第157話 第七章「終わりを決める会議」前編
六つ鐘が鳴った。
ごおん。
一日の最後の音。
村人たちは橋へ順番に手を触れた。
薬を運んだ人。
怪我人を背負った人。
喧嘩して、途中で引き返した人。
夜中に生まれた子どもを抱えて渡った人。
それぞれが、自分の道へ言葉を置く。
「ここまで、ありがとう」
「もう渡らない」
「孫へ話す」
「新しい橋を使う」
アカリは最後に入口へ立った。
熱で朦朧としていた十三歳の日。
空から落ちてきた薬箱。
苔玉へ刺さった少年。
あの日の自分が、橋の向こうにいる気がした。
「今度は、私が届ける」
古い板を外す。
橋は向こう岸から離れた。
落ちない。
何本もの保存索が支え、記録棚へゆっくり引かれていく。
《帰還路》の光だけが、一瞬、昔の橋を描いた。
『たまには帰れ』
アステルの声。
十年前の記録。
アカリは現標板へ書き足した。
誤線は消さない。赤糸で囲い、その横へ「記録音」と書く。正しい一本へ塗り替えれば、なぜ足を迷わせたかが次の案内役へ渡らない。
今いる自分の欄には、案内者、左利き、眩暈一回、判断継続可。管理する側も現在者の一人として数える。その一行を加えるまで、アカリは橋の終了札へ署名しなかった。
――記録音、確認。
その隣。
――青札、アカリ。
紙旗を連標網へ送る。
「カナタ」
今いる自分の声で言った。
「古い橋は終わったよ。村はなくなってない」
光の糸が上方へ走る。
天樹の枝を越え。
港を越え。
世界の果てから始まった船へ向かった。
双灯港の中央会堂には、時計がなかった。
会議を終える時刻を決められないからだ。
「着き灯を開く」
レオンは円卓の中央へ二灯旗を立てた。
旗を立てた右手は熱く、左の掌で古い焼け跡を押さえている。首はまっすぐなまま、孫を見るときだけ体ごと向きを変えた。
会議卓には朝食が置かれていたが、レオンの皿だけ手つかずだった。恐怖で胃が閉じる日ほど「今は数えなくていい」と言う。靴も片方しかきちんと履けていない。眠るとき片靴を残す十年の癖が、そのまま会堂まで来ていた。
「第七帰航隊を含む、すべての帰航路を発ち灯へつなぐ。道を再び動かせば、船は戻る」
「戻りません」
ナギが答えた。
卓上に、七十枚の札を並べる。
一枚目。
ヨイ。
二十四歳。
現在地、双灯港。
本人の返事、あり。
残り六十九枚。
名前。
年齢。
役目。
最後の記録、あり。
青札、なし。
「記録を動かせば、同じ到着を繰り返します」
「今まで、着き灯の中で止まっていた」
レオンが言う。
「動かせば、変わる」
「何を訊いても、七音しか返りません」
「灯の内側だからだ」
「外へ出しても、記録は新しい返事を作れません」
円卓の周囲に、帰航隊の家族が座っていた。
白髪になった夫。
母より年上になった娘。
生まれる前に父を失った青年。
誰も、六十九枚から目を離さない。
「それでも、姿を見られるなら」
一人の女が言った。
「一度だけでも」
「一度で終わらない」
ヨイが答えた。
「今の港には、終わらせる仕組みがないから」
「あなたは会えた」
女の声に、責める色が混じる。
「お母さんを見たのでしょう」
「記録を」
「同じよ」
「違う」
ヨイは膝の上で母の小旗を握った。
「違うから、残せるんです」
会堂の奥で、アサギが立ち上がる。
発路師見習いの金色旗。
小さな朝日が七つ、前へ並んでいる。
「発ち灯は、明日の灯替え潮まで保たないかもしれない」
「今夜だ」
ルゥが訂正した。
卓上へ、ひび割れた灯脈の図を広げる。
「着き灯に溜まった終路標力が、発ち灯へ逆流してる。二つを一気につなげたら、詰まったものが全部、出航路になる」
「なら、少しずつ」
レオン。
「誰の道から?」
トバリが訊いた。
老いた到着札係。
かつて終路守だった女。
「家族が多い順か。到着から長い順か。船の大きさか。灯へ近い順か」
「すべてだ」
「すべてを同時に始めたから、十年終わらなかった」
レオンの目が険しくなる。
「では、見捨てろというのか」
「終えることと、見捨てることを同じにするな」
ザンバが言った。
会堂の空気が冷える。
かつて黒旗で道を切った男。
誰より、その言葉を口にしにくい者だった。
「俺は、同じにした」
灰旗を卓上へ置く。
「続けられない道を、不要な道と決めた。終える前に、外から消した」
「だから何だ」
「お前は逆だ」
レオンを見る。
「終わった道を、失うのが怖くて続けている。向きが違うだけで、歩いた者の選択を奪っている」
レオンの指が旗竿へ食い込む。
「娘が、自分で死を選んだと言いたいのか」
