第234話 第九章「十重返雨式」後編

「一歩手前!」

終路鐘が呼応する。

からん――。

未踏路の先へ、小さな終わり。

ここまで。

その先は、まだ誰の一歩でもない。

余滴窪では、アマネが十一人家族の家へ着いた。

祖母は屋根の上。

上昇する黒雨池へ、縄を結んでいる。

「降りて!」

「池が飛ぶ!」

「人が先!」

怖さで視野が祖母と黒雨池だけへ狭まる。アマネはすぐ動かず、家の出口二つ、屋根の人一人、地下の返事二つを声に出して数えた。

「祖母さん。人を先にする? 池の札を先に渡す?」

「私が踏む。池は渡す」

救助を、相手が自分で踏む一歩ごと奪わない。アマネは手を出しながら、選択の返事を待った。

「薬雨が入ってる!」

どちらも正しい。

アマネは旗を出す。

十個の雫。

九つだけ光る。

「受け皿」

母の模型を思い出す。

上枡は空ける。

今は、人を乗せる場所。

「標術――」

何も出ない。

輪郭だけ。

「気合い!」

遠く、カナタの声が響路を通る。

「最後!」

「今!」

アマネは空色の旗を屋根の横へ突く。

一歩分の薄い水面が生まれかける。

祖母が足を伸ばす。

水面は沈む。

「足りない!」

ナギが二歩目に入る。

響路旗の波を、水面の後ろへ置く。

「現在の返事を支点にする!」

「祖母、返事!」

「ここ!」

一音。

水面が少し固くなる。

アマネが手を伸ばす。

祖母が踏む。

一歩。

屋根から離れる。

黒雨池は上へ引かれる。

「池!」

祖母が振り返る。

「次へ渡す!」

アマネは池へ札を投げる。

――由来、黒雨。

――現在、上昇中。

――受取、ミズハ・イツキ。

地下の二人から返事。

『受け取る!』

池を全部、自分で守らない。

旗を持つ左手が震え、受け取った物を胸へ寄せる癖が出る。それでも黒雨池を抱え戻さない。母の遺したものも、町の雨も、自分一人が守らなければ消えるという思い込みを、二人の返事へ預けた。

