた?」

「うん」

ヨイは泣いていない。

泣く道まで、まだ終えたくなかった。

階段の下には、アサギがいた。

金旗を胸へ抱えている。

「灯主から、発路師を集めろと言われた」

「集める?」

「仕事だ」

「アサギは、式をしたい?」

「港を落としたくない」

「答えになってない」

「今までなら、それで十分だった」

アサギは金旗を見る。

「発路師は、行き先を決める。終わりは終路局が決める。そう分けてきた」

「終路局は十年、閉じてた」

「だから、俺たちが始まりを支えた」

「支えすぎた」

「分かってる」

初めて、アサギが認めた。

「でも、発ち灯が消えたら、外海の船が迷う」

「何隻?」

「現在、百四十二」

ナギが青い帳面へ書く。

「青札、あり?」

「航路灯へ、全部の位置信号がある」

「じゃあ、その人たちも数える」

「帰航隊だけじゃない」

「最初から」

ナギは言う。

「今いる人を数えず、過去だけで決めない」

アサギは二人を見る。

「大連灯式をしない方法があるのか」

「まだない」とヨイ。

「それで止める?」

「今の式が間違いだって分かってる」

「別の道がない」

「作る」と、階段の上からカナタの声。

いつからいたのか。

白旗を肩に。

ルゥ。

ザンバ。

全員そろっている。

「話、聞いてた?」

ヨイが訊く。

「途中から!」

「どこから」

「時間がない!」

「一番聞いてほしい前!」

「でも、別の道が要るんだろ!」

カナタは胸を張る。

「作る!」

「どうやって?」とルゥ。

「一緒に考える!」

「そこまでしかない!」

「一人で決めてない!」

ザンバが鼻で笑う。

「進歩としては認めてやる」

「一歩!」とナギ。

「俺の得意な――」

発ち灯が大きく軋んだ。

金色の亀裂が、球の半分まで走る。

階段も。

言葉も。

町の時間も、残り少なかった。

「七つの問いを作る」

ナギは七つの鈴を並べた。

「同じ音が返ることを、港全体へ聞かせる」

「証明になる?」とアサギ。

「少なくとも、青札には置けないことを、同じ場所で聞ける」

「そのあと」

「今いる人へ聞く」

ヨイはレオンのいる屋上を見上げた。

「今度は、逃げられない問いを」

外海の重さが、ゆっくり裏返った。

最初に、双灯樹の葉が上へ落ちた。

次に、港の水路が空へ昇る。

停泊船の錨索がたるみ、帆柱が発ち灯へ向かって傾いた。