第154話 第五章「第七帰航隊の名簿」後編

ナギが一枚ずつ読む。

「名前」

「全部呼ぶの?」とアサギ。

「青札を確かめる」

「六十九人」

「一人ずつ」

「朝鐘までに終わらない」

「終わらなくても、呼んだところまで残す」

トバリが小さく頷く。

七枚を数え、八枚目へ触れた指がまた一枚目へ戻った。本人は気づいている。直そうとすると背中の古傷が引き、呼吸が浅くなる。

「七十人を、一つの七十にしない」

数え直しは罰の癖でもあり、名を飛ばさないための手順でもあった。ナギは止めず、七枚ごとに短い休み札を置いた。

「終路局のやり方だ」

「発路局では、船単位」とアサギ。

「出るときは、一隻に乗る」とトバリ。

「着くときは、一人ずつ降りる」

アサギは反論しかける。

言葉が出ない。

ナギは最初の名を呼ぶ。

「セナ」

暗い灯から七音。

「リト」

七音。

「アン」

七音。

名前が変わっても、音は同じ。

一人ずつ呼ぶほど、同じ音であることが重くなる。

十人。

二十人。

三十人目で、カナタが立ち上がった。

「俺も呼ぶ!」

「名前、読める?」

「聞いた!」

「今の人は?」

「リ――」

「ラシア」

「近い!」

「違う!」

「字が難しい!」

ヨイが名札を渡す。

「ラシア。母さんの副長」

「ラシア!」

七音。

「好きなもの!」

「干し梨」

ラシアの札には、右肩が少し下がる立ち姿と、高熱のあとに残った眩暈が記されていた。人の薬は必ず確認するのに、自分の薬包だけ忘れる。副長として完全だったのではない。

セナの苦い茶を嫌い、干し梨を甲板の左隅で食べ、笑うと一度だけ鼻を鳴らした。そうした好みがあるからこそ、同じ七音の中へ一人として潰せなかった。

「干し梨!」

七音。

「嫌いなもの!」

「セナの苦い茶」

「父ちゃんみたいだな!」

「知らない」

七音。

何を言っても、変わらない。

カナタは札を握る。

「聞こえてるなら、違う音を出せ!」

七音。

「一回でもいい!」

七音。

「返事しろ!」

七音。

暗い灯は同じ音を返す。

ナギがカナタの手から札を受け取る。

「怒っても、記録は変わらない」

「聞こえてないのか」

「今は、たぶん」

「じゃあ何で鳴る!」

「最後に鳴らしたから」

ヨイが言った。

全員がヨイを見る。

「母さんは、七つ鳴らした」

「いつ?」

「私を脱出箱へ入れる前」

ヨイは幼い札を握る。

「船が七隻いるって、港へ知らせる合図」

「じゃあ、帰航隊だ!」

「十年前の」

ナギが続ける。

「今の人数を聞いても、七隻の合図が返る」

トバリは目を閉じた。

「終路記録」

「まだ決めない」とヨイ。

「うん」

ナギは否定しない。

「灯の中で、最後まで聞く」

六十九人の名札。

青札は、まだ一人ぶん。

名簿の最後へ、トバリが空白の札を一枚置く。

「何の分?」とカナタ。

「帰航確認の言葉」

「誰が書く?」

「受け取る者」

ヨイは名札を見る。

祖父レオン。

十年間、書かなかった者。

着き灯の根元には、入口がなかった。

少なくとも、表から見える場所には。

ヨイは黒い到着塔の裏へ回り、壁に並ぶ札を三枚外す。

一枚目。

――点検中。

二枚目。

――点検、継続中。

三枚目。

――点検終了、未確認。

「どれが扉?」

カナタが訊く。

「全部」

ヨイは三枚を重ねる。

文字の隙間が、一つの鍵穴になる。

細い旗竿を差し込む。

壁が音もなく開いた。

「隠し扉!」

「到着塔の正規口」

「隠れてる!」

「十年使ってないから、表へ出なくなった」

「扉まで到着してない!」

「町に慣れてきたね」

「褒めてる?」

「全然」

中へ入るのは、カナタ、ルゥ、ザンバ、ナギ、ヨイの五人。

第一歩号は、アサギとトバリが預かる。

「船長がいないほうが安全」とアサギ。

「俺の船だ!」

「だから」

「納得できない!」

ナギは入口の現標板へ、五人の名を一つずつ書く。

船には四人ぶんの乗員席。

今は、船外に五人。

五人とも、同じ歩き方ではない。カナタは右膝を庇って最初だけ左足。ルゥは遠い段を片眼鏡で測り、痛む左手を工具帯へ預ける。ナギは右の鈴と左の耳栓を確かめ、ザンバは機巧腕で壁、生身の手で人数札を持つ。

