第156話 第六章「セナの最後の命令」後編

終えた仕事。

眠るはずだった一日。

すべてが、最後の一歩を上げたまま止められている。

「本来は、着いた道をここで受け取る」

ルゥは黒い内壁を叩いた。

「受け取った標力を、発ち灯へ渡す。終わった道が、次の出発を照らす」

「終わりが、始まりの燃料?」

カナタが訊く。

「燃やすんじゃない。返すの。歩き終えたぶんを、次の誰かへ」

「四番目の旗みたいだな」

「似てる。でも、あれは途中を渡す旗。これは、ここまで歩いたって認めて渡す仕組み」

カナタはナナツボシ号を見た。

セナの手。

脱出箱の留め具。

戻る景色。

「じゃあ、母ちゃんたちの道を終わらせればいい」

言ったあと、自分で口を閉じた。

ザンバが片目を向ける。

「誰が決める」

「……歩いた人」

「ここにいるか」

「記録はある」

「記録は返事をしない」

ナギが鈴を七度鳴らす。

七音が返る。

同じ強さ。

同じ間隔。

「セナさんたちは、最後にもう答えてる」

ナギは金属板を見る。

「『進入を中止』『終路分離』『ヨイを到着させて』『灯を休ませて』。これは新しい質問への返事じゃない。でも、最後に自分たちで選んだ道」

「それを、レオンは聞かなかった」

ヨイの声は静かだった。

「聞こえなかったんじゃない。聞いたら、終わるから」

カナタは父の声を思い出す。

たまには帰れ。

十年前から、同じ調子で繰り返す声。

カゲノハ村の《帰還路》に残った記録。

「記録でも、その人の言葉だ」

「うん」

ナギは否定しなかった。

「だから消さない。でも、黒札と青札は重ねない」

「父ちゃんの声も?」

「同じ」

「たまには帰れって言ってる」

「十年前のアステルさんがね」

「今も言ってるかもしれない」

「そうかもしれない」

ナギは鈴を握った。

「でも、それを確かめるには、今いる人の返事を聞かなきゃいけない」

カナタは反論しなかった。

反論できないのではない。

今は、したくなかった。

ヨイが脱出箱へ手を入れる。

毛布の下から、小さな旗を取り出した。

セナの旗。

旗竿には七本の細い指示紐が結ばれていた。右手で操舵する人だったが、恐怖が強いと左手が先に動く。脱出箱の留め具にも左指の擦れ跡が残っている。

地図の北端だけを毎回内側へ折る癖。飲み残した水は一口ぶん。ヨイを幼い呼び名で呼んだという証言と、最後まで役職名で呼んだという機関記録は一致しない。

脱出箱を一度閉じたあと開け直した、と覚える者もいた。最初から迷わなかった、と書いた者もいた。固定された最後の命令の周りに、迷いと急ぎの痕跡が残る。セナを完全な自己犠牲の像へ整えないための矛盾だった。

七つの灯。

最後の一つだけ、黒い糸で横に消されている。

「母さんは、七隻目を出さないって決めた」

「逃げた?」

カナタが訊く。

「終わらせた」

ヨイは旗を胸へ抱いた。

縫い傷のある手首が旗の縁へ当たり、痛みで指が緩む。ヨイは握り直さず、両掌で包んだ。

母の選択を受け取ることと、同じ強さで再現することは違う。最後の一歩を自分で踏みたいという声も、勇敢だからではなく、十年間ほかの誰かに到着を決められてきたヨイの、震える所有権だった。