人を助け。

水は次へ。

余滴窪の未確認がゼロになる。

「全員、現在!」

ナギが返雨塔へ送る。

塔頂。

カナタが叫ぶ。

「余滴窪、全員いる!」

カサネの旗が一瞬揺れる。

「なら、式を進める!」

「待て!」

「何を!」

「空枡!」

アマネの小さな水面。

人一人を受けただけ。

返雨塔の十雨を受けるには小さい。

「俺が二歩目!」

カナタは白旗を、塔ではなくアマネの水面の後ろへ向ける。

「標術――《未踏路》! アマネの次!」

一枚。

二枚。

空枡の輪郭が広がる。

ルゥの銀糸が、十本の雨路をその周囲へつなぐ。

ザンバの黒点が、内と外を分ける。

ナギの十一鈴が、誰の雨かを保つ。

「もう一呼吸!」

ルゥが叫ぶ。

カサネは青黒い渦を見る。

天攫潮が大地の湖を持ち上げる。

一ノ桁の苗が倒れる。

患者の水筒が空になる。

「待てない」

「一呼吸!」

「十年前も、そう言った」

カサネの声は、自分へ向いていた。

けれど、旗は上がる。

「最後の一歩は、私がつなぐ!」

「それ、誰の一歩だ!」

「逆雨原全体のだ!」

紺青の線が、空けた場所へ伸びた。

カサネの《同量》が、十本の雨路を掴んだ。

器だけではない。

中身まで。

多い流れから削り。

少ない流れへ足す。

薬雨。

苗雨。

響雨。

塩雨。

すべてが同じ透明へ近づく。

「やめて!」

ルゥの銀糸が色を保とうとする。

「今そろえなければ、全路が裂ける!」

「空枡ができる!」

「完成していない!」

「完成させる!」

「天攫潮は待たない!」

カサネは旗を返雨塔へ突き立てた。

「標術奥義――《万滴一雨》!」

十本の雨路が一本の巨大な水柱になる。

ルゥの十本の銀糸も束ねられる。

ナギの十音が、一つの大鐘へ押し込まれる。

ザンバの二つの黒点が重なる。

カナタの一歩手前を、紺青線が越える。

「ここまでだ!」

終路鐘が鳴る。

からん――。

しかし、万滴一雨は終わりを続きへ変える。

空枡の手前を越え、返雨塔の中心へ入る。

巨大な雨粒。

町一つを包むほど。

上へ向かっていた重さが、下へ返る。

「降った!」

カナタが笑う。

最初の雨が一ノ雨桁へ。

二ノ桁。

十ノ桁。

人々の歓声。

「全部、助かる!」

「違う」

ナギの声が小さい。

十一個の鈴のうち、十個だけが鳴っている。

余滴窪の鈴は、音を返さない。

大返雨は、正式十雨路だけをなぞる。

余滴窪へ降らない。

黒雨池。

九本の柱の家。

十一人家族。

そこだけ乾いたまま。

さらに、返雨の色が消えている。

一ノ桁の苗へ、薄い塩。

三ノ桁の薬園へ、炉雨の熱。

八ノ桁の灯雨は光らない。

「カサネ、術を切って!」

「切れば雨が散る!」

「もう散らす場所が違う!」

巨大な雨粒の中で、十個の透明な輪が回った。

一。

二。

十。

輪の中央に、同じ大きさの雨玉。

十本の脚。

同じ長さ。

同じ歩幅。

額には一本の縦線。

口は丸い空洞。

二つが重なり、巨大な《十》になる。

口の縁から、透明な舌が十本伸びた。長さは同じではない。九本が雨枡の縁を順に触り、最後の一本だけ空の枡へ遅れて入る。体表には小さな枡目の鱗。異なる滴を舐めるほど、鱗は均等な十区画へ並び直された。

人間の「余り」を憎んでいるのではない。水量差と空き枡の標力を餌として追う生物だった。《同量》の制度が町じゅうへ作った同じ匂いに、巨大化した個体が寄ってきたのだ。

ザンバが灰旗を抜く。

「標災」

ナギの一つになった鈴が、白い文字を読む。

――余りなし。

《十全獣アマリナシ》

獣が一歩を踏んだ。

どおん――。

十本の雨桁が、同じ高さへ引かれ始めた。

アマリナシの二歩目が下りた。

四つ鐘ごとに一度、十舌が空枡を確認する摂食周期があるらしい。今は天攫潮の強い匂いで周期が縮み、二歩ごとに舌が動く。大きさの違う雨玉へ順番に噛みつき、腹の十室へ吸い込む。

次に吐き出すときは、薬雨も飲雨も同じ大きさの透明球になる。思想の罰ではなく、生態としての均等化。それゆえ、説得では止まらない。餌場を変えなければならなかった。

どおん――。

一ノ雨桁の畑が、二ノ雨桁と同じ幅へ切られる。

三ノ雨桁の薬園から、色の違う花壇が消える。

四ノ雨桁の炉。

五ノ雨桁の染場。

十個ずつ。

同じ大きさ。

同じ間隔。

「町を数え直してる!」

ルゥが銀鋲を桁へ打つ。

「今の形を固定!」

十本の銀糸。

アマリナシの輪が回る。

一。

二。

十。

銀糸は一本の太い縄へ束ねられた。

十一本目の補助糸が、外へ押し出される。

――余。

「糸まで余りにするの!?」

三歩目。

八ノ雨桁の避難枡。

九人の枡へ、一人が別の道から引き寄せられる。

十人。

行き先は違う。

それでも札は《完了》になる。

老人が九ノ桁へ行こうとする。

足が八ノ桁へ戻される。

「現在を聞け!」

ナギが十一鈴を鳴らす。

一ノ桁。

二ノ桁。

十。

余滴窪。

返事が重なる。

一つの大鐘。

ごおん――。

「誰!」

ナギの顔が青ざめる。

「全部、同じ返事にされる!」

響路旗を広げる。

一本へ押し込まれた波を、外側からほどく。

苗雨のざらつき。

薬雨の二音。

余滴窪の小さな鈴。

一度分かれる。

アマリナシが四歩目を踏む。

また一音へ。

余滴窪の家々に《余》が浮かんだ。

十一人家族から一人。

二重住所のイツキから一枚の札。

七種類の薬雨から三種類。

十の枠に入らないものが、空へ引かれる。

「迎標!」

カナタは透明な六番旗を投げる。

アマネが受け取る。

「一歩ぶん空けろ!」

「どこに!」

「余ったものの手前!」

「余りって呼ばない!」

「次のもの!」

「もっと違う!」

「今は場所!」

アマネは旗を振る。

「標術――《迎標》!」

余滴窪の上に、透明な足場。

どの雨桁でもない。

次の一歩を受ける場所。

押し出された人と雨が、一呼吸だけ引っかかる。

「保てない!」

「二歩目!」

カナタが白旗を向ける。

アマリナシの十本の脚が、第一歩号を囲んだ。

船首の両面折岸舵。

終路鐘。

八脚雲着輪。

九転脈輪。

朝火炉。

帆柱。

操舵輪。

船体。

十個の部品として数えられる。

「第一歩号を十個に分ける気だ!」

「もともと部品!」とカナタ。

「役目が違う!」

「今分かった!」

「遅い!」

巨大な雨粒が開く。

中に、十個の透明な部屋。

カナタ。

ルゥ。

ナギ。

ザンバ。

アマネ。

カサネ。

第一歩号。

七つが別々の水流へ引かれる。

残り三室は空。

『三つ不足』

声は言葉というより、十室が同時に鳴る体内音だった。空室があると喉の輪が乾き、近い標力を何でも吸い込もうとする。人も船も、アマリナシには「足りない部屋を埋める重さ」にしか見えていない。

アマリナシの声。

『十に満たない』

「空いてるだけ!」

ナギが叫ぶ。

獣の口が閉じる。

七つの現在と三つの空きが、十個の部屋へ呑み込まれた。