ヨイは出口を三つ数え、袖の縫い傷を隠した。点呼は名前だけではなく、その人が今どんな体で歩いているかまで受け取る仕事だった。

数が違っても、誰かを欠員にしない。

「帰るときは?」とカナタ。

「五人」

「増えたら?」

「本人に聞く」

「減ったら?」

「探す」

「分かりやすい!」

「今だけ」

階段は、下へ続いていた。

双灯樹に下があるのかは分からない。

発ち灯の重さから離れるほど、足元が曖昧になる。

三十段目で壁が床になり。

五十段目で天井が背中へ落ち。

七十段目では、五人が階段の裏側を歩いていた。

「今、上ってる?」

「下りてる」とヨイ。

「体は上向き!」

「進行方向が下」

「どっちが正しい?」

「着いたら分かる」

「この町で、その説明は信用できない!」

ナギは十段ごとに、小さな鈴を置く。

一つ。

二つ。

七つ目でカナタが振り向く。

「帰り道?」

「現在地」

「二番目!」

「少し違う」

「最近そればっかり!」

「旗が増えたから」とルゥ。

「道が増えたから」とナギ。

「二人で同じこと言う!」

階段の先に、巨大な空洞。

着き灯の内側。

黒い球は空ではなかった。

無数の光る線が、夜の中へ詰まっている。

一本一本が、船や人の航路。

港へ向かい。

塔へ近づき。

あと一歩の場所で止まっている。

線の先には、小さな景色。

甲板で手を振る家族。

荷物を抱えた商人。

傷ついた帆を直す船員。

全員が、同じ動きを繰り返す。

最後の一歩へ足を上げ。

着く前へ戻る。

もう一度、足を上げる。

「道の記憶」

ルゥが銀鋲を一本、近くの光線へ当てる。

《継ぎ路》

細い糸が航路の端へ絡む。

「切れてない」

「じゃあ、つなげる?」

「閉じてる」

「切れてないのに?」

「道は最後まである。でも、最後を踏んだ記録だけがない」

銀糸を引く。

景色の男が一歩を上げる。

港の石畳へ着く直前。

光線が輪になり、男の足を同じ場所へ戻す。

「終わりを閉じたまま、始まりへつないでる」

ナギは近くの光へ耳を澄ます。

「青い鈴は鳴らない」

「全員?」

「この道は記録」

五つ鳴らす。

返るのは、到着直前に残った足音。

今の問いに変わらない。

カナタは別の航路へ白旗を向ける。

その先に、カゲノハ村の発着場が見えた。

昔の小さな桟橋。

今はない柵。

赤い上着のアステルが立っている。

『たまには帰れ』

「父ちゃん!」

カナタが走る。

ナギが腕を掴む。

「記録」

「道だ!」

「今の発着場じゃない」

「でも父ちゃんがいる!」

「同じ言葉しか言わない」

「知ってる!」

カナタは腕を振りほどきかける。

残照のアステルがもう一度言う。

『たまには帰れ』

問いを待たない。

カナタが何も言わなくても。

怒っても。

近づいても。

同じ。

その横。

新しい小さな光が五つ鳴った。

カゲノハ村の現在地。

アカリ。

旧薬師橋。

『今、ここ』

生きた返事。

古い発着場と、今の谷が同時に見える。

カナタは二つの間で立ち止まる。

白旗の端をつまみ、右膝へ乗りかけた体重を戻す。父の残照へ飛び込む声は、いつもの高い勢いではなく低かった。

アカリの今の声を先に聞くため、カナタは舌を噛むほど一拍待った。待ったこと自体が、父の記録より現在を軽く扱わない最初の動作になった。

「どっちも村だ」

「うん」とナギ。

「どっちも消さない」

「うん」

「同じじゃない」

今度は、カナタが言った。

ナギは手を離す。

カナタはアステルの残照へ一歩近づく。

触れない。

白旗も突かない。

「父ちゃん」

『たまには帰れ』

「今は、双灯港」

返事は変わらない。

「聞こえてない?」

変わらない。

「俺は聞いてる」

それだけ言い、今の五音へ顔を向ける。

『旧薬師橋、通行終了予定』

「一本は残せ!」

『青札なら、さっき返した』

「二本!」

『一』

「厳しい!」

声が返る。

今の村から。

カナタは少しだけ笑った。

着き灯の奥へ進むほど、道は個人の記憶に近くなった。

町の到着札ではなく。

歩いた人が、最後に何を見ていたか。

何を終えたくなかったか。

それが景色になって浮かぶ。

最初にルゥの前へ現れたのは、カゲノハ村の作業机だった。

出航前の形。

右側の角は丸く。

引き出しは二つ。

銀鋲の穴も、ルゥが開けた位置のまま。

机の上には、作りかけの小さな風車。

「置いてきた」

ルゥが呟く。

「何を?」とカナタ。

「風向きを測る機巧。第一歩号の帆へつけるつもりだった」

「つけよう!」

「今はもっといい測風輪がある」

「じゃあ、これは?」

「失敗作」

ルゥは机へ近づく。

遠くからは同じ机に見えた。片眼鏡を掛けて初めて、セノが削った右角と新しい返事輪が分かる。ルゥは怒り、同時に構造へ見入った。

銀鋲を抜こうとした左手首が痛みで止まる。直す権利を取り戻すためではなく、なぜ変えたか聞くために手を下ろした。「私の番ではない」と言いかけ、代わりに「負荷はどこへ逃がしたの」と質問した。

風車へ触れる。

羽根が一度回り、最初の位置へ戻った。

セノから届いた今の作業机の絵が、隣へ浮かぶ。

右側を半指削られ。