第155話 第六章「セナの最後の命令」前編

引き出しが増え。

返事輪がついている。

「勝手に……」

ルゥの眉が動く。

「怒る?」

カナタが訊く。

「怒る」

「戻す?」

「戻さない」

「怒るのに?」

「私の机だった。今は、あの子たちも使ってる」

昔の机を見つめる。

「でも、この風車を作ったことは消さない」

白い帳面へ形を写す。

羽根の角度。

失敗した軸。

なぜ回らなかったか。

「四番目の旗」

灰青の小布が光り、風車の試作図を受け取る。

机そのものは、記録の景色へ残す。

今の机へ戻さない。

「帰ったら、セノへ見せる」

「怒りながら?」

「怒ってから」

「順番が大事だな!」

「主にあんたへ言ってる!」

次に現れたのは、トマリギ島の鐘だった。

ナギが母を探していたころの、小さな青銅鈴。

割れた縁。

向こう側から、二度の返事。

ちりん。

ちりん。

ナギは目を閉じる。

七年前の二音と、今の母の生活音が重なり、舌へ金属味が広がった。ナギは左耳を塞ぎ、ヨイへ言った。

「今の声に、工房の槌が三つ混じった?」

「二つ。あと、皿」

自分の耳だけで母を判定しない。聞きたい相手ほど、他人の確認を借りる。その不自由さを、弱さではなく手順として残した。

「これは記録」

「母さんの返事だったんだろ」とヨイ。

「うん。七年前じゃない。私たちが初めてつなぎ直した日の音」

「今の母さんは?」

ナギは現在鈴を鳴らす。

少し遅れて返事。

島の風。

工房の槌。

誰かが笑う声。

『ナギ。今日は南鐘を直してる』

同じ母。

違う日。

「昔の返事も、本物」

ナギは二つの音を別々の頁へ記す。

「青い鈴の声も、本物」

「どっちが大事?」

ヨイが訊く。

「今、道を決めるなら今」

「覚えていたいのは?」

「両方」

ヨイは七音のする奥を見る。

「ずるい」

「うん」

「私も、両方ほしい」

「持てる」

「母さんの今はない」

「今がないことも、記録とは別に持てる」

ナギは青い帳面を開く。

――セナ。白抜き札、未確認。

空欄を埋めない。

ナギの口には金属味が残り、左耳の栓は汗でずれていた。ヨイが無言で直す。代わりにナギは、ヨイの袖からにじむ小さな血へ青札を一枚置いた。

「座るほどではない」

「今の返事?」

ヨイは言い直す。

「痛い。でも歩ける」

母の空白を守ることと、今いる自分の傷を隠さないことが、同じ頁へ並んだ。

ヨイはその空白へ指を置いた。

「空いてるの、嫌い」

「私も」

「でも埋めない?」

「違う音で埋めたら、母さんの返事が来る場所がなくなる」

ヨイはゆっくり手を離した。

ザンバの前には、道がなかった。

黒い切断面だけが、空中へいくつも浮かんでいる。

喰路竜に食われた道ではない。

ザンバ自身が《終点》で切った道。

一つ目。

若い登枝士が、仲間と別の峠へ向かおうとした分岐。

ザンバは危険だと判断し、道を切った。

仲間は別の隊へ移り、二度と会わなかった。

二つ目。

負傷者を連れて下層へ戻る道。

頂を急ぐため、終点を置いた。

負傷者はほかの旅人に救われた。

その救助の返事は、この時のザンバには届いていなかった。

三つ目。

アステルがカゲノハ村へ戻る道。

天頂門。

黒旗。

灰色になる前の自分。

『門を進め』

過去のザンバが叫ぶ。

『村は捨てろ』

アステルは振り返る。

『息子に、帰る場所を残したい』

同じ景色が繰り返す。

ザンバは灰旗を構えた。

機巧の右腕が過去の切断面へ向き、生身の左手は下がったままだった。幻肢痛のせいで、ない指まで旗竿を握っている感覚がする。

以前なら痛みごと一振りで切った。今は椅子の小鍵を左手へ移し、今いる者から預かった物を落とさないことを先に選ぶ。過去を消さない判断は、武器を下ろすだけでなく、現在の荷を持つ仕事でもあった。

