第158話 第七章「終わりを決める会議」後編

顔を見たことはない。

「俺は、戻してほしくない」

会堂の何人かが振り向く。

「父さんを知らないから?」

ナギが訊く。

「知らない人に、父親の顔で帰ってこられたくない」

言葉が鋭い。

けれど、手は震えている。

「母は、毎年父の話を変えた。優しかった。臆病だった。歌が下手だった。高い場所が嫌いだった。それでも見張りになった」

名札の記録にも同じことが書かれている。

「俺が作った父さんは、話の中にいる。灯が見せる同じ動きへ、上書きされたくない」

「記録も残さない?」

「残す」

ユキトは即答した。

「俺が知らない父さんの記録だから」

「矛盾してるな」とカナタ。

「そうだよ」

男はカナタを睨む。

「知らない人を知りたい。でも、帰ってきたふりはしてほしくない」

「両方でいい」

カナタは白旗へ触れる。

「俺も父ちゃんの記録を本物みたいに聞いてる。でも、黒札だって言われると腹が立つ」

「どうするの」

「まだ分からん!」

「胸を張るな!」とルゥ。

「でも、混ぜない」

カナタは続けた。

「今は、そこまで」

ユキトは少しだけ肩の力を抜いた。

三人目は、ホタル舟の料理人アンの妹だった。

七十を越えた小柄な女。

名はメイ。

左右の脚の長さが少し違い、靴底の厚みも違う。星形の型は左手で抱え、右手で腰を支えた。

姉の店を完成させたいのではない。自分が選んだ子ども食堂を、自分の名で始めたい。それでもアンの型を使う。続きを継ぐことと、同じ店になることを分けるためだった。

「私は終えてほしい」

持ってきたのは、星形のパン型。

「姉が出る前に、帰ったら新しい店を出すと言った。私は十年、場所を空けた」

「店は?」

「今も空き地」

「使わないのか?」

「使ったら、姉が帰る場所がなくなる」

トマリギ島の話に似ている。

帰る場所。

しかし、誰かの帰還を待つため、今いる人の道を閉じ続けた場所。

「何をしたい?」

ナギが訊く。

「子どもたちの食堂」

メイはコハクを見る。

「学校が終わったあと、食べる場所がないから」

「学校、終わらない」とコハク。

「それも終える」

老女は笑う。

「姉の店ではなく、私の店を始める。パン型は使う」

「アンさんの続き?」

「違う」

メイは型を抱く。

「姉が帰ったら、別のパンを焼いてもらう」

「帰らなかったら?」

「私が焼く」

「終える?」

「空き地を待たせる道は、終える」

帰航隊そのものではない。

十年、家族が自分に課した待機路。

同じ事件から、別々の終わり方が生まれる。

会堂の隅で、トバリが一人ずつ記録した。

――エナ。帰航記録は保留。年ごとの傷入れを終了。

――ユキト。帰航再現を望まず。事故記録の保存を希望。

――メイ。空き地の待機路を終了。食堂計画を開始。

「家族の答えも、船ごとに一つじゃない」

ナギが七束の札を見る。

「一人ずつ違う」

「全員に聞く時間はない」

アサギが言った。

「だから、聞かずに式をする?」とヨイ。

「発ち灯が割れる」

「だから、戻す?」

「何もしなければ、港ごと落ちる」

アサギは苛立っている。

ヨイではなく、自分の答えが見つからないことに。

「お前は、灯主を止めたいだけだ」

「私は、私を見てほしい」

「それで六十九人を閉じるのか」

「閉じるって、死んだことにするんじゃない」

「帰る道をなくす」

「今の道は、十年前の景色しか運ばない!」

二人の旗が揺れる。

金色の朝。

暮色の夕。

どちらも、港に必要な色。

カナタが間へ入る。

「喧嘩するなら外!」

「なぜ」と二人。

「会堂の机は高い!」

「壊す前提!?」

ルゥが襟を引く。

「今は聞く!」

「聞いてる!」

「自分が話す順番を待ってる顔!」

「分かるのか!?」

「長い付き合い!」

アサギは金旗を下ろした。

「灯主は、十年前に一度、着き灯を閉じようとした」

ヨイが顔を上げる。

「聞いてない」

「誰にも言ってない」

「何があった」

ルゥが訊く。

アサギは会堂の床を指した。

書類に埋もれた一歩ぶんの空白。

「事故の七日後。帰航路を船ごと分け、記録へ移す予定だった」

「じゃあ、どうして」

「最後の確認で、ヨイが泣いた」

十四歳。

母の船を呼び続けた十四歳の娘。

「『母さんを閉じないで』って」

ヨイの顔から色が消える。

「私が?」

「灯主は、その場で式を止めた」

「覚えてない」

「覚えていなくてもおかしくない状況だった」

「でも、私のせい?」

「違う」

アサギは強く言う。

「十四歳の言葉へ、十年ぶんの決定を背負わせた灯主の責任だ」

ヨイは暮色旗を握りしめる。

「おじいちゃんは、私が望んだと思ってる」

