第151話 第四章「古い声と、生きた返事」前編
双灯港の子どもたちは、夕方を知らなかった。
空が暗くなる時刻は知っている。
星が出ることも。
けれど、それは朝が薄くなるだけだった。
仕事を終える鐘も。
家へ帰る合図も。
今日と明日の境目もない。
「最後の頁を開いて」
暮梢の小さな教室で、教師が言った。
九歳のコハクが本をめくる。
長く立つと腰の古い痛みが出るため、机の下には薄い座布を二枚重ねている。本人は「食べれば治る」と言い、教師の目を盗んで星豆を一粒ずつ食べた。
難しい問いをする一方で、頁の余白には橋遊びの絵と、今日食べたい蜜パンの数も書く。子どもの賢さを、町の議論だけへ貸し切らせないための落書きだった。
残り一枚。
指が頁の端へ触れる。
教室の始業鐘が鳴った。
ごおん――。
本は最初の頁へ戻った。
「また!」
コハクが机を叩く。
「今日は最後まで読むって言った!」
「続きから始めればいい」と教師。
「続きが最初になる!」
教室の子どもたちは、最初の一文を全員で読む。
声がそろっている。
十年間、同じ始まりを読んできた子どももいた。
卒業の頁を開けないまま、机が小さくなった者は、机を継ぎ足して座っている。
「本を後ろから読めばいい!」
窓から覗いたカナタが言う。
「入らないで!」
ルゥが襟を掴む。
「最後からなら終わる!」
「物語が分からない!」
「最初はもう知ってる!」
「途中!」
「そこをあとで読む!」
コハクは窓へ寄る。
「それ、やっていい?」
「だめ」と教師とルゥ。
「いい!」とカナタ。
「増やさない!」
ヨイは教室の入口へ暮色札を一枚置いた。
「今の授業、ここまで」
六つの灯が淡く光る。
始業鐘へ伸びていた線が、一呼吸止まる。
教師はその間に本を閉じた。
「本日の授業――」
言葉が出ない。
教師は十年間、その続きを言っていなかった。
「終わり」
コハクが先に言う。
教室が静まる。
何も消えない。
本も。
机も。
覚えた言葉も残っている。
「明日は?」
教師が訊く。
「最後の頁!」
「終わったのに?」
「今日の授業が終わっただけ!」
ヨイが少し笑う。
暮色札の光は、一呼吸で消えた。
正式な終路ではない。
それでも子どもたちは鞄を持ち、教室の外へ走った。
「どこへ行く!」
教師が叫ぶ。
「遊ぶ!」
「授業の続きは!」
「明日!」
教師は追いかけかける。
入口で止まる。
追わなくても、子どもは明日戻る。
そのことを初めて信じるような顔だった。
朝梢へ戻る橋の上で、アサギが待っていた。
「終路札を勝手に使うな」
「一呼吸」とヨイ。
「一呼吸でも、発ち灯の流れが減る」
「子どもが帰れた」
「明日また来る」
「だから終われた」
「続くなら、終わらせる必要はない」
「続くから、今日を終えるの」
二人の間へカナタが入る。
「どっちも同じこと言ってないか?」
「違う!」
また同時。
「仲がいい!」
「カナタ」
工具箱が飛ぶ。
今度はカナタが避ける。
アサギの胸へ当たる。
「俺に!」
「避けたから!」
「主に船長」とザンバ。
「今のはルゥ!」
暮梢と朝梢の間には、《双灯庁》が建っていた。
左右に同じ大きさの塔。
右は金。
左は黒。
中央の廊下だけが、色のない石でできている。
廊下の床には、一歩ぶんの空白。
以前は、帰航した船が最後の一歩を置く場所だった。
今は書類の山に埋まっている。
塔の中央で、一人の男が待っていた。
六十七歳。
白金色の髪を短く切り、濃紺の外套を金の留め具で止めている。
右手には、二つの灯を描いた標旗。
一つは金。
一つは青。
二つの間を、一本の線が途切れず結んでいる。
レオンは六十七歳。右手の指先だけが不自然に温かく、旗を握り続けた掌には古い標力焼けがある。恐怖が強い日は首をまっすぐ固定し、振り向く代わりに体ごと向きを変えた。
食堂から来たはずなのに、朝の皿へ一口も手をつけていない。胃が閉じることを「今は数えなくていい」と隠す。七音が鳴るたび、左の掌で右手の傷を押さえた。人前では娘の名を言えず、帰航長としか呼ばない日が十年続いていた。
「灯主レオン」
アサギが姿勢を正す。
ヨイは正さない。
「おじいちゃん」
「仕事中は灯主だ」
「帰航中の人に家族の呼び方を禁じる規則は?」
「お前は帰航確認前だ」
ヨイの顔から、わずかな笑みが消える。
レオンは第一歩号を見る。
札まみれの船。
片方だけの帆。
回転を止められた両面折岸舵。
最後に、カナタ。
「空の岸を越えた船が来たと聞いた」
「おう!」
「なぜ、その状態で誇れる」
「七回着いた!」
「一度も着いていない」
「港のせいだ!」
