第153話 第五章「第七帰航隊の名簿」前編
朝見台は二倍の高さになり。
天頂門へ続く階段には休み場が三つ増え。
村の外から来た旅人のための宿が、枝の南側にできている。
ルゥの作業小屋には、別の名前が二つ書き足されていた。
セノ。
フィオ。
「ルゥさん、怒るかな」
セノが地図を覗く。
「机を使ってること?」
「右側を削った」
「怒る」
「やっぱり」
「でも、直した理由を聞く」
「聞いたあとも?」
「怒る」
「ルゥさんだ」
作業机は、ルゥが村を出たときのままではない。
低かった脚を伸ばし。
引き出しを増やし。
銀鋲の穴を、別の工具掛けに使っている。
中央には、セノが勝手に作った小さな《返事輪》。
各地から届く連標網の音を、木板の振動へ変える機巧だった。
「これも書く」
アカリは便りへ記した。
――ルゥの机、現状。
――右側を半指削った。
――理由、返事輪の取り付け。
――元へ戻す予定、なし。
「最後、強い」
「青札」
次はザンバ宛て。
これまでは《監視役へ》と書いていた。
アカリは筆を止める。
「名前でいい?」
「本人、嫌がりそう」
「だから」
――ザンバへ。
弁償札の宛名欄へ、アカリは初めて《監視役》ではなく本人の名を書いた。
――村長が、天頂門の古い切断跡を調べたいと言っています。
――弁償板は三枚増えました。
――帰るかどうかに関係なく、返事をください。
セノが笑う。
「帰るかどうかに関係なく?」
「返事はできる」
ザンバは、カゲノハ村を自分の故郷だと思っていない。
村人の多くも、彼が帰る者なのか、訪れる者なのか、まだ決められない。
だから、宛先だけを今の名前にした。
ナギへは、鐘の記録。
六つ鐘。
薬師橋の終路音。
新しい薬師渡りの返事鐘。
同じ村でも、三つは違う。
――古い音と、今の音を分けて保存してください。
最後はカナタ。
アカリは筆先を紙へつけたまま、しばらく動かなかった。
「何を書く?」
「村の変わったところ」
「全部?」
「読めない」
「ルゥさんに読んでもらう」
「カナタ、自分の話を始める」
「途中で?」
「最初の三行で」
二人は考える。
アカリは絵を描いた。
古いカゲノハ村。
現在のカゲノハ村。
二枚を並べる。
朝見台。
橋。
宿。
作業小屋。
天頂門の階段。
変わった場所を赤い線で囲む。
中央に、大きな文字。
――今。
「これなら読める」
「一文字!」
便りを連標網へ送る前に、アカリは一つ試したいことがあった。
帰還路の点検。
今までは、カナタやアステルの記憶に強く反応すると思われていた。
けれど薬師橋では、アカリ自身の昔の景色も重なった。
「帰る人が覚えてる形を読むなら、人によって違う」
アカリは村人を三人集めた。
マツバ婆。
セノ。
旅人宿に泊まる青岸の商人エル。
三人で、帰還路の入口へ立つ。
「帰りたい場所を思い浮かべて」
「今ここにいるのに?」とセノ。
「点検」
最初はマツバ婆。
金色の光へ一歩を置く。
現れたのは、三十年前のカゲノハ村だった。
薬師橋は石造り。
広場に、今はない古い井戸。
若いころの夫が、薬籠を背負って待っている。
「おや」
マツバ婆は笑った。
手を伸ばす。
夫の姿は同じ笑顔を返す。
「今、何歳?」
アカリが訊く。
返事はない。
「今日の薬師渡りは?」
返事はない。
記憶の夫。
帰還路が作った足場。
婆は手を下ろした。
「懐かしいね」
「戻りたい?」
「一日くらい」
「ずっと?」
「今の腰で、あの坂は無理だ」
笑って道を降りる。
景色は消えない。
記録棚へ薄く残る。
次はセノ。
現れたのは、カナタが出航した日の村だった。
第一歩号の試作船。
ルゥの古い机。
自分がまだ見習いにもなっていないころの作業小屋。
「机、削れてない」
「戻したい?」
セノは少し迷う。
「今のほうが使いやすい」
「ルゥさんへ言える?」
「便りで」
「本人の前では?」
「帰ってから考える」
最後はエル。
青岸から来た商人。
カゲノハ村に生まれていない。
帰還路へ立つと、現れたのは紫空の船団だった。
空の岸の向こう。
家族の舟。
折岸都市へ渡る前の港。
「カゲノハ村じゃない」
セノが驚く。
「帰還路は、村へ戻す道じゃない」
アカリは光の足場を見る。
「帰りたい人の、覚えてる場所を足場にする」
「じゃあ、カゲノハ村に来た旅人が使ったら?」
「昔の故郷が、ここへ重なる」
「便利?」
「危ない」
今の枝。
昔の別の土地。
二つの重さが一致するとは限らない。
エルの景色では、船の甲板が薬師橋の空白へ浮かんでいる。
一歩間違えれば、谷へ落ちる。