「ナナツボシ号を着き灯へ入れたら、ほかの六隻も引かれる。だから自分の船の道を、ここで切り離そうとした」

ザンバの灰旗が、わずかに揺れる。

「外から切られたのではない。自分で終点を置いた」

「うん」

「なら、俺の《終点》とは違う」

ザンバは自分へ言うように呟いた。

かつての黒旗。

他人の道を不要と決め、外から切った標術。

セナは、自分の船の道を、自分で終えようとした。

「ヨイ」

カナタが言う。

「お前は、どうしたい」

「最後まで押させたい」

セナの手を見る。

「箱を。母さんが、私を港へ出すところまで」

「そのあと?」

「私が降りる」

ヨイは自分の足元を見る。

「十年前の箱から。今の港へ」

ナナツボシ号の景色が、また戻る。

操舵輪。

箱。

留め具。

あと一歩。

「帰ろう」

ルゥが銀糸を引いた。

「外で、今いる人たちへ聞く。どの道を終えて、どの道を続けるか」

「レオンが聞くか?」

ザンバが訊く。

「聞かせる」

カナタが答える。

「大きく?」

ナギが訊く。

「今度は、順番に」

三人がカナタを見る。

「何だよ」

「少しは学んだ」とザンバ。

「少しだけね」とルゥ。

「一歩ぶん」とナギ。

「俺の得意なやつだ!」

カナタは胸を張った。

着き灯の内壁で、低い軋みが鳴る。

黒い球の外から、金色の光が染み込んできていた。

発ち灯の光。

まだ式の刻ではない。

「誰かが、もう二つの灯をつないでる」

ルゥの顔が険しくなる。

ヨイは母の旗を握った。

「灯主」

外から、始まりの鐘が鳴った。

終わる時刻を待てない人の音だった。

同じころ。

カゲノハ村では、六つ鐘が鳴ろうとしていた。

古い薬師橋の入口に、村人が集まっている。

橋と呼ばれてはいる。

けれど、向こう岸へ届く板は三枚しか残っていない。

途中は新しい根道へつながれ、最後の十歩は梯子で補われていた。

カナタがアカリへ熱冷ましを届けたころから、何度も直し、何度も閉じかけた道だった。

入口には、アカリが十三歳のときに書いた札がある。

――薬師橋、通行止め。

――根道を使うこと。

――鍋蓋による飛行、禁止。

「最後の一行、まだ要る?」

セノが訊いた。

「要る」

アカリは即答した。

「帰ってきた本人が、最初に読むかもしれない」

「読めるかな」

「数字よりは後に覚えたって、ルゥさんが書いてた」

アカリはへこんだ薬箱を足元へ置いた。

今では薬だけでなく、配達札、細い工具、返事用の紙旗まで入っている。

箱の横には、宛名札の輪郭を持つ黄緑色の旗。

アカリは左手で紙札を書き、人名の角を丸く切る。橋名の札は四角いまま。人と場所を同じ形へしないためだ。

谷の冷気で視界が一度白くなった。へこんだ箱を親指でなぞり、立ちくらみが治まるまでセノへ旗を預ける。「手順の中に休憩はない」と言いかけたが、自分の現在も隠さないと決め、現標板へ休止三十呼吸と書いた。

旅人を一度だけ正しい宿守へ案内したあとも、標術名は決めていなかった。

新しい《薬師渡り》は、少し離れた場所に完成していた。

幅の広い橋。

手すり。

夜でも見える苔灯り。

子どもでも、薬を濡らさず渡れる。

「古い橋を残したままでも、困らないんじゃないか」

村長が言った。

「困ります」

アカリは橋の入口へ《現標板》を立てた。

今日の日付。

現在の利用者、零。

危険箇所、七。

新しい迂回路、あり。

アカリは黄緑旗を抜き、紙札へ《薬師橋》と書いた。

旗は動かない。

場所の名だけでは、宛先にならない。

次に《マツバ》と書く。

それでも動かない。

「返事がないから」

アカリが小鐘を五回鳴らす。

新しい薬師渡りの向こうで、マツバ婆が杖の先を五回鳴らした。

「薬師渡り。今、ここ」

黄緑の旗が、婆のいる方角へ弱く傾いた。

古い橋の光は、そのまま残っている。

「道は作らない。古い住所を新しい住所へ直してもくれない」

アカリは旗を見た。

「現在図に名前があって、本人の返事がある相手へだけ傾く。帰る人の記憶が出した景色も越えられない」

「じゃあ、何の標?」

セノが訊く。

「宛先の標」

アカリは黄緑旗を掲げた。

「標術――《宛標》

宛名札の輪郭へ、細い黄緑の線が一度だけ走った。

「残ってると、帰還路がこっちを出します」

天頂門から伸びる淡い光が、古い橋の上に重なっていた。

アステルの《帰還路》

昔ここを歩いた人が帰ってくると、記憶の中の橋を足場にする。

十年前の丈夫な薬師橋。

十三歳のアカリが熱を出した日の橋。

今の崩れかけた橋。

三つが同じ場所へ重なり、足を迷わせていた。

「道をなくせば、記憶まで消えるのかい」

薬師の老婆が訊いた。

アカリへ熱冷ましを頼んだ祖母だった。

「消しません」

アカリは古い板を一枚、橋から外した。

縁に、鍋蓋が擦った丸い傷がある。

「この板と、橋の図と、使った人の名前を、配達所に残します」

「歩けなくするのに?」

「歩かなくても、ここまで道があったことは残せる」

セノが現標板の裏へ、細い銀線をつないだ。

連標網。

遠い第一歩号へ、現在の村の返事を送る道。

「終えるって、何て送る?」

「そのまま」

アカリは紙旗へ書いた。

――薬師橋、本日六つ鐘で通行終了。

――記録と橋板一枚を保存。

――新しい薬師渡り、明朝から使用。

少し考え、もう一行足す。

――今の村は、今日を終える。

セノが首を傾げる。

「村そのものを?」

「今日だけ」

「明日は?」

「続く」