カナタが横へ来る。

「切るのか」

「切らん」

「終える?」

「俺が決める道ではない」

「お前の言葉は?」

過去のザンバ。

門を進め。

村は捨てろ。

それは彼自身が歩いた言葉の道。

「これは終える」

灰旗の石突を、自分の残照の前へ置く。

「アステルへ、同じ命令を繰り返す道はここまでだ」

黒い切断線が、初めて閉じる。

消えない。

過去の言葉として残る。

その隣に、今のザンバの道が生まれる。

謝る道。

帰る道。

まだ、どこにも着いていない。

「父ちゃんに謝る?」

カナタが訊く。

「記録へ謝っても、返事は変わらん」

「じゃあ、俺に?」

「それも違う」

「村?」

「今いる者へ、今の言葉を言う」

「何て?」

「決めていない」

「遅い!」

「十年より短い」

「どこかで聞いた!」

ザンバは薄く笑った。

カナタの前には、父の帰還路だけではなく、自分の足跡も現れた。

薬師橋を飛んだ日。

天頂門へ走った日。

トマリギ島へ三度戻った日。

すべての場面で、自分が先頭にいる。

光の中の自分は、どこでも右足を先へ出していた。古傷が痛む現在の足より、記録の少年のほうが速い。追いつこうとして、また先回りしたくなる。

けれど一つだけ、食卓の景色には立ったままの自分がいた。誰かが空けた席へ座ることのほうが、崖へ飛ぶより難しい。帰ったとき、村が自分なしで進んでいて、それでも一席を空けてくれることを望んでいる。その欲はまだ、誰にも言わなかった。

「格好いいな!」

「主に事故」とルゥ。

「全部、最初の一歩!」

「最後まで他人に踏ませてない景色も多い」

ルゥが指す。

カナタが光板を出し。

ルゥが継ぎ。

ザンバが分け。

ナギが返事を聞く。

それでも景色の中心には、いつもカナタ。

「船長だからな!」

「それだけ?」

「主人公!」

「何の?」

「俺の冒険!」

ヨイが首を傾げる。

「私の帰る道でも?」

カナタの口が止まる。

「今は、ヨイの道」

「じゃあ、先頭は?」

「ヨイ」

「最後の一歩は?」

「ヨイ」

「カナタは?」

「……手前まで」

白旗の光が一歩ぶん短くなる。

自分が最後へ着かない道。

誰かのために、途中で止まる一歩。

「できるじゃない」とルゥ。

「難しい!」

「まだ何もしてない!」

「考えるのが!」

着き灯の奥で、七つの音がまた響く。

今度は少し近い。

ナギが耳を澄ます。

「音の間に、別の振動がある」

「返事?」

ヨイが駆け寄る。

「機関音」

「生きてる船?」

「十年前の機関が止まる音」

ナギは目を伏せる。

「七音のあと、全部の炉が一度ずつ落ちてる」

七隻。

事故報告。

機関停止。

それでも帰航路だけが、十年間動かされ続けた。

「灯が、船を帰そうとしてるんじゃない」

ルゥが銀糸を内壁へ伸ばす。

「外から、帰れって引き続けてる」

「レオン」

ヨイの声が硬くなる。

暗い空洞の中央に、七隻の船影が見え始めた。

その周囲へ、外から金色の糸が何重にも巻きついている。

発ち灯から来る糸。

進め。

戻れ。

もう一度。

今度こそ。

始まりの力だけで、終わった船を動かそうとする道だった。

空洞の中央。

七隻の船が浮かんでいた。

白い旗艦。

六隻の小型船。

隊列を保ち、着き灯へ向かう最後の一歩を繰り返している。

「第七帰航隊」

ヨイの声が震えた。

先頭のナナツボシ号。

甲板に、一人の女。

長い髪。

夕焼け色の毛先。

背中に七つの灯。

「母さん」

ナギは鈴を鳴らす。

七音。

女は振り向かない。

今の問いに、答えない。

右手で操舵輪。

左手で、甲板脇の小さな箱を押している。

箱の窓には、十四歳のヨイ。

泣きながら手を伸ばす。

セナが留め具へ手をかける。

押す前に、景色が戻る。

操舵輪。

箱。

留め具。

また最初。

ヨイは母へ近づかない。

近づけば、十年前の自分と同じ場所へ重なる。

「ずっと、これ?」

カナタが訊く。

「十年」

ヨイの足元に、小さな脱出箱が置かれていた。

景色の中のものと同じ。

外板は焼け。

蓋には幼い手形。

箱の中に、古い毛布。

割れた水筒。

夕暮れ色の小さな旗。

そして、一枚の金属板。

文字が刻まれている。

ルゥが読む。

「第七帰航隊、着き灯への進入を中止」

次の行。

「帰航長セナ。全船へ、終路分離を命ずる」

最後。

「ヨイを到着させて。灯を、休ませて」

空洞の奥で、七音がまた鳴った。

今度は、帰る合図ではない。

七隻が最後に同時に打った、事故報告の記録だった。

ルゥは脱出箱の脇へ膝をついた。

銀鋲を一本、床へ。

二本目を、ナナツボシ号へ続く光路へ。

三本目を、着き灯の黒い内壁へ。

《継ぎ路》

三本の銀糸が伸びる。

一本は景色へ。

一本は箱へ。

最後の一本は、内壁を伝ってどこまでも広がった。

ルゥは目を閉じる。

「壊れてない」

ヨイが頷く。

「いっぱいなの」

「うん。道が着いたときに返すはずの標力を、一度も返してない」

銀糸の向こうから、何千もの小さな震えが返る。

到着した荷物。

届いた手紙。

帰ってきた船。