アカリは黄緑旗を外した。
紙札へ《セノ》と書く。
「返事」
セノが今いる根元を五回叩く。
黄緑の布は、現在図にいるセノへ弱く傾いた。
けれど、エルの紫空の船は消えない。
旗は今いる相手の方角を示しても、帰還路が出す記憶の景色を現在へ変えられなかった。
「旗が向いても、道は変わらない」
セノが言う。
「うん。名前と返事のある人を示すだけ」
「古い故郷を越えられない?」
「まだ」
アカリは二つの景色を重ねずに見た。
「帰る場所を見せる力が、今いる場所を隠すこともある」
アカリは現標板へ新しい注意を書いた。
――帰還路使用時、現在地の返事を必ず確認。
――記憶の景色だけを足場にしない。
――案内者一名以上。
セノが一行足す。
――鍋蓋飛行、代用不可。
「関係ある?」
「ある」
点検結果を双灯港へ送る。
第一歩号から、すぐ返事が来た。
『今の村の絵、見た!』
カナタ。
『変わっただろ』
『朝見台、でかい!』
『橋も』
『俺の着地場所は?』
『宿になった』
『壊してないぞ!』
『出航の日に柵を一枚』
『覚えてない!』
やはり自分の話へ戻った。
アカリは苦笑する。
「地図は?」
『見た!』
「新しい薬師渡りは、どこ?」
返事が遅い。
『昔の橋の上!』
「違う」
『似てる!』
「二本上」
『帰ったら分かる!』
カナタの頭の中では、まだ昔の村の形へ変換されている。
アカリは赤い線をさらに太くした地図を送り直した。
「帰ったら、じゃない」
『何だ?』
「帰る前に、今の村を知って」
向こうが静かになる。
ルゥの声が、地図を説明し始める。
カナタは時々、驚いた声を上げる。
作業小屋の増築。
新しい宿。
薬師渡り。
アカリが配達路を担当していること。
『俺がいなくても、道が増えた』
「当たり前」
『寂しいな』
意外な返事だった。
アカリは少し考える。
「帰ってきたら、増えた道を歩けばいい」
『俺が最初じゃない』
「二歩目、得意でしょ」
『まだ八番目は知らない!』
「何の話?」
ルゥが笑う声。
ザンバの低い咳。
ナギが現在時刻を記す音。
遠い船の今が届く。
アカリは便りの最後へ書いた。
――村は、待つだけの場所ではない。
――帰る人が知らない道も増える。
――それでも、青い応答はここにある。
紙旗を送る。
古い帰還路から、アステルの声。
『たまには帰れ』
今の連標網から、カナタの声。
『聞こえた!』
二つを別々の欄へ記録する。
同じ名前へ向かう。
違う時刻から届く声だった。
双灯港の終路局には、七十人ぶんの名札があった。
大きな板一枚ではない。
一人に一枚。
木。
銅。
布。
船員が出航前に自分で選んだ材質。
ナナツボシ号、十八人。
ユウナギ号、十一人。
ホタル舟、八人。
ツキミチ号、九人。
カサネ帆号、十人。
アカツキ号、七人。
コダマ号、七人。
合わせて七十。
最も小さい名札は、ヨイ。
十四歳。
夕焼け色の薄い木片。
今は二十四歳。
同じ札へ、背丈を足せば二枚ぶんになる。
「作り直す?」
トバリが訊く。
「残す」
ヨイは幼い名札を手に取る。
「今の札を増やす」
ナギの青い帳面から、紙を一枚切る。
――ヨイ。
――二十四歳。
――消路師。
――双灯港アケヨイ、暮梢。
――青札、あり。
古い木札の隣へ置く。
「二人になった?」
カナタが訊く。
「同じ人」とヨイ。
「札は二枚」
「時間が二つ」
「三番目?」
「今度は時間」とルゥ。
「旗の問題じゃない?」
「全部を旗へ戻さないで」
ほかの名札にも、短い記録がある。
セナ。
帰航長。
操舵の癖、右へ半指。
苦い茶を飲む。
ヨイが眠るまで、船腹を七回叩く。
リト。
ナナツボシ号の機関士。
左耳が遠い。
返事は右から。
アン。
ホタル舟の料理人。
塩を入れすぎる。
航海中、全船の子どもへ星形のパンを焼いた。
コウリ。
コダマ号の見張り。
高い場所が嫌い。
それでも一番高い帆柱へ毎朝登った。
コウリについては、証言が食い違った。妻は「高い所では歌ってごまかした」と言い、同僚は「音痴だから誰も近づかなかった」と笑った。頬の傷を勇敢な救助傷とする記録もあれば、低い梁へ自分でぶつけたという手紙もある。高所を怖がりながら見張りを選んだ。それ以上を一つの英雄像へ直さない。
リトの名札には、咳止めの空瓶と左手用の工具跡。機関を止めなかった勇者ではなく、「今止まるほうが危ない」と言い続け、休む判断を遅らせた若い機関士でもあった。
アンの星形パン型には、左親指のへこみと一本欠けた歯の噛み跡。塩を入れすぎた日も、子どもへ形の崩れた星を先に渡した日も残っている。
「人数じゃない」