第152話 第四章「古い声と、生きた返事」後編

――連標網外。

――固定七音。

――問いへの変化なし。

――分類、保留。

「いない、じゃない」とカナタ。

「うん」

「じゃあ、いるかもしれない!」

「だから白抜き。いないとも、生きているとも書かない」

「でも音はある!」

「音があることは書く」

ナギは黒い記録札を一枚取り、カナタの前へ置いた。

「アステルさんの声は、こっち」

中央廊下の空気が変わった。

カナタの手が白旗へ移る。

中央ではなく、布の端をつまんだ。後悔や不安があるときだけ出る握り方だった。

「父ちゃんは違う」

声は大きいのに、一音ずつ低くなっている。恐怖が強いほど低くなることを、ルゥは知っていた。反論の前に右膝が半歩出る。相手の言葉を聞くより先に、父の記録を守る位置へ体が入った。

「父ちゃんは違う」

「違う人。でも、音の置き場所は黒」

「記録じゃない!」

「生前に残った声」

ナギは言葉を選ばない。

選べば、混ぜるからだ。

「同じ呼び声。同じ息。同じ『たまには帰れ』。どんな問いにも、別の言葉は返さない」

「道になってる!」

「道に残ってる」

「同じだ!」

「違う」

ナギは自分の鈴を握る。

「母さんの青札は、七年で変わった。木の音が混じった。船が増えた。言葉を返した。今の場所が動いた」

「父ちゃんは、村にいる!」

「帰還路に残ってる。青札は置けない」

「それが、いるってことだ!」

カナタの声が大きくなる。

ナギは一歩も下がらない。

「黒札に置く」

「同じだ!」

「違う!」

今度の声は、ナギも大きかった。

鈴が震える。

「黒札にしたからって、消さない!」

廊下へ余韻が広がる。

「今いる人の青札と、重ねないって言ってる!」

カナタは口を開く。

言葉が出ない。

ザンバが壁へ寄りかかったまま言う。

「響路士の仕事だ」

ザンバは機巧の右腕を壁へつき、生身の左手をカナタへ向けた。止めるなら右。選ぶものを受け取るのは左。

金の光で幻肢痛が増し、椅子の脚を半指ずらした。自分もアステルの記録へ都合のよい続きを言わせた。だから助言者の安全な場所には立たず、痛みと加害の記録ごと会話へ残る。

「お前は父ちゃんを切ろうとした!」

「だから分かる」

「何が!」

「終わった道を認めず、現在へ引きずると、別の者を傷つける」

カナタはザンバを見る。

黒旗だった男。

アステルの選んだ最後を裏切りと呼び、帰還路を切ろうとした者。

「俺は認めてる!」

「何を」

「父ちゃんが村へ帰ったこと!」

「では、父親の旅は終わったか」

「続いてる!」

答えは早かった。

その早さが、自分でも少し怖かった。

ナギは七本の針を片づける。

「今は第七帰航隊」

カナタを責めない。

ただ混ぜない。

「灯の中で、黒札と青札を分ける。分からない音は、白抜きのままにする」

ヨイは暗い着き灯を見る。

「分けたら、母さんはどこにいるの」

「記録の場所」

「それは、いない場所?」

「いた道が残る場所」

ヨイは七音を聞く。

返事の代わりに、廊下の扉を数えた。三。窓は二。今いる人は五。母の音は七。

風眼鏡へ触れる指が三度目まで上がり、二度目で止まる。怖いと認める一歩手前。ナギの青い帳面へある空白を嫌いながら、母の名で埋めることもしなかった。

同じ。

十年前から変わらない。

「私が、返事したら?」

「今の返事になる」

「母さんの音へ?」

「ヨイの今へ」

ヨイは暮色旗を握る。

七つ目の灯は、まだ暗い。

双灯庁の外で、金色の発ち灯が一度大きく軋んだ。

亀裂から、始まりかけの光がこぼれる。

大連灯式まで、残り一日。

その夜。

カゲノハ村では、六つ鐘が鳴った。

一日の終わりを告げる音。

苔灯りが一つずつ強くなる。

朝見台の鏡が閉じる。

工房の炉は火を落とす。

畑から戻った人々が、今日使った道具を棚へ置く。

「終わり!」

セノがルゥの作業机の下から転がり出た。

髪に木屑。

片手に斜めねじ。

もう片方に、新しい橋板の図。

「まだ一本!」

アカリが図を指す。

「明日!」

「雨なら?」

「明後日!」

「配達路、明日から使う」

「じゃあ今夜!」

「六つ鐘が鳴った」

「一呼吸だけ!」

「ノクティルで覚えたこと、忘れた?」

「寝ながら作る!」

「もっと危ない」

アカリはへこんだ薬箱を肩へかける。

箱の中には薬。

白札。

小さな金槌。

箱の脇には、十四歳の授旗で受け取った黄緑色の道標旗。

中央には、文字のない宛名札の輪郭だけが浮かんでいる。

少し前、古い宿名を持つ旅人を、今日返事をした宿守へ一度だけ案内した。

それでも旗は道を作れず、相手が動けば古い場所を示したままになる。

標術名は、まだ空欄だった。

第一話でカナタが届けた箱は、今では配達人の道具箱になっていた。

アカリは左手で地図を書き、右手で薬を渡す。《書く手》《渡す手》を同じにしない。人名札だけは角を丸く切り、誤った道線は消さず赤糸で囲った。

冷えた谷へ出ると、初登場時の高熱以来の立ちくらみが来る。へこんだ箱を親指でなぞり、壁へ一度肩を預けた。自分の体調だけ記録から外す癖をセノに見抜かれ、現在札へ「案内役、眩暈あり」と書き足された。

