第150話 第三章「到着札三千二百枚」後編
九年の帆を畳む段になると、逆に説明が長くなった。折り目の順、紐の向き、棚の湿り気。別れ際ほど言葉が増える男だった。本当は、自分がいつも船を見送る側ではなく、新しい船の出航を誰かに見送ってほしかった。
帆には九年ぶんの補修跡。
白。
青。
金。
直すたび別の布を足したため、第一歩号より派手だった。
「船は?」
ナギが訊く。
「三年前に解体した」
「じゃあ、渡せない」
「新しい船へ使う」
「どの船?」
「まだない」
カジは帆を下ろさない。
「この補修路は、終える?」
ヨイが訊く。
「終えたら、船を作る理由がなくなる」
「補修路と、造船路を分ける」
ルゥは二枚の札を用意した。
一枚目。
――旧主帆、補修完了。
二枚目。
――新船建造、未着手。
「未着手って、始まってない!」
カナタが目を輝かせる。
「今から始める!」
「工房主が決める」
カジは完成した帆を見上げる。
「明日、骨組みを選ぶ」
「今日じゃないのか!」
「今日は、この帆を畳む」
九年間、広げたままだった布を、職人たちが端から折る。
一折り。
二折り。
最後まで畳むと、補修札へ《完》が浮かんだ。
帆は消えない。
工房の棚へ収まる。
空いた床に、新しい船の原図を広げる場所ができた。
「終えたら、始める場所が空いた」
カナタが言う。
「最初から、それを説明してる」とルゥ。
「今、見た!」
「見ないと覚えない!」
「見れば覚える!」
「三割!」とナギ。
「低い!」
二枚目は、暮梢の宿屋。
――《客室七号、滞在延長》。
客はもういない。
八年前に、別の土地へ住むと手紙が来た。
それでも部屋は、毎朝「一泊目」へ戻る。
宿主のフウは、寝台を整え続けていた。
四十九歳。古い肋骨の折れ跡があり、笑うと右脇をそっと押さえる。物は左手で扱うのに、人へ触れるときだけ右手を使う。帰ってきた客と記憶の中の客を、手の使い方で分けていた。
両手の指を鳴らす癖があるが、左の小指だけは最後まで鳴らさない。七号室の客が帰るまで残しておく、意味のない約束だった。湯呑みは卓の中央ではなく、いつも二指ぶん右へ置く。
「戻ってきたときの部屋が要る」
「帰る場所?」
カナタが訊く。
「そう思っていた」
フウは窓を開ける。
部屋には、旅人が残した小さな青い靴。
「でも、あの子は今、海辺の町で靴屋をしている。家族もいる」
「じゃあ、その町が帰る場所?」
「ここも、帰れる場所でいたい」
「部屋を空けたら、帰れない?」
「ほかの客を泊めたら、あの子の場所を取る気がして」
カナタは部屋を見る。
使われない寝台。
閉じた窓。
八年、誰も眠らない場所。
「トマリギ島の二番旗は、部屋を一つ空け続ける旗じゃない」
ナギが言った。
「帰る場所を、今いる人が覚えて返す旗」
「部屋が変わっても?」
「島も変わった。私も変わった」
「帰れる?」
「帰った。そこから、また出た」
フウは青い靴を手に取る。
今の持ち主には小さすぎる。
「これは残す」
「部屋は?」
「七号室の長期取り置きを終える」
宿札へ《了》。
寝台の敷布を外す。
窓を大きく開ける。
外の朝風が入った。
「次の客は?」
「今夜から」
「夜はないぞ」
カナタが言う。
「だから困ってる」
フウは初めて笑った。
三枚目は、終えないほうがよい道だった。
――《外海灯台、修理中》。
修理工の返事は、現在あり。
灯台は今も壊れている。
「終える?」
ヨイが訊く。
「終えない!」
修理工たちが一斉に答えた。
「でも、今日の作業は?」
「六つ鐘まで」
「この港、六つ鐘が何度も鳴る」とカナタ。
「じゃあ、手元の砂時計一つぶん」
「短い!」
「休んだら、次の砂」
作業全体を終えない。
今日の区間だけを終える。
ヨイは大きな灯台札の下へ、小さな作業札を何枚も並べた。
――北面の亀裂、ここまで。
――火口輪、三分の一。
――次の担当、ミク。
十九歳のミクが、呼ばれる前から灯台札の脇に立っていた。汗で工具が滑るため、両手へ白い粉をはたいている。左頬には、緊張したときだけ出る小さなくぼみ。
「北面の亀裂、どこまでですか」
一度答えてもらっても、不安になると同じ言葉を一字も変えず訊き直す。それを臆病と笑われてきたが、受け渡しでは同じ問いが事故を一つ減らす。気難しい前任者と初めて一件を完了させ、自分の名が《次》ではなく《担当》へ移る日を望んでいた。
「四番目の旗だな」
ルゥが灰青の小旗を取り出す。
《次稿》の頁へ、作業位置を写す。
「終える範囲を小さくすれば、途中を渡せる」
「小さくしすぎたら?」とカナタ。
「一歩も動かない」
「大きすぎたら?」