「娘は、自分の船を止める道を選んだ」
「同じだ!」
「違う」
ヨイの声。
小さい。
しかし、会堂の端まで届いた。
「母さんは、私を着かせることを選んだ」
「お前だけだ」
「だから、私を数えて」
ナギの札を取る。
ヨイ。
現在地、双灯港。
「七十人のうち、一人は帰ってる」
「帰航隊は七隻だ」
「私は荷物じゃない!」
ヨイが初めて、円卓を叩いた。
「一人だけ降りたから、到着じゃないって言わないで!」
レオンは孫を見た。
十年前の十四歳ではない。
夕焼け色の髪。
働き傷のある手。
七つの灯のうち、最後がまだ空の旗。
視線を逸らした。
「大連灯式は行う」
立ち上がる。
「今夜、発ち灯が割れる前に」
「決めたのは誰だ!」
カナタが叫ぶ。
「灯主だ」
「歩いた人じゃない!」
「死者は決められない!」
「最後の命令がある!」
「生きて帰りたい者もいたかもしれない!」
カナタの口が止まった。
それも、否定できない。
六十九人が、全員同じ気持ちだったとは限らない。
セナの命令は、隊を救うための判断。
一人一人が、自分の道をどうしたかったかは分からない。
「分からないから、戻すのか」
カナタが訊く。
「分からないから、終わらせない」
レオンが答える。
会堂を出ていく。
家族の半分が続いた。
残り半分は、席に残った。
どちらも泣いていた。
「答え、出なかったな」
カナタが言う。
「会議は、答えを一つにする場所じゃない」
ルゥは図を畳む。
「違う答えがあるって、全員が知る場所」
「そのあと、どうする」
「道ごとに決める」
ナギは六十九枚の札を七つの船へ分けた。
「少なくとも、一つへまとめない」
連標網の端が光る。
アカリからの紙旗。
――薬師橋、本日六つ鐘で通行終了。
――記録と橋板一枚を保存。
――新しい薬師渡り、明朝から使用。
――今の村は、今日を終える。
カナタは何度も読んでもらった。
「なくなってない?」
最後の行を指す。
「村は続く」
ナギが読む。
「橋だけ終わった」
カナタは紙旗を握った。
遠い村では、今日が終わった。
この港には、まだ朝しかなかった。
会議が終わったあとも、会堂は空にならなかった。
レオンについていかなかった家族たちが、七つの船札の周囲へ残っている。
誰も同じ理由ではなかった。
最初にヨイへ近づいたのは、白髪の女だった。
名をエナ。
四十二歳。左手で十本傷の歯車を持ち、高い音は聞き取りにくいため、相手の唇と床の振動を同時に読む。決断前だけ寒くないのに一度身を震わせ、靴底を左右交互に三度こすった。
「昨日より軽い」
重くなった歯車について、そうごまかす。記録の夫を見たい願いが、今の自分の生活を止めることも知っていた。
ナナツボシ号の機関士リトの妻。
出航の日は三十二歳。
今は、名札に書かれた夫の年齢を十八も越えている。
「さっきは、あなたを責めた」
ヨイは答えない。
「姿を見られるなら、それでいいと思った」
「今も?」
「見たい」
エナは正直に言った。
「記録でも。偽物でも。声が同じなら、一度くらい」
「一度で終われない」
「分かってる」
「それでも?」
「十年、分かっていて待った」
女の手には、小さな歯車。
リトが出航前に外した、古い機関部品。
「これへ、毎年一つ傷をつけた」
十本の傷。
「今年でやめようと思っていた。来年になったら、十一本目をつける場所がないから」
「場所ならある」とカナタ。
「裏!」
「増やす話じゃない」
エナは少し笑った。
「帰航隊を閉じたら、この歯車は何になるの」
「出発前の歯車」
ルゥが答える。
「帰ってきた証にはならない。死んだ証にもならない。リトさんが、あの日まで使ったもの」
「それだけ?」
「それ以上にしたいなら、今いる人が新しい意味をつける」
「私が?」
「持ち主は今、あなた」
エナは歯車を掌で回す。
「工房へ寄付する」
「いいの?」とヨイ。
「同じ型の機関を直す見習いに使ってもらう。壊したら、また直す」
「夫の形が変わる」
「私も変わった」
女は名札へ触れる。
「でも、式で姿が出たら、たぶん追いかける」
「止める?」
「止めて」
ヨイは頷いた。
次に来たのは、若い男。
コウリの息子、ユキト。
父が出航したあとに生まれた。
ユキトは左利き。幼いころ銀片を抜く手術を受けた掌が、父の映像を見ると震える。顔を知らないからこそ、町の語る勇敢なコウリへ自分まで似せられることを怖がっていた。
記録を消したいのではない。高所が怖く、歌が下手で、頬の傷の理由さえ証言で違う父を、完成した英雄像にして自分の上へ置かれたくなかった。