「自分も望んでいた」

会堂の入口から、トバリが言った。

老いた終路守。

「セナはレオンの一人娘だ」

事故の日。

トバリは着き灯の終路弁を開こうとした。

レオンは発ち灯から帰航路を引き、船をもう一度動かそうとした。

二つの指示がぶつかり。

着き灯は、終わりと始まりの間で閉じた。

「俺も止められなかった」

トバリの手には、古い弁鍵。

鍵を握る指の爪脇は、血がにじむまでむかれていた。深呼吸で背中の傷が引き、言葉の途中だけ一人称が変わる。

「俺が開けられなかった」

床へ落ちた紙片を一枚拾ってから、謝る。十年続けた罰を、責任と同じものにしないため、鍵を渡す前に七隻の名を一つずつ読んだ。

十年、一度も回していない。

「灯主の命令だったからか」

ザンバが訊く。

「俺も待ちたかった」

「ヨイだけではない」

「誰も、一人ではなかった」

トバリは会堂の人々を見る。

「だから町全体で、終わらない朝を作った」

誰か一人を悪者にすれば、簡単だった。

レオンが間違えた。

ヨイが泣いた。

トバリが弁を閉じた。

アサギたちが出航を続けた。

家族が待った。

港の全員が、少しずつ《まだ》を選び続けた。

「標災は、持ち主一人から生まれない」

ザンバが言う。

「町全体の生き方が、形になる」

「まだ標災じゃない」とカナタ。

「なる前の顔だ」

暗い着き灯の表面を、白い筋が一度走る。

内側から、何かが指でなぞったように。

トバリは弁鍵をヨイへ差し出した。

「持つ?」

「私が決めるの?」

「一人では決めない」

「じゃあ、どうして私に」

「最後の弁は、帰ってきた者が回す」

ヨイは鍵を受け取らない。

「まだ、着いたって言われてない」

「自分では?」

トバリの問い。

ヨイは答えられない。

双灯港で十年、生きた。

それでも、帰航札では十四歳のまま。

「灯主が認めないと、着けない?」

ナギが訊く。

「家族だから」

「ヨイの足は?」

ナギはヨイの靴を見る。

消路師の仕事で擦れた底。

十年ぶんの港の傷。

「ここを歩いてる」

「でも、ただいまを言ってない」

「言う相手は、レオンだけ?」

ヨイは会堂を見る。

トバリ。

アサギ。

コハク。

ハコベ。

ミサキ。

トキハ。

十年の自分を知る町。

「分からない」

「今は、それを記録」

ナギは青い帳面へ書いた。

――ヨイ。到着の自己確認、未了。

ヨイは文字を見た。

「未了って、嫌い」

「空欄より、今が分かる」

「終えたい」

「何を?」

「十四歳の私が、ずっと箱の中にいること」

トバリの弁鍵を取る。

「でも、母さんの今を作らない」

会堂の外で、発ち灯が大きく軋んだ。

レオンが式を急ぐ音だった。

コハクは、授業の最後の頁を開いたまま眠っていた。

机へ伏せたまま、腰の下には二枚の座布がずれている。目を覚ますと最初に星豆を探し、「食べれば治る」と腰痛を子どもらしく片づけた。

終わりの字を学ぶ日でも、頁の隅にはユウと遊ぶ橋、酸っぱい実、夕方に食べたい蜜パンを描く。港の象徴だけにはならず、九歳の今日を欲しがっていた。

九歳。

双灯港で生まれ、夕方を見たことがない。

「終わったぞ」

カナタが言う。

コハクは目を開けた。

「何が?」

「今日の勉強」

「先生が来てない」

「だから終わり!」

「それは中止」とルゥ。

「同じだろ!」

「違う」

コハクは最後の頁を見た。

大きな空白。

下に、小さく《つづく》と書かれている。

「ここまで読んだら、最初へ戻る」

「次の本は?」とナギ。

「ない」

「書けばいい」

カナタが即答する。

「誰が?」

「お前」

「字、いっぱい知らない」

「俺もだ!」

「じゃあ無理」

「仲間がいた!」

「喜ぶ場所じゃない」とルゥ。

コハクはカナタの白い帳面を見る。

書ける文字が増えている。

カナタ。

第一歩号。

一から十。

今。

帰。

どれも大きく、少し傾いている。

「終わりって、どう書くの」

「ルゥ」

「自分で答えなさい」

「知らん!」

「胸を張らない!」

アサギが教室の入口に立っていた。

金色の旗を抱え、いつもの前向きな顔ではない。

アサギは右耳を塞いでいた。始業鐘が九度重なり、耳鳴りと吐き気が来ている。外套は帰る側の左肩へ掛けていた。

「鐘が近すぎる」

そう言って旗を持ち直すが、コハクは「顔も白い」と即答した。始まりを教える側が、授業の途中で座ることを受け入れる。子どもへ見せる失敗も、次の発路の一部になった。

《終》は難しい」

黒板へ書く。

「糸があって、冬があって――」

「多い!」

「じゃあ、《了》

二本の線だけの文字。

短い。

コハクが真似る。

一本目。

二本目。

最後で手が止まる。