「否定しにくい」
レオンは金色の発ち灯を見上げた。
表面に細い黒い筋。
脈打つたび、光が一瞬弱くなる。
「残り二日」
ルゥの顔が変わる。
「何が?」
「発ち灯の寿命だ」
レオンは答えた。
「着き灯が暗くなって十年。出る道も、帰る道も、一つの灯で支えてきた」
「支えられてない」とヨイ。
「船は出ている」
「帰ってきてない」
「帰る道は残している」
「着かせてない」
「第七帰航隊を失わないためだ」
レオンの声が低くなる。
外海を示す。
双灯樹を目印に、何百隻もの船が通っている。
世界樹から世界樹へ。
星の根から雲の大陸へ。
金色の光が消えれば、それらの船は行き先を失う。
「二日後、《灯替え潮》が来る。外海の重さが反転し、二つの灯を同時に通る」
「暗いほうが空なら?」とルゥ。
「発ち灯の光が、着き灯へ流れきる。両方が消える」
「じゃあ、着き灯を直す!」
カナタは即答した。
「話が早い」
「困ってるんだろ!」
「条件を聞いて!」
ルゥが後頭部を叩く。
「条件は?」
「順番が逆!」
レオンは白旗を見る。
「《未踏路》で、発ち灯と着き灯の間へ道を作ってほしい」
ルゥの銀鋲。
「《継ぎ路》で二つの灯脈をつなぐ」
ザンバの灰旗。
「余分な道が暴れれば、《岐点》で分ける」
最後にナギ。
「《響路》で、第七帰航隊の位置を定める」
ナギはすぐに頷かなかった。
「今の返事がない」
「七音がある」
「記録かもしれない」
「記録なら、道がある」
「道があっても、人が今いるとは限らない」
「お前は母親を七年探したそうだな」
ナギの指が鈴へ触れる。
「返事があった」
「七音も返っている」
「違う問いに、違う音が返った」
「届く途中で変わることもある」
「同じ場所で、同じ強さ、同じ間」
ナギは青い帳面を開く。
「今の返事とは書けない」
レオンの目が細くなる。
「書けとは言っていない」
「道を定めろと言った」
「できないのか」
「しない」
小さな声。
けれど、アサギが息を呑むほど明確だった。
「分からないものを、いる人の場所として書かない」
レオンはしばらくナギを見る。
「では、灯の中で確かめろ」
ヨイが顔を上げる。
「入れるの?」
「点検路を開く」
「十年、閉じてた」
「外来の力がある今だけだ」
「大連灯式は?」
「明日の朝鐘」
「二日後じゃないの?」とカナタ。
「発ち灯の亀裂が早い」
レオンは外套の金留めへ手を置く。
「成功すれば、第七帰航隊は戻る」
ヨイの指が暮色旗へ食い込む。
「戻らなかったら?」
「戻る」
「また、それ」
「十年、ここまで保った」
「十年、終わらせなかった」
「終わらせれば、戻れない」
「私は帰ってきた!」
ヨイの声が中央廊下へ響く。
「一人だけ降りた」
「だから、私まで着いてないことにするの?」
レオンの口が閉じる。
「私が着いたって言ったら、何て返すの」
長い沈黙。
金色の発ち灯が脈打つ。
暗い着き灯から七音。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
レオンはそちらを見た。
「帰航隊が戻ったときに言う」
ヨイは暮色旗を下ろす。
七つ目の灯は、暗いままだった。
第一歩号の響路台は、双灯庁の中央廊下へ移された。
ナギは七本の針を円へ並べる。
帰航隊の七隻。
ナナツボシ号。
ユウナギ号。
ホタル舟。
ツキミチ号。
カサネ帆号。
アカツキ号。
コダマ号。
一本ずつ、船名を読む。
七本とも、暗い灯へ細い振動を返す。
ただし、音はすべて同じ七つだった。
「一隻ずつ呼ぶ」
ナギが鈴を鳴らす。
「ナナツボシ号」
七つ。
「ユウナギ号」
七つ。
「コダマ号」
七つ。
「全部同じ場所?」とカナタ。
「同じ記録へつながってる」
「一つの船団だから」とアサギ。
「なら、船ごとの返事がない」
ナギは針を一本ずつ離す。
「名前」
七つ。
「今の人数」
七つ。
「ヨイは何歳」
七つ。
ヨイの肩が僅かに動く。
「十四歳って言うかもしれない」とカナタ。
「音は数字じゃない」とルゥ。
「七なら分かる!」
「全部七!」
ナギは次の問いを選ぶ。
「今日の空の色」
七つ。
双灯港の空は金色と黒。
十年前の事故の日は、青と夕焼けだったという。
返る音は変わらない。
ナギは青い帳面へ書き、響路台の縁へ三枚の札を置いた。
黒い記録札。
問いを変えても同じ形を返す、過去に残された音。
青い応答札。
呼びかけに合わせて変わり、今の場所や時刻を返す声。
そして、白抜きの保留札。
音はある。けれど、記録とも生きた応答とも、まだ決められないもの。
七本の針を、白抜きの保留札へ置く。