「全部を一人で抱える」
「ちょうどいい範囲は?」
「やった人が、次の人へ説明できるところまで」
「難しい!」
「だから相談する!」
四枚目は、終えてはいけない約束だった。
――《再会橋、待ち合わせ》。
二人の子どもが、橋の両側で待っている。
一人はコハク。
もう一人は、朝梢のユウ。
ユウは橋の揺れに弱く、待っているだけで顔色が青くなっていた。「次の鐘まで持つ」と言い張り、欄干へ片手を置く。
説明を始めると必ず「要するに」と言うが、そのあとが一番長い。コハクと会えたら公平に菓子を半分ずつ、ではなく、自分は酸っぱい実、コハクは甘い豆を選びたい。子どもの再会は、きれいな半分分けだけではなかった。
二人は毎日、同じ橋で遊ぶ約束をした。
着き灯が暗くなった日から、橋へ着く直前に道が戻る。
十年間ではない。
二人が生まれる前から続く未了路へ、最近の約束が巻き込まれていた。
「終わらせる?」
トバリが訊く。
「やだ!」
二人が同時に叫ぶ。
「じゃあ、道を分ける」
ザンバが灰旗を振る。
古い帰航路。
今日の待ち合わせ路。
黒い点が間へ入る。
「《岐点》」
二つの道が別々になる。
古い道は記録棚へ。
子どもたちの道は、現在の橋へ。
「カナタ」
ルゥが言う。
「最後の一歩を出さないで」
「分かってる!」
カナタは橋の手前まで、光板を一枚だけ出す。
最後はコハクとユウが、自分で跳んだ。
橋の中央へ着く。
「会えた!」
「明日も!」
三番旗の銅色が淡く光る。
再会する場所。
約束は終えない。
今日の待ち合わせだけは、着いた。
「一つの札でも、終えるところと続けるところがある」
カナタは腕を組む。
「札が悪い!」
「読み方!」とルゥ。
「字が多い!」
「覚えなさい!」
五枚目は、持ち主が死んでいた。
――《薬師クスハ、帰宅路》。
クスハは四年前、港の病床で亡くなった。
帰宅路だけが、毎朝診療所から家へ伸びる。
家には娘のミイが住んでいる。
クスハが最後に診療所で言った言葉は、「今日は帰るね」だった。廊下を急ぐ足音を覚えている者もいれば、病床から立てず笑っただけだと言う者もいる。左利きを右へ直された薬師で、薬包だけは左で折った。古い肋骨の傷を家族に隠し、帰れない日に限って元気な声を出した。
記録はそこで止まる。今の問いへ新しい返事はしない。
ミイは三十二歳。右手で札を持つが、父の話になると感覚の鈍い左前腕が先に上がる。「誰かよりはまし」と自分の寂しさを小さくし、怖いときは同じ質問を同じ言葉で繰り返した。
道を消せば父の足音まで消えそうで、終路局へ届けられなかった。
「今の返事は?」
ナギが訊く。
「ない」
「最後の記録は?」
「『今日は帰る』」
「帰れた?」
「その夜、診療所で亡くなった」
カナタは道を見る。
夕方を知らない港で、父の帰宅が毎朝始まり続ける。
「帰れなかった道」
「うん」
「終えたくない?」
ミイは首を振る。
「終えたい。でも、家へ来なかったことにしたくない」
「来なかった」
ザンバが言う。
ミイの顔が強張る。
「だから、残す」
灰旗の石突で、道の終わりを示す。
「診療所まで歩いた。家へ帰ろうとした。家には着かなかった。三つを同じにするな」
四番旗の頁へ、最後の言葉を記す。
五番旗で、現在の娘を数える。
ヨイは帰宅路の終わりへ暮色札を置く。
「この道は、診療所でここまで」
ミイが最後の一歩を踏む。
「父さん。帰れなかったことも、覚えてる」
道は消えない。
家へ向かう淡い線として、記録へ残る。
毎朝、歩き始めることだけをやめた。
ミイは父の足音が聞こえなくなった廊下で、しばらく立っていた。
「静か」
「嫌?」
ヨイが訊く。
「寂しい」
「戻す?」
ミイは首を振った。
「寂しいままにする」
その答えを、誰も直そうとしなかった。
札を整理するほど、カナタの声は少しずつ小さくなった。
何でも《全部助ける》では決められない。
終えることが救いになる道。
続けることが必要な道。
分からないまま保管する道。
同じ人の中にも、三つがある。
「船長」
ナギが呼ぶ。
「今の返事」
「いる」
「疲れた?」
「少し」
「続ける?」
カナタは札の山を見る。
昨日より低い。
それでも、まだ遠い。
「あと十枚」
「十枚で全部終わらない」とルゥ。
「今日の分!」
トバリが板へ書く。
――本日の目標、十枚。
「終わったら?」
「飯!」
「それは次の始まり」とヨイ。
「いい終わりだ!」
十枚目を終えるころ。
カナタは、自分から札を机へ置いた。
「今日は、ここまで」
暮色札が淡く光る。
白い火は次へ移らない。
札の山は残る。
明日の一枚目を待って。