二人が向かったのは、村の北側。

《薬師橋》だった。

正確には、橋があった場所。

正規橋は最初の喰路竜事件より前から枝蟲に食われ、補修を繰り返してきた。

今は細い根道と、アステルの《帰還路》が重なることで、かろうじて渡れる。

アカリが熱を出した日。

カナタは橋を使わず、鍋蓋で谷を飛んだ。

翌日、アカリは掲示板へ書いた。

――薬師橋、通行止め。

――根道を使うこと。

――鍋蓋による飛行、禁止。

その紙は、一年以上たっても配達小屋に残っている。

「新しい橋、明日開く」

セノが谷の上を指す。

古い道より二本上。

広い木橋。

荷車と人の道を分け、中央に返事鐘を置いてある。

カナタがいない間に、アカリと村の見習いたちが作った配達路だった。

「じゃあ、古い橋は?」

セノが訊く。

「閉じる」

「帰還路は出る」

谷の空白へ、金色の板が浮かぶ。

十年前の古い橋。

手すりには、今はない赤い傷。

歩けば渡れそうに見える。

けれど、今の枝へ支える杭はない。

踏めば落ちる。

「消す?」

「消せない」

「じゃあ、残す?」

「道としては残さない」

アカリは白札を一枚、今の根元へ打つ。

――旧薬師橋。

――通行終了。

――渡った記録、配達小屋へ保存。

「終了」

セノが文字を読む。

「終わり?」

「うん」

「カナタ、嫌がる」

「古い橋、好きだから?」

「飛ぶ場所が減る」

「そっち」

二人は少し笑う。

連標網の鐘が鳴った。

五つ。

遠い双灯港から、ナギの呼び声。

『カゲノハ村。青札の確認』

アカリは薬箱の底を五回叩く。

「アカリ。旧薬師橋。今、ここ」

『何をしてる?』

「古い橋を終わらせる準備」

しばらく返事がない。

その奥で、カナタの声。

『待て!』

「青札」

『閉じるな!』

「通れない」

『俺が直す!』

「いつ」

『帰ったら!』

「新しい橋、明日開く」

『古いのも使える!』

「踏んだら落ちる」

『未踏路!』

「毎回カナタを呼ぶ橋は、配達路じゃない」

『でも、俺が薬を届けた道だ!』

「道じゃなく飛んだ」

『同じだ!』

「違う」

いつもの言葉。

けれどアカリの声は、やわらかかった。

「箱は残ってる」

へこんだ角を叩く。

「掲示板も。古い板も一本、配達小屋へ置く」

『橋は?』

「歩く場所としては、ここまで」

『なくなる!』

「渡ったことは、なくならない」

連標網の向こうが静かになる。

セノは古い橋板の欠片へ、日付を刻む。

アカリは続けた。

「新しい道は、私たちが使う」

『俺の道じゃない?』

「二歩目からは、もうみんなの道だったでしょ」

返事が遅い。

遠い港で、ルゥが何か言っている。

ザンバの低い声。

ナギは急かさない。

その間。

帰還路の奥から、古い声が来た。

『カナタ』

同じ息。

『たまには帰れ』

今の問いを待たない。

橋が閉じる話にも。

カナタの返事にも、変わらない。

アカリは現標板の別欄へ書く。

――アステル記録。

――内容、変化なし。

その横。

――カナタ、現在応答あり。

――旧薬師橋の通行終了について、反対。

セノが覗く。

「反対も残す?」

「青札だから」

「決めるのは?」

「使う人」

アカリは谷の向こうに立つ薬師たちを見る。

配達見習い。

荷車役。

マツバ婆。

一人ずつ、古い橋を今も使うか訊いた。

全員が首を振る。

「カナタ」

『何だ』

「通行は終える」

『……おう』

「板は残す」

『全部!』

「一本」

『半分!』

「一本」

『二本!』

「弁償板も残す」

『何の!』

「鍋蓋飛行」

『それはいらない!』

「決まり」

セノが笑う。

六つ鐘の余韻が消える。

薬師橋の金色は、まだ消えない。

けれど今の人々は、新しい橋へ帰っていく。

アカリは古い声へも一度だけ答えた。

「帰る日まで」

変わらない『たまには帰れ』へ。

「今の村は、今日を終えるよ」

薬師橋を閉じる準備は、橋だけでは終わらなかった。

アカリは配達小屋の壁に、新しい地図を広げた。

カゲノハ村。

カナタが出発した日の地図ではない